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2014年2月2日日曜礼拝説教「祈りの精髄としての主の祈り? 『我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え』と祈る」マタイによる福音書6章12節

14年2月9日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り?「『我らが
赦す如く、我らの罪をも赦し給え』と祈る」
 
マタイによる福音書6章12節(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
先月の半ば、大阪に出る用事があったので、その帰りに妻と共に百田(ひゃくた)尚樹原作の映画「永遠の0」を梅田の映画館で観てきました。
 
感動しました。もう一度、観たいと思いました。映画を観てすぐにもう一度観てみたいと思った映画作品は、あまり記憶にありません。
 
「永遠の0」の「0」は大日本帝国海軍が誇った零戦(正式名称「零式(れいしき)艦上戦闘機」の「0」を指すと思いますが、もしもそうであるならば、タイトルに込められた意味は「零(ゼロ)戦よ、そして零戦のパイロットよ、永遠なれ」ということなのかも知れません。
 
 この映画を観終わって、これは戦争の惨たらしさと特攻という作戦の理不尽さ、空しさを描いた反戦映画で、しかし同時に当時の日本人が持っていた魂の気高さ、清らかさを謳った作品ではないかと思わされました。
 
 ふつう、映画のラストのクレジットが映し出されると、観客は一斉に立ち上がって出口に向かうのですが、この映画ではほとんどの客が最後まで席に座っていたのが印象的でした。それだけ、感動が深かったからかも知れません。
 
わたしが観たのは午後5時という中途半端な時間でしたので、規模も小さな劇場で、観客も大学生のような感じか、年配のカップルのようでしたが。
 
ただ、最後の歌は桑田佳祐ではなく、森山直太朗の「さくら(独唱)」であって欲しかったというのが、私の個人的な感想でした。桑田は声も歌い方もどうも好きになれません。フアンの方には申し訳ないですが。
 
岡田准一(彼はジャニーズに入るまで枚方に住んでいたそうです)が演じる主人公、臆病者と言われながらも生き抜いて、自分を待つ妻と幼子の許に帰ろうと思っていた天才パイロットの宮部久蔵は、戦争末期に至って、自ら零戦による特攻を志願します。
しかも、自分が搭乗する筈の零戦の新型(五四型)のエンジンの不調を見抜くと、後輩が乗る予定の旧型(二一型)との交代を申し入れます。それはエンジンが不調ならば、途中で不時着するかして、後輩が死なずに済むようになるからです。こうして後輩は宮部久蔵の配慮で生き延びることになるのですが、旧型に乗った宮部久蔵は生きては帰らぬ死出の旅へと出撃します。
 
最後は、原作では敵空母への体当たりに成功はするのですが、抱えていた爆弾が不発であったため、ダメージを与えることができず、犬死かと思わせます。
しかし米側の艦長は、彼らの心胆を寒からしめた宮部久蔵という零戦乗りの卓越した技術と勇敢さを称えて、彼の遺体を敬意を込めて水葬に付すという場面が原作にはあるのですが、映画では狙った敵艦から雨あられと放たれる砲弾、銃弾をことごとくかわしながら、まさに体当たりする寸前の岡田准一、ではなく宮部久蔵の顔のクローズアップで突然終わります。
 
映画を観終わったあと、主人公が、家族の許に生きて還る機会を敢えて放棄してまで、なぜ生きて還れぬ特攻を志願したのかについて考えさせられました。
 
推測ですが、若いパイロットたちの指導教官として多くの教え子を特攻として死地に送り出しながら、ひとり生き延びている自分に負い目を感じていて、だからこそ、そういう自分を赦すことができず、断腸の思いで必死の特攻を選んだのかも知れません。もしもそうであるならば、あまりにも純粋であり、そしてあわれですが、とにかくいい映画でした。竹野内豊主演の「太平洋の奇跡」もいい映画でしたが。
 
もうおわかりかと思います。今週の礼拝説教の主題は「負債」の解決、「負い目」からの解放ということです。
 
 
1.「我らの罪を赦し給え」との祈り、それこそが神の恵み
 
「主の祈り」の後半は人の必要についての三つの祈願であって、二つ目の祈願が「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」です。
 
これは、「日用の糧」「日ごとの食物」を求める第一の祈願が現在の必要を祈るものであるのに対し、第二の祈願は過ぎ去った時代における負い目、負債の清算を願う祈願です。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、…わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイによる福音書6章9節前半、12節 新約聖書口語訳8p)。
 
 まず最初に後半の、祈祷文では「我らの罪をも赦し給え」、マタイの、口語訳では「わたしたちの負債をもおゆるしください」(12節)について教えられたいと思います。
 
 口語訳では「負債」と訳され、新共同訳では「負い目」、新改訳では「負いめ」と訳された言葉は借金を意味する言葉であって、その動詞形は「借りる」です。
 
では祈祷文ではなぜ「負債」が「罪」となったのかと言いますと、「主の祈り」の原型と考えられているルカで使用されている言葉が「罪」だったからではないか、と思われます。
 
「わたしたちの罪をもおゆるしください」(ルカによる福音書11章4節 106p)
 
 ルカで使用されている原語は、罪を意味する「ハマルティア」です。そして「ハマルティア」の本来の意味は「的外れ」ということであって、人は神という的を外して道に逸れている、それが「罪」であるという理解によりました。
 
 もう一つ、罪が「負債」とされ、「負い目」とされたわけは、「負債」は清算されない場合、相手に対して大きな損害をもたらすからでした。
そして、人は神との関係において、大抵の場合、神との約束を破り、その結果、神の心を大きく傷つけてきたのです。つまり、神に対する「負債」は返済されるどころか、蓄積する一方だったのです。
ですから、罪の赦しを求めるということも中身は、「負債」の帳消しを求めることと一緒でした。
 
神に対して「負債」感を持っている者、「負い目」を感じている者は、イエスにより、ただただ謙って、「我らの罪を赦し給え」「わたしたちの負債を」「おゆるしください」(12節後半)と祈ることが許されることとなったのでした。
そいて、そういう意味において、「我らの罪を赦し給え」と祈ることができるのは、まさに大いなる恵み、驚くべき祝福であったのです。
 
 但し、一つ問題がありました。それは、この祈願を祈る際、自分自身が罪あるいは負債を持っているという事実を認識することが求められるのですが、原罪の影響下にある者は素直に自分の罪、あるいは負債を認めることができないのです。そしてその代表的な例が罪を犯した直後のアダムとエバでした。
 
 人類の祖であるアダムは、エデンの園における神との約束を破って、「取って食べてはならない」と言われていた善悪を知る木の実を食べたあと、神の問いに対して責任を妻に転嫁します。
 
「人は答えた、『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです』」(創世記3章12節 旧約聖書口語訳3p)。
 
 アダムは答えます、「神様、ご指摘の通り、確かに『私は食べましたよ』(12節)、それは間違いありません。けれどもそれは『あの女が、木から取ってくれた』(同)からであって、しかも『あの女』は神様、あなたが『わたしと一緒にし』(同)た女です」と。
 
つまり、悪いのは「あの女」であり、「あの女」を私にあてがったあなたです、私は悪くはありません、というわけです。
 これが原罪を持つ人間の姿でした。
 
そしてエバもまた夫同様、自らが原罪の影響下にあることを露呈しております。エバの場合は責任を蛇になすりつけます。
 
「女は答えた、『へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました』」(創世記3章13節後半)。
 
 人が神に対し、罪の赦し、負債の帳消しを求めるには、まず、自らの罪を自覚すること、神に対して大きな負債、負い目を負うている者であるという認識を持つことが肝要なのです。
 
 言うなれば、自らの罪をきちんと意識し、心から自らの非を悔いて、神に赦しを乞い願うということ、それこそが神の尊い恵み、神からの贈り物なのです。
 
 
2.「我らが赦す如く」は条件か、それとも結果なのか
 
戸惑うのはこの祈願の前半の、祈祷文では「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」という言葉です。
 
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、」(6章12節前半)
 
 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」(12節) 実は真面目な人ほど、誠実であろうとする人ほど、この前半の言葉「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」があるがために、第二の祈願を祈ることを逡巡してしまうということがあるようなのです。
 
 それはルカになりますと、より明確です。
 
「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」(ルカによる福音書11章4節前半 106p)。
 
「ゆるしますから」と、ルカの方の第二の祈願の場合、人をゆるすことが神からのゆるしを得るための必要条件であるかのようにもとれます。ということは、その人に「負債のある者を皆ゆる」(14節)さない限り、その人は神に向かって罪のゆるしを祈ることができないということになります。
 
法治国家である我が国においては、何らかの損害を受けた場合、法的手続きを経て、損害賠償を請求する権利が保証されているのですが、何らかの被害を受けていて、国民の当然の権利として民事訴訟を起こしている人の場合など、訴訟に決着がつくまで、この第二祈願を祈ることはできなくなるのでしょうか。
あるいは自分の罪を神様から赦していただくために、訴えを取り下げることが必要なのでしょうか。
「主の祈り」を弟子たちに教えた直後、イエスはこの第二祈願を敷衍するような教えを語ります。それは人のあやまちをゆるすならば神から赦されもするが、人を赦さなければそういうあなたを神も赦さないであろう、というものでした。
 
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし人をゆるさないなら、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう」(6章14、15節)。
 
 こうなりますと、この教えを文字通りに実践できるような人は限られている、と言うことになってしまいます。しかし、いることはいるでしょう。芥川龍之介の場合、キリスト教伝説を素材にして書いたと思われる「奉教人の死」という短編は、「人々のあやまちをゆる」(14節)して死んでいった一人のキリシタンを主人公にしたものでした。
 なお、「奉教人」とは「教えを奉じる者」ということで、キリスタンのことです。
 
時代はおそらくは十六世紀末、場所は長崎、「さんた・るちあ」という教会に、行き倒れ寸前で保護された「ろうれんぞ」という名の美貌の少年がおりました。三年後、信徒である傘張りの家の娘が彼に心を奪われて、想いを告げるのですが、彼は相手にしません。しかしその後娘は妊娠をし、子の父親は「ろうれんぞ」であると父親に言ったというのです。そして彼は教会から追放され、今でいうホームレスになります。
 
やがてその娘は女の子を生みますが、ある日、娘の家が火事になり、幼子が火の中にとり残されるという事態になりました。その時、燃える火の中に飛び込んで幼子を助け出したのが「ろうぜんぞ」でした。人々はみな、やはり、親の情がなしたのであろうと言いたてます。
 
結果、幼子は九死に一生を得て命が助かりますが、「ろうれんぞ」はというと、息も絶え絶えの状態で火事の現場から「さんた・るちあ」に運ばれます。そして娘が告白します、幼子は隣家の「ぜんちょ(異教徒)」と密通して設けた子である、と。瀕死の「ろうれんぞ」はというと、口をきくこともできず、娘の告白にただうなずいて見せたといいます。
そして、突如、足元に横たわる「ろううれんぞ」の見た伴天連(ばてれん)が叫ぶのです。「ろうれんぞは女じゃ」と。
 
見られい。…御主(おんあるじ)「ぜす・きりしと」の御血潮より赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちあ(註 教会の名称)」の門(かど)に横たわった、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のように露(あらわ)れているではないか。…おう、「ろうれんぞ」は女じゃ。「ろうれんぞ」は女じゃ。…奉教人衆、邪淫の戒を破ったによって「さんた・るちあ」を逐(お)われた「ろうれんぞ」は、…まなざしのあでやかなこの国の女じゃ(芥川龍之介作「奉教人の死」)。
 
芥川龍之介も作品の終わりで示唆しているのですが、この話はイタリヤ・ジェノバの大司教であったヤコブス・デ・ウォラギネという人がまとめた「黄金伝説」という説話集に収められている説話を下敷きにしているそうです。
ウォラギネがまとめた「黄金伝説」では、疑いをかけられたマリノスという青年修道士が、実は女性のマリナであったということが、その死後、わかる、ということになっています。
 
娘の人生を慮って一切の弁明もせず、またおのれを非難する者たちを恨むこともせず、娘の「あやまちをゆるして」、罪のない幼子のためにその命を捨てた「ろうれんぞ」こそ、この祈願を祈る資格のある者であったといえるかも知れません。
 
しかし、「ゆるすならば、…あなたがたをゆるしてくださる」(14節)、「ゆるさないなら、…あなたがたのあやまちをゆるしてくださらない」(15節)ということになりますと、「ろうれんぞ」ならぬ平凡な私たちは、もうお手上げということになってしまいます。
 
 では、「ゆるしましたように」(マタイ)、「ゆるしますから」(ルカ)、「赦す如く」をどう解釈するのかということについて、聖書註解者として名高い榊原康夫牧師の説教が参考になるかと思います。
 
榊原牧師はマタイによる福音書の連続講解説教において、「ゆるしましたように」(12節)という言葉は、「『ゆるしましたから』という手柄を誇る文章ではなく『ゆるしましたと同様に』という比喩にすぎ」ず、「人と人との間の貸し借りをゆるすのに大変なあわれみを要する『ように』そのような一方的あわれみをもってゆるしてください、と祈るのです」と説明します(マタイ福音書講解-上巻-198p 小峯書店)。
 
 つまり、これは結果と原因とをひっくり返して言葉の意味を強めレトリック(修辞法)であって、人をゆるせるのは神からゆるされた結果なのだというわけです。そして「暑い、寒い」という感覚と、たとえば「二五度」という寒暖計に表示された実際の温度を例にあげて説明をします。
 
普通わたしたちは部屋の寒暖計を見て、「今日は暑いはずだ、二五度もあるから」とか、「五度しかないから寒いわけだ」などと申します。厳密に言えば、これはとんでもない間違いで、「暑いから二五度まで水銀柱がのぼった」のであり、「寒いからこそ、五度までしかのぼれなかった」のです。このように結果と原因をひっくりかえして言葉の意味を強めることが、たびたびあります。今の場合もそのとおりであって、ほんとうは、人をゆるせたのは神からゆるされた結果にすぎません。(上掲書198p)。
 
 もしもそうであるならば、「人のあやまちを赦すことも出来ない罪深いこの者を、大いなる憐れみをもって赦してくださる神の寛容を信じます。また、この不寛容な罪深い者も、人のあやまちをゆるすことができる者にしていただけることを信じます」という思いを込めて祈ることによって、第二の祈願を感謝をもって祈ることが可能となるのではないかと思われます。
 
 
3.「我らの罪」を赦すために、尊い救い主が来られた
 
 そして、私たちが「主の祈り」を、とりわけ、人に関する祈願の二つ目を大胆に祈ることができる根拠が、「我らの罪」を赦すために、尊い救い主がこの世に来られたこと、そして十字架にかかることにより、また墓からよみがえったことによって、罪の赦しのための法的手続きの一切を完了してくださったという事実にあるということを、常に覚えておきたいと思うのです。
 
 法的手続きの一切の完了とは、人が神に負うている莫大な負債、負い目の清算、つまり借金が帳消しになったということです。
 
 そして、このことを身を持って教えてくれた人物が、イエスと共に十字架にかけられたテロリストのひとりでした。
彼は、恐らくはユダヤ独立運動家として活動しているさ中に、過激な行動に出てローマの官憲に逮捕され、十字架刑に処せられることとなったのであろうと思われます。
 
しかし、彼はそこで、明らかに無実でありながら自らの義、正当性を主張することなく、憎んでも余りある筈の敵のために神に執り成しの祈りを心から捧げる人物を目の当りにします。そして驚愕をします。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節前半 131p)。
 
 イエスの祈りを聴き、そしてイエスを見つめていたこのテロリストの内側に一つの変化が起こってきました。自分こそ、罪びとであったという罪の自覚です。
 
彼はイエスを罵倒してやまないもうひとりのテロリストに向かって、「お前も俺も、今、自分が犯した罪の当然の報いを受けているのだ」と言って窘めると共に、イエスに対しては態度を改めて、「私のような罪びとは地獄以外の行き場はありませんが、私は今、これまでの自分の行為を心から悔いています。あなたさまがいつの日か、神のメシヤとしてこの世に君臨された暁には、人生の土壇場に至ってやっと気がついた男がいたことだけでも思い出していただけたら、私は幸せです」と告白をする程に変化をします。
 
そして、その男に向かい、今さら遅いなどとは言わず、「そういうお前を私は今、神の国へと連れて行く」と宣言したのが救い主のイエスでした。
 
「イエスは言われた、よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(23章43節)。
 
自らを莫大な「負債」「負い目」の持ち主としてそのことを素直に認めて、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」と祈る者の日々に、イエスは救い主として来られ、そして祈るごとに、心に平安を与えてくださる筈です。ほんとうにありがたいことです。