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2013年11月17日日曜礼拝説教「ルカによる福音書の譬え話? 家出した兄弟たちの譬え 前篇―弟息子は放蕩の果てに、父の愛に気付いた」ルカによる福音書15章11~24節

13年11月17日 日曜礼拝説教

「ルカによる福音書の譬え話? 家出した兄弟たちの譬え 前篇―弟息子は放蕩の果てに父の愛に気づいた」
 
ルカによる福音書15章11~24節(新約聖書口語訳115p)
 
 
はじめに
 
社会心理学や精神分析の研究者として知られた人に、エーリヒ・フロムというドイツ人の学者がいました。
この人が第二次世界大戦中の一九四一年に発表した「自由からの逃走」という、自由というものを社会心理学的に分析し探求した著作は、日本でも学生運動のさ中、多くの青年たちに愛読されたと言われています。
 
私も牧師になりたての頃、その題名に魅かれて入手をし、読んではみたもののなかなかに難解で、基本的知識の不足もあり、途中でギプアップ、投げ出してしまったことを覚えています。
 
今週の譬えに出てくる青年、具体的には二人息子の弟は、「自由からの逃走」ならぬ、「自由への逃走」を図って父の家を出るのですが、家出はしたものの、目指す「自由」を得るどころか、かえって意図せぬ不自由の中でもがき苦しむという経験をすることとなります。
 
九月から始めた「ルカによる福音書の譬え話」シリーズですが、十二月の待降節を控えて、今週と来週の「家出した兄弟たちの譬え」をもって完了、としたいと思います。
 
今週はその「家出した兄弟たちの譬え」の前篇、弟息子の物語です。
 
 
1.弟息子は見果てぬ自由を求めて、父の許を離れた
 
正統的ユダヤ教徒たちからは通常、「アム・アー・ハーレツ(地の民)」として差別されていた「取税人や罪人たち」、つまり売国奴とされた徴税人や堕落人間と見做された娼婦たちが、神の言葉を聞こうとしてイエスの許に近寄って来たのを見たパリサイ人や律法学者、つまり正統信仰を自負するユダヤ教徒たちは、イエスをあからさまに非難しました。
 
「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。すると、パリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をいていると言った』」(ルカによる福音書15章1、2節 新約聖書口語訳115p)。
 
そこでイエスは「つぶや」(2節)く「パリサイ人や律法学者たち」(同)に対し、三つの譬えを語ることによって彼らの問題点を指摘します。
 
一つは「いなくなった羊の譬え」(4~7節)で、二つ目が「失くした銀貨の譬え」(8~10節)、そして三つ目が「家出した兄弟たちの譬え」でした(一つ目と二つ目はまとめて二か月前の九月十五日の礼拝で、「見つけ出されたのは、掛け替えのないものであった」というタイトルでお話をしています)。
 
この三つ目の譬えは「放蕩息子の譬え」として有名ですが、前半が弟息子の、そして後半は兄息子の譬えで構成されています。
 
「また言われた、『ある人に、ふたりのむすこがあった」(15章11節)。
 
 この譬えでは「ある人」(11節)は大資産家の農夫として設定をされています。
彼には「ふたりのむすこ」(同)がいました。ところが、弟息子の方がある日、父親に対してとんでもない要求をしたのです。
それは何と、「遺産を今、もらいたい」というものでした。
 
「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』」(15章12節前半)。
 
 父親にとっては寝耳に水の話しです。通常ならば激怒をするところですが、この父親は何を思ったのか、彼の要求を受け入れて、規定に従って自分の莫大な財産を二人の息子に分けてやります。
 
「そこで、父はその身代をふたりに分けてやった」(15章12節後半)。
 
 ユダヤの律法では、長子は他の兄弟の二倍の分を相続することになっていました。
 
「自分の財産を(長子に)分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである」(申命記21章17節 旧約聖書口語訳277p)。
 
このため、父親はその財産を三等分して、三分の二を兄息子に、三分の一を弟息子に分けてやりました。何と気前のよい父親であることか、と思います。
 
ところが何と、それから幾日もたたないうちに、弟息子は譲られた財産を全部処分して、つまり金に替えて、家を出てしまいます。
 
「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠いところへ行き」(15章13節前半)。
 
 すべては計画通りだったのでしょう。その動機は何か。じぇじぇじぇ!で有名になった連続テレビドラマ「あまちゃん」では主人公、天野 秋の母親の春子は十八歳の時にアイドルを目指して家出を決行し、秋の親友の足立ユイもまたアイドルになるべく東京を目指しますが、この弟息子にも、華やかな都会への憧れがあったのでしょうか。
 
確かに田舎暮らしが嫌になったこともその一因かも知れません。しかし、何と言っても彼の家出の最大の動機は「自由」への憧れにあったのではないかと思われます。
 
彼は父親の許での暮らしが窮屈で不自由であると勝手に思い込んでいて、「父親の許を離れればそこには無限の自由がある」と考え、そこで「自由からの逃走」ならぬ、「自由への逃走」を目指して、住み慣れた父の家から「遠い所へ」(13節)と旅だったのだと思われます。
 
