【お知らせ】2024年3月より、寝屋川市錦町に移転しました。

2014年1月26日日曜礼拝説教「祈りの精髄としての主の祈り? 『我らの父』のみ心すなわち神の意志の実現を願う」マタイによる福音書6章10節後半

14年1月26日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り?「我らの父」のみ心すなわち神の意志の実現を願う」
 
マタイによる福音書6章10節後半(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
キャロライン・ケネディ駐日米国大使が今月の十八日、短文投稿サイトのツイッターで、「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」と投稿して物議を醸しておりますが、「深く懸念」するのはむしろこの人の大使としての資質であり、この人を大使として日本に送り出した米国政府の姿勢であるのではないかという声もあります。
 
確かに、この人は和歌山県太地町の「イルカの追い込み漁」をどこまで研究して非難しているのか、日本の伝統文化を理解した上での発言なのか、特に「非人道性について深く懸念して」いると言っていますが、小型クジラの一種であるイルカの沿岸捕鯨は日本が加盟している国際捕鯨委員会も認定をしており、追い込み漁も規制の対象外であることを知っているのでしょうか。
 
特に、小型クジラであるイルカの漁と「人道」にどんな関係があるというのでしょうか。「人道」の対象はあくまでも人間であって、クジラ類は関係ありません。イルカは知能が高いから、と言うのであれば、それこそ、知能の高さで優劣を分別したナチスの論理への追随です。
また、残酷云々というのであれば、米国人が食べたり輸出したりするために無残に「殺される」数千万もの牛や鶏についてなぜ「懸念」しないのかということになってしまいます。
 
何よりも「米国政府は」と、米国政府の意向を代言しているかのようですが、何でこの微妙な時期に、無神経にも文化の問題を論(あげつら)うのか、この人は外交というものが全くわかっていないのではないかという声もあがっているようです。
 
外交に関して素人、という点では前任のジョン・ルースも同じですが、しかし前任者は日本の歴史や文化を正確に理解しようと努めたようですし、その結果、米国政府代表として初めて広島平和祈念式典に出席し、また米国大使として初めて長崎の祈念式典にも参加するなど、任地の日本を深く理解した大使でした。彼は昨年六月の沖縄慰霊の日には、沖縄戦没者追悼式にも出席しましたし、3・11の東日本大震災の際に発揮した卓抜なリーダーシップとマネージメントが大いに評価されて、米国国務省から表彰されてもいます。
 
新任の大使は日本に遊びに来たようにしか見えないという声も聞かれます(週刊新潮1月30日号「『キャロライン・ケネディ』のお遊び優先」40p)。
昨年末の十二月二十六日、安倍首相が靖国神社に参拝した際、早速、大使館から「失望した」云々のメッセージを出しましたが、これが大々的に報じられて中国に大いに利用されてしまいました。もっとも、国務省が出した声明には当初、「失望した」という表現はなく、これはバイデン副大統領の強い意向で入れられたという報道もありましたが。しかし、週刊新潮によりますと、この日、大使は家族で京都観光に興じていたそうです。
 
今回のツイッター発言等も含めて、見えてきているものそれは、米国の価値観を唯一の基準とし、そしてその価値観に基づく国家的意志に日本を従わせようとする、あるいは従うのが当然であるかの如く考える米国の変わらぬ態度です。
確かに米国は自由と民主主義、そして法の支配という価値観を共有する重要な国ですが、押しつけがましい態度は却って離反感情を醸成しかねないということを敏感に察知して、それを本国に伝えること、それが大使としての役割ではないかと思われます。
 
ところで本日の礼拝のテーマは「意志」です。私たちが真に尊ぶべき、そして従うべき「意志」とは何であるか、ということについて、「主の祈り」から教えられたいと思います。
 
 
1.神のみ心すなわち、神の善なる意志の実現を願う
 
「主の祈り」の神に関する祈願の二つ目と三つ目は密接に関連しているようです。
と言いますのは、神に関する三つ目の祈願である「み心の天に成る如く、地にも成させ給え」は、マタイによる福音書にはありますが、ルカによる福音書にはないからです。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(マタイによる福音書6章9~11節 新約聖書口語訳8p)。
 
