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2014年8月17日日曜礼拝説教「詩篇を読む? 鹿が谷川を慕い喘ぐように、わが魂も生ける神に渇き、神を慕い喘ぐ 」詩篇42篇1~12節 43篇1~5節

14年8月17日 日曜礼拝説教

「詩篇を読む? 鹿が谷川を慕い喘ぐようにわが魂も生ける神に渇き、神を慕い喘ぐ」
 
詩篇42篇1~12節、43篇1~5節 旧約聖書口語訳784p
 
 
はじめに
 
高温多湿のこの八月、危険なのは何と言いましても熱中症です。総務省消防庁の統計によりますと、先々週八月四日から十日までの一週間で、熱中症によって救急搬送された人数は、全国で四一〇六人にのぼったそうで、そのうちの半数、二一二一人が高齢者であった、とのことでした。
 
因みに大阪は全年齢層で一六八人、その内の高齢者は八十七人と、やはり半数以上が高齢者でした(総務省消防庁「救急救助 熱中症情報」)。
 
これは八月初旬のデータですが、わたしの感覚では、暑いと感じるのは八月よりも七月の下旬であって、それを裏付けるように消防庁のデータでは、七月二十八日から八月三日までの搬送者数は五三九三人ですが、その前週の七月二十一日から二十七日までは何と八八七一人となっていました。
 
最新の先週のデータはまだ発表されていませんが、しかし、暑さのピークが過ぎたといっても、まだまだ用心しないといけません。
 
ところで高齢者が熱中症になりやすいのはなぜなのかということですが、大阪府のホームページにはその理由として、「暑いと感じにくくなる」「体温調節が鈍る」「発汗量・皮膚血流量の増加が遅れる」「発汗量・皮膚血流量が減少する」「体内の水分量が減る」などに加えて、高齢者の場合、「のどの渇きを感じにくくなる」などが挙げられておりました。
 
つまり、「のどの渇きを感じにくくなる」ことから、水分補給をしなくなる、水分補給をしなくなるから体内の水分が失われる、という順序になって、結果、熱中症で搬送、ということになるようです。
ということは、喉が渇くという症状は、とても有り難いことなのだ、ということになります。
そこで今週の「詩篇を読む」の八回目は「渇く」ということについてです。
 
 
1.鹿が谷川を慕い喘ぐように、生ける神に渇くことこそ正常のしるし
 
 私たち生き物が無事に生存することができるようにと、恵み深い神は、いくつかの感覚を私たちのからだに備えてくださいました。
 
一つは痛みを感じる感覚、つまり痛覚です。外からの打撃に対し、被害を未然に防ぎ、あるいは軽度の被害で済ませることができるのも、痛みを感じる感覚があればこそ、です。
 
痛覚といいますと、プロレスラーは痛覚がないのかと思えるほど、痛みに強いように見えます。多少の手加減はしてはいるのでしょうが、二人の大男が向かい合って、互いに力任せに肘打ちをし合うという光景はテレビ画面を通してでも恐ろしく感じます。
ついでながら、この八月十日、新日本プロレスの「G1クライマックス24」決勝戦で死闘を制したのは、中邑真輔ではなくオカダ・カズチカでした。
 
痛覚と共に大事な感覚が、飢えや渇きを覚える感覚です。ところが、人の体が限界を超えて衰弱すると、飢えや渇きを感じなくなってしまうのだそうです。
高齢者が喉の渇きを感じにくくなるのも、体が衰えてきているからなのかも知れません。
 
渇きには肉体的、生理的な渇きの他に、霊的、宗教的な渇きというものがあります。そして詩篇の作者は、自分が生ける神に渇いていること、つまり自らが霊的な渇きを覚えていることを、谷川の水を慕い求める鹿になぞらえて訴えます。
 
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、生ける神を慕う」(詩篇42篇1、2節前半 旧約聖書口語訳784p)。
 
 パレスチナでは増水期には水が豊かに流れる谷川も、渇水期には水は干上がってしまいます。
それでも渇きに苦しむ鹿は谷底に降りていって水を探し求めるのですが、詩人は喘ぎながら水を求める鹿の姿に自らを重ねて、神に渇く内心の激しい渇きの様を表しました。それが四十二篇冒頭の飾り気のない率直な表現でした。
 
前回の「詩篇を読む?」において、古代と中世の狭間で教会を再生させた聖アウグスティヌスの回心のさまを、その自伝である「告白録」でご紹介しましたが、その「告白録」の冒頭部分には、「人というものは神に創造されたがゆえに、神を求めてやまないものである」との彼自身の告白があります。
 
     あなたを讃えることを
     人間は欲します、
     小さいながらも
     あなたの被造物の一部ですから。
     
     あなたがかりたてます、
     あなたを讃えることが喜びであるように、
     それは、あなたがわたしたちを
     あなたに向けて創られたからです、
     そのためわたしたちの心は、
     あなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません。
     (アウグスティヌス著 宮谷宣史訳「告白録(上)」19、20pアウグスティヌス著作集 第五巻? 教文館)
 
アウグスティヌスが回心したのが三十二歳の時で、この「告白録」が書かれたのはそれから十数年後の四十代のこと、北アフリカのヒッポで司教の任に就いていた時であったといいますから、西暦四世紀の末、今から約一六〇〇年も前のことです。
 
人というものは単に神に「創られた」というだけでなく、神「に向けて創られた」がゆえに、その「心は」創り主なる神の「うちに憩うまでは安らぎを得」ないのです。
 
つまり、人というものは人として健全かつ正常であれば、自らの創造者である生ける神を求める者なのです。それは親から逸(はぐ)れた迷子がいっとき、玩具やお菓子で気を紛らわしたとしても、母親の顔を見るまでは不安でたまらないように、創り主である神の「うちに憩うまでは安らぎを得」ない、それが人であるしるしです。
 
人がもしも自分を造ってくれた神に霊的渇きを覚えないとしたら、それは人間としては健康でないしるし、内なるものが衰弱しつつある証拠です。
鹿が谷川の水を喘ぐが如くに慕い求めるように、神を慕い求め、神に渇くという状態は、人の魂が正常であることのしるしなのです。
 
警戒すべきは霊的な渇き、宗教的な渇きがないこと、恐れるべきは魂が鈍磨した状態にあることです。
 
 
2.神に渇く者は人を責めることをせず、内省して自らを深く省みる
 
神に渇くと言いましても、その渇き方にはそれぞれ程度の差というものがあります。そしてその渇き方の違いはその人の内省の深さ、内心の自責の思いの強さによるといえます。
この詩の作者の特徴は、その渇き方の激しさにありました。
 
彼は過ぎし日、神を崇める者たちと共にエルサレムの神殿における祭に参加し、しかも指導的な立場で祭に加わっていたようです。
 
「わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらのことを思い起こして、わが魂をそそぎ出すのである」(42篇4節)。
 
 この詩の背景になっているのは先月の「詩篇を読む」の六と七の八十四篇同様、バビロン捕囚の出来ごとではないかと思われます。
 
イスラエル王国はソロモンの息子レハベアムの時代に、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。下剋上によって王位が纂奪されることが常態であった北イスラエル王国は、紀元前七二一年、アッシリヤの攻撃を受けて歴史から姿を消してしまいますが、ダビデの子孫が代々世襲で王位を継いでいた南ユダ王国は、神の恵みにより何とか王統を保ち続けてきました。
 
しかしその南ユダ王国も年月と共にその信仰が徐々に緩んでいき、ついに神の審判としてのバビロニア軍の攻撃を受けて、紀元前五九八年、そして五八九年から五八七年の二回にわたって国土を蹂躙されるという結果を招いてしまいました。。
しかも南ユダを侵略した軍隊がバビロンに引き上げる際に、ユダの王侯・貴族や祭司、主だった指導者たちとその家族とが、捕囚としてバビロンに強制連行されるという悲劇も出来(しゅったい)したのでした。
 