では、彼は「父」から離れた「所」で、念願の自由を得ることができたのでしょうか。
 
 
2.弟息子は放蕩三昧の果てに、本心に立ち返った
 
「遠い所」(13節)への旅立ちは、彼にとっては輝かしい未来への飛翔の契機となる筈でした。
しかし、その「遠い所」には堕落への誘惑が待っておりました。彼は甘い言葉に誘われ、放蕩三昧の日を送るようになり、遊蕩に明け暮れたその先で、気がついた時にはあの莫大な財産を使いはたして一文無しとなっていました。
 
「そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした」(15章13節後半)。
 
そこに「泣きっ面に蜂」、悪い時には悪い事が重なるもので、中東特有の大飢饉がやってきました。飢饉の原因は日照り、また蝗の害でした。
この危機に際し、大金持ちのぼんぼんの周りに群がっていた人々はどこへ行ってしまったのか、諺に言う「金の切れ目が縁の切れ目」で、一文無しになった彼が周囲を見回した時には彼を助ける者は皆無であって、ついには三度の食事にも事欠くようになるほど、落ちぶれてしまったのです。
 
「何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた」(15章14節)。
 
 途方に暮れた彼はやむなく知り合いを頼って身を寄せようとしたところ、その知り合いは「お前を遊ばせておくような余裕はない」ということで、畑に行かせてユダヤ人が忌み嫌う豚飼いの仕事をさせました。
 
「そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せた所が、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた」(15章15節)。
 
背に腹は替えられません。彼は止むなく豚の世話をするのですが、食べるものもなく、ついには豚の餌で空腹を満たしたいと思う程になってしまったのです。
 
「彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった」(15章16節)。
 
 こと、ここに至って彼は、異国の地で飢えている自分と、父の家で十分に食べることのできる雇い人とを比較することによって、自らを省み始めます。
 
「そこで彼は本心に立ち返って言った、『父のところには食物のあり余っている雇い人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている』」(15章17節)。
 
「本心に立ち返」(17節)るとは、「我に返った」ということで、「目が醒めた」という意味です。
痛い目に遭い、つらい経験をして初めておのれの無知に気付き、当たり前と思っていた環境がいかに恵みに溢れていたものであるかということに気付いたのです。
 
しかし、彼が何よりも気付いたのは二つであって、一つは自らの罪の深さ、そしてもう一つは父親のけた外れの配慮、でした。
つまり彼は自分がいかに父親の気持ちを無視し踏み躙り、非礼を行っていたかということに気がついたのでした。
 
そして決心をします。「父の許に返って謝罪をし、もしも許可してもらえるならば雇い人のひとりとなって生涯にわたって自分の罪を償い続けよう」と。
 
「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください」(15章18、19節)。
 
 この決心こそ、真の罪意識、認罪感が生み出す、悔い改めの言葉でした。
よく、「謝ったのに赦してくれない」と言って、赦さない相手を責める人がいます。しかし、そういう人の謝罪の目的はゆるしてもらうことによって気持ちが楽になりたい、という、自分のためであることが多いのです。
しかし本当の謝罪は自分のためにゆるしを期待することではなく、傷つけた相手の気持ちを癒すことなのです。
 
そう考えますと「おゆるしください」は相手にゆるしを求めることであり、「御免なさい」もまた、罰の「免」除を相手に願うことであるとも言えます。
そういう意味では「済みません」「申し訳ない」などは、どんなに謝っても「済まない」ことを自分はしたのだ、どう説明したとしても弁明や「申し訳」が立つものではないことをしてしまったのだという、悔悟の気持ちを示す言葉なのかも知れません。
 
 弟息子の悔い改めと回心とは本物でした。その証しが、彼が取った次の行動でした。彼は空腹を抱えながら、父のいる家へと向かうのです。私には、短い一行がこの譬えの中で最も感動的な句に思えます。
 
「そこで立って、父のところへ出かけた」(15章20節前半)。
 
 彼が行こうとする「父のところ」(20節)、そこは彼がきらびやかな衣服に身を包んで意気揚々と出立をした「ところ」です。そこは彼のことを熟知している親族がおり、知人友人がおり、雇い人がいる「ところ」です。
 
彼はその「ところ」から、「こんな田舎にいられるものか、都会で名をあげて成功して見せる」と大言壮語して出かけてきたのです。
故郷に錦を飾るような大成功を収めたわけではなくても、それなりに成功した帰郷ならばそれはそれで帰ることができたかも知れません。しかし、みすぼらしく尾羽打ち枯らした状態で、どの面下げて帰ることができるでしょうか。
 
