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2014年3月16日日曜礼拝説教「叶えられる祈りとは? 何はさて措き、先ずは神の国すなわち神の支配を求めよ」ルカによる福音書12章22、29~32節

14年3月16日 日曜礼拝説教

「叶えられる祈りとは? 何はさて措()き、
先ずは神の国すなわち神の支配を求めよ」
 
ルカによる福音書12章22、29~32節(新約聖書口語訳110p)
 
 
はじめに
 
いよいよ来月の四月から消費税が三パーセント、上がることになります。景気の指標が良ければ、来年の秋にはさらに二パーセント上がって十パーセントになるわけですが、消費税率を上げることは国の財政事情からみて、止むを得ないことなのかも知れません。
 
しかし、個人的には消費税率の引き上げはこの四月からではなく、一年先に延ばして、来年の四月に、そしてそこで一気に十パーセントにしたらよいのに、と思っていました。副総理兼財務大臣である盟友を説得することが出来なかったのかも知れません。今さら詮無いことですが。
 
一部の大企業は上がった消費税率分を賃上げによってカバーできるかもしれません。しかし、まだアベノミクスの恩恵に与かっていない多くの国民にとり、消費税率のアップは日々の暮らしを直撃することになると思われます。
せめて食料品や日常品などには軽減税率を適用してもらえればと思いますが。ただ、これも不確かなままなのですが、消費税率の引き上げの旗振り役であった大手新聞社は、ちゃっかりと新聞購読料への軽減税率を主張するのですから、いい気なものです。
 
固定収入は現状のままで物価だけが上がるとなると、一般庶民が生活防衛のために取る手段は、支出を切り詰めるということになるかと思いうのですが、二十一世紀の現代日本でさえ、多くの国民にとって、生活を維持するための苦労は尽きることがないのですから、今から二千年前のパレスチナで暮らしたイエスの弟子たちにとって、生活を維持する苦労は並大抵のものではなかったことと思います。
 
そのような弟子たちに対してイエスが語った教えが、「何はさて措いても先ずは神の国を求めよ」というものでした。
今月の「叶えられる祈りとは」の一回目と二回目は「主の祈り」の応用編として、「天にいます我らの父」への呼び掛けへの実例でしたが、今週は「日用の糧」を祈ることの応用編です。
 
 
1.何はさて措き、思い煩いをかなぐり捨てて、先ず神のご支配の実現を祈ること
 
物事には優先順位というものがあります。気取ってプライオリティなどと言う人もいますが、日本人同士では日本語を使えばよいと思うのですが。
優先順位といいますのは、緊急性と重要性という要素を計算して、これは一番目、これは二番目と順位をつけることを意味します。
 
通常の場合、衣食住の確保こそが優先順位の第一に置かれるべきでしょう。「何はさて措いても」まず腹を満たすための食べ物、寒さを防ぐための衣類の確保が優先となるのが常識です。しかしイエスは弟子たちに対し、生活の必需品である衣食住について、「思い煩うな」と言われました。
 
「それから弟子たちに言われた、『それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな』」(ルカによる福音書12章22節 新約聖書口語訳110p)。
 
 「何を食べようか」(22節)とは、「夕食は肉料理にしようか、それとも魚にしようか、いや、久しぶりに鍋もいいなあ」という、献立やメニューを何にするかということではなく、どうやって明日まで食いつないでいけるか、という切羽詰まった状況を意味する言葉です。
 
 「何を着ようか」(同)も同様です。「明日はスーツでびしっと決めようか、いやノーネクタイでいこう」とか、「まだ寒いけど、明日は春らしい服装で出かけたい、でもそうしたら回りから浮いてしまわないだろうか」と、ファッションのコーディネイトで迷う場合のことを言っているのではありません。
 
 「何を食べようか」は、メニューの悩みではなく、食べていけるかどうかの悩みであり、「何を着ようか」は、冬がもうそこまで来ているのに夏服しかない、寒さから身を守るための服を手に入れるためにどうしたらよいだろうかという、生活維持のための切実な悩みを表したものなのです。
 
 でもイエスは、それらのことについては「思いわずらうな」と言われました。
ここで「思いわずらう」と訳された原語の動詞は「(二つに)分かつ」という言葉で、そこから、「ああかもしれない、こうなったらどうしよう」と心が二つに分裂すること、そしてさらにそこから「心配する」「思い煩う」という気持ちを表す場合に使用されるようになったものです。
 
でも、人は霞を食べて生きているわけではありません。どうしたらよいのか。ところがイエスはそれらの心配ごとを「あなたがたの父」に委ねて、先ず神の国を求めるようにと、一見、能天気と思えるようなことを言われたのでした。
 
「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることをご存じである。ただ、御国(みくに)を求めなさい」(12章30、31節前半)。
 
 イエスが優先すべきものとしたのは、「御国を求め」るということでした。「御国」については、主の祈りでは神に関する祈願の二番目に上げられています。ルカの方で読んでみましょう。
 
「御国がきますように」(11章2節後半)。
 
 そして「御国」とは何かと言いますと、原語の「バシレイア」から、それは目に見える領土、領空、領海を持つ地上の国家のことではなく、支配を意味するものであって、その神の支配は具体的には、神を父とする者の心の中に始まって、次いで神を父と崇める者同士の間に実現するものであるということを教えられました(1月19日日曜礼拝「祈りの精髄としての主の祈り? 『我らの父の支配は人の心の中から始まる』」)。
 
 私たちはともすると、目先の心配事に心が奪われて、思い煩ってしまいます。食べること、飲むこと、着ること、住むこと、そしてそれらを手に入れるための経済活動は重要なことなのですが、問題は優先順序です。
イエスは先ず、「御国を求めなさい」(31節)と教えました。神の民が第一に求めるべきことは神の支配であると、イエスは言われたのでした。
 
 ところでマタイの並行記事ではこれに神の義を求めなさい、ともあります。
 
「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイによる福音書6章33節 9p)。
 
 これは神の支配、すなわち神の義を求めなさい、と読むこともできます。この場合の「と」は「すなわち」とか、「つまり」という意味で使われている接続語であって、後者が前者を説明しているのです。
つまり、神の支配の中心的、基本的理念である「神の義」をこそ、全力を尽くして祈り求めよ、そうすれば、義である神が人を裏切ったり見捨てたりする訳がないことがよくわかるだろうというわけです。
 
第一のものを第一にする、それが神の支配に身を委ねる者たちが取る、優先順序なのです。
 
 
2.なぜならば、第一のものを第一にすれば、第二のものは自ずと付いてくるからである
 
では第一のものを第一にしたらどうなるか、ということですが、イエスは明言します。第一のものを第一にすれば、第二のものは自ずと付いてくる、と。
 
「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう」(12章31節後半)。
 
 「これらのもの」(31節後半)とは何かと言いますと、それこそが「主の祈りの」人の必要に関する祈願の二つ目である「日用の糧」「日ごとの食物」のことでした。
 
「わたしたちの日ごと食物をの、日々お与えください」(12章3節)。
 
 イエスは言います、第一のものである「御国」(31節)すなわち神の支配の実現を優先的に求めれば、第二のものである「日ごとの食物」はそれに続いて与えられるのだ、と。
 
「これらのものは添えてあたえられるであろう」(12章31節後半)。
 
 これは、「武士は食わねど高楊枝」などという痩せ我慢を推奨する教えではありません。「これらのものは」第一のものに「添えて与えられる」のです。
 
 「これらのもの」は人が生命を維持していくためには何としても欠かせない大事なもの、言うなれば生活必需品とでもいうべきものです。
そして「これらの」「日ごとの食物」「日用の糧」とは単に、人の体を維持するためのものだけではなく、人にとっての精神的な満足、霊的な満足をも意味します(2月2日日曜礼拝「祈りの精髄としての主の祈り? 『我らの日用の糧を今日も与え給え』と祈る」)。
 
それらは私たちキリストに繋がる者たちが人生を豊かに、そして幸せに生きるために必要であることを神はご存じなのです。
 
「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」(12章30節)。
 
 この、「これらのものが」自分たちに「必要であることを」父が「ご存じある」ということを信じること、それが「信仰」です。そしてどうも、この時点では、弟子たちにはその「信仰」が見られなかったようです。だからこそ、イエスは彼らの「信仰」を励まし鼓舞するために敢えて、「信仰の薄い者たちよ」と呼び掛けたのだと思われます。
 
「きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」(12章28節)。
 
 ただし、働きもしないで棚から牡丹餅が落ちてくるのを待て、という意味ではありません。人は汗水流して働いた勤労の実を、神の恵みとして、感謝して受け取るのです。そしてそれはイエスの弟子たちも例外ではありませんでした。
 
 ユダヤでは神殿の日常活動を維持するため、また神殿で奉仕をする祭司など働き人の服飾のために膨大な予算を必要としていました。そこで二十歳以上の男子は毎年半シケルを神殿税として納入するという義務が定められておりました。
 
「すべて数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。…すべて数に入る二十歳以上の者は、主にささげものをしなければならない」(出エジプト記30章13、14節)。
 
 ユダヤ暦で三月十五日がその納入期限です。そこでイエスはペテロに不思議なことを命じました。「海(つまりガリラヤ湖)に行って釣りをしなさい。最初につれた魚の口の中に一枚の銀貨がある筈だ。それで私とあなたの分の宮の納入金としなさい」と。
 
「しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚(うお)をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」(マタイによる福音書17章27節)。
 
 福音書にはその後の経緯が記録されていませんが、これが何を意味するのかです。文字通りの奇跡が起こったと考えても別に構いませんが、しかし、別の解釈も可能です。
 
 つまり、イエスの言葉の真意は、「勤労の実で納税せよ」というものであった、つまりイエスは、「ペテロよ、あなたは漁師だ、あなたはガリラヤ湖に行って、昔取った杵柄で一日、漁をしなさい、そして獲れた魚を売って、その代金を私とあなたのための宮の納入金としなさい」ということだったという解釈です。
 
 私はこの場合、後者の方の解釈を採用したいと思います。働く能力と働く機会があるのにも関わらず、働こうとしないのは怠惰以外の何物でもないからです。だからこそ、パウロは「働かざる者、食うべからず」と言ったのです。
 
「また、あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた」(テサロニケ人への第二の手紙3章20節 327p)。
 
 もちろん、若いころから一生懸命に働いてきて、老後を年金で暮らすという場合、あるいは働きたくても病気や障害で仕事に就くことができない者が福祉の世話になるというのは当然のことであって、何ら咎められるべきではありません。
 
 イエスが言う、「これらのものは添えて与えられるであろう」(31節後半)という言葉は、祈っていれば現金や日用品が空から降ってくるという意味ではなく、第一のものを第一としつつ、自ら働く意欲を持っている者には、収入を生み出すための働く機会と場とが必ず備えられる、という約束でもあるのです。
 
 
3.神の支配という圧倒的恵みが、いとも小さき群れの中に実現することは神の意志である
 
 そして神の意志です。この一月と二月に、八回にわたって行った「主の祈り」の連続説教では、説教者自身、大きな恵みに与ることができたと思っております。
「主の祈り」は前半と後半に分けて取り上げたことはありますが、今回のように一つず解説をしたのは、振り返ってみれば初めての経験でした。
 
どなたも忙しい日々を送っていることと思います。ところで日常生活における個人的な礼拝を「デヴォーション」と言います。その動詞の「デヴォート」は捧げるという意味ですので、「デヴォーション」とは神への献身、礼拝、神との交わりを意味するようです。
 
 神を信じる者たちにとって、朝のひととき、一定の時間を聖書の言葉を読み、祈る「デヴォーション」に充てることができればベストなのですが、多忙を極めた日常を送っている場合、なかなかその時間が取れないかも知れません。
 
ではどうしたらよいか、そういう人は目が覚めたら先ず床の上に座って、ゆっくりと、祈祷文の一つ一つの意味を噛みしめながら「主の祈り」を唱えてみてください。できれば声に出して。声に出すことができなければ心の中ででも結構です。
 実はそれが「御国を求め」(31節)る、神の支配を求めるということの始まりでもあると共に、神を信じる者たちの暮らしの中に、神の支配が始まることでもあるのです。
 
「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(12章32節)。
 
 「あなたがたの父のみこころ」(32節)とありますが、「みこころ」と訳された言葉は神の意志を意味します(1月26日日曜礼拝「祈りの精髄としての主の祈り? 『我らの父』のみ心すなわち神の意志の実現を願う」)。つまり、神の支配が神を信じる者たちの心と暮らしの中に実現することは神の意志なのです。
 
