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2014年3月9日日曜礼拝説教「叶えられる祈りとは? 時に失望という感情に抗してでも祈り続けることが肝要である」ルカによる福音書18章1~8節

14年3月9日 日曜礼拝説教

「叶えられる祈りとは? 時には失望という感情に抗してでも祈り続けることが肝要である」
 
ルカによる福音書18章1~8節(新約聖書口語訳120p)
 
 
はじめに
 
気持ちが沈んで無気力になってしまう状態を「鬱(うつ)」といいます。
 
この「鬱」という漢字の書き方が以前、ネットで広まりました。「リンカーンは(わ)アメリカンコーヒーを三杯飲む」というものです。
 
まず林という漢字の木と木の間に缶を入れて「リンカーン」です。その下に部首のワカンムリで「は(ワ)」、その下の左側に米じるし(※)で「アメリカン」です。アメリカは漢字では亜米利加、つまり米国だからです。
 
※の下には「コーヒー」の「コー」で、カタカナのコを時計回りに九十度右に回した、部首のかんにょう、うけばこを書き、さらにその下にカタカナの「ヒ」で「コーヒー」、そして「三杯飲む」で右側にちょん、ちょん、ちょんと部首のさんづくりを置いて完成です。
 
誰が考え出したのかはわかりませんが、二、三回練習すると、いつでもどこででも書けるようになりますので大変便利です。考案した人は表彰状ものかも知れません。
 
でも、鬱病となりますと、これは体験した者でないとわからないそうですが、本当に苦しいもののようです。
 
もしも医療機関でうつ病という診断が下された場合には、薬剤やカウンセリング等によって適切な治療を受けることが必要です。
その際、善意からであってもまわりが「がんばれ」などと励ますことは厳禁です。況してや「悪の霊よ、出て行け」などと祈ることはとんでもないことです。うつ病と霊の働きとは何の関係もありません。大切なのは苦しんでいる人の心の痛みや苦しみに寄り添いつつ、密かに祈ることでしょう。
 
しかし、大きな問題にぶち当たっていて、そのために気持ちが落ち込んでしまっているような場合、つまり一種の鬱状態になっているような場合、どうも意欲が湧かない、無気力になってしまうという場合は、周囲の理解と助けを借りながら問題に取り組むこともまた、打開への一歩です。
 
そしてイエスはその譬えの中で、もう駄目だと思ってしまうような場合、途方に暮れて祈る気力もなくなってしまったという時、「失望しないで祈る」ようにと勧めました。
 
これは私の想像ですが、イエス自身が失望もし、その失望状態の中から立ちあがって目標に向かって前進するという経験を数多く重ねてきたのではないかと思うのです。
 
そう考えますと、今週取り上げる譬えは、イエス自身の経験が裏付けなっているのではないかと思われます。
 
今週は先週に続いて「叶えられる祈りとは」の二回目、今週もイエスが語られた譬え話からです。
 
 
1.時には失望という難敵をねじ伏せてでも、願い続けることの大切さをイエスは強調した
 
 あくまでも想像ですが、自らに与えられた使命の重大さと、豊かな感受性という資質、そして置かれていた環境から、イエスほど失望という経験を味わった者もいないのではないかと思います。
そしてイエス自身の経験から語られたと思われる教えが、今週取り上げる譬えではないかと想像してしまいます。
 
時期は定かではありませんが、受難が待ち構えるエルサレムへと向かう途次なのか、イエスは失望という難敵をねじ伏せてでも、願い続けることの必要性を人々に説きました。
 
「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬えで教えられた」(ルカによる福音書18章1節 新約聖書口語訳120p)。
 
 能力においても、そして感情の面においても人は弱い者です。とりわけ失望、あるいは失望感という敵の前では敗北を喫してしまいがちです。
 
だからこそイエスは、「人々に」対し、「失望せずに常に祈るべきことを」(1節)強調したのでした。
 
この「失望せずに常に祈るべきこと」と訳された部分は、新改訳では「いつも祈るべきであり、失望してはならないということを」、新共同訳は「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを」と訳し、文語訳では「落胆(きおち)せず常に祈るべきことを」と訳されていますが、口語訳と新改訳が「失望」と訳し、新共同訳が「気を落とさずに」と訳した原語は「疲れて嫌になる」とか「怠惰になってしまう」という意味の言葉です。
 
つまり、疲れて嫌になってしまうことなく、怠けてしまうことなく、答えられるまで祈り続けよ、という勧め、それがイエスの教えでした。
 
 私たちは希望があれば頑張ることができます。しかし、未来に対して希望を失うと、生き抜く力をも失います。
 
 精神科医のヴィクトル・フランクルは、ナチスの強制収容所、ドイツ占領下のポーランド南部に設置された、あの悪名高きアウシュヴィッツ収容所における自身の体験を記録した「夜と霧」において、失望することの苛酷さ、悲惨さを報告します。
 
これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信じることのできなかった人間は収容所の中で滅亡していった。未来を失うとともに彼はその拠りどころを失い、内的に崩壊し、身体的にも心理的にも転落したのであった(ヴィクトル・E・フランクル著 霜山徳爾訳「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」179pみすず書房)。
 
 フランクルによれば、未来を信じることのできなくなった人々、つまり拠りどころを失った人々は深い失望感に陥った結果、心理的なダメージを受け、その心理的ダメージがさらに身体的ダメージを惹き起して、収容所の中で次々と亡くなっていったのだというのです。
 
 フランクルによれば、「大戦が終わる前年の一九四四年のクリスマスから翌年の新年との間の一週間で、かつてない程の大量の死亡者が出た」というのです。そしてその原因は何かと言えば、「悪化した栄養状態でもなく、伝染疾患でもなく、単に囚人の多くがクリスマスには家に帰ることができるだろうという根拠のない希望を持ったことにある。しかし、クリスマスが過ぎても変化は何一つ起こらなかった、そして失望や落胆が囚人を打ち負かしたのだ」と分析をしています。
 
 一方、人生から何ものも期待できないと考えた人々が収容所において次々と倒れていく中で、人生が自分を待っていると考えた人々は生き抜くことができたとも報告しています。
 例えば、ある人は外国に彼を待つ子供がいるということが、そしてある人には仕事が待っていた、だから人生を放棄することができなかったのだと。
 
 ある人は自分を待っている者などはいない、と言うかもしれません。しかし、たとえ、人生という収容所の外に誰も待つ者がないとしても、「天の父」は待っていてくれているのです。
 
 私たちにとって失望という感情は手強い敵、まさに難敵です。だからこそイエスは、時には失望という難敵をねじ伏せてでもこれに打ち克って、とにかく天にいます父なる神に向かって祈り続けよ、願い続けよと教えられたのでした。
 
 
.時には困難な状況そのものが、願い続けることによって打開されることもあるからである
 
ともすれば困難な状況下において失望しがちな私たちに対し、イエスはまたも譬えを持ち出して、祈ること、願い続けることを励まします。やもめと不義なる裁判官の譬えです。
 
「ある町に、神を恐れず、人を人と思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願い続けた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるであろう』」(18章3~5節)。
 
何とも乱暴な話しですが、当時はこれが現実だったのでしょう。もっとも、何処とは言いませんが、そんな裁判官がいる国は近隣にもごろごろありますが。
 
「神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官」(2節)とありますが、ユダヤの裁判は複数制ですから、恐らくは北部のガリラヤならばヘロデ王から、南部のユダヤならばローマから任命された「裁判官」ではないかと思われます。
 
彼はたびたび訪れて来る「やもめ」(3節)に「悩ま」(5節)された結果、「彼女のためになる裁判をしてやろう」(5節)とします。
 
興味深いのは「わたしを悩ます」(5節)と口語訳が訳した言葉です。これを新改訳は「うるさくてしかたがない」と訳し、新共同訳は「わたしをさんざんな目にあわす」と訳しましたが、その原語は「散々に殴る」という意味の言葉です。
 
私はテレビでよくボクシングの世界戦を観戦するのですが、たといパンチ力が強くてもディフェンスの下手なボクサーはよく瞼を腫らし、目の下に青痣をつくります。目の附近を散々に殴られるからです。その点、井岡はきれいな顔のまま試合を終えます。ディフェンスの技術が卓越しているからなのでしょう。
 
譬えの裁判官はやもめから殴られるのを嫌がっているようですが、まさか、かよわい非力のやもめが権力者の、しかも男の裁判官を物理的に殴ることは有り得ないでしょうから(そんなことをしたらすぐに暴行罪で逮捕、投獄です)、これは比喩です。
つまり、裁判官にとっては彼女の存在とたびたびの訴えが、あたかも散々に殴られるようなダメージをもたらしたというわけでしょう。
 
この結果、この裁判官は自己防衛のために、つまり自身の安穏な生活の保持のために、「彼女のためになる裁判」(5節)、つまり法律を曲げてでも彼女の有利になるような裁判「をしてやろう」(同)と心に決めるに至ります。
 
裁判といえば、先週、テレビの朝のワイドショーでびっくりするようなニュースが流れていました。親からその行跡を注意されたために家出を決行した十八歳の女子高生が、生活費と学資を払うようにと両親を訴えた裁判です。
その州では、親は十八歳未満の子供に対してはその義務はあるが、十八歳を超えた子供に対してはその限りではないそうで、全米が注目した裁判となりましたが、公開の裁判において裁判長長は、この件に関しては、親は払う必要がないという穏当な裁定を下しました。
訴訟社会アメリカもついにここまで来たかと慨嘆させるようなニュースでした。米国では以前、育て方が悪いといって親を訴えた子供がいましたが。
 