 しかし、心が深い認罪感に満ちていた弟息子の関心は自らが故郷の人々からどのように思われるかという個人的面子よりも、自分の言動によって傷つけた父の心の方がはるかに重要であったのです。
そしてそれこそが、彼が「本心に立ち返っ」(17節)たことの確かなしるしでした。
 
「そこで立って、父のところへ出かけた」(20節)。この一句には、彼の回心が本物であったのだという、イエスの思いが強調されていると思われます。
 
 
3.弟息子は戻った父の家で、父の深い愛に気付いた
 
感動の描写は続きます。弟息子は故郷の父に対し、自分が帰る時間や期日どころか、帰るということ自体、伝えてはいませんでした。スマホもない、メールもない、電話も電報もない時代です。
 
しかし、空腹を抱え、杖にすがりながら遥か遠くをトボトボと歩いてくる息子を最初に発見したのは父の方でした。しかも、ぼろを着て、痩せこけた姿の、家を出て行った時とは姿様相が一変している息子を、です。
 
「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻した」(15章20節後半)。
 
 このことは、父が息子の帰還を日々、待ち望んでいたことを証しするものでした。父は息子が出て行った方向を毎日のように見ていたのでした。そのことはまた、父が息子のことを、彼が謝る前から受け入れていたことを示す行為でもありました。
 
では、息子の方はどうしたか。思いもかけない父の寛容な態度に図々しく謝罪を愛したのかと言いますと、そんなことはなく、異郷の地での決心をそのまま口にします。
 
「むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』」(15章21節)。
 
 これを十八節、十九節と比べてみてください。同じでしょうか、どこかに違いがあるでしょうか。
違いはあります。父との実際の対面の場面では、最後の「雇い人のひとり同様にしてください」(19節)がありません。息子は敢えてこれを省いたのでしょうか。
 
推論ですが、そうではないと思います。では、なぜ最後の言葉が息子の口から出なかったのか、それは父が最後まで言わせなかったからではないかと思うのです。
父は息子の悔い改めの言葉をみなまで言わせず、途中で遮って、僕たちに対し、息せき切って次々と指示をしております。そこに息子が帰ってきたことを喜ぶ父親の興奮ぶりが表れています。
 
「しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい』」(15章22節)。
 
 「最上の着物」(22節)は長袖の着物でそれは息子のみが着ることのできるものであり、「指輪」(同)もまたその家の息子のしるしでした。そして「はきもの」(同)です。当時、「僕」は裸足が普通でしたが「はきもの」はその家の家族だけが履くという習慣があったようです。
 
つまり、息子が、「親不幸を重ねて、あなたを裏切った私には、もう『あなたの息子と呼ばれる資格はありません』」(21節)と告白したにも関わらず、この父は彼を息子と認定している、あるいは失った息子の立場への復帰を宣言したということなのです。
 
弟息子はここに至ってなお一層、父の愛の人知を超えた無限とも言うべきその深さに気付くこととなります。そして生涯、父の傍にいて身を粉にして父に仕え、父に学んだことと思うのでした。
 
この弟息子は群れを離れて「いなくなった一匹」(4節)の迷い羊、「なくした銀貨」(9節)同様、「取税人や罪人たち」(1節)のことです。
彼らは「パリサイ人や律法学者たち」(2節)から見れば、確かに神に背き、律法の規定に違反し、罪の道を歩んでいると思われていた人々でした。
 
しかし、大切なことは自らの過ぎ去った日々の罪を、そしておのれの内なる罪性というものを悲しんでいるかどうか、悔いているかどうか、神を悲しませてきたという認識があるかどうか、なのです。
 
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いたこころを軽しめられません」(詩篇51篇17節)。
 
息子は「自由への逃亡」を図ったのですが、事実は「自由からの逃亡」であったことに気付きます。彼は父の愛の中にいるという「自由」へと帰還したのでした。
 
この譬えを通して、「取税人や罪人たち」が皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた(1節)ということは、家出をした弟息子が罪を悔いて父の許に帰ってきたことと同じなのだ、そして神は彼らを受け入れているのだ、ということを、イエスは「パリサイ人や律法学者たち」(2節)に理解させようとしたのでした。
 
譬えでは、息子の帰宅後間を置くことなく、その無事の帰還を祝う宴会が開かれました。
 
「また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(15章23、24節)。
 
 「パリサイ人や律法学者たちは」(2節)、イエスが、彼らがいう「罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」(同)ことを非難しましたが、イエスの食卓こそ、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24節)者たちを喜ぶ神の宴なのです。
 
「それから祝宴がはじまった」(15章24節後半)。
 
 日曜ごとの礼拝こそ、イエスが主催する「祝宴」(24節)であって、今現に、そこに自分が招かれているという事実を、驚くべき恵みとして感謝して喜び楽しむ者は幸いです。この「祝宴」の中にこそ、神との交わりという自由があるのです。
 
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ人への手紙5章1節)。