この詩篇四十二篇、四十三篇の作者はその捕囚の一人であって、遠いバビロンでこの詩の原型を作ったのではないか、と研究者は想像します。
それは、この詩には、「何としても生ける神にお会いしたい、しかし、自分には神に会わせる顔がない、その資格がないのだ」という、神への激しい渇望と、強い自責の念から来る悶々たる思いが見受けられるからです。
 
バビロン捕囚という仕打ちに関しては、客観的に見た場合、彼らが犯したとされる罪に対して、少々酷すぎるのでは、という感がないわけでもありませんが、当事者である囚われ人たちはそうは考えてはいないようで、だからこそ、神を恨むことなく、またいつまでも敵を呪うこともなく、自分たちの運命を甘受して神の赦しの時を待つのです。それが二節後半の呻きです。
 
「いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」(42篇2節後半)。
 
 心ならずも逆境に陥った場合、己のことは棚に上げて、ひたすら、責任を他者に転嫁し、あるいは環境のせいにするという民族がおります。そういう傾向を持った人々が隣りにいる場合、何とも厄介なものなのですが、反対に、人を責めるのではなく、自らの責任を深刻に感じる民族もあるのです。
前者がどこの誰とは敢えて言いませんが、後者の代表は間違いなく日本人でしょう。
 
そしてこの詩の作者も同様の性格の持ち主のようです。彼は、「お前の神はどこにいるのか」「お前の神はお前の悩みに対して、助けの手を伸ばしてくれないではないか」と彼の信仰を揶揄し攻撃をしてくる者に対して、向きになって反論をするようなことはせず、ただただ、悲しみの涙を流すだけであったようです。
 
「人々がひねもすわたしにむかって『おまえの神はどこにいるのか』と言いつづける間はわたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった」(42篇3節)。
 
 彼(あるいは彼ら)は神に向かってその窮状を訴えはしますが、彼らを攻撃してくる者たちに対して反撃をする様子はありません。
 
「わたしはわが岩なる神に言う、『何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみあるくのですか』と。わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって『おまえの神はどこにいるのか』と言う」(42篇9、10節)。
 
 こうなったのは誰のせいでもない、自分のせいだ、身から出た錆びなのだ、たとい「お前の神はどこにいるのか」(10節)と嘲られても、それはその通りだ、と彼は悔い砕かれた心をもって自らを省みているのです。
 
 勿論、戦後の日本のように過度に不必要なまでに自虐的になる必要はありません。戦後の日本人を「自虐」へと追い込んだのは、日本人が持つ潜在的な底力を恐れた米国の対日占領政策の結果であって、それに便乗して自虐を煽ったのが、マルキストが入り込んだ左翼系のマスコミでした(このことについては昨年8月11日礼拝説教「今、求められていること、それは自虐からの脱却」を)
 
 神に渇く者は他者を責めることはせず、また過度に自分を責めることはしません。ただ自らを正しく深く省み、その上で失敗は失敗として率直に受け入れ、神の助けを仰ぎます。
 
「わが魂よ、何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わか神なる主をほめたたえるであろう」(42章5節)。
 
 
3.自らを深く省みる者は、悔いし砕かれた心をもって神を崇める
 
この詩の作者は深い自省と悔い改めの中から神に向かって一つのことを願い出ます。それは「公正に私を審き、そして私を嘲った者をも公正に審いてください」という、公平かつ公正な審判者である神への信頼に溢れた願いでした。
 
「神よ、わたしをさばき、神を恐れない民にむかってわたしの訴えをあげつらい、たばかりをなすよこしまな人からわたしを助け出してください。あなたはわたしの寄り頼む神です」(43篇1、2節前半)。
 
 この嘆願には「自分に都合のよいような裁定を」という意味合いはなく、「ただただ公正なる神が公正なる審きを行ってくださるように」との思いのみが込められていることがわかります。
 
 彼は捕囚となった当初は、敵への復讐を神に願ったかも知れません。しかし、時を経るにつれて自らを省みることを学び、また生起した事態を客観的に見る見方を身につけるようになり、結果、神に向かい、自分を嘲る者への報復を祈るのではなく、ただ、現在の苦境からの救済を求めるようになってきたのかも知れません。
 
