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2014年5月18日曜礼拝説教「神を畏(おそ)れて心を守る 箴言? 命の源である心をこそ、力の限りを尽くして守れ」箴言4章23節

14年5月18日 日曜礼拝説教

「神を畏(おそ)れて心を守る 箴言?
命の源である心をこそ、力の限りを尽くして  
守れ」
 
箴言4章23節 旧約聖書口語訳884p
 
 
はじめに
 
暴虐という言葉がぴったりするような事件が、南シナ海で起こりました。
先週火曜の十三日のことです。
 
中国が国際法を無視して自国の領海内領土とし、一方、ベトナムが排他的経済水域内の島々とするパラセル諸島(中国名・西沙)で、石油の掘削用に中国が持ち込んだ移動式石油掘削装置(リグ)に接近しようとした、ベトナムの警備隊船舶に対して中国の公船である海警が体当たりをしたのです。
 
これにより、三年前の九月、日本の領土である尖閣諸島において同様の事件があったことを多くの日本人が思い出した筈です。
情けないことに当時の政権は中国にひたすら気を使って、その録画を公開しようとしませんでしたが、ひとりの勇敢な海上保安庁職員が録画投稿サイトのユーチューブに投稿したため、漁船を偽装した中国の船が、我が国の海上保安庁巡視船に体当たりをしてくる映像を見ることができました。
しかし今回、ベトナム政府は当時のヘタレの日本政府とは違って、直ちに中国船の体当たり映像を公開し、全世界に中国の横暴ぶりを訴えました。
 
同じ日の十三日、同じ南シナ海南方の、フィリピンが自国の排他的経済水域であると主張する一方、中国が不法に実効支配をしているスプラトリー諸島(中国名・南沙)の暗礁(ジョンソン南礁)に、中国が大量の砂を搬入し、埋め立てによって陸地を拡張している事実が、フィリピン政府によって公表されました。
 
フィリピンには以前、米国の海軍基地がありましたが、一九九一年の東西冷戦の終結と共に、フィリピン政府による要請を受けて基地が撤去されました。そして、それを狙ったかのようにして、中国がこの地域に進出してこの海域を実効支配してしまったのです。フィリピン政府や国会の、取り返しのつかない失策でした。
 
ベトナムもフィリピンも確かに中国に比べれば経済的、軍事的に小さな国ですが、現在、大国の横暴な振る舞いに対し、必死に抵抗をしているようです。
特にベトナムでは中国に対する抗議のデモが起こり、やはり過日の中国における反日デモ同様、ベトナム国内にある中国企業が襲撃されるという事態となりました。
暴力行為は感心しませんし、却って中国を利するものになりかねませんので、抗議デモはあくまでも粛々と行われるべきですが、三年前の日本と違い、大国の言いなりにならないという姿勢は大切です。
 
そして、南シナ海で起こっていることは、尖閣のある東シナ海でも起こりうるのです。
ではどうしたらよいのか。我が国にはなんでもかでも「話し合いで解決を」という人がいますが、隣家の人がその人の家の庭に勝手に駐車場をつくり始めたら、「何といっても平和が大事です、あなたがそう言うのであれば、この土地は仲好く分け合って使うことにしましょう」と言うのでしょうか。
 
平和は大事ですが、力を背景にした理不尽な行為や言い分に対しては、強い姿勢で臨まないとずるずると付け込まれてしまい、やがて、庭先だけでなく、土地も家も盗られてしまうことにもなりかねません。
自分の権利を守ることのできない人は、他者の権利、とりわけ弱者の権利も守ることが出来ないのです。
 
軍事力を否定する人がいます。しかし、スイスが永世中立を標榜してその立場が守られているのは、軍備に膨大な予算を使い、なおかつ徴兵制を布いて、国を挙げて国防の強化に努めているからです。だからこそ、近隣の国は手出しをすることができないのです。
そういう意味では軍事力というものは大事な国や国民の生命、財産を他国の侵略から守るもの、また、戦争を起こさせないもの、つまり抑止効果を持つと言われています。
 
 
今月は「箴言」を通し、「神を畏(おそ)れて心を守る」を全体主題として、先々週と先週では「神を畏れる」ということに重点をおいて学んできました。
そこで私たちが今週と来週に聞くべき「箴(いまし)は、後半の「心を守る」ということです。
 
 
1.守るべきもの、それはあなたの心そして思い
 
 大事なもの、それは何といいましても安全ということだと思います。生命の安全、暮らしの安全、身体の安全そして心の安全です。
そして箴言は言います、「あなたの心」をこそ、安全対策をしてしっかりと守れと。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4章23節 旧約聖書口語訳884p)。
 
 「心」とありますが、この言葉は、旧約聖書の口語訳では「心」、「思慮」あるいは「悟り」、「心臓」、「胸」、「真ん中」という意味で訳されています。
 
古代ヘブル人はギリシャ人のように肉体と魂とを分けることをせず、一つと捉えていました。ですから、心臓、つまりハートは文字通り人の命を掌る大事な器官であると共に、それが思慮、そして感情の座であるとしておりました。
 
この言葉に対応するギリシャ語が「カルディア」で、新約聖書ではもっぱら「心」と訳されています。なお、感情の座としての「心」については次週、取り上げます。
 
 そして、箴言の著者が「守れ」と言った「心」とは、この場面では思考や思想を掌る「思慮」を意味すると思われます。
そしてこの「思慮」を麻痺させる危険性があるもの、それが飲酒の習慣であると、預言者は警告します。
 
「酒と新しい酒とは思慮を奪う」(ホセア書4章11節 口語訳1247p)。
「ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる(同 新改訳)」。
 
なお、箴言がいう、「守れ」という言葉は「見張れ」「見守れ」という意味です。人の「思慮」を掌る「心」は、細心の注意を払って守る必要があると箴言は言います。
なぜならば「心」というものは、偏った思想や情報によって徐々に汚染され、あるいは歪んでしまう危険があるからです。
 
 
2.心こそ、人を活かす命の水が湧き出る源だから
 
 思慮を担う「心」をこそ、細心の注意を払って思想的汚染から守らなければなりません。なぜならば、「心」は人を活かし、命を支える命の泉、命の水の源だからです。
 
「命の泉は、これから流れ出るからである」(4章33節後半)。
 
福島原発の事故後、東京の水源地が放射線に汚染されているというニュースが広がり、そのため、東京中からペットボトルの水が売り切れてしまう、という事態が起こりましたが、当時、九州、博多に避難していたある有名な歌舞伎俳優が避難先のコンビニで店中のペットボトルを買い占め、それを宅急便で東京に送ったという記事が女性誌に掲載されて話題となりました。
 
しかし、この俳優さんの場合、夫人が出産を控えている中で、安全と思われる水を確保しようとした行為ですので、別に非難されるようなことではありません。むしろ、この俳優さんの場合はホセア書が指摘した「思慮」分別を「奪う」ような深酒をしていたことが問題でした。
 
でも、その後、反省、精進をして舞台に上がり、昨年は佳作とも評された映画で主演を務めたということですから、「思慮を奪う」ような「水」の飲み方は、きっと卒業したのでしょう。
この俳優さんには日本の伝統芸能存続と発展のために、がんばってもらいたいと思います。
 
人を真に活かす「命の水」は、私たちひとりひとりの「心」を水源としていて、人はそれぞれの「心」という泉から己を活かし、周囲を潤す「命」の水を汲み出すのです。
 
リビングバイブルの訳はあまり文学的とはいえませんが、しかし、著者が言わんとする意を汲んだ訳をします。
 
「心は生活全体に影響を与えます」(4章23節後半 リビングバイブル)。
 
 そうです。「思慮」という機能を担う「心」は、人の人生、そして「生活全体に」測り知れない「影響を与え」るのです。だからこそ、汚染から「心」という大切な「命の泉」を「守」らねばなりません。
 
 
3.力の限りを尽くして、悪しきものから心を守れ
 
 ではどのようにして、「命の泉」である「あなたの心を守」るべきか。箴言は言います、持てる力の限りを尽くして、と。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ」(4章23節前半)。
「力の限り、見張って、あなたの心を守れ」(同 新改訳)。
 
 一方、これは最優先事項として、とも訳せます。
「何を守るよりも、自分の心を守れ」(同 新共同訳)。
「何よりも、心を見守りなさい」(同 リビングバイブル)。
 
 「油断することなく」「力の限り、見張って」「何を守るよりも」、つまり、読者に対して箴言は、力の限りを尽くし、最優先事項として「心を守れ」と箴(いまし)めます。
 
 では、何から守るのでしょうか。人の「心」つまり「思慮」を汚染させ、歪ませてしまうものからです。
 
 この一月と二月、私たちはマタイによる福音書をテキストにして、「主の祈り」を丁寧に読みました。
そして人の必要の三つ目の祈りとして、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出だし給え」について教えられました。
 
