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2014年1月5日二〇一四年日曜礼拝説教「祈りの精髄としての主の祈り? 『我らの父』の御名は全治で崇められるべきである」マタイによる福音書6章9節

14年1月12日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り?『我らの父』の御名は全地で崇められるべきである」
 
マタイによる福音書6章9節(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
 段々と日本語がおかしくなってきました。言葉が入り混じってしまったために意味が不明になった四字熟語?の代表的なものが「汚名挽回」でしょう。「汚名」を「挽回」したらいつまでも汚名は着たまま、着せられたままです。
これは「名誉回復」と「汚名返上」がこんがらがったものだと思われますが、「汚名」は「返上」すべきものであって、「挽回」しなければならなのは穢された「名誉」です。
 
今、お隣の半島の国が諸外国において血道をあげて取り組んでいる運動が「ジャパン・ディスカウント」運動です。
ジャパン・ディスカウント、つまり日本の評価、評判を貶めるためには何でもする、という方針のもとに反日工作活動やロビー活動を展開するキャンペーンで、その先兵になっているのがVANK(ボランタリー・エージェンシー・ネットワーク・オブ・コリア)を名乗る団体です。ボランティア団体と言っていますが、政府から補助金を交付されている準国家機関ともいえる団体です。
 
野郎自大の彼の国にとって、諸外国、とりわけ欧米諸国において、自国を差し置いて日本の評価が高まることはどうしても我慢することができないようで、日本の名を穢し、下落させることに総力を上げているのですが、そのことが自国の評価を下げているということにまったく気付いていないのは、何とも悲しいことです。
 
 しかし、謂れなき批判や攻撃に対しては、とりわけ諸外国で生活をしている日本人のためにも、貶められている日本という国の名を守る運動を展開するのは、国の務めです。特に外務省にはがんばってもらいたいと思います。
 そして、わたしたちキリストにある者たちは、穢されている神の名の尊厳の回復にも努めなければなりません。
 
 私たちの教会の礼拝では、先週から、「主の祈り」についての取り組みを通して、祈りの精髄、祈りの真髄に迫ることになりました。
 
第一回目の先週の「主の祈り」では、まことに勿体ないことながら、イエスを通せば創造主なる神に向かって「(我が)父よ」あるいは「天にいます我らの父よ」と呼び掛けることが出来るという恵みについて改めて教えられましたが、「主の祈り」は前半が神に関する事柄、後半が人の必要に関する事柄に分けられていることも知りました。
 
そこで今週は神に関する事柄の最初の祈願である「御名を崇めさせ給え」について取り上げたいと思います。
 
 
1.天地を創造した「我らの父」の御名は、別格の聖なる名として全地で崇められねばならない
 
 私たちが毎週の礼拝において唱える「主の祈り」の最初の祈願は、プロテスタントでは「御名をあがめさせたまえ」ですが、ローマン・カトリックと日本聖公会が共通のものとして二〇〇〇年に制定した口語訳では「み名が聖とされますように」です。なお、それまでのローマ教会におけるものは「み名の尊(とうと)まれんことを」でした。
 
では、福音書の原文はどうなのでしょうか。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名(みな)があがめられますように」(マタイによる福音書6章9節 新約聖書口語訳8p)。
 
 主イエスは弟子たちに対し、弟子のしるしとしての「主の祈り」を与えて、天地を創造した神に向かって「天にいますわれらの父よ」(9節)と呼び掛けることを許した際に、最初にその創造主である「我らの父」(同)の「御名が」(同)全地で「あがめられ」(同)ることを期待して祈るように命じられました。
 
 ところで「あがめられますように」(9節)と口語訳が訳した原語は、「聖別する」を意味する動詞「ハギアゾー」を語源としたものであって、「(それが)聖なるものとして取り扱われよ」という意味です。
 
 そして「聖別する」という言葉には、それを他の物と区別して異なったものとするという意味もありますので、つまり、神の「御名があがめられますように」という祈りは、天地万物を創造した神さまが、そんじょそこらの神々とは区別されて、まさに別格の神、特別な神、至上にして無比の神として取り扱われることを祈願するという意味なのです。
 
