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2014年2月23日日曜礼拝説教「祈りの精髄としての主の祈り? 『国と権力と栄光とは永遠に神に帰属する』と告白する」歴代志上29章10~13節

14年2月23日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り?「『国と権力
と栄光とは永遠に神に帰属する』と告白する
  
歴代志上29章10~13節(旧約聖書口語訳602p)
 
 
はじめに
 
西暦二〇一四年の今年は第一次世界大戦の開戦百周年ということで、主戦場となったヨーロッパ諸国では歴史の見直し作業が行われているそうです。
 
この戦争は当初、「すべての戦争を終わらせるための戦争」と言われ、数か月で終わるものと予測されていたにも関わらず、終戦まで四年以上もかかってしまいました。
そしてその終結から二十一年後の一九三九年、第二次世界大戦が勃発し、これが終わったのは六年後の一九四五年でした。
 
二つの大戦で数千万人もの犠牲者を出したことから、国際社会は戦後、他国の領土への野心を武力によって成し遂げようとする行為、つまり侵略行為を厳しく糾弾してきました。
しかし、そんなことなど何のその、という国が日本の近くにあります。
 
二月は領土の帰属について考えさせられる月です。韓国の不法占拠が続く「竹島(島根県隠岐の島町)」の領土権確立を目指して島根県が九年前に制定した「竹島の日」は昨日の二月二十二日でしたし、ロシアに占領されたままになっている「北方領土」返還運動推進のために、国によって制定された「北方領土の日」は二月七日でした。
 
その二月七日に開幕したロシアのソチにおけるオリンピックは日本時間の今夜半に閉会となるようですが、七日の開会式に出席するためロシアを訪問した中国の首脳がロシア大統領に対して、「ロシアが尖閣を中国領と認めるならば、北方領土をロシア領と認めてもよい」という提案をし、これをロシアの大統領が拒否したなどという噂が広がりました。信憑性は定かではありませんが、あり得る話だと思います。
 
その中国は第二次世界大戦後、「戦後レジーム(体制)」という国際秩序を無視して、武力によって領土を広げた唯一の国でした。
強奪した領土はそれぞれ「内モンゴル自治区」「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」「チベット自治区」と呼称して、中国の一部に組み込んでしまいました。「新疆」の「疆」は領土という意味ですから、新しい領土というわけです。
 
唯一の国と言いましたが実はもう一つ、不法に他国の領土を奪った国があります。半島の隣国です。
この隣国は日本がサンフランシスコ平和条約という、戦後処理のための条約を連合国との間に締結をした翌年の、その条約が発効する直前に、日本の国力の疲弊状態をいいことに、日本の領土である「竹島」を盗み取って自国に編入してしまいました。
しかし後ろめたいものですから、六〇年以上経った今も、世界中で「竹島は自国の領土だ」と主張しています。
 
喩えれば、中国の行為が武装犯による押し込み強盗のようなものだとすれば、半島の方は隣家の住人が入院中に、家に勝手に入り込んで、隣人が大切にしていた宝石を盗み取ったコソ泥というところでしょうか。
 
地図でも何でも自国に都合のよいように書き換えてしまう中国ですが、その国が現今の地図の上で正しい表示をしている地域があります。北方領土です。中国が発行している地図には北方四島がロシアによって占領されているということが明示されているのです。
つまり、中国は現在、北方四島のロシアによる帰属を認めていなのです。ですから、それを切り札にしてロシアに取引を持ちかけたという話になるわけです。
 
しかし、「尖閣」は日本の沖縄県に帰属している島であり、「竹島」は島根県に帰属している島です。そして「北方四島」も戦後の六十九年間、ロシアに不当に支配されてはいますが、日本国に帰属している領土です。
 
一月の第一週から行ってきた、連続説教「主の祈り」も、今週でいよいよ最後となりましたが、最終回の今週の主題は、正しい「帰属」についてです。
 
 
1.この世の国と権力、そして栄光は、神にのみ帰属する
 
 「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」は、神に関する三つの祈願と、人の必要についての三つの祈願で構成されており、最後は「国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり アーメン」で閉じられます。
 
「アーメン」は「真実です」「本当です」という同意を意味するヘブライ語ですが、発音は万国共通で、ギリシャ語もラテン語もだいたい「アーメン」です。ゴスペルなどでは「エイメン」と英語式に発音したりすることもあるようですが。
 
ただ、この最後の言葉「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」は、イエス由来の「主の祈り」にはありません。古代教会の礼拝式形成の中で「主の祈り」が唱えられる際に加えられた、神を称える讃美、祈り、あるいは告白と考えられています。
 
では、何を基にしているのかということですが、学者によりますとダビデ王の祈りが基になったのではないかということです。
紀元前千年にイスラエル十二部族を統合して統一イスラエル王国最初の王となったダビデの悲願は、自らの手でモーセの幕屋に代る本格的な神殿を造営することでした。
 
しかし、神殿建築の役割はダビデではなく、その子ソロモンに与えるというのが神の意志であることを悟った彼は、神殿建築のための莫大な資金、膨大な資材を後継者であるソロモンのために集める作業に取り組み、そのすべての準備が整った後に、全会衆の前で神を称えます。
 
「そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、『われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。』」(歴代志上29章10、11節 旧約聖書口語訳602p)。
 
 ダビデはここで「大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです」(11節前半)、「国もまたあなたのものです」(同後半)と告白することによって、イスラエルの神が、地上の王国の支配者である王を遥かに超える存在であることを、声高らかに宣言します。
 
「国」(同後半)とありますが、この場合の「国」とは第三祈願の「御国(神の国)のことではなく、地上の国々や統治そのものを指すと思われます。 
 
かつてこの地上世界には、強大な政治力、軍事力そして経済力を誇った国々が、あるいはその統治者が、「力」(同前半)すなわち「権力」と「勝利」(同)、そして「栄光」(同)と「威光」(同)を自らに帰したりもしましたが、「国と力と栄えとは、…汝(なんじ)のもの」(祈祷文)である、すなわち、それらは本来、天地万物を創造した神にこそ帰属するのだということを強調したのが、「主の祈り」の末尾の告白でした。
 
 勿体なことですが、私たちはそのような偉大な神に向かって、個人的に「父よ」と親しく呼び掛け、また神の家族と共に「われらの父よ」と呼ぶことが許されているのです。
 
「祈るときには、こう言いなさい。『父よ』」(ルカによる福音書11章2節前半 新約聖書口語訳106p)。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ」(マタイによる福音書6章9節前半 8p)。
 
 改めて、心より「われらの父」なる神を誉め称えたいと思います。
 
 
2.この世の国と権力、そして栄光は、永遠に神に帰属する
 
しかも、その「国と力と栄えとは、限りなく」(祈祷文)、永遠に「われらの父」なる神に帰属しているのです。
 
「ダビデは言った、『われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです』」(歴代志上29章10節)。
 
 目に見えるものには終わりがあります。どんな威光も誉も廃れていきます。そのことを誰よりもよく知っていたのが日本人であるからこそ、「平家物語」の冒頭が多くの人に親しまれてきたのだろうと思われます。
 
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 
諸行無常(しょうぎょうむじょう)の響きあり 
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 
盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 
偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ
(平家物語)
 
 古人はその経験から、永遠なるものはこの世には存在しないということを知っていました。どれほど「力」すなわち権勢を誇り、権力を振るったとしても「たけき者もついには滅びぬ」となるからでした。
 
しかし、「天にいますわれらの父」(マタイ6章9節)は違います。その支配は永遠であり、限りがありません。
 
因みに神学において神の属性を説明するのに「永遠性」「無限性」という用語を使いますが、「永遠性」とは時間的な面で限界がないことを、そして「無限性」とは空間的占有において限界がないということを意味します。
 
そういう意味で祈祷文の「主の祈り」が、「国と力と栄えとは限りなく」、つまり時間的に永遠から永遠まで「汝のもの」であるという告白で締め括くられていることは、これを祈る者に対して大いなる安心を与えます。
 
どんなに一生懸命祈り、心を込めて信頼を寄せたとしても、神に帰属している筈の「国と力と栄えと」がもしも一時的なものであったり、変化するものであれば、安心してはいられないからです。
 
でも、安心してください。「天にまします我らの父」は「限りな」(祈祷文)き存在、永遠のお方なのです。
 
「万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン」(ローマ人への手紙11章36節)。
 
 
3.全世界の誰もが、この神に帰属する恵みの道が開かれた
 
 そして、何よりも有り難いのは、このすべての「国」、あらゆるクラスの「力」、そして究極の「栄え」が帰属している至高の神に、地上の誰もが帰属することが可能となるという、そういう道が開かれるようになったこと、そしてその道を紹介する特権が、「主の祈り」を祈る者たちに与えられているということが明らかになっていることです。
 
この「我らの父」の権能と栄光をその身に委ねられた唯一のお方が復活のキリストです。イエス自ら、弟子たちに対して宣言をします。
 
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた』」(マタイによる福音書28章18節 50p)。
 
 そして続けて言われます、私は父なる神から授けられた権威に基づいてあなた方に使命を与える、行って、すべての国民を私の弟子とせよ、私の弟子とすることによって、神を父と呼ぶことのできる立場に導き、そして「主の祈り」を祈ることが出来る者とせよ、と。
 
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(28章19、20節前半)。
 
 口語訳ではここでイエスが三つのことを指示したように読めますが、正確には新改訳や新共同訳が訳しているように、「すべての国民を弟子と」(19節)することが中心です。
 
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(同 新共同訳)。
 
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子にしなさい」(同 新改訳)。
 
 そして、人がイエスの「弟子と」なるにあたっての目に見える信仰告白である「バプテスマを施」(同)すこと、つまり洗礼を授けるということ、そして、新たに弟子になった者に行う信仰教育を意味する「教え」(20節前半)を施すことがそれに続くのです。
 
 もちろん、「バプテスマ」は絶対的に授けなければならなものかと言いますと、そうではありません。十字架の上で回心したテロリストは「バプテスマ」を受けずに神の国という「パラダイス」に入れられました(ルカによる福音書23章43節)。
しかし、通常の場合、イエスを主と告白すると、誰でもその次に、信仰告白としてのバプテスマを受けたくなるものです。ですから、あとは機の熟するのを待てばよいのです。
 
 また、信仰によってイエスと繋がりますと、イエスについて、神の国について、信仰について、信仰生活についての「教え」を学びたくなってくる筈です。聖書を知りたくなり、聖書の解き明しである説教を聞くため、教会の日曜礼拝に出席したくなっていきたくなるものなのです。
 
諸事情によりどうしても教会での礼拝に出席することのできないという方々のためには、礼拝説教を味わうことができるようにと、私たちの教会では教会のホームページに日曜礼拝説教の全文を掲載しております。
 
 
そういう方々には教会のホームページを訪問するようにと案内をしてあげてください。
イエスの弟子になって神に帰属し、イエスの弟子のしるしである「主の祈り」を祈るという特権を得る道は、すべての人に開かれているのですから。
 
ところで、二千年に、日本のローマン・カトリック教会と聖公会とが協議して制定、採用した口語訳の「主の祈り」では、「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」となっています。
最後はシンプルに「あなたのものです」と、最後の言葉は神を称える讃美であると共に、偉大なる神への信仰告白という体裁となっています。
これはこれで、ひとつの見解の帰結として尊重したいと思います。
 
しかし、私たちプロテスタントの祈祷文では、「汝のものなればなり」つまり、「あなたのものだからです」という表現になっています。この「なればなり」「だからです」という用法は、根拠や理由を示す場合に使われる言い方です。
 
ということは、「主の祈り」がプロテスタントの祈祷文となる段階で、神に関する三つの祈願も、そして人の必要のための三つの祈願も、それらが単なる願いとして虚空に消えてしまうものではなく、確かに「天にいますわれらの父」に届く確かな祈願であるということを確信させるために、生みだされた表現なのかも知れません。
 
 そしてもしもそうであるならば、弱い私たちもまた「主の祈り」を祈るとき、すべての国、すべての権能、すべての栄光は「我らの父」に帰属している、だからこそ、これらの六つの祈願すなわち、神に関する三つの祈願と人の必要を求める三つの祈願は、必ず神に届いているのだという確信をもって祈ることができるのです。
 
年のはじめから八回にわたって続けてまいりました「主の祈り」の連続講解説教を締め括るにあたり、改めてご一緒に心を込めて告白を致しましょう。
「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と。