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2012年6月24日 日曜礼拝説教「選ばれた者に与えられた特権と責任」マルコによる福音書12章1~12節

 2012年6月24日 日曜礼拝説教

「選ばれた者に与えられた特権と責任」  

マルコによる福音書12章1~12節(新約聖書口語訳71p)

  
はじめに
 
  日本の政治がますます混沌としてきています。今週前半には衆議院において消費税の増税法案を中心とする「社会保障・税一体改革関連法案」が上程、可決されて、その後、参議院に送られることになると思われますが、増税反対勢力の造反によって与党は分裂し、政治の混乱に拍車がかかることになると予測されます。
 
日本では政治家、とくに国政を担う国会議員を「選良」と呼びます。つまり選ばれた者、という意味です。誰が選んだかと言いますと、主権者である国民です。しかし、ここ二回ほどの衆議院選挙では果たして「選良」を選んだのかと思えるような人が、ムードに乗って当選してきているように見えます。
 
選ばれた者には特権と共に責任があります。その責任とは選んだ者の負託に応えて良い政治を行い、それによって国民を幸せにするということです。しかし問題は、現状においては、与党の幹部の場合、その関心は国家の行く末というよりも、とにかく、今の政権にとどまり続けることができるかどうかにあり、野党の場合も、とにかく失った政権を奪取することができるかが行動の動機のように見えること、一方、一年生、二年生議員の場合は国民の幸福と言うよりも、次の選挙で自分が生き残ることが出来るかどうかを行動の基準にしているように思えてしまっていることです。
 
でも、多くの人たちは国政に立つことを決断した当初は、国のため、国民のために一身を擲(なげう)つという純粋な覚悟であったことは事実であると思います。国難ともいうべきこの時代に、私たちは彼ら「選良」の上に神の祝福が注がれて、一人ひとりが初心に戻って行動することができるようにと祈る必要があります。
 
ところで私たちもまた、選ばれた者なのです。誰に選ばれたのかと言いますと、最高の主権者であるイエス・キリストの神によって、です。まことに恐れ多いことですが、私たちもまた、選良の一人なのです。そこで今週の説教題は「選ばれた者の特権と責任」です。
 
 
1.選ばれた者に与えられた驚くべき特権と、果たすべき責任
 
イエスの宮清めという行為がいかなる権威に基づいて行なわれたのかという論議は、イエスの卓越した知恵により議会側の一方的敗北に終わりましたが、イエスはそのあと、更に譬えを使って彼ら指導者たちに悔い改めを迫りました。それはイエスが物事を勝ち負けではなく、救済という視点で捉えていたからでした。イエスへの敵意を剥き出しにする指導者たちもまた、イエスにとっては救済の対象であったのでした。
 
イエスは真理を解説するために、譬えを用いました。
 
そこでイエスは譬えで彼らに語り出された」(マルコによる福音書12章1節前半 新約聖書口語訳71p)
 
イエスの譬えの舞台はぶどう園でした。ある人がぶどう園を造り、ワインを醸造するための設備も整えた上で、そのぶどう園を農夫たちに貸して長期の旅行に出かけた、ぶどうの収穫の季節になったので、所有者としての取り分を徴収するため、召使いを派遣した、ところが当然の上納金を支払うことを惜しんだ小作人たちは、送られてくる召使いを袋だたきにして帰らせ、その後、次々に送られてくる召使いにも乱暴を加え、殺害をする始末であり、ついにはオーナーが最後に送りこんできた跡取りの息子さえも、ぶどう園を強奪する機会と見て、これを虐殺してしまった、というものでした。
 
「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕(しもべ)を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だたきにし、から手で帰らせた。また他の僕を送ったが、その頭を殴って侮辱した。そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた」(12章1節後半~8節)。 
 
 この譬えでは「ぶどう園の主人」は父なる神を、そして「農夫たち」とは選民としてのユダヤ人、特にその代表である政治的、宗教的指導者を、主人が遣わした「僕」は神の預言者たち、そして「愛子」はイエス自身を指しています。
 
 元来、神が多くの民族の中からイスラエル民族を選民として選んだのは、神がイスラエルの先祖であるアブラハムとの約束を果たすためであったのですが、その選びの具体的な目的は、神はいかなる神であるかということと、神を信じる信仰とはどのようなものであるかということをイスラエル民族によって保存させることによって、万民に神を信じるという祝福をもたらすことにありました。それがエジプト脱出直後にイスラエルに与えられた言葉で明らかです。
 
「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト記19章6節)。
 
 イスラエルは異邦人、異教徒に対して神を仲介する「祭司の国」という使命を与えられていたのですが、いつの間にか「聖なる民」という立場に偏してしまったのでした。
つまりイスラエルは信仰のモデル民族としての使命を果たすために選ばれたにも関わらず、自分たちが優秀な民族だから選ばれたのだと勘違いして高慢となってしまったのです。その揚げ句、異民族を差別し蔑視する一方、高ぶった彼らに悔い改めを促すために送られてきた神の預言者たちを次々に迫害、殺戮し、最後には神の御子をさえ、抹殺するに至ったのでした。
 
九節は、神に逆らう民族の運命についての宣言です。
 
「このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」(11章9節)。
 
「他の人々」とはユダヤ人が蔑んだ異邦人(外国人)を意味します。つまりぶどう園に象徴される神の恵みは人種、民族の枠を超えて、「イエスこそ主である」と告白する人々、つまりキリストの教会に引き継がれることになったのでした。
 
 教会こそ新しい選民と言えます。しかし、新しい選民は前車の轍を踏んではなりません。選びという特権には責任が伴います。その責任とは何かと言いますと、功績もないまま憐れみによって神の子供とされたという恵みをただただ感謝して、イエスは主であると告白しつつ、讃美の日々を生きること、報いを度外視して神に仕えること、イエスを生活の中で証しすること、社会人としては隣人に対して誠実であり、職域の中で良い仕事をすること、国民としては国と同胞を愛すること、そして独善を排して、宗教や価値観の異なった人々をも尊重することです。
それが新しい選民である教会の取るべき態度であり責任です。
 
 
2.捨てられた救い主に現われた驚くべき栄光と、果たした使命
  
 イエスはこの譬えを、誰もが知っている詩篇の句で締め括りました。
「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか」(11章10節前半)。
 
 それは詩篇百十八篇二十二節から二十四節までの句でした(旧約聖書口語訳853p)。
 
「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」(11章10、11節)。
 
   「家造り」とは、もともとはイスラエル周辺の強大な諸国民を意味しました。その諸国民から捨てられたような「石」であるイスラエルが「隅のかしら石」、つまり世界の中心になるという預言が詩篇の本来の意味なのですが、これをイエスはイスラエル民族の政治的、宗教的指導者とイエス自身とに当て嵌めたのです。
 
つまり「家造り」とは祭司長を中心とするサンヒドリンのことであり、捨てられた「石」は彼らから有罪宣告を受けて処刑されることになるイエス自身を意味します。しかも捨てられた「石」であるイエスは「隅のかしら石」となり、父なる神によって世界の中心とされるというのです。まさに「これは主(なる神)はなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」(11節)ことでした。
 
ところで「隅のかしら石」とは何なのかと言いますと、聖書辞典によりますと、古代では大きな家屋を建てる場合、敷地の四隅を岩盤まで掘り下げて、そこに大きな石を据えて基礎としたそうで、これが「隅の石」、そして、この隅の石をつなぐ浅い溝に石を積み上げてその上に壁を作り、その壁の上端に据えられたものが「隅のかしら石」であって、この隅のかしら石の据え付けをもって建物の完成、という極めて重要な石なのだそうです。
 
 しかしイエスの栄光、それは十字架の恥辱にありました。私たち罪人(つみびと)の身代わりになることによって、罪と死と滅びの運命から永遠の命へと私たちを導きだすことこそがイエスの栄光であったのです。 
イエスの無残な死に方を敗北と考える人がいます。御釈迦様は蓮の花に囲まれて大往生を遂げたのに、キリストは裸で十字架に架けられた、人の偉大さは死に方に表われる、という見方です。しかし重要なことはどんな死に方をしたかではなく、何のために、そして誰のために死んだのかということです。
 
釈迦は尊敬すべき人物ですが、イエスは私たちの罪を処分するため、私たちに代わり、私たちの罪を背負って苦しんでくれたのです。このことを信じる者にとって、イエスは誇りであり自慢すべき救い主なのです。十字架で死ぬことこそ、わざわざ人間となった神のひとり子の使命でした。そしてイエスはプライドを捨て、恥を忍んでユダヤ人のためだけでなく、異教徒のためにも身代わりとなって苦しむという使命を果たしてくださったのでした。
 
 私たちは人に捨てられた救い主に現われた栄光と、その救い主が果たした使命の意味を噛みしめる日々でありたいと思います。
 
 
3.選んだ神が払った驚くべき忍耐と、果たすとの約束
 
 一方、この譬えが自分たちに当ててなされたものであることを悟ったサンヒドリン側は、イエスを逮捕しようとします。しかし、イエスに理があるとする群衆を恐れて彼らはその場を立ち去ります。
 
「彼らはいまの譬えが、自分たちに当てて語れたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った」(11章12節)。
 
 イエスが譬えで話したのは、サンヒドリン側を潰すためではなく、神から選ばれた本来の目的を彼らに自覚させて、本道に戻らせるためでした。「彼らはいまの譬えが、自分たちに当てて語られたことを悟った」(12節)その時に、彼らを選んでくれた神が彼らのためにこれまでに払ってこられた驚くべき忍耐の富を量って、悔い改めるべきだったのです。
しかし、彼らは反対に、邪魔者であるイエスを「捕えようとし」(12節)、それが出来ない情況を悔しがりながらその場を立ち去っていってしまいます。
 
 悔い改めるどころか、イエスを異端者として殺害したユダヤ民族は紀元七十年、ローマ帝国の圧倒的な軍事力によって首都エルサレムの陥落、壮麗を極めたエルサレム神殿の西壁を残しての焼失という無残な経験をした後、歴史から消滅してしまいました。歴史家はこれを第一次ユダヤ戦争と呼んでいます。
 ユダヤ人の歴史家ヨセフスの書いた「ユダヤ戦記」によれば、この時、百十万人の市民が死に、捕虜となった九万七千人は奴隷として売られたとのことでした。
イエスの譬えはその四十年後に実現したのでした。 
 
「このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」(12章9節)。
 
西暦一九四八年、パレスチナに、それまで平和に暮らしていたパレスチナ人を追い出して、イスラエル共和国という国家が成立しました。クリスチャンの中にはこれをもって預言の成就と考える人もいますが、それは短絡に過ぎます。
旧約聖書においてイスラエルに与えられた預言の数々は、実は霊のイスラエルであるキリスト教会において実現しているのです。キリストの教会においてこそ、神の約束は果たされているのです。
 
 私たちが称えるべきは、おのれに逆らう者に対して、神が払ってくださった驚くべき忍耐の数々であり、約束をしたからにはその約束を最後まで果たしてくださるという、生ける神の誠実(まこと)なのです。
 
 本日は説教の最後に聖歌七一〇番「罪の世人らに」を歌いますが、特に三節の、「主よ われしばしば 御許(みもと)を離れて もはや救わるに 理由(よし)無き身なれど いま御約束に再び縋れば 白くなし給え 聖(きよ)き血潮にて」の歌詞を深く味わいたいと思います。