「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイによる福音書6章13節 新約聖書口語訳8p)。
 
 これは、人を悪へと誘う「悪しき者」の企みからの救出を願う祈願です。
 「悪しき者」の企図は、その対象者を真理から離れさせることによって、徐々に命を枯れさせていくことにあります。
つまり、「命の泉」である「思慮」という「心」に影響を与えて、命そのものを弱らせることにあります。
 
 具体的に言えば、それはマルクス・レーニン主義という思想でしょう。これは社会主義思想とか共産主義思想として具体化しました。そしてその根底にあるものは神を否定した無神論です。
 
でも、この思想はおどろおどろしい共産主義、社会主義という顔をして現われてはきません。代りに「平和主義、世界の平和、平等の実現、差別の撤廃、人権の擁護」などという耳さわり、口当たりのいいスローガンを打ち出してきます。
 
 一つの例を挙げたいと思います。先週木曜日の五月十六日、安倍晋三内閣総理大臣が、いわゆる「集団的自衛権」の行使容認に関する論議を中心とした、政府の有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の報告書を受けて、我が国の安全保障に関する政府の方針を表明する記者会見を行いました。
 
 今後、国会において侃々諤々(かんかんがくがく)の論議が行われると思いますが、「集団的自衛権」とは「国連憲章五十一条」でも保障されている自衛権のことであって、
 
「密接な関係にある同盟国などが武力攻撃を受けた場合、自国が直接攻撃されていなくても自国への攻撃と見做してこれを実力、つまり武力で阻止する権利
 
のことです。
 
 実は日本の従来の憲法解釈では、集団的自衛権は「保持はしている、しかし、行使はできない」とされていたものでした。
そして、これを行使することのできないとする国は世界広しと雖も、我が国だけでした。考えて見れば、不思議な解釈といえます。
 
たとえば、あなたが親友と道を歩いているとします。途中、あなたが暴漢に襲われます。すると、親友は襲われているあなたを助けようとして、体を張って暴漢に立ち向かいます、しかし、暴漢が親友の方を攻撃した場合、あなたが親友を助けようとして暴漢に立ち向かうことは出来ません、なぜかと言いますと、「おじいちゃんの時代にできた家訓によって、「自分が攻撃をされた場合には抵抗してもよい、また、親友はお前を助ける義務がある、しかし、親友が攻撃された場合、その親友を助けるためにお前は手を出してはならない、と定められている、それは手を出した場合、我が家が争いに巻き込まれてしまう危険性があるからだ」という理由によるものです。
 
でも、「自分は助けてもらっておきながら、親友がやられそうになった時に、家訓で禁じられているからと言って助けようとしなかったら、だれも相手にしてくれなくなる、だから、友だちを助けることは自分のためでもあるのだ」というのが、「集団的自衛権」ということなのです。
 
 現政権は、今後、自分の親友、つまり同盟国が攻撃された場合には、「限定的にではあるが」親友を助けるために手を出すことができるよう、これまで出来ないとしてきた家訓、つまり憲法の解釈を変更する方向で議論をしていきたいと言っているわけです。
 
「自衛権」というから難しいのですが、これは「正当防衛」ということであって、別にその親友と一緒になって遠い町まで行って、相手をやっつけようというわけではありません。
 
 反対者は「解釈改憲」はダメだ、「集団的自衛権」を行使したいのであれば、憲法九条を改正すればいい、と言います。しかし、現行の憲法九条を普通に読めば、自衛隊の存在自体、憲法違反ということになるということは、小学生でもわかることです。
 
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない(日本国憲法第九条? 昭和二十一年十一月三日公布)。
 
 第一に、「国の交戦権は、これを認めない」というのは、侵略戦争どころか自衛の戦争であっても戦争すること自体を「認めない」ということです。
 
第二には「戦力は、これを保持しない」のですから、どこから見ても立派な「戦力」以外の何ものでもない我が国の自衛隊は、明らかな憲法違反ということになります。
 
実際、一九五〇年にマッカーサーの指令によって「警察予備隊」が創設され、一九五二年の「保安隊」への改組を経て、一九五四年、「自衛隊」として発足した組織は「戦力」ではない、というのは無理がありすぎます。自衛隊を戦力ではない、というのは詭弁であり、欺瞞であるということになります。
 
つまり、新憲法制定の八年後に、社会情勢の変化に対応して「解釈改憲」が行われていたのです。ところが「集団的自衛権」の行使容認反対者の多くは、このような経緯には目を瞑り、「集団的自衛権」の行使容認という解釈の変更の方のみ、憲法から逸脱していると主張します。
 
