2014年4月27日 日曜礼拝説教
「最重要事項として伝えられたもう一つのこと、それはキリストが予告通り、三日目によみがえったこと(後)―霊魂の不滅か、死者の復活か」
コリント人への第一の手紙15章20、51~53節(新約聖書口語訳274p)
はじめに
時間の関係で先週の復活祭礼拝説教でお語りできなかった、人間の死後の運命、クリスチャンの死後のあり様について、また、イエスを主と告白する者はその死後、間違いなくキリストと同様によみがえるという聖書の告知について、きょう改めて教えられたいと思います。
この平和な日本では身近な人の死以外、普段、死について思いめぐらす機会はないように思えます。しかし、誰もが心のどこかに、自分もいつかはこの世の生を終える時が来る、という思いを持って日々の暮らしを送っているのではないでしょうか。
勤務の関係で、帰宅が遅くなりがちなある共働きの主婦の話です。
彼女がいつものように自宅のある駅に着くと、いつも車で迎えに来てくれている夫の姿がありません。「何か、急な用事ができたのだろう」と思い、そこで、待合室で夫を待つことにしました。その待合室で人待ち顔で座っている年配の婦人に、主婦は何気なく声をかけました。「お迎えはまだですか?」そうしましたらその婦人は顔色を変えて「失礼な!」と言って立ち上がり、主婦の顔を睨みつけながら向こうに行ってしまったというのです。
主婦は豆鉄砲をくらった鳩のようにその場に立ちつくしたそうですが、年配の婦人が何でいきり立ったのかおわかりでしょうか。
因みにこの話は新聞に投稿されていた実際の出来ごとです。主婦は、「ご家族の迎えはまだなのですか?うちもそうなんですよ」と、「お互
い、困りましたねえ」という意味で声をかけたわけなのですが、年配の婦人の場合はそれを、「あの世からのお迎え」というように聞いてしまったのだろうというわけです。
人というものは一定の年齢に達しますと、つまり、人生の残り時間を数えるような年齢になりますと、いわゆる「お迎え」を意識するようになるのが普通です。もっとこの人の場合はちょっと過敏に過ぎるかもしれませんが。
しかし、十六か十七の若さで、突如、この世に別れを告げざるを得なかった、しかもそれが何とも理不尽な理由によってであるならば、さぞ、悔しかったことであろう、またどんなに苦しかっただろう、怖かっただろうと思うのですが、未だ多数の行方不明者の捜索が続けれらている韓国・珍島(チンド)沖の旅客船「セウォル号」沈没事故の若い被害者たちのこと、そしてその家族の胸中を思うと、本当に胸が痛みます。
この人災としか思えない大事故の原因解明が進むにつれ、そこに浮かび上がってきたのは韓国社会の構造的な問題であったという分析が、同国の主要新聞に書かれるようになりました。
何しろ、乗客の安全、救出を第一にすべき船長を始めとする乗組員が、乗客を置き去りにして誰よりも早く船から逃げ出し、結果、船舶関係の乗員十五名全員が助かったというのです。
それだけではありません。国家における危機管理の最高責任者である大統領が、いち早く、船長たちを殺人者呼ばわりすることによって、自らに降りかかりつつある火の粉を払おうとしているという指摘が国内に噴出しています。
しかし、指摘すべきことは、海難救助に関する実績と卓越した技術、能力を有する日本の海上保安庁、自衛隊からの救援申し出を拒否したことです。
この場合、面子よりも人命救助をこそ、最優先すべきでした。結果論かも知れませんが、日本の支援を受け入れていたならば、尊い命をより多く救出することができたのではないか、責められるべきは最高責任者としての判断を誤ったことにあるのではないかと思います。
前途有為の被害者高校生たちには深い哀悼の思いを持ちつつも、頭に浮かんできたのが吉幾三という演歌歌手が自ら作詞作曲をして三十年も前に歌った「おらさ、東京さ行ぐだ」という、田舎の生活をオーバーに戯画化した歌でした。
自らも東北地方出身である作者はぼやきます。
テレビもねえ、ラジオもねえ、自動車もそれほど走ってねえ、ピアノもねえ、バーもねえ、巡査(おまわり)毎日ぐーるぐる、おら、こんな村いやだ、おら、こんな村いやだ、東京さ出るだ、東京さ出たなら銭こ貯めて 東京で牛(べこ)飼うだ(吉 幾三作詞「おらさ、東京さ行ぐだ」)
「韓国には三星(サムスン)がある、現代(ヒュンダイ)がある、世界一優秀な民族がいる、国連事務総長には同胞を送り出した、我が国は世界が羨む先進国だ、一流国だ」と、盛んに誇っていましたが、いま、聞こえてくるのは、「正義もねえ、責任感もねえ、リーダーシップもねえ、遵法精神もねえ、未来もねえ、希望もねえ、おら、こんな国いやだ、こんな国いやだ」という自嘲の声であり、「アメリカかカナダに出るだ、オーストラリアかニュージーランドさ行ぐだ」という嘆きの声ではないかと思わせられました。