 先週の説教でも触れましたが、今、在米韓国人による「慰安婦」像の建立が米国各地において進んでいるのですが、その結果、在米日本人子弟が韓国人と中国人の子供たちにより、陰険で残酷なハラスメント、つまりイジメ被害に遭っているという事実が報告されています。
 
 そもそも、従軍牧師や従軍看護婦、従軍記者はいても、「従軍慰安婦」なるものは存在しません。日本軍による慰安婦の強制連行という話は、吉田清治という天性の嘘つきの詐欺師が創作した作り話です。
 
特に、勤労奉仕を主とした「女子挺身隊」と、金銭を目的とした商売としての戦時売春婦である「慰安婦」とが、朝日がいう「研究不足」のせいか意図的かは別として(意図的な可能性が大ですが)、とにかく両者が混同されて韓国に伝えられ、それが歴史的事実であるかのように受け止められたことから、あの忌まわしい「河野談話」が生まれ、近年の韓国による対日優越(蔑視)?政策としてのグロテスクな「慰安婦像」になったのでした。
 
その先兵となった朝日新聞には記事の取り消しだけで口を拭うのではなく、改めて謝罪と釈明を公式に行う責任があります。検察や警察でも、冤罪だとわかった場合、「あれは間違いでした」と表明すれば済むような時代ではありません。人の人生を狂わせたのですから、謝罪をし、賠償もしているのです。
 
その朝日新聞が今の段階で取り敢えず実行することは、第一には八月五日の特集記事を英文にして国際社会に向けて発信をすることです。
そして第二には同記事をハングルに翻訳して、韓国の国民が読めるようにしなければなりません。
そして三つ目が、あらぬ誤解を受けて塗炭の苦しみの中にある在米日本人、とりわけ、ひどい虐めに遭っている子供たちへの謝罪でしょう。
 
 一方、朝日新聞特集記事を受けて、政府、外務省は先ず、米国に設置されている「慰安婦像」の碑から、「数十万に及ぶ性奴隷」という碑文の撤去を求める動きを早急に始めるべきですし、今後、国をあげて、日本という国と日本人への誤解を解く活動を国際社会に向けて精力的に進めるべきです。
 
このたびの朝日新聞の記事の取り消しという出来事が、今後、様々の方面に影響を及ぼし、その結果、「歴史」なるもの真実が明らかになることを期待したいと思いますし、同時に日本人ひとりひとりが「大新聞」という肩書きや「クオリティペーパー」などという自称に幻惑されないで、報道の裏を見抜き、その真偽を見極める確かな眼力を持つ必要のあることを痛感させられました。
 
そして、ふと思いました。この出来事の背後、つまり、あの「無謬」の筈の朝日新聞がついに自らの記事を取り消さざるを得なくなったという、この出来事の背後には、神を信じる日本人クリスチャンたちによる生ける神への切なる嘆願があり、記事の取り消しはそれらの祈りに対する神の答えではないのか、ということを、です。
 
私事ですが、私自身、十年前まで、五十年にわたって朝日新聞の読者であったという経験から、沖縄の「珊瑚K・Y事件」は例外として、かつて自社の非を認めたことのない朝日新聞が、追い詰められたからとはいえ、また自社の現在と将来の利害得失を計算した上であったとはいえ、過去の掲載記事を取り消す日が来るとは思いもよりませんでした。
 
「珊瑚K・Y事件」とは今から二十五年ほど前の朝日新聞に掲載された写真付きの記事、「サンゴ汚したK・Yってだれだ」のことで、沖縄の西表島(いりおもてじま)の珊瑚に「K・Y」という落書きがあることを発見したとして、日本人のモラルの低下、精神の貧しさを嘆く文章が夕刊に大きく掲載された件のことです。
 
記者はこれを日本人がやったという前提のもとに「犯人」を糾弾します。
 
日本人は、落書きにかけては今や世界に冠たる民族かも知れない。だけどこれは、将来の人たちが見たら、八〇年代日本人の記念碑になるに違いない。精神の貧しさの、すさんだ心の……。にしても『K・Y』ってだれだ(朝日新聞東京本社版1989年4月20日夕刊)。
 
