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2013年12月22日 クリスマスファミリー礼拝説教「大いなる喜びは、心低き者たちへ 希望の物語4 羊飼いたちの場合 いざ行きてベツレヘムに至らん」ルカによる福音書1章25~45節

13年12月22日 クリスマスファミリー礼拝説教 

大いなる喜びは、心低き者たちへ」希望の物語 その4 羊飼いたちの場合 いざ行きてベツレヘムに至らんー羊飼いたちの応答

ルカによる福音書1章25~45節(新約聖書口語訳83p)

 
 
はじめに
 
 二十一世紀、世界のとりわけアジアの厄災となっているものがお隣の大国でしょう。
 
半島の方も相も変わらず執拗に告げ口外交に勤しんでいますが、これはまあ、騒音おばさんみたいなもので、そのうち誰も相手にしなくなります。
 
もっとも、誇るものが何もないので、他国の文化や技術を自国発祥と主張して自らを偉大なる国と喧伝するのが常のため、その主張が「オリジナル」と、彼の国の「我々」を意味する「ウリ」とを結び付けられて「ウリジナル」と揶揄されても何のそのですが、大国の方の人を人と思わぬ傲岸不遜ぶりが、領海を接する、どちらかと言うと小国のアジア諸国に恐怖と警戒心を呼び起こしております。
 
しかし、この大国も内部は崩壊一歩手前で、広がる大気汚染のため、室内にいても毎年百万人が死亡していると、同国の呼吸器皮膚科の専門家がフォーラムで発表したとのことです。
 
 また、その大国から我が国に留学し、その後帰化した石 平(せき へい)という大学教授でもある評論家が先週、新聞のオピニオンコーナーにおいて、「微博」という彼の国のミニブログから、「『微』に見る絶望と希望」という題で、この国が「今、世紀末的な絶望と未来へのかすかな希望が混在している激動の変革期にある」という分析をしておりました。
 
 たとえば、この国で「大型プロジェクト・国土開発・対外貿易・証券・金融という5つの利権の大きい分野で、主要ポストの9割以上は政府高官の子弟たちが握っている。(この国は)権力世襲社会となっており、人民は単なる傍観者と奴隷である」
 
また、この国の「富の95%は全人口のわずか5%を占める人々の手にある。しかしこの5%の人々はすでに海外へ移民しているか、あるいは移民しようとしている。これから10年後、この国に何が残されているだろうか」
 
 さらには、「地球上にこのような国がある。80%の河川が枯渇し、3分の2の草原は砂漠と化している。668の城市はゴミによって包囲され、4億人の都市部住民は汚染された空気を吸う。2000万人の女性は売春に励み、刑事事件は年間400万件も発生する。1000万人の公務員・幹部のほとんどが汚職している。このような素晴らしい国は一体どこか。当ててみよう」
 
 コーナーの筆者は言います、これら書き手たちがあげた一連の数字が正確であるかどうかが問題なのではなく、この国の多くの人が自分たちの国の現状をこのように認識していることが問題なのだ、と。
 
この大国は経済の発展に伴い、いつの間にか自尊心を極度に肥大化させて傲岸不遜な国となり「世紀末的な絶望」状態に陥りつつあるのですが、ミニブログに寄せられたこれらのいと小さき者の声に為政者が謙って耳を傾ければ、そこに「未来へのかすかな希望」を見ることができることと思われます。
なぜならば、個人の浄化と民族の救済という大いなる喜びは、心低き者たちへと告知されるからです。
 
 本日のクリスマスファミリー礼拝では、「希望の物語その4」として、ベツレヘム郊外で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに伝えられた救世主誕生の知らせを通して、「大いなる喜びは、心低き者たちへ」もたらされることを確かめたいと思います。
 
 
1.大いなる喜びの告知は、心低き者たちに先ずもたらされる
 
神が人にもたらす喜びのメッセージを「福音」と申します。これは「ふくおん」ではなく「ふくいん」と読むのですが、神からの「福音」は大きな喜びとして心低き人々にもたらされます。
そしてその心の低い者たちの代表例がベツレヘム郊外で羊を飼う羊飼いたちでした。
 
「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」(ルカによる福音書2章8節 新約聖書口語訳85p)。
 
 「この地方」(8節)とはマリヤがイエスを出産したベツレヘムの郊外のことです。
 
「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子(ういご)を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた」(2章7節前半)
 
 「ベツレヘム」はヘブライ語で「パンの家」という意味だそうで、エルサレムの南七キロメートルほどにある町で、マリヤの夫ヨセフの先祖のダビデの出身地でした(サムエル記上16章4節)。
 
羊飼いたちはここでエルサレム神殿において供え物とするための特別な羊を飼育していたようでした。
 
実は、羊飼いたちはその仕事の性質上、十戒の安息日規定を遵守することができず、そのため、行政と司法の土台である律法の規定によって、ユダヤ共同体においてはのけ者、仲間外れとされた存在であったのでした。
 
待降節の四週目、そしてクリスマス礼拝の「希望の物語」の四回目の本日の説教は、自分自身が生きている社会では、どちらかというと周辺にいるという実感を持つ人々が主人公です。
 
 彼ら羊飼いにも喜怒哀楽はありました。子羊が生まれそして育っていく姿を仲間同士で助け合いながら見守ることは喜ばしくもまた楽しみなことであった筈です。
 
しかし、その羊が神殿参拝者に法外な値段で売られ、それによってユダヤ社会の特権階級の、一部の宗教指導者が利権を独占して莫大な利益をあげているという宗教的堕落、社会的不正義には憤りを覚える反面、それに対して何も出来ない自分たちに無力感を覚えていたかも知れません。
 
 けれども、羊飼いたちの哀しみは何と言っても自分たちがユダヤ社会の中心からずれた者たち、仲間外れであるという現実にあったと思われます。
 
しかもそれに加えて彼らを支配する哀しみは、自分たちが聖書の戒律を守らない民ということで、天地の造り主であり、彼らの先祖を奴隷の地から導き出してくれた神からも見放されているという意識によって倍加されました。
 
つまり彼ら羊飼いたちは難しい表現を使えば、社会からも神からも疎外され、仲間外れにされているように感じ、その結果、自分自身にも諦めを覚えながら日々を送るという自己疎外の人々であったのでした。
 
 ところが自らを落ちこぼれと認めている彼らに、大いなる喜びの告知が、具体的には救世主・メシヤの誕生の告知がもたらされたのでした。
 
「すると主の御使(みつか)いが現われ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは言った、『恐れる。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである』」(2章9~11節)。
 
 この、人からも神からも疎外されていると思い込んでいた羊飼いたちに何と、神の御使いが現われ、救い主の誕生を知らせてくれたのです。それは彼らの哀しみを消し、大きな「恐れ」(9節)を除き、大いなる喜びをもたらす知らせでした。
 
なぜこのような驚くべき知らせが真っ先に、イスラエル共同体から疎外されている人々にもたらされたのでしょうか。なぜこの知らせが宗教家や聖書学者、支配者階級の人々にではなく、野にいる羊飼いたちに与えられたのでしょうか。
 
それは彼ら羊飼いたちが、自分たちは神に相手にされない者だとは思っていても、それでも心を低くして神を恐れ、神の恵みに感謝しながら日々、自らの務めを果たしつつ、一所懸命に生きている人々であったからです。
 
 全能の神は心低き者の友です。それはガブリエルから救い主の受胎を告知されたマリヤが歌った通りです。
 
「そのあわれみは、代々(よよ)限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力のある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ…なさいます」(1章51~53節前半)。
 神がベツレヘムの郊外で野宿しながら働く羊飼いたちに真っ先に大いなる喜びの福音を伝えさせたのは、彼らが心低き者たちであったからでした。
 
 
2.大いなる喜びのしるしは、心低き者たちだけが見い出す
 
では心が低い、高いはどこでどうやって見分けることができるのでしょうか。それは知らせを聴いた人がその知らせをどのように聞くか、そして知らせを聴いてどのように行動するかでわかるのです。
 
神の使いの知らせは、驕り高ぶる者には到底受け入れ難いような内容でした。それは神の救い主が王の姿ではなく、無力な幼子として、しかもそのキリストは王宮にではなく、宿屋、一説によれば家畜と同居の部屋で、だからこそ、飼い葉おけの中に寝かされているというものだったからでした。
 
「あなたがたは、幼子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(2章12節)。
 
 けれども、「救い主」(11節)出現の「しるし」(12節)とは「飼い葉おけの中に寝かしてある」(12節)「幼な子」(同)であるという御使いの知らせを羊飼いたちは素直に受け入れ、そしてその幼な子を拝むため、ベツレヘムへと急行したのでした。
 
「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか』と互いに語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼い葉おけに寝かしてある幼な子を探しあてた」(2章15、16節)。
 
 心が驕り高ぶっているか低いかは、情報の扱い方で見分けることができます。驕り高ぶっている者は自分の考えに自信を持っていますから、人の話しに耳を傾けることをいたしません。その結果、「それはそのうちに」と言って折角の福音を店ざらしにしてしまいます。
 
それが、ギリシャ・アテネの知的エリートたちでした。彼らは、使徒パウロは伝えた福音を「またの機会に」と言って軽視してしまったのでした。
 
「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『このことについては、いずれまた聞くことにする』と言った」(使徒行伝17章32節 212p)。
 
 しかし、羊飼いたちはアテネ市民とは違い、御使いのお告げを確かめるべく、取るもの取り敢えずベツレヘムへと急行します。それは彼らが心低き者たちであったからでした。大いなる喜びの「しるし」は、心低き者たちだけが見い出すことができるのです。
 
 
3.大いなる喜びの感激は、心低き者のうちにのみ湧き上がる
 
 息せき切って駆け付けたベツレヘムの宿屋で羊飼いたちが見たのは、御使いが告げた通り、飼い葉おけに寝かされている生まれたばかりの幼な子でした。彼らは自分たちが経験した御使いの顕現という出来ごとと、その御使いが彼らに語ったメッセージを幼な子の両親はもとより、その場にいた人々に語り伝えます。
 
「彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた」(2章17節)。
 
 飼い葉おけの中に寝かされている幼な子を見て、羊飼いたちが何を得たのかと言いますと、それは満足と喜びでした。彼らは内側に湧き上がる感激を噛みしめ、神を讃美しながら帰途についたのでした。
 
「羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰っていった」(2章20節)。
 
 羊飼いたちはまた彼らの職場へと帰って行きます、来た道を辿りながら。
 
飼い葉おけの中の幼な子を見たからといって彼らの社会的状況が変わるわけでもありません。収入が増えるわけでもなく、仕事が楽になったわけでもありません。ユダヤ社会のエリート階級からは相変わらず見下げられたままです。
 
しかし、確かに変わったものがありました。それは何かといえば、彼らの神との関係です。安息日を遵守するという律法を守ることができない、会堂における集まりに出席したくても出席することができない、自分たちはアブラハムの子孫でありながら宗教的には落ちこぼれであって、神からも相手にしてもらえない者たちだ、そういう考えはこの夜を境に彼らの中から雲散霧消してしまったのでした。
 
なぜか。それはこの夜の、つまりクリスマスの夜の一連の出来ごとのゆえでした。
 
御使いの知らせの通り、「飼い葉おけに寝かしてある幼な子」(16節)こそ、羊飼いを含めて「すべての民に与えられる大きな喜び」(10節)の元でした。
このとき、彼らが、心の低い「あなたがたのために」(11節)「救い主」(同)として「お生まれになった」(同)神の御子誕生の教理的意味、神学的理解をどこまでしていたかは分かりません。
 
ただ、ベツレヘムから自分たちの居場所に戻りながら彼らの心中にふつふつと沸き上がってくる感激は、自分たちが神から見捨てられてはいないのだ、先祖の神は今も私たち羊飼いの神なのだ、という強い確信に基づくものだったのでしょう。
 
事実、この幼な子イエスは長ずるに及んで、ガリラヤ、ユダヤ各地を巡回しながら、神からも人からも自分自身からも疎外されていると思い込んでいる人々の仲間になってくださり、おのれを信じる者を友とさえ呼び、しかも神の家族の一員としてくださったのでした。
 
クリスマスの出来ごとは、神が私たちに向かい、「お前はわたしの仲間だ」「わたしの家族だ」と、天の高みからでなく、すぐ傍で、隣りで呼びかけてくれていることを証しする出来ごとなのです。それは今も、です。
 
天来の大いなる喜びはとりわけ、この地上の心低き者たちにもたらされることを覚えたいと思います。