尤も、事故の最高責任者である船会社の実質オーナーは、既に密かに出国をしてしまったという報道もあるようですが。
先週も少しお話をしましたが、先月、日本の外務省がASEAN(東南アジア諸国連合)七カ国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム、ミャンマー)の人々を対象にして行った「ASEAN地域7カ国における対日世論調査結果」を発表しました。
外務省のホームページによりますと、それは、主要十一カ国の国名をあげて、「次の国のうち、最も信頼できる国はどこの国ですか」と問うものでした。
結果、日本が三十三%で一位、次いで米国が十六%、そして英国六%、オーストラリアと中国が五%、ニュージーランド四%、ロシアとドイツが三%、韓国二%、フランスとインド一%でした。
この調査では何と三分の一の三十三%が日本を最も信頼できる国とする一方で、日本に何かと張り合う韓国は僅かの二%であったということですが、見た目は華やかで成功しているように見える彼の国が実は整形だけでなく、何から何まで外側を飾る、虚飾の国でしかなかったという実態を国民に示したのが、今回の惨事であると識者は言います。
ただただ、この国とこの国の構成員を神が憐れんでくださるよう、とりわけ、今回の事故で犠牲となった被害者たちの無念を神が顧みてくださるようにと祈るものです。
なお、昨日の中央日報日本語版によりますと、昨年の三月に就任したローマ法王フランシスコが韓国人主教に対して、「韓国民がこの事件をきっかけに倫理的、霊的に生まれかわることを望む」と語ったとのことです。
法王が「事故」と言わずに敢えて「事件」と言ったのであれば、それは本質を衝いた見方だと思われますが、驚くのはこのメッセージが一部の人々ではなく韓国民全体に対して「この事件をきっかけにして倫理的、霊的に生まれ変わることを望」んだということでした。
「倫理的に」とは人と人との関係を、そして「霊的に」とは人の神への姿勢を意味しますから、それらの関係が単なる改善などのレベルではなく、「生まれ変わること」つまり根本からのやり直し、再出発を望んでいるということです。
中世や近世ならばいざ知らず、現代の一国家の構成員全体に対しての名指しによるローマ法王によるこのような要望など、聞いたことがありません。
つまり、それほどこの国は宿痾とも言うべき病に冒されているということなのだと思われます。
彼の国のために執り成しの祈りを捧げることが神の御旨であるとお語りしたのが三月三十日の礼拝ででしたが、それから半月後、国を揺るがすような悲劇の中にある隣国の癒しのため、再生のために、わたしたちもまた法王と共に、神に向かって祈りの手を挙げたいと思います。
さて、人は死後、どうなるのか、ということについて、特に自分は死後、どうなるのかということについて関心を持たない人はいないと思います。
そこで本日は先週の説教の続きとして、死について、日本人一般が持っているであろう考え、保守的なキリスト教会が素朴に信じている教え、そして、聖書が教える正しい理解について、ご一緒に分かち合うこととしたいと思います。
1.存在自体の消滅か、万人の救済かー日本人の死後についての平均的考え
人の死後について一般の日本人はどのように考えているのかといいますと、それは恐らくは二つあって、一つは死んだら終わり、つまり、生命活動の終了と共に、肉体は骨や灰となって残るけれど、人の存在そのものは終了する、という考えです。
これは「すべては物質でしかない」という唯物史観の影響によるものだと思われます。
唯物論の背後には神の存在を認めない無神論という思想があります。無神論は神の実在を否定しますから、当然、神を礼拝したり、神に向かって祈るという宗教心や信仰の価値を認めません。すべてが物質としての現象である以上、物質である肉体が死ねば、人としての一切の活動は消滅する、というわけです。
そしてもう一つが、誰もが死んだらあの世に行って、先に亡くなった者と出会い、一方、後から来る者を待つ、という、つまり人はみな、この世の延長線上にある天国あるいは極楽に行って、この世に担ってきた一切の重荷から解放されるという考えです。
著名人が亡くなった場合、葬儀において、業界関係者などが故人に向かって、「あの世でも良い作品を書いてください」とか、「私たちが行くまで、天国で見守っていてください」などと語りかける場面をテレビなどで見ることがありますが、それがどこまでの確信に基づくものであるかはさておき、人は死んだら終わりではなく、死後も生きている、存在している筈だという素朴な願望があるからだと思われます。