さて譬えの方です。譬えの中の「わたしは神をも恐れず、人を人とも思わない」と嘯いていた裁判官でしたが、やもめのしつこい訴えに根負けして彼女に有利な判決をくだそうという気持ちに追い詰められてしまいます。
そしてイエスはそこで、「まして神は」と、この譬えの趣旨を解き明かします。
 
「そこで主は言われた、『この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜、叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう』」(18章6~8節前半)。
 
 先週、譬えには類似法と対照法とがあると申しましたが、この譬えは真夜中にパンを借りにきた人の譬えと同様、「不義な裁判官」(6節)と「選民」(7節)の「神」(同)とを、対比として解釈する譬えです。
 
それが「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」(同)、放置しておくわけがないであろう、という結論です。
 
 イエスは「あきらめるな」と言われます。あきらめた段階で目の前に崩壊があるというのです。
 
 何で読んだのか、例話集で見たのか、それとも誰かの話の中にあったのか、スイスかドイツかで、ミルクのタンクに二匹の蛙が落ちたというのです。タンクの内側はツルツルしていて手がかりになりませんし、ミルクの中には足がかりになるような固形物はありません。二匹の蛙は共にもがき続けましたが一匹はもがくのに疲れてもがくのをやめ、間もなくミルクの中で溺れ死んでしまいました。
 
しかし、もう一匹はなおももがき続けたそうです。おたまじゃくしの我が子の行く末が心配で、「いま、ここで死ぬわけにはいかない」と思ったのかどうかはわかりませんが、とにかく必死になってもがいていたところ、数時間後、何と、後ろ足でかき回していたあたりのミルクが凝固してきて、バターのかたまり状になってきた、そして蛙はそのかたまりを踏み台にしてミルクタンクの中から外へと飛び出すことができた、という話です。
 
イエスは、あきらめないで願い続け、祈り続けているならば、時には困難な状況そのものが変化して、道が開かれるという場合もあるのだ、だから「失望せずに常に祈」(1節)り続けるようにと教えられたのでした。
 
ましてや私たちの祈りの対象は不義なる「裁判官」などではなく、「正しいさばきをしてくださ」(7節)る神さまです。「まして神は…そのままにしておかれることがあろうか」(同)。
ご自身を呼び求める者の叫びを神が放置する、そんなことは決してないのです。
 
 
3.望みを抱いて喜び、艱難に耐えそして常に祈り続けることをイエスは期待している
 
そしてイエスは弟子たちが生き生きとした信仰を持ち続けることを期待して、この譬えを締め括ります。
 
「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(18章8節後半)。
 
「人の子が来るとき」(8節後半)とは、イエスのもうひとたびの来臨、つまり再臨を意味すると思われます。
 
英国の神学者であるオスカー・クルマンは「救済史的終末論」という終末論を提唱した学者として知られていますが、彼はユダヤ教とキリスト教の違いを「時の中心」の置き方で説明します。
ユダヤ教においてはメシヤ・キリストはまだ現われていません。そこでユダヤ教はメシヤの来るべき来臨をもって「時の中心」とします。
 
これに対し、キリスト教は既に来たメシヤ・キリストの生誕、活動、十字架、復活という歴史的出来ごとを「時の中心」とする、そして現在はキリストの初臨といま一たびの来臨である再臨との間の期間であって、神の救済はすでに始まっているのだとします。穏当な学説だと思います。
 
ただ、この期間、つまり時の中心であるキリストの出来ごとから、今度は王の王、主の主としてキリストが来臨する間、果たしてキリストを信じる者たちに生きた「信仰が見られるであろうか」(8節後半)とイエスは案じているのです。
 
しかしだからこそ、イエスの意を享けた使徒パウロはローマの集会に対して励ましの言葉を送ったのでしょう。パウロは書き送りました、失望せず、希望を抱いて喜び、艱難、苦難に耐えて、祈りを絶やすことがないようにと。
 
「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」(ローマ人への手紙12章11、12節 249p)。
 
 三月の「叶えられる祈りとは」の第一週と第二週の説教を準備している時、しばしば聖歌の歌詞が心に浮かんできていました。聖歌の706番の5節です。
 
「もうだめだ」という時に 悪魔はすぐ付け込む
信じ抜かば勝利を得ん 祈り抜け 祈り抜け
勝ちを得よ 勝ちを得よ 主を信じて勝ちを得よ
ただ主を信じ 勇ましく 疑わで勝ちを得よ
(聖歌706番「エリコの城をかこみ」 5節)
 
 何とも勇壮な讃美ですが、たしかに「もうだめだ」という時に、「悪魔」すなわち主の祈りにおける「悪しき者」(マタイによる福音書6章13節)が「つけこ」んできます。
 
 ですから、「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈」(12節)ること、特に失望しないで「常に祈」ることが、生き生きとした「信仰」を保持し続ける秘訣です。
 
そしてそれこそが時の中心であるキリストの出来ごとと二度目の来臨の間を生きる私たちに対して、イエスが切に期待する一事なのです。