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2014年10月12日日曜礼拝説教「慰めに満ちたる神? 迷える者を神の命につなぐ任務につく栄光 」コリント人への第二の手紙3章5~11節

14年10月12日 日曜礼拝説教

「慰めに満ちたる神? 迷える人を神の命につな 
 ぐ任務につく栄光」
 
コリント人への第二の手紙3章5~11(新約聖書口語訳280p)
 
 
はじめに
 
秋十月。ノーベル賞の季節になりました。どこかの国が今年も、「なぜ日本人ばかりが」とヒステリーを起こす季節でもあります。
 
毎年、文学賞の有力候補とされている日本人作家は、今年も賞を逃しましたが、個人的にはこの人の通俗小説でしかない作品が、なぜノーベル賞候補にあげられるのか、さっぱりわかりません。
読者が多い、あるいは売れているということであれば、マンガの「ワンピース」の方がはるかに受賞に相応しいかも知れません。何しろ、国内だけでも三億冊も売れているそうですから。因みにこれに続くのが「ドラゴンボール」「ゴルゴ13」「ドラエモン」だそうです。
 
「核兵器を減らす」と言って、実は旧型を廃棄して新型に替えたにしか過ぎなかった、演説がうまいだけの超大国の大統領や、移民排斥や英国の脱退問題などで揺れる問題だらけの諸国連合に平和賞をやったりと、わけのわからないことをするノルウェーのノーベル委員会ですが、今年は正常になったのか、日本の憲法九条を受賞の対象にしなかったのは当然と言えば当然でした。
もっとも、もし万が一、九条が受賞、ということになったら、それはオリジナルを作って日本に押し付けてくれた米国が受章者になるのが相応しい、と皮肉る声もありました。
 
そういう中で今年のノーベル物理学賞に選ばれたのが二人の日本人と一人の米国人でした。
 
この三人がそれぞれ語る受賞の感想を視たり聞いたり読んだりしながら、改めて物事に取り組む動機や原動力について考えさせられた方も多かったと思います。
 
元日本人の「米国人」はカメラの前で、ノーベル賞の受賞に至ったモチベーション、つまり原動力は「怒り」であると語り、日本の文化や社会、教育を糞みそに批判しておりました。
 
しかし、この人が受賞するに至った業績自体は、米国であげたものではなく、日本の民間企業に在籍していた時代の研究によるもののようで、しかも、
何億円という豊富な研究資金を備えられ、米国にも留学させてもらい、給料もしっかりと受け取りながら自由に研究に打ち込んだ中での成果が受賞の対象となった筈です。
 
この「米国人」が日本に対して怒るのは個人の自由ですが、どうもお門違いではないかという、得も言われぬ異和感を持ちました。
第一、怒りが原動力になるのであれば、差し詰め、すべてにおいて激情タイプのお隣の国など、数え切れないほどのノーベル賞を取っている筈です。
 
そういう中で、この「米国人」よりも先に、青色発光ダイオードを日本はもちろん、世界に先駆けて開発をした二人の日本人の方は、何とも爽やかでほのぼのとした雰囲気で会見をしておりました。
 
とりわけ若い方の日本人はとても謙虚で、彼が研究の動機として挙げたのが、「人の役に立ちたかったから」でしたし、受賞の理由の一つとしてあげたのが「日本の高校や大学での教育がすばらしかったから」と、先の「米国人」とは対照的な発言をしておりました。
 
動機と言えば、使徒パウロは敵対者からは罵詈雑言を浴びせられながらも、栄光を神に帰して、自らの活動の原動力が自分にではなく、神にある、ということを強調します。
 
今週は先々週に続いて、コリント人への第二の手紙をテキストに、迷える人を神の命につなげるという一事に重点を置いて、その活動を展開していたパウロの主張に耳を傾けたいと思います。
 
 
1.新しい契約に仕えるという栄光、それはキリストの霊に仕えることでもある
 
パウロは先ず、自分自身の活動の源は自分にではなく、神の力にこそある、と言い切ります。
 
「わたしたちのこうした力は、神からきている」(コリント人への第二の手紙3章5節 新約聖書口語訳280p)。
 
 その上で、神からの力を受けて、自分は「新しい契約に仕える者」とされたと、自らの立場、役割を明らかにします。
 
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである」(3章6節a)。
 
 ここに「新しい契約」(6節)とあります。
先ず、「契約(ディアテーケー)」ということですが、使われている言葉は「契約」や「約束」というよりも、「制度」や「規定」のことであると学者は言います(ハインツ・ディートリッヒ・ヴェントラント著 塩谷 饒 泉 治典訳)「NTD新約聖書註解 コリント人への手紙」367p NTD新約聖書註解刊行会)。
言葉を変えれば「関係」や「繋がり」「仕組み」といったものかも知れません。
 
また「新しい」(同)という言葉は、ギリシャ語には二つあります。
一つは「ネオス」で、もぎたての果物、というように時間的な新しさであって、もう一つの「カイノス」は旧来のものに対して斬新さを意味する質的な新しさです。
そしてここで使われている「新しい」は後者です。
 
「新しい契約(同)」が出現したことによって、それまでの「契約」は古い契約になってしまいました。
遺言書が書きかえられて内容が一新されれば、その時点でそれまでの遺言書は古い遺言書とされるようなものです。
 
なおパウロは、自分は「新しい契約に仕える者」(同)と言いましたが、言いかえればそれは「文字に仕える者」ではなくて、キリストの「霊に仕える者」であるということでした。
 
「それは文字(もんじ)に仕える者ではなく、霊に仕える者である」(3章6節b)。
 
ここでいわゆる旧来の「契約」、つまり「制度」が何であるかが明らかになります。
それは「文字」(6節)、つまり律法の「文字」のことで、細部にわたって律法を守ることによって神から義とされる「契約」を意味しました。
 
パウロは元々、「文字」で書かれた律法の教師でした。
 
「わたしはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった(使徒行伝22章3節)。
 
「ガマリエル」とは、ユダヤにおいては当代並ぶ者なきラビ(律法の教師)であって、パウロはその直弟子として「薫陶を受け」たラビでした。
しかし、キリストに出会うことによって彼は「文字に仕える者」(6節)から、「霊に仕える者」(同)つまりキリストの「霊に仕える者」となったのでした。
「新しい契約に仕える」とは、キリストの「霊に仕える」ことでもあるのです。
 
パウロにとって「新しい契約に仕える」(同)こと、キリストの「霊に仕える」(同)ことは、ノーベル賞を受けることにも優る栄光であったのでした。
 
 
2.キリストの霊に仕えるという任務、それは罪びとに無罪を宣告する務めでもある
 
では、なぜ「新しい契約に仕える」(6節)こと、キリストの「霊に仕える」(同)ことが栄光であるかと言いますと、それは暗闇に光をもたらす任務だからです。
 
青色発光ダイオードすなわち青色LEDの発明と商品化は画期的な業績です。
ノーベル賞の発表の席で、委員が授賞の理由として、「二十世紀は白熱灯が照らし、二十一世紀は青色LEDが世界を照らす」と述べていましたが、耐用年数、照度、電力消費の点からも、人類にとって計り知れない程の恩恵をもたらす発明です。
 
しかし、青色LEDは人の心を照らすことはできません。それはエネルギーに恵まれず、光の少ない発展途上国の暮らしと発展に、多大の貢献をすることは確かですが、神への道を照らすことはできません。
 
現在、世界ではいわゆる「イスラム国」の脅威から、イスラム教が複雑な目で見られています。
十七歳でノーベル平和賞を受賞したパキスタンのマララ・ユスフザイという少女は、女子教育の必要を訴えて、女性に教育は不必要とするイスラム武装勢力の一つ、パキスタンのタリバン運動という過激派組織から銃撃されて、危うい所で九死に一生を得た人ですが、でも、この勇敢な少女もイスラム教徒です。
 
彼女は昨年の七月、十六歳の誕生日に、国連でスピーチをしましたが、締め括りの言葉は聞く人に大きな感銘を与えました。
 
ひとりの子供、ひとりの教師、一本のペンそして一冊の本、それが世界を変えることができるのです。教育こそが唯一の解決です。エデュケーション ファースト(まず教育を)。(2013年7月12日 国連)
 
 
宗教は用い方によってはタリバンやイスラム国のように、人に苦悩と混乱を与え、偏見と差別を助長しますが、一方、宗教というものが一条の光となって、苦悩している人々に希望と勇気を与えてきたことも事実です。
 
そういう意味では律法という「文字」(6節)も、一つの光として紀元一世紀の地中海世界を明るく照らしておりました。
 
ユダヤ教は伝道活動をしません。しかし、地中海世界に住む人々、とりわけいわゆる男性優位の社会にあって、人権を無視されてきたローマ帝国の女性たちを惹きつけたものは、ローマの他宗教とは異なるユダヤ教が持つ高い倫理性と清潔さにありました。
 
でも、律法の要求が高度であればあるほど、律法という「文字」に従うことを要求する旧来の「契約」は、結果として「人を殺」す、つまり、真面目な人に対して有罪を宣告する宗教となりました。
だからこそパウロは「新しい契約」の原動力であるキリストの「霊は人を生かす」と言ったのでした。
 
「文字(もんじ)は人を殺し、霊は人を生かす」(3章6節c)。
 
「新しい契約」が、そしてキリストの「霊」がなぜ「人を生かす」(6節)のかと言いますと、それが人に有罪を宣告するのではなく、無罪を宣告するものであるからでした。
 
罪責感に苦しむ者を目の前にして、有罪を宣告する役割と無罪を宣告する役割とでは、どちらが栄光に満ちたものかは誰もがわかることです。
 
「もし罪を宣告する務めが栄光あるものだとすれば、義を宣告する務めは、はるかに栄光に満ちたものである」(3章9節)。
 
「義を宣告する」(9節)とは無罪を宣告するという意味です。「義」とする、という言い方は法律用語で、「あなたには罪がない、罪がないのだから罰もない」という完全無罪の宣言のことです。
 