死は終わりではなく、死後に再会をすることができるという考えは、実は二千年のキリスト教の歴史の中に、「万人救済説」(英語で「ユニヴァーサリズム」)という教えで生き残ってきました。
この教えの根拠は、「神は愛である。だから、ついにはすべての人を救う筈である」という、神の属性を基にしていて、その聖書的根拠としては以下の聖句があげられています。
「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(ローマ人への手紙11章36節 249p)。
「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、神によってご自分と和解させてくださったのである」(コロサイ人への手紙1章20節 314p)。
しかし前者は神の空間的、時間的主権の卓越性を強調した、パウロの神を称える頌栄であり、後者の聖句はキリストによる神との和解という救済の最終目的の完成を讃美したものですので、必ずしも万人救済説の根拠にはならないという憾(うら)みがある聖句です。
万人救済説は極めて魅力ある教えですが、多分に人の期待や願望が籠った教説であるといえるでしょう。
2.霊魂の絶滅か、永遠の責め苦かー不信者の死後の運命についての保守的キリスト教会の教理
キリスト教会と一口に言いましても千差万別であって、一枚岩ではありません。たとえば、ローマ法王はローマンカトリック教会を代表するお方ですが、プロテスタント教会は、そのように理解しているわけではありません。
そのプロ他スタント教会の中でも、特に聖書をそのまま神の言葉と信じている原理主義的教会が保守的キリスト教会なのですが、その中でも少数ながら、信者のみが救われて永遠の生命に与るが、その他の者、つまり信じなかった不信者は肉体的な死と共に、すべてが消滅、絶滅するとする考える人たちがいます。
聖書配布で有名な協会があります。その協会の方と話をしたことがあるのですが、「不信者は死後、消滅をする」とする教団に所属している教職や信徒には、最近、協会をやめてもらいました」と言っていたことを思い出します。十数年前のことです。
この説を唱える人々が根拠とする聖句はテサロニケの書簡です。
「それは、主イエスが栄光の中で力ある天使たちを率いて天から現われる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」(テサロニケ人への第二の手紙1章7~9節 324p)。
この説の主張者たちは「滅び」(9節)を「絶滅」あるいは「消滅」と解釈します。
確かにこの箇所で使用されている「滅び」という言葉は、他の箇所、例えばコリント人への第一の手紙五章五節でも「死滅」「消滅」という意味で使われていますが、一方、聖書では「滅び」とは人が神と断絶した状態になること、あるいはそのような関係にあることを意味しますので(これを関係論的解釈と言います)、この言葉の使用をもって、不信者の霊魂は死後、絶滅する、あるいは消滅すると、実体論的に解釈することは行き過ぎであると思われます。
これに対して保守的教会の多くは、「人は死後も例外なく意識を持って存在し続けるが、ただし、信者は神と共なる生を永遠に享受することができる一方、福音を拒絶した者は地獄に落ち、永遠の責め苦を受ける」とします。
根拠としている聖句の一つは、まさに今しがた読みました聖句の後半の言葉です。
「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして彼らは…永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」(テサロニケ人への第二の手紙1章8、9節)。
前提にあるものは、すべての人は死後、キリストの審判を受けるべくよみがえるという信仰です。
このことを審問の席においてパウロは、ローマ総督ペリクスに対し、神を信じる者の希望として語ります。
「(わたしは)また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです」(使徒行伝24章15節前半 224p)。
先ほど例に上げました聖書配布協会も、そして私たちの教会が所属する教団が加盟する日本福音同盟(JEA)も、この立場に立っております。
キリストは世界のさばき主としてふたたび来られる。キリストを信じた者は永遠の生命に、キリストを信じない者は永遠の刑罰に定められる(日本福音同盟信仰規準第6項)。
問題は「永遠の刑罰に定められる」とされる「キリストを信じない者」とはどのような者を意味するのかということです。
その場合、福音を聞く機会の無いままに亡くなった人も「キリストを信じない者」に含まれるのか、それともそれは意識的にキリストを拒否をした者のことなのかがはっきりしていないことでしょう。
特にキリスト教とは無縁の中を真面目に生きてきた日本人の場合はどうなるのか、ということについての見解が問われています。
3.霊魂の不滅か、死者の復活かー信者の死後の希望についての聖書の教え
不信者、あるいは未信者の行く末についての見解が分かれているとしても、はっきりしていることが一つあります。それは「イエスは主である」と明確に告白をした者は「永遠の生命に」「定められ」ているという見解です。
ただし、保守的な教会の中でも、「永遠の生命」のかたち、様態となりますと、曖昧なままであるということが問題です。
古代のキリスト教会の教理形成に大きな影響を与えたのがギリシャ思想でした。
そのギリシャ思想の特徴は「霊肉二元論」と申しまして、肉体は価値の低いものである一方、人にとって価値のあるものは霊魂であり、その霊魂は肉体という牢獄の中に閉じ込められている、だから、肉体の死は霊魂を束縛から解放する救済であって、その霊魂こそ永遠不滅の生命であると考えるところにありました。
だからこそ、ソクラテスは裁判において無実を訴えることをせず、従容として毒の入った杯を飲みほしたのです。
若くて未熟であった時代に、死に対するソクラテスとイエスの態度を比較することによって、キリスト教の希望が霊魂不滅の思想にあるのではなく、身体のよみがえりにあることを教えてくれたのが、オスカー・クルマンによる「霊魂の不滅か死者の復活か」という短い論文でした。
一読して、まさに目から鱗が落ちるとはこのことかと思ったものでした。
こうごうしいまでの冷静さをもって、ソクラテスは毒薬を飲んだが、イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。…そして、他のわけのわからない叫びをもって、イエスは死にたもうた。…これは恐るべき恐怖のきわみの中の死である。
わたしは、ソクラテスの死とイエスの死とを並べた。というのは、霊魂の不滅というギリシャ的教理と、復活というキリスト教の教理との間の根本的な差異を、これ以上よく示すものはないからである。(オスカー・クルマン著 岸千年 間垣洋助共訳「霊魂の不滅か死者の復活か」25、26、27p 聖文社 1966年)。
「死後はない、死んだら無になる」という虚無思想を生み出す無神論に対し、「肉体は骨となり灰となったとしても、魂は天において神の安息の中に憩う」と希望の裏付けをしたという意味では、霊魂不滅の思想が日本宣教に一定の貢献をしたといえなくもありません。
しかし、霊魂不滅の思想はあくまでもギリシャ思想であって、聖書の教えではありません。
聖書は、キリストを信じた者は、キリストと同様によみがえりの体を与えられると主張します。
「しかし、事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(コリント人への第一の手紙15章20節)。
「初穂」と言いますのは、最初の収穫を意味します。そして、律法では「初穂」は過越し祭の安息日の翌日に、幕屋において神に奉献すべきものとされました。
「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところに携えてこなければならない。彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう』」(レビ記23章10、11節前半 旧約聖書口語訳169p)。
つまり、復活したキリストは「初穂」(20節)として神に受け入れられたのです。初穂は後に続く収穫のしるしです。
ということは、初穂としてのキリストの復活は、後に続く信者の復活のしるしであった、ということなのです。信者は永遠を体のない霊魂として生きるのではなく、あくまでも体をもって、但し神が備えた新しい体を与えられて生きるのです。
「ここで、あなたがたに奥義(おうぎ)を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(15章51~53節)。
それは新しい、限界のない完成された体です。ですから、病気で亡くなった人も、障害を持ちつつ死んだ者も、神が備えた完璧な体で永遠を神と共に生きることになります。
キリストにある者の希望、それは霊魂の不滅ではなく、死者の中からの新しい体をもっての復活にあるのです。それがキリストを信じる者の死後の希望であり、聖書の約束です。