 これは当然と言えば当然です。なぜかならば、天と地とを創造し、しかも生けるものすべてに生命の源となる自然界を与えて、その生命活動を支えているのは、他でもない「天にいますわれらの父」(9節)だからです。
そのお方が他の神々と区別されて、別格の神として全地で特別に崇められ、創造者としての尊敬を一身に集めるのは当然のことであるいえますと。
 
もちろん、礼拝の対象は異なってはいても、他宗教の行事、儀式はマナーとして尊重をしなければなりません。ローマン・カトリックの信者として知られる作家の曽野綾子が随筆の中で書いておりました。
 
彼女が言うには、「アフリカの南スーダンで働いている知り合いのシスターから送られてきたクリスマスカードに、クリスマスの時期になると、現地のイスラム教徒の女性から『クリスマスおめでとう』という挨拶を受ける、クリスマスはあなたがたキリスト教徒にとって大事な日だから、という理由だそうで、そこで自分たちもイスラム教の重要な行事である断食明けの日には『おめでとう』と返すのだ」というのです。
狭量なキリスト教ファンダメンタリスト(根本主義者)にとってはゆるされないことでしょうが。しかし、挨拶は信仰の問題ではなく常識の問題、マナーの問題です。
 
 NHKの大河ドラマで、黒田官兵衛を主人公にした「軍師官兵衛」が始まるそうです。黒田官兵衛については昔、司馬遼太郎の「播磨灘物語」を一気呵成に読んだことがありました。
戦国時代に活躍した武将の黒田官兵衛は、一度はキリスト教の洗礼を受けるのですが、豊臣秀吉が発令した「伴天連(ばてれん)追放令」を受けて棄教をしたとされています。
 
しかし、秀吉が一五八七年(天正十五年)に出した「伴天連追放令」はキリスト教の信仰自体を禁止したものではなく、伴天連つまり外国人宣教師の活動の禁止を意味したものでした。
そしてそのいくつかの理由のうちの一つが、外国人宣教師による日本の女性たちの人身売買が目に余るようになったこと、そしてもう一つの理由が宣教師に扇動された一部のキリシタン大名や信者たちによる神社、仏閣を邪宗とすることからくる焼き打ちという出来ごとにあったとされています。
 
前者のケースは俄かには信じられないかもしれませんが、人身売買は火薬と引き換えに戦国武将たちと伴天連たちとの間で行われたのは史実のようです。
そして後者の神社・仏閣を破壊、焼き討ちをするという例も、西日本において顕著な出来ごとだったそうです。
 
前者もキリスト教宣教師の行為として言語道断の事例ですが、後者の場合も、熱心が狂信に傾くとそれが却って神の御名を穢すという悪しき事例です。
 
「御名があがめられますように」という祈願は、崇められねばならない筈の神の尊名が穢されているという現実を踏まえたものでした。
天地万物を創造した神の御名の栄誉の挽回は、異教徒を弾圧する、あるいは異教の施設を破壊するという暴挙によってではなく、神の創造の事実と、人類に対する神の無限の愛の伝達によってなされるべきものだからです。
 
 
2.贖いを成し遂げた「我らの父」の御名は、全人類、全民族の中で崇められねばならない。
 
もう一つ、「我らの父」の御名が聖なる御名としてすべての人に崇められるべきわけは、「我らの父」こそが、人類の根源的問題である原罪を処理して、贖いを成し遂げてくれたお方であるからです。
 
 キリスト教教理でわからないものの一つが三位一体(さんみいったい)という教理です。
 
神学校の夜間コースで「神学概論」という教科を担当してきましたが、色々な神学者たちが「例えば」と言って類似のものを例に挙げて三位一体説を説明しようとすと、それがみな異端の教理になってしまうのには閉口したものでした。
 