しかもそれはキリストが神の権威において責任をもって為す宣言でした。自分の愚かさや過失によって、まさに「お先真っ暗」という人生を歩んでいた者にとって、無罪の宣告は生きる希望をもたらしてくれます。
 
そういう意味で、キリストの「霊に仕える」という任務、罪びとに無罪を宣告するという務めは、まことに「栄光に満ちた」(同)務めであるといえるのでした。
 
 
3.新しい契約に仕えるという任務、それは迷える人を神の命につなぐことでもある
 
「お先真っ暗」な人生を生きているということは、迷いの道を歩いているということでもあります。
では何から迷っているのかと言いますと、それは神から迷っていること、神のいのちから逸(はぐ)れていることを意味します。
 
世の中には「はぐれオオカミ」もいるようですが、惨めで心細いのは何といっても「はぐれ羊」でしょう。
爪もなければ牙もない弱い羊が、羊の群れからはぐれ、羊飼いの保護の手の届かないところに迷い行ってしまったら、あとはどうなるか、です。
 
しかし、「新しい契約」(6節)とは、神の民ではないものを神の民とし、しかも神のしもべという有り難い身分を捨てた者を探し歩いて、神の民、神の子という身分を与えるもの、つまり、「新しい」関係に入れるものでもあるのです。
 
どうしてそんなことが可能なのかと言いますと、イエス・キリストが人類の代表となって、神との間で新しい関係を結んでくれたからです。
どのように結んでくれたのかと言いますと、キリストが「古い契約」において、「文字」の要求をことごとく守り抜いてくれたからです。
たとえば、十戒はその六つめの戒めでは「殺すな」と命じます。
 
「あなたは殺してはならない」(出エジプト記20章13節 旧約聖書口語訳102p)。
 
 では殺人行為ということをしなければこの戒めをクリアしたことになるのか、といいますと、そうではありません。
人は心で人を殺し、目で人を殺すことができるからです。つまり、思いの中で「あんな人はいなければよいのに」と、誰かを抹殺するということは、神の目から見れば、人を殺したことと同じだと見做されるのです。
 
でも、十戒は人の往くべき道を示し、そして犯罪や悪と言われる違反行為を抑制することにおいては大いに役立ちました。
それは何よりも、神が何を欲しているか、何を嫌っているかという神のお心を知らせるという意味において有効でした。
 
つまり、限界があったとはいえ、「律法」に代表される解放者モーセの存在も働きも、一定の役割を担っていたといえます。
 
でもそれは、神のお心を示したとはいえ、人を神の許へと導くには力不足であって、結局のところ、「あなたは罪びとである」という有罪を宣告する務め、「死」を告げる「死の務め」でしかありませんでした。
 
しかし、ゆるしを宣言し、神につなげる務めははるかに栄光ある務めであると、両者を比較する中でパウロは言います。
 
「もし石に彫りつけた文字による死の務めが栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務めは、はるかに栄光あるものではなかろうか」(3章7、8節)。
 
 キリストの「霊の務め」(8節)、つまりキリストという霊に仕える務めが「はるかに栄光あるもので」(同)あるのは、キリストが人として、書かれた「文字」の要求を精神までもことごとく、実行、実践したからです。
 
 十戒が「汝(なんじ)殺すなかれ」と命じたとき、人であったときのキリストは、たとい憎むべき相手であっても、殺さないどころか、その過失をゆるし、無限の愛でその人自身を包んでおられたのでした。
 
 その証拠が十字架上で祈られた、「父よ、彼らを赦し給え」という執り成しの祈りでした。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節前半 131p)。
 
 「新しい契約に仕える」(6節)という任務は、この赦し主、救い主なるキリストを伝えることによって、神から迷い出てこの世を彷徨(さまよ)い歩く者たちを、天の神さまの命へとつなぐ働きでもあるのです。
 
 そしてパウロはこの手紙において、特に二章十四節からは何度も「わたしたち」(14、15、17節)と言っています。
 
この「わたしたち」とはあくまでもパウロを中心としたパウロの一行、伝道団を意味します。
しかし、パウロが本書において「わたしたち」と言う時、その気持ちの中には、その「わたしたち」の中にコリント集会の人々が含まれているように思えてなりません。そして、この手紙の宛先の人々も朗読されたパウロのメッセージを聞いたとき、その「わたしたち」の中に自分たちが含まれているように感じたかも知れません。
 
 
もちろん、厳密に言えば「わたしたち」はあくまでもパウロとその一行です。でも、本書からはパウロが自分たちとコリント集会とを一体の「わたしたち」として扱っている雰囲気が窺えるのです。
 
そしてもしもそうであるならば、ギリシャ世界から遠く離れた日本と言う国において、しかも二千年という時を超えた二十一世紀という混乱の時代を生きている私たちひとりひとりも、そして教会もパウロが言う「わたしたち」(4、5、6節)の一人であり、使徒パウロと共に「新しい契約に仕える者」の一員だということになります。つまり、わたしたちもまた、パウロの同労者なのだということになるのです。
 
それはまさに、ノーベル賞の受賞を超える栄光でもあります。