「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください』」(ルカによる福音書11章2、3節 106p)。
 
 「わたしたちの日ごとの食物を」の前の祈願を比べてみれば一目瞭然です。マタイにある「みこころが…」がルカにはありません。
 
このことに関しましては、超保守派あるいは根本主義者は、それぞれが別々のところで語られたための違いであろうと説明しますが、ルカによるものが「主の祈り」の原型であると考える穏健な保守派は、原型としての「主の祈り」は当然、その解説が弟子たちに対し、イエスによってなされた筈であり、そしてその際、「御国がきますように」という祈願の深い意味が、神の「みこころ」の実現にあるとの説明がイエスからあった、そこで「みこころが…地にも行われますように」という句がマタイによる「主の祈り」に付加されたのではないか、と推測するわけです。
 
 ところで「みこころ」とは何かということですが、原語の「セレーナ(あるいはテレーナ)」は「志す」とか「決意する」という動詞「セロー」とも関連する言葉で、「意志」を意味しますから、神の「みこころ」とは神の意志ということです。
 
そして神の意志の特徴は善そのものであるということを最初に確認したいと思います。
なぜ神の意志が善であるかと言いますと、神の性が善だからです。詩人はそこに望みを置いて、善なる神を讃美致しました。
 
「あなたは善にして善を行われます」(詩篇119篇68節前半 旧約聖書口語訳857p)。
 
 「主の祈り」の神に関する祈願の三つ目は、神の「みこころ」すなわち神の意志が「行われますように」、つまり実現をするように祈ることを内容としたものであって、祈る際には、神の意志は「善にして善(のみ)を行われる」神の善性から生みだされた善なる意志であるという確信をもって祈ることを勧めたものでした。
 
 
2.神の意志のこの地上における実現を祈る
 
この三つ目の祈願の特徴は、神の意志が人が住む地上世界に実現するように祈れ、と言うところにありました。
 
「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(6章10節後半)。
 
 古代の人の世界観は三層世界観と言いまして、世界を神の住まう所である「天」、人が住んでいる「地」、そして死者の世界を「陰府(よみ)」とする三層に分けて考えておりました。
 
つまり、神の住まいである「天」は神の支配が完全に行きわたっている所、人が死後に行く「陰府」は神が居ない所、そして生きている者が住む「地」すなわち地上世界は、善と悪、正義と不義、愛と罪とが混在している所というのが、古代の人の世界観でした。
 
そして神に関する三つ目の願いは、「みこころ」つまり神の意志が「天に行われ」ているとおりに、地上世界においても「行われ」ることにあるのでした。
 私たちの務めの一つは、神の善なる意志が人の住む「地にも行われ」るように祈ることにあるのです。
 
この三つ目の祈願を祈る場合、現実の世界である「地」とはどのような世界であるのかを知らなければなりません。
 
少なくとも、自国の伝統と歴史、近隣諸国や世界の過去の歴史を正確に把握してしておく必要がありますし、自分が所属している国の現時点での状況や自国をめぐる国際政治に関しても無知であってはなりません。
 
 ドイツにヘルムート・ティーリケという神学者がおりました。
この人が第二次世界大戦末期、そしてナチス・ドイツが連合軍に降伏して悲惨な状況下にあった時期に、ドイツ南部の都市シュトゥットガルトで日曜ごとに続けた「主の祈り」の連続講解説教が有名ですが、戦後にまとめられて出版されたその説教集の原題は「世界をつつむ祈り」であったそうです。
 
序文に著者は書きます、
 
主の祈りは、ほんとうに世界をつつむ祈りである。日常的な瑣事(さじ)の世界と「世界史的展望」を持った世界、幸福な時と底知れぬ苦悩の時、市民の世界と兵士の世界、「何事もない日常」と恐るべき異例の破局、悩みを知らない子供の世界としかし同時に大人をも打ち砕く問題に満ちた世界とをつつむ祈りである(ヘルムート・ティーリケ著 大崎節郎訳「主の祈り―世界をつつむ祈り―」6、7p 新教出版社)。
 
 社会には何の影響ももたらさないような日々の瑣末な、つまり小さな出来ごとの積み重ねである「日常的な瑣事の世界」も大事です。
 
しかしまた、その日常は世界の歴史を左右するような「世界史的展望」を持った世界の中で起こっていることでもあることを覚えながら、神の「みこころが」この「地にも行われますように」と祈ることが現代の弟子たちにも求められているのです。
 
 では私たちが日常を生きている「地」である日本はどのような国で、そして日本を取り巻く世界はどのような「地」なのでしょうか。
この国は誰の意志によって成り立ち、運営されてきたのでしょうか。この世界を動かしている意志は何なのでしょうか。
 
 現在の政権は第二次安倍政権と呼ばれますが、七年前、第一次安倍政権が華々しく唱えたスローガンが「戦後レジームからの脱却」でした。
 
「レジーム」とはフランス語で体制を意味しますので、「戦後レジーム」とは戦後の体制ということになります。
では「戦後の体制」とは何かというならば、簡単に言えば敗戦国である日本は、戦勝国である米国の意志に従う、という体制でした。
 
 建国以来、物量を誇る米国と真正面から戦って、日本ほど米国を畏怖させ、悩ませた国は他にありませんでした。
 
日本を恐れた米国は日本が二度と米国に立ち向かおうと思わないように、日本を精神的に骨抜きにすると同時に、米国の忠実な下僕、よく言えば同盟国にするための作戦を周到に準備し、これを七年かけて実行します。それが連合国総司令部(GHQ)が占領期に実施した作戦「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人に植え付ける計画)でした。
 
そしてこの作戦はものの見事に成功し、日本人は自らを蔑む自虐的民族となり、日本は米国への服従を国是とする国になってしまったのでした。
 
勿論、前の政権と違って、米国との緊密な同盟関係の維持以外に日本が生き残る道は無いということを熟知している現政権ですが、その政権が今も希求しているであろう「戦後レジームからの脱却」とは、米国との同盟関係を解消することではなく、ましてや敵対的関係になることでもなく、ただ、今よりもう少しだけ自主性、独立性を持った国家となることではないかと思うのですが、しかし、そこに依然として立ちはだかっているもの、それが自国の国益を第一とする米国の意志のようなのです。敗戦国としての日本が米国抜きで生存することは許さない、という「戦後レジーム」の温存、それが米国の強固な意志です。
 
首相の靖国参拝についての「失望した」云々の表明も、独立国である日本にとっては、余計な内政干渉以外の何物でもありませんが、これは日本が隣国と揉めること自体が米国の国益を損ねるという、自国の利益を第一とした考えに基づいて発せられたものだとのことです。
 
イラク戦争以来、国力、影響力共に弱ってきているとはいっても、それでも現時点において世界を支配しているものは米国の意志であると言っても過言ではありません。そして、もしもこれ以上、米国の力が弱体化するならば、相対的に影響力を増すのは隣の覇権志向の大陸国家です。
 
そういう意味において、私たちが「みこころが(神の意志が)地にも行われますように」と祈る時、自分たちの国こそがこの地上にあって神の意志を代表していると思い込んでいる国、あるいは国家指導者の上に、神の意志が正しく示され、そして実現しますようにと祈ることが必要です。
 
なぜかといいますと、権力を握った指導者は思い上がり易く、力のある国は国の意志と神の意志とを混同しがちだからなのです。「み心の天に成る如く、地にも成させ給え」と祈る時、この地上世界という「地に」特定の国の意志ではなく、神の意志が実現することを切に願うと共に、私たちが暮らす日本という「地に」おいても、指導者が神の意志を尊重することができるよう、祈りたいと思います。
 
 
3.神の意志の自らの人生における実現を祈る
 
このように、「世界史的な展望」をもってこの「地」の動きを見ることはとても大切なことです。しかし、個人的な「日常の瑣事」もまた、無視することはできません。そしてまさにその個人的生活の中にも神の意志が実現するようにと願うことが、三つ目の祈願のもう一つの趣旨なのです。
神のみ心、神の意志がわが身に成りますようにと祈りたいと思います。 
 
しかし、時には、人の思いや意志と、神の思いや意志とが反するというケースに出会う場合もあります。
そして、その人の意志と神の意志とのせめぎ合いの中で苦悶したのが、弟子のしるしとしての「主の祈り」を弟子たちに与えた主イエス自身でした。そのせめぎ合いはユダヤ当局による逮捕直前のゲッセマネの園で、イエスの内心に起こりました。
 
最後の晩餐のあと、イエスはペテロとヤコブとヨハネの三人を伴って祈りの座に向かい、そこで苦悶の祈りを捧げます。
 
「それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
 
そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』」(26章36~39節前半 45p)。
 
 あのイエスが苦悶し、弟子に向かって「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(38節)と自らの胸中を率直に吐露しているのです。ここに弱音を吐いているかに見える救い主がいます。そして神に向かって「わが父よ」(39節)と呼び掛けて、「もし避けられるならば罪びととして十字架に架かることを容赦してください」と切願しているイエスを見ます(39節前半)。
 
 しかし祈りはそれで終わらず、神の意志に従うという告白が続きました。
 
「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」(39節後半)。
 
 このイエスの「わたしの思いのままにではなく」の「思い」と訳された言葉は意志を意味する「セレーマ」で、「みこころのままに」の「みこころ」も「セレーマ」です。
 
つまりイエスは最終的には十字架に架かることを避けたいと考える「私の意志」ではなく、十字架に架かることを願う「神の意志」に従いますという祈りをしていたのでした。
この、神の意志に従います、という祈りは計三度、繰り返されて確固たるものとなります。
 
「また二度目に祈って言われた、わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうかみこころが行われますように」(26章42節)。
「それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた」(26章44節)。
 
 こうしてイエスは覚悟を決めて翌日、西暦三十年四月七日の金曜日に、エルサレム郊外の刑場のグルゴタにおいて処刑されることとなるのですが、私たちもまたその人生の途上において、自分の意志と神の意志とが対立するかのような状況に直面することがあるのは確かです。
 
 しかし、そのような場合、神は神の意志に従うことが幸いであるということを理性においても教えると共に、神の意志に従う力をも備えてくださる筈なのです。なぜならば、神の意志は善だからです。
 
 その神の意志が善であるということを教えてくれる出来ごとの一つが、重い皮膚病に罹患していた人とイエスのやり取りです。山上の説教を終えて山から降りてきたイエスの許に皮膚病患者が来て、癒しを求めます。
 
「するとそのとき、ひとりの重い皮膚病にかかった人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、『主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた。すると重い皮膚病は直(ただ)ちにきよめられた」(マタイによる福音書8章2、3節 (註)口語訳では「らい病人」は「重い皮膚病にかかった人」に読みかえる)。
 
 重い皮膚病により、塗炭の苦しみの中にあった病者が恐る恐る聞く「主よ、みこころならば」(2節)の原語は、意志を意味する「セレーマ」の動詞形の「セロー」であって、そしてそれに対するイエスの言葉、「そうしてあげよう」(3節)も同じ原語の「セロー」です。
 
つまり、「あなたを清めてユダヤ共同体へ復帰させることは私の明確な意志だ」とイエスが宣言をしたことを意味します。
こうして神の意志を体現しているイエスの意志により、病者は家族の許へ、そして社会へと歓喜しつつ戻って行ったのでした。
 
自分に対する神の意志や計画は、常に良いものなのだと信じることができれば、心を込めて「御心の天に成る如く、地にも成させ給え」、そして「我が身にも成させ給え」と祈ることができるようになる筈です。