典型的な例は水です。水はそのままでは液体であるが、蒸発すると気体となり、凍ると固体に変化するという説明があるのですが、これはまさに父が子となり、子が聖霊となるという、いわゆる様態的三位一体論、つまりオンリージーザスとかワンネスといわれる異端説の例証なのです。
 正直に申し上げますと、三位一体説は知性の領域では説明不能です。ただし、その役割から説明することは可能です。
 
 重い病に罹った病人が受診をするとします。
 
医師は病人を問診し、触診をし、さらに各種の検査を行って最終的に病名を決定し、入院措置をとって、病に有効な薬剤を処方します。
 
薬剤師は医師が処方した処方箋に基づいて薬剤を調合します。
 
しかし、病人は自分の病状について戸惑い、初めて飲むその薬について疑心暗鬼です。飲み方も薬効も分かりません。そこに看護師が出番となります。
看護師は不安の中にいる患者に対し、分かり易く薬の効能を説き、納得のいくまで説明をした上で、患者が薬を飲む手伝いをしてくれます。
 
つまり、一人の病人の治療と回復が、主治医となった医師と、医師が処方し、薬剤師が調合した薬効薬効あらたかな薬と、その薬を服用させてくれる看護師との協力のもとに展開されます。
 
この場合、病人を診察し、病気を診断して適切な薬剤を処方する主治医、それが父なる神です。
父なる神は人類が罹っている原罪という、放置していれば必ず死に至る病を治すために、治療計画を立て、効果ある薬剤を処方してくれたのです。
 
そして死に至る病を癒して滅びから人を救うため、神の独り子であるイエスは十字架に架かって血を流し、身代わりとなって死に、三日目に死の世界からよみがえってくださいました。まさにキリストこそ、死にいたる病を癒す効き目ある薬剤となってくださたのでした。
 
その結果、このイエスを神の救い主として信じ受け入れれば、誰でもあっても滅びから解放され、救われるという原理、救済の道が整備されました。
 
しかし、人の心は頑ななに上に理解力も衰えています。力のない医者にかかって散々な目に遭っていて、気持ちが頑なななっているかも知れません。そして、そんな頑迷固陋の心の持ち主が納得するまで、懇切、かつ丁寧に救いの真理を解き明かしてくれるのが、聖霊なる神なのです。
 
私たちの教会では、誰かが信仰告白にまで導かれるの、牧師による個人伝道で、ということが多いのですが、しかし、その個人伝道の過程で、聖霊なる神がその人の心に神の真理を示したからこそ、素直な気持ちになり、納得もして「イエスは主である」という告白に導かれるのです。
 
「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(コリント人への第二の手紙12章3節後半 270p)。
 
 人類の罪からの贖いという壮大な救済計画を立案したのは父なる神です。
そしてその父なる神の立てた計画に、自らを捧げて協力したのが子なるキリストでした。確かに、キリストが自発的に犠牲となって下さらなければ救済は実現しませんでした。
 
しかし、人類の救済という計画を立案しただけでなく、気が遠くなるような長い時間をかけて忍耐強く計画を推進してくださったのは、父なる神だったのです。
贖いを成し遂げて下さった「われらの父」の御名こそ、全人類、全民族に崇められるべきなのです。
そして、その聖なる「御名」は先に神の救済に与った神の子たちを媒介者として、神が愛してやまないすべての人に伝えられるのです。
 
 
3.「我らの父」の聖なる御名は、神の子とされた者たちを媒介としてその周囲で崇められることを期待する
 
まだ若かった頃、若い有志の牧師たちと一緒に、勉強会を立ち上げました。神学校を卒業してしまいますと、雑務に追われて学ぶ機会がなくなるからでした。
勉強会を立ちあげにあたって、「何を学ぶか」ということになり、ある人の発案で「古典がよかろう」ということになりました。「では古典とは何か、プロテスタントの古典は何と言ってもカルヴァンの基督教綱要だろう」ということで、スイスが生んだ宗教改革者ジャン・カルヴァンが著わした「基督教綱要」の四章目の「教会論」をテキストにして学ぶことになりました。前にもお話しましたが、カルヴァンは「使徒信条」の構成に沿って、これを著わしました。ですから、神、キリスト、聖霊、そして教会となるのです。
 