興味深いのは、「集団的自衛権」行使容認に関しては、米国、EUはもとより、東南アジアを含めて世界中の国々が賛同し、あるいは理解を示していて、声高に反対をしているのは日本と利害が対立しているだけでなく、価値観が異なる「特定アジア三国」と言われる国々だけです。
 
そして、日本でも行使容認に「明確に」反対しているのは、この三つの国に親近感を持っている人々であるようで、一般の人は何となく、不安を感じてはいても、絶対反対というわけではなく、限定的ならば容認、ということのようです。
 
これらの三つの国のみが日本の「集団的自衛権」行使容認に反対するのはなぜかと言いますと、日本という国が普通の国になることが自国の不利益になる、と考えているから、という見方があります。つまり、日本が未来永劫、戦争犯罪国家として贖罪意識を持ったままでいることが、自国にとって都合がよいからなのだということです。
 
そして日本人であっても、日本という国が世界から尊敬される国になってしまうことが耐えられないという人の多くが、これら三つの国に同調して「集団的自衛権」の行使容認に反対、という構図になっていると言われています。
 
あるテレビ番組で、エジプト人の女性タレントが、「日本には愛国左派がいない」と嘆いていましたが、思想的左派の多くは、自らの国を三つの国と一緒になって敵視します。それはアイデンティティというものを日本という国に持っていない、あるいは持ちたくはないからなのかも知れません。
 
では「集団的自衛権の行使容認」について、キリスト教界はどうかと言いますと、左派同様、明確に反対、という声が大勢です。
 
キリスト教界がなぜ左派と軌を一(いつ)にするのかということです。以前、夜間の神学校で「日本キリスト教史」を担当してわかったことなのですが、明治、大正の時代、「正義、平和、平等、博愛」などの理想がよく似ているとして、キリスト教、特に保守的というよりも自由主義的な立場のキリスト教の中に、社会主義の思想が浸透してきた時期がありました。
 
保守的なキリスト教会が救世軍などは別として、どちらかといいますと社会改良運動よりも布教の拡大ということに重きを置くのに対し、自由主義的な立場に立つ教派は、社会的問題に関心があったため、社会の改革を主張する社会主義思想に同調する傾向があったようなのです。
 
また、共産主義の浸透を防ぐために、一九二五年(大正14年)に「治安維持法」が公布された結果、その取り締まりを逃れて地下に潜った共産主義者たちが、キリスト教界の中に隠れるということなどもあり、社会派的なキリスト教会はより左傾化するということになったと考えられています。
 
なお、悪法として名高い「治安維持法」は、本来は国際コミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部であった日本共産党の活動を取り締まるために制定された法律で、その対象は当時の国体、つまり天皇制の変革、私有財産制度の否認を目的とした組織、つまり国家の転覆を企図する人々の活動でした。
 
穏健、過激は別として、社会主義的なグループと日本の主要なキリスト教会の主張がよく似ているのは、神の存在を認める、認めないという根の部分は異なってはいても、枝の部分で絡み合って、シンクロしているからだと思われます。
 
とりわけ、両者が共感し合う理由の一つには、国家からの弾圧や迫害という共通の記憶があるからだという分析もあります。
実際、国家というものに対しては共に懐疑的であり、気分が反体制的であるというところも共通しています。その最たるものが国旗、国歌への反感でしょう。
 
問題は、いわゆるマルクス・レーニン主義の打ち出す理想が、キリスト教が唱える理想と一見、似ているようであったとしても、それは所詮、神を否定する思想が生み出したものであるということです。そして、そのような思想、イデオロギーが長い時間をかけて、純真なキリスト信者の「心」「思慮」に影響を与えてきたというのが現状である、それが私の分析です。
 
大事な「命の泉」を汚染させないため、力を尽くして、そして最優先事項として、「思慮」という「あなたの心を守れ」と、箴言は現代のキリスト教会に向かって語っているのではないでしょうか。
 
具体的には接する情報や報道を鵜呑みにせず、よくよく吟味をすることです。そして正しく吟味をするためには歴史、特に過去に何が起こったのかという事実の確認をすることが不可欠です。事実こそが正しい判断の素材だからです。
 
最後にもう一度、今週の聖書テキストをお読みしたいと思います。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(4章23節)。
 
なお、次週は十四章三十節から、情の方の「心」に焦点を絞ってご一緒に教えられたいと思います。