 ところが地元のダイビング組合が、「サンゴにはこれまで傷はまったくなかった、サンゴに書かれた落書きは、取材者によるものではないか」という抗議の声をあげたのです。
 これに対して朝日側は、カメラマンが「撮影効果をあげるため、うっすらと残っていた(落書き)部分をストロボの柄でこすった」という謝罪記事を一カ月後の朝刊に掲載したのですが、更にその数日後、「(自社の)カメラマンが無傷の珊瑚に『K・Y』という文字を刻みつけた」として、朝日新聞による自作自演の虚偽記事であることを白状するに至ります。これが有名な「朝日新聞珊瑚記事捏造事件」です。
 
 「一体『K・Y』って誰だ」と日本人の悪を追求したカメラマン本人が貴重な珊瑚を傷つけ、しかも麗々しく写真入りの捏造記事を掲載して、日本人のモラルの低さを喧伝したというのが真相であったというわけです。朝日側にして見れば、「泥棒を捕えて見れば我が子なり」の図です。
 
 この捏造記事に関し、本年四月の夕刊紙に掲載された、酒井信彦元東大教授による、事件の本質と動機についての分析はまさに正鵠を射たものだと思われます。
 
仮に第一に写真が本物であったとしても、この文章は二重の意味で明らかに間違っている。
第1に、犯人はまったく不明なのだから、日本人の犯行と断定することはできない。アルファベットのイニシャルだから、外国人の可能性も十分考えられる。
第2に、犯人が日本人だとしても、一部の人間の行為を日本人全体の犯罪として糾弾し、モラルなき悪質民族と決めつけるのは、誠に異様である。それは、「世界に冠たる民族」「八〇年代の日本人の記念碑」といった極端な表現に現われている。
 
では、なぜ、こんな発想が出てくるのか。
日本人を悪者として貶(おとし)めたい欲求があるからではないのか。日本や日本人を「悪」と決めつけて糾弾することで、自分自身を正義の側に立つことができる。他を貶めることで自分を美化し、道徳的優越性を享受したいのであれば、それは根本的偽善である。
日本や日本人同胞を虐げる偽善だから「虐日偽善」と表現すべきである(20140427「【朝日新聞研究】89年サンゴ落書き事件に見る『虐日偽善の姿』」酒井信彦 ZAKZAK)。
 
 この指摘は先週の説教で指摘した、いわゆる「直接否定」の心理に通底する分析として、昨日、ネットから興味深く読ませてもらいました。
 
 「従軍慰安婦」の問題に関し、朝日新聞はその後もなお、「狭義の強制連行はなかったかも知れないが、広義の強制性はあった」とがんばっていますが、「慰安婦像」とその碑にある説明文の歴史的根拠が崩れたことは事実です。
一般の日本人だけでなく、在米の日本人もまた、肩身の狭い思いをして生きる必要はなくなったのです。
 
 そして、このたび、朝日新聞が渋々ながらでもこれ以上頬かむりを続けることが出来なくなったと悟ったからなのか、とにかく自らの過誤を認めざるを得なくなったその背後には、言葉に表せない切なる呻きを祈りとして聞き給う正義の神の働きが、確かにあったと推測してもよいと思われます。
 
異国において理不尽な揶揄と攻撃を受けつつ、苦悩の中で「涙が昼も夜も」(3節)「食物であった」(同)作者には、流した「涙」(同)にかわって、「昼」には主なる神からの「いつくしみ」が、そして「夜」には「いのちの神にささげる祈り」が、その「食物」となる日々が訪れることとなります。
 
「昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈りがわたしと共にある」(42篇8節)。
 
 鹿が谷川の水を慕い喘ぐように、生ける神に渇き、神を慕い喘ぐ者は幸いです。
 ご一緒に、心を込めて主なる神を崇めましょう。
 祈りにあたり、「鹿のように」を御一同で讃美したいと思います。