2013年10月20日 日曜礼拝説教
「ルカによる福音書の譬え話? 神から『愚かな者よ』言われた農夫の譬え―多くの財産が有っても、人の命に替えられるものでないことを悟れ」
ルカによる福音書12章13~21節(新約聖書口語訳109p)
はじめに
幼児だけでなく大人にも感動を与えてきたと言われるアニメ「アンパンマン」の作者のやなせたかし(本名 柳瀬 嵩)さんが、先週の日曜日に亡くなりました。享年九十五でした。
この方は聖公会の会員であったとのことですが、聖公会はアングリカン・チャーチつまり英国国教会の日本や中国における呼び名です。プロテスタント教会ですが、ローマン・カトリックとプロテスタントの中間に位置するとされる教会です。
作者の柳瀬さんが作詞したアニメの主題歌「アンパンマンのマーチ」の歌詞は、よくよく聞くと子供向けのアニメの主題歌としては非常に深遠で、考えさせられる内容を含んでいます。
特にその歌い出しは、喜びと痛みとが交錯する告白となっています。
そうだ 嬉しいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも
柳瀬さん自身、戦時中に徴兵されて中国大陸で従軍をした経験があるそうですが、実の弟さんは京都帝国大学在学中に自ら志願して海軍予備学生となり、戦争末期の昭和二十年に、海軍の特別攻撃隊の回天で出撃し、戦死をしたとのことです。
特攻と言いますと空の特攻を思い浮かべますが、海軍にも特攻がありました。その特攻に海軍が使用した兵器は、通常は潜水艦に搭載する魚雷を人間一人が乗り込めるように改造したものであって、海中から敵艦の横腹に突っ込んで爆破撃沈を狙う人間魚雷、回天でした。
回天は長さ約十五メートル、幅一メートルないし一メートル三十センチほどの大きさだったそうです。
空にせよ海にせよ、敗色濃くなった戦争末期とはいえ、切羽詰まった揚げ句の果てに考え出された特攻という愚策によって、多くの有為の若者がその尊い命を犠牲にしましたが、特攻に参加した彼らを衝き動かした思いは紛れもなく、愛する同胞、家族が住む祖国、故郷を守るためという純なる思い、熱き動機であったことは否定し得ない事実です。このような若者たちに対して私たち国民は満腔の敬意を示すべきであると思います。
想像なのですが「アンパンマンのマーチ」の冒頭の歌詞の「たとえ胸の傷が痛んでも」の「痛」みはひょっとすると、二十二歳の若さで散華(さんげ)した弟さんを思っての、作者の癒えることのない「胸の傷」、心の痛みを歌ったものなのかも知れません。
そして柳瀬さんは自らに、そして視聴者に問いかけます。
何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
何が君の幸せ 何をして喜ぶ
分からないままで終わる そんなのは嫌だ!
空腹で苦しんでいる者のために自らの顔をちぎって与えるアンパンマンにキリストを見出すという解釈もありますが、アニメでアンパンマンの声を担当している女優さんが訃報に接して、「やなせ先生はアンパンマンそのものでした」と語った言葉が印象的でした。
人は「何の為に生まれて、何をして生きるのか」という問いかけは、柳瀬 嵩という人の一生を貫く問いとなって、一過性の笑いではなく、心を揺さぶるような感動を生み出す「アンパンマン」という存在に凝縮をして子供たちや大人たちに届けられたのではないかと思います。
さて、今週取り上げるキリストの譬え話は、十三日の週報でも予告していましたように、「神から愚か者と呼ばれた農夫の譬え」です。
テーマは、人は何のために生まれて、何をして生きるのか」ということです。
1.貪欲という欲に警戒しなければならないのは、財産は人の命に替えられるものではないからである
いつものように、譬え話が語られた背景をみてみたいと思います。
遺産相続問題で揉めていると思われる人が、講話をしているイエスに向かって、「先生、親の遺産を一人占めしようとしている兄弟がいます、彼に遺産を公平に分配するよう説得をしてください」と嘆願をしたようです。
「群衆の中のひとりが、イエスに言った、『先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください』」(ルカによる福音書12章13節 新約聖書口語訳109p)。
当時のユダヤ社会では、律法の教師は律法を説き明かすだけでなく、イスラエルという共同体構成員の具体的な揉め事の調整、民事問題の調停にあたることもあったようです。