その際のテーマは「何が我々を牧師たらしめるのか」というものだったと思います。牧師の大きな仕事は説教なのですが、一人の人が講師となって読み進めて行くうちに、びっくりするような記述に出会いました。
 
カルヴァンは問います、「神は神の尊いお言葉を伝えるのに、神の聖なる御使いではなく、なぜ過ちの多い不完全な人間をあえて用い給うのであろうか」 
 
そしてカルヴァンは問いつつ、また答えます。
それは、神の言葉を説教というかたちで聴く聴衆一人一人に、神が謙遜というものを学ばせるためなのである
 
効率という点からいえば、福音の宣教も神の御使いが担えば効率よく出来るのではないか、と私たちは思ってしまいます。しかし、神は敢えて人を神の言葉と伝達者とされました。神の言葉、神の威光を人に伝えるのに、同じ不完全な人間を媒介者として伝えることが神の御心なのです。
 
まさに、神の御名の栄光の輝きは、土の器のひび割れた部分を通してさえ、外へと漏れ出て、光り輝くからです。
大事なことは神の御名の輝きである主なる神を自らの内に持ち続けることです。
 
「しかし、わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(コリント人への第二の手紙4章7節 281p)。
 
 但し、大事なことが一つあります。それはこの私こそが神の栄光を現わさなければならないと意気込み過ぎないことです。大事なのは自然体です。
 
ある牧師さんの体験です。彼はある地域で月に一回、数人の専業主婦を対象にした聖書研究会を行っておりました。聖書研究会は持ち回りで行われており、当番の家がお昼の軽食を用意することになっていたそうです。
ある家に時間通りに牧師が行ったとき、他のメンバーが何かの都合で遅れていて、その家の奥さんが軽食の準備をしており、傍に四歳くらいの女の子がおりました。
 
若いお母さんが言うには、「この子は先日、原因不明の病気になって病院で治療を受けた、でもそれがこの子にとってはつらい経験だったようで、それ以来、医者や看護婦の白衣を見ただけで怯え、近所に住んでいる祖父母が来ても私の後ろに避けてしまうし、父親にも抱かれようとしない」という話をしてくれたそうです。
 
そんな話を聞きながら、牧師はお母さんと自分の中間あたりに座っていた女の子に、おもちゃを見せたり、話しかけたりしているうちに、その子が少しずつ近づいてきて、胡坐をかいている牧師の膝の上にあがってきて、そのままウトウトし始めたというのです。振り返ったお母さんはびっくり仰天しました、何と父親にさえ抱かれることを拒んでいた娘が、月に一回しか会わない「おっちゃん」の膝の中で眠っているのを見たのですから。
 
その夜、帰宅した夫に昼間のことを話すと、夫は憮然として言ったそうです。「ぼくには信じられない」父親としては無理もないことだと思います。
 
なぜ、そんなことになったのかはよくわからないそうです。その牧師さんはどう見ても幼児に好かれるようなキャラクターではなかったようですから。
考えられるのは、その幼い女の子がその時点で、治療や心労により極度の疲労状態に達していて、矢も盾もたまらず、眠り込んでしまったのではないかということです。
 
しかし、どんな状況であったにせよ、また、偶然であったにせよ、この幼な子がひとりの牧師の膝の中で安心して眠ったという事実は、それが牧師であったからこそ、牧師という肩書が背負っている神の名の栄誉につながることとなったと思われるのです。
 
大事なことは頑張り過ぎないこと、意識し過ぎないことです。いくら頑張っても、地は出てしまうものです。ですから自然体で振る舞って、そこに神様の御名が崇められるという結果が出ればよいのです。
 
 「自分は土くれから作られた土の器に過ぎない」という自覚のもとに、どこにいても、何をしていても、尊い、そして聖なる特別な「御名」を周囲に媒介する者として選ばれてあるということをただただ、心から感謝をする日々でありたいと思います。それが「御名を崇めさせ給え」という祈りにつながります。