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2014年3月23日日曜礼拝説教「叶えられる祈りとは? 心の重荷に耐えかねて零れ出る呻きは、祈りとなって神に届く」ルカによる福音書18章9~17節

14年3月23日 日曜礼拝説教

「叶えられる祈りとは? 心の重荷に耐えかねて零れ出る呻きは、祈りとなって神に届く」

ルカによる福音書18章9~14節(新約聖書口語訳129p)

  
はじめに
 
大衆伝道者であった本田弘慈(故人)のクルセード(伝道集会)の説教で聞いたのかどうかは定かではないのですが、今も心に残る話があります。
 
高齢の女性、つまりおばあさんが、重そうな風呂敷包みを背負って、道をよろよろと歩いていた、そこに通りかかったタクシーの運転手さんが声をかけた、「乗っていきませんか、帰りですから料金は要りませんよ」「いいえ、そんな図々しいこと」「いやいや、遠慮しないでください」「そうですか、ありがとうございます。助かります。では、お言葉に甘えて」
 
ところがこのおばあさん、タクシーの中でも荷物を背負ったままです。そこでこの親切な運転手さんが声をかけました、「荷物をおろしてはどうですか?楽になりますよ」ところがおばあさんが答えます、「とんでもないことです。ただで乗せてもらっているだけでも有り難いのに。それなのに荷物をおろしたりしたらバチがあたります」
 
説教の流れでは、どちらかと言いますとこのおばあさんのことをやや笑うような感じで、「人生の重荷をすべて、キリストの許に降ろしましょう」という勧めになっていたと記憶しています。
このおばあさんの行動は客観的に見れば、そして理屈で考えれば確かに滑稽に思えます。
 
しかし、おばあさんの側から見れば、「ただで乗せてもらっているのだから、せめて車の中では荷物は担いだままでいさせてもらいたい」という気持ちの表れなのであって、「親切な運転手さんの厚意に少しでもお返しをしたい、また何もできない自分が申し訳ないという、せめて」という思いがそのような行動になったということだと思います。
 
これは実話ではなく、創作だろうとは思いますが、そこには、理屈を超えた日本人の心根、心遣いといったものを見る思いがするのです。
 
重荷と言いますと日本人がすぐに思い起こすのが、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」で有名な「徳川家康の遺訓」とされる言葉です。
 
人の一生は重き荷を負ふて遠き道を行くが如し 急ぐべからず 
不自由と思へば不足なし 心に望み起こらば困窮したるときを思ひ出すべし 
堪忍(かんにん)は無事長久の基 怒りは敵と思へ 
勝つことばかり知りて負くるることを知らざれば 害その身に到る 
己を責めて人を責むるな 
及ばざるは過ぎたるより勝れり
 
もっとも、これは家康の作などではなく後代のものであって、ある人が水戸光圀の「人のいましめ」という文章を元に、家康の自筆文書としての体裁を整えて各地の東照宮に収めたものだという説もあり、少なくとも徳川家康の言葉ではないことは確かなようです。
 
しかし、誰が作ったものであれ、だれもが「その通り」と思わせるような処生訓であって、特に冒頭の「人の一生が苦労の連続であって、それは重き荷を背負って遠い道を旅するのに似ている」という文言の趣旨については、人が年をとれば年取るほど実感する事実であるといえると思います。
 
ところで人が担う重荷には精神的、身体的な病苦、経済的、物質的な困窮、人間関係にけるトラブルなどの現時点でのもの、また、行く来し方に対する不安など、多岐にわたるのですが、過ぎ去った日々における倫理的過失、不測の過誤による自らが与えた加害などの記憶から生じる、いわゆる罪意識、罪悪感は、良心が敏感な人であればある程、心の重荷となって人を追い詰め、苦しめます。
 
三月は主の祈りの応用編として「叶えられる祈りとは」何かの主題で、第一週と二週とでは創造主である神が「我らの父」「天の父」であることを確認し、第三週ではその「父」は神の支配を求める者に対し、人の必要のために第一祈願である「日用の糧」を保証してくれるお方であることを確かめました。
 
そこで今週は第二祈願である「罪の赦し」についての応用篇です。
 
 
1.取税人は心の重荷に耐えかねて、神の前に額(ぬか)ずいた
 
教会でのいわゆる伝道集会において、説教者が最も使用する頻度の高い聖句の一つがマタイによる福音書の「すべて労する者重荷を負う者我に来たれ 我汝(なんじ)を休ません」というイエスの言葉でしょう。
 
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節 新約聖書口語訳17p)。
 
 まことに有り難い呼び掛けです。しかし、聖書を読むとき、誰が誰に向かって語ったものなのかということについて注目をする必要があります。
 
この場合「誰が」は勿論イエスです。では「誰に」かと言えば、呼び掛けの対象は異教徒ではなくて、創造主である唯一の神の実在を信じ、先祖から受け継がれてきた律法を神からの祝福の約束として幼いころから学んできた人々、自分たちがアブラハムの子孫であって、選民として選ばれた民であるという自覚を持っているユダヤ人たちでした。
 
ところが、律法は神と民との双務契約ですので、律法を遵守することのできない者たちにとって、本来は善であり、民を幸せに導く筈の律法が、ペナルティをもたらす呪いとして良心を責める重荷をなってしまうのです。
つまり、イエスの言う「重荷」とは、単に人生の労苦などではなく、律法の重荷そのものを意味したのでした。
 
もちろん、ユダヤ人の多くは律法自体を喜び、律法を実践することに生きがいを覚えて日々を暮らしていたようです。イエス時代のユダヤ人がみな、律法を重荷と考えて苦しんでいたわけではありません。
 
しかし、中には生きていくため止むにやまれず律法に背くような生き方をし、あるいはそのような職業に就く中で、心を責めたてられる人々もいたようでした。それが娼婦であり、取税人でした。
イエスはそんな取税人を「叶えられる祈り」を捧げた例証として、譬えに取りあげております。「パリサイ人と取税人の祈り」の譬えです。
 
「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。『ふたりの人が祈るために宮に上(のぼ)った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった』」(ルカによる福音書18章9、10節 120p)。
 
 この譬えの全体解釈は昨年秋の譬え話シリーズで行っていますので(2013年10月27日日曜礼拝「ルカによる福音書の譬え話? 神殿で祈ったパリサイ人と取税人の譬え-神に義とされたのは、罪意識を持って祈った取税人の方であった」)、今回は取税人の祈りに焦点を絞ることに致します。
 
「パリサイ人」(10節)は自らの義と善行を誇るために神殿に詣でたようですが、もうひとりの「取税人」(同)の方は心の重荷に耐えかねて神の前に出て行ったのでした。
彼は本殿から遠く離れたところで、目を伏せ、胸を打ちながら呻くように祈りました。
 
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った」(18章13節前半)。
 
 当時のエルサレム神殿は南北四百メートル、東西三百メートルの境内の中央に本殿建物があり、その本殿を囲んで祭司の庭、成人男子の庭、婦人の庭があり、婦人の庭の外側に改宗した異邦人のための広大な庭が広がっておりました。それが異邦人の庭でした。
 
パリサイ人は胸を張って堂々と本殿近くで祈りを捧げましたが、取税人はユダヤ人であったにも関わらず「遠く離れて立ち」(13節)、つまり異邦人の庭で、「目を」(同)神がいます「天に向けようともしないで、胸を打ち」(同)つつ、おのれの罪を嘆いて祈ったのでした。
 
イエスは今も、心の咎め、罪の意識に苦しんでいる者に向かい、「すべて重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と語りかけてくれているのです。
 
実は、神を信じるようになったにも関わらず、以前よりも自分が汚なくなったように感じるという場合があります。しかしそれは以前よりも良心が敏感になったからなのです。つまり聖潔感というセンサーの感度が上がったからです。
そして、だからこそ、自分で勝手に罪の赦しの判決を下すのではなく、神の前に出て行くことが必要なのです。
 
 
2.取税人は自らの罪を悔いて、心の咎めからの解放を嘆願した
 
取税人は神の前に額ずいて、ただひと言、万感の思いを込めて呻くがごとくに祈りました。「神よ、我が罪を赦し給え」と。
 
「胸を打ちながら言った、『神様、罪人(つみびと)のわたしをおゆるしください』と」(18章13節後半)。
 
 これを口語訳は「わたしをおゆるしください」と訳しましたが、これを直訳をしますと、「わたしを贖(あがな)ってください」です。
 
この祈りから、彼が一つの望みを持って神殿に来たことがわかります。それは神による罪の購いへの希望でした。
彼が「遠く離れて立っていた」(13節)異邦人の庭からはるか彼方に見える本殿のその奥で、遠い昔から大祭司によって年に一回、贖罪の日に一つの儀式が行われておりました。罪の「贖い」のための儀式です。
 
「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠(ほふ)る。
…次に、民の贖罪の献げ物のために雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血と場合と同じように、贖いの座の上と前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所(しせいじょ)のために贖いの儀式を行う」(レビ記16章11、15、16節前半 新共同訳187p)。
 
 取税人は自身の内に神の前に誇るものは何一つ無いことを知っておりました。また、自分の罪の始末は自らではすることができず、ただ、神が定めた方法によってしか処理できないことを知っていました。
ですから、「神よ、罪びとの私をあなたの手で、あなたの定めた方法で贖ってください」(13節後半 意訳)と祈ったのでした。
 
 ここで「贖う」という意味で使用されている言葉は、「解放する」という意味もあります。
つまり、取税人が切に望んだことは、自分の力ではどうしようもない心の重荷を下ろさせてもらうこと、それによって心が平安へと解放されることでした。
 
 譬え話なのに感情移入をして、登場人物の気持ちを深読みすることは、聖書解釈学の観点からは行き過ぎなのですが、ここはどうしてもあえて深読みをしたいと思います。
取税人については、一方では、「解放を求めるのは虫が良すぎる」「自分のようなものは罪の意識を持ったまま苦しむことが似つかわしい」という思いを心にを過(よぎ)らせたかも知れません。
 
しかし、イエスが敢えてここで「贖う」という言葉を使ってまで(もちろん、イエスの使用言語はギリシャ語ではなく、先祖伝来のヘブライ語の筈ですが、福音書記者はそれを忠実に同じ意味を持つギリシャ語に翻訳したと思われます。そしてその言葉が「贖う」でした)取税人に祈らせたのかと言いますと、それは彼を、あるいは彼のような思いを抱えて神の前に出る者は、だれであっても罪の赦しを得ることができる、なぜならば私イエスはそのために来たのだということを教えるためであったと思われます。
 
そういう意味において、私たちは大胆に、「天にいます我らの父」に向かい、「我らの罪をも赦し給え」と祈ることができるのです。
 
 
3.取税人の切なる祈りは、義なる神に嘉(よみ)せられた
 
 この譬えの結びでは、聴衆の意表を衝いた結論が下されます。それは神によって義とされたのは、つまり神に嘉(よみ)せられたのはパリサイ人ではなく、取税人の方であったとイエスが言い切ったことでした。
 
「あなたがたに言っておく。神に義とされて、家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」(18章14節前半)。
 
「神に義とされ」(14節)るとは、「神に喜んで受け入れられる」という意味ですが、恐らく日本語で最も適切な表現は「嘉(よみ)せられる」でしょう。
「嘉(か)」という言葉には「よい」「ほめる」「めでたい」という意味があります。
 
五年前の四月十日、皇后との結婚五十周年を迎えた天皇が記者会見において、この言葉を使いました。
 
結婚五十周年にあたって(皇后に)贈るとすれば感謝状です。皇后はこのたびも努力賞がよいとしきりに言うのですが、これは今日まで続けて来た努力を嘉(よみ)しての感謝状です。(皇后は)本当によく努力してくれました。
 
いわゆる「ご成婚」は、私が生まれて初めて教会に行ったその翌月の出来ごとでしたから、よく覚えています。昭和三十四年のことです。その50周年にあたって、天皇は皇后のこれまでの献身ぶりを評価して、嘉するという言葉を使いました。
 
内村鑑三の弟子で、戦後、東京大学の総長となった矢内原忠雄が、戦前、ファシズムを批判したことから東大教授の座を追われ、その後に発行した雑誌が、「良い」あるいは「めでたい」という意味を持つ「嘉」という言葉を使った「嘉信(かしん)」でした。福音という意味でしょうか。
 
心の重荷に耐えかねて、土下座する思いで恐る恐る神の前に額ずいた取税人の呻きは、聖なる神に評価される祈り、嘉せられる祈りとなったのです。
 
もちろん、動物の血が人の罪を清める効力があるわけがありません。人が建てた神殿における祭儀はあくまでも影であって、それは本体を示唆するものでしかありませんでした。
 
では、本体であるそれは何か。それはイエス・キリストによる身代わりの犠牲であって、キリストの流した血こそが、律法違反の罪をはじめとする人間のすべての罪を清める効力を持つものとして、神に認証されたのでした。
 
 一世紀末に書かれたヨハネの手紙が、その望みを強調します。
 
「そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
…もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、私たちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりでなく、全世界の罪のためである」(ヨハネの第一の手紙一章7節後半、2章1節後半、2、3節前半 376p)。
 
 そして、神に嘉(よみ)せられたのは取税人が祈った祈りだけではありません。
何よりも有り難いのは、彼の祈りと共に、祈った取税人自身が、自らを「罪人(つみびと)」と断罪した彼自身が、義なる神によって嘉せられたことでした。
 
譬えの当該箇所をもう一度、丁寧に読んでみたいと思います。
 
「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」(18章14節)
 
 この譬えが教えるもの、それは、心の重荷に耐えかねて神の前に出る者の、その思いと口からから零れ出る呻きは、キリストの犠牲と執り成しのゆえに祈りとなって、今も天にいます神に届いているのだという事実です。
 
 心の重荷に耐えかねて、神の前に額ずく者から溢れ出る呻きは祈りとなって、今日も天の神に届いているのです。