 以前、ある牧師さんから聞いた女性信徒の証しを思い起こします。その女性信徒は子供に恵まれませんでした。そこで決心をして、朝、夫を仕事に送り出した午前九時からをデヴォーションの時間とし、この時間は電話が鳴ろうと、玄関のチャイムが鳴ろうと一切無視して、神に祈ることに決めたのです。祈祷の課題はもちろん、子供を授けてくださいというお祈りでした。
 
 しかし、日が経つにつれて、神との交わりというデヴォーションそのものが喜びとなり、いつしか子供のことを祈らなくなってしまったというのです。そして、神との交わりそのものを楽しんでいたある日、彼女は自分の身に妊娠の兆候を発見したというのです。
もちろん、子供を授かりたいという願いが第二、第三であるとは思えません。それは切実な願いであったと思います。しかし、彼女の中で第一のものが自然に第一になっていったとき、時が満ちて彼女に必要なものが与えられたのだと思われます。
 
「御国を下さること」(32節)、すなわち神の支配が信じる者の日々に実現することは、私たちの「父のみこころ」(同)、すなわち意志です。
 
それはまた、いと小さき存在である者たちへの約束でもありました。当時のイエスの弟子たちはまさに「小さい群れ」(32節)でした。絶対的少数者でした。誰が、彼らの活動が人を変え、世界を変え、宗教や文化のみならず、文明のありかたにまで多大なる影響を与えるであろうと想像したでしょうか。
 
しかし、それはキリスト教会の勢力の強大さを言っているのでありません。私は時々、ネームレス運動の提唱者であり、個人伝道法「心と心の伝道」の開発、そして普及者であった故豊留真澄先生を思い出します。
 
豊留先生は小学校五年生の時だったか、伝道者であった父親と共に渡米し、戦後、南カリフォルニア大学で自然科学を専攻し、その後、ユニオン神学校で神学のドクターを取得したそうです。
研修会の折り、食事を共にしながらなぜユニオン神学校に行ったのかと聞いたところ、とにかく米国で当時、最高の学校を目指したのだと答えてくれました。日系人がとにかく差別されていた時代だったのです。
 
しかし、そこでイエス研究に打ち込んだ豊留先生は、福音書におけるイエス自身から強烈な影響を受けたようです。そして世俗的な成功や栄光に背を向けて、いと小さきひとりの人に救い主を紹介する伝道方法を考案しました。それが「十字架物語法」という個人伝道法でした。
 
科学者でもあった先生の思考は極めて論理的であって、筋が通っているからこそ頭には分かり易く理解され、心にも自然とイエス・キリストという存在が浸透していくという伝道法でした。
 
前にもお話しましたが、その豊留先生から教えられたものにキリスト教徒とクリスチャンは異なったものだという話がありました。
英語ではキリスト教は「クリスチャニティ」ですから、キリスト教徒とはその「クリスチャニティ」を信じる人である、だからそれは「クリスチャニティアン」であって、キリストを信じるクリスチャンとは似て非なる者であるという説明には、成る程と思わせられました。
そういう観点から言いますと、イエス・キリストではなく、キリスト教という宗教を信奉するキリスト教の教会、またキリスト教国が異教徒に行った残虐な行為は、キリストの教えとは無縁です。
 
毎週土曜日午後六時からテレビ大阪で放映されている「137億年の物語」において描かれた、キリスト教会が行った魔女狩りや、キリスト教国が十字軍によってイスラム教徒に行った残虐悲惨な行為は歴史的事実です。
西暦三九二年のローマ帝国におけるキリスト教の国教化は、キリスト教の勝利などではなく、教会の腐敗の始まりであったと思います。
 
イエスが「御国」すなわち神の支配の到来と実現を約束した「小さい群れ」(32節)と、今日、何十億もの信者を獲得して世界を動かす大勢力となったマスとしてのキリスト教会、キリスト教国とも無縁です。
 
イエスが「恐れるな、小さい群れよ」(32節)と励ました羊たちの群れにこそ、神の支配が始まり、そして実現していくことは、「父のみこころ」(同)すなわち神の意志なのです。豊留先生が大教会に背を向けて、小さな規模の教会を愛したのは、先生がイエスの弟子であったからだと思われます。
 
その神の意志が今、私たちの中に始まっていることを感謝したいと思います。