ですから、この人の要請は一般的には的外れなものではなかったのです。
しかし、メシヤとしてのイエスの持ち時間には限りがありました。そこでイエスは彼の願いを断ると共に、一見、公正な社会の実現を求めているようにも見える男の要求の背後に、もっと財産が欲しい、財産が多ければ多い程、安心して暮らすことが出来る、という個人的欲望があることを見抜いて、人を腐らす「貪欲」という欲望がもたらす弊害について、譬えを使って説き始めたのです。
そしてその譬えの中に秘められた真理こそが、その男にとって必要かつ適切な回答となったのでした。
「彼に言われた、『人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか』。それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』」(12章14、15節)。
なぜ、「貪欲」(15節)という欲望には注意と「警戒」(同)が必要なのかと言いますと、人というものは「たといたくさんの物を持っていても」(同)、それぞれに与えられている「人のいのちは、持ち物にはよらない」(同)からなのです。
これは、「人が有り余るほどの財産を所有していたとしても、人はその命まで自分の財産として所有することができるわけではない」、つまり、「所詮、消えゆく財産は人の命には替えられない」という意味です。
それが、富むことに対する過度の欲望である「貪欲」(15節)に注意、「警戒」(同)すべき理由なのです。
2.人が財を得るために創意工夫し、かつ刻苦勉励すること自体は推奨されるべき美徳である
では、財を得るべく懸命に働くということは空しいことなのかと言いますと、決してそうではありません。人が財を得るために創意工夫し、かつ刻苦勉励すること自体は推奨されるべき美徳です。
勤労あるいは労働は尊ぶべき美徳です。
明治維新後の日本がその国力において短期間で西欧列強に追いつくことができたのには、二つの理由があります。
一つは江戸時代すでに世界で文盲率が最も低いと言われたほど、一般庶民そして女性に至るまで、いわゆる「読み書き算盤」が身についていた、つまり教育の質が高かったのです。
明治政府によって明治五年(一八七三)、学制(義務教育制度)が公布されましたが、全国の就学率は学制発布の翌年の時点で二十八パーセント、十年後には五十パーセント、そして三十年後の明治三十六年(一九〇三)には九十三パーセントに達していました。
一九一〇年に日本が併合した半島の翌年(一九一一年)の普通学校(小学校)の生徒数が僅かの32,384人(学校数は306校)であったことを考えると、日本がいかに教育の普及に力を入れていたかがわかります。この伝統は現代の日本にも継承されております。なお、半島の場合、併合から二十五年後の一九三五年には生徒数は二十三倍の765,706人に、学校数は八倍の2,417校に激増しています。
今月の八日、経済協力開発機構(OECD)が十六歳から六十五歳を対象にして初めて実施した「国際成人力調査(PIAAC)」の結果を公表しましたが、それによりますと、三分野での調査のうち、日本は「読解力(言語能力)」と「数的思考力(計算能力)」の平均点が、参加した二十四の国と地域の中で断トツの一位であったということです。
なお、もう一つの調査の「情報技術(IT)を活用した問題解決能力」は十位で、この調査のトップはIT先進国と言われる韓国でした。
因みに、どんな場合でもランキングが大好きで特に自国と日本とを比べたがる半島の新聞を覗いたところ、「IT活用力」がトップという記事は大きく報じられていましたが、他の二つに関しては、「言語能力」はOECD平均とほぼ同じ、「計算能力」は十六位であったと、小さく(寂しく)報じられていました。
興味深かったのはその二つの調査で日本がトップであるという事実には全く触れられていなかったことです。悔しかったのでしょう。成績がもしも日本を上回っていたならば、きっと鬼の首を獲ったかのように「勝った、勝った」と騒いだことと思います。
日本の大人は、機械を使う分野では少々劣ってはいますが、いわゆる通常の学力とされる分野に関しては世界一なのです。
白人国家から劣等人種と蔑視されたアジア諸国の中で日本のみが西欧列強に追いついたもう一つの理由は、身分に関わりなく上から下まで汗水流して働くという、労働を尊ぶという伝統があったからです。
日本人の多くが定年を過ぎても働き続けるのは、もちろん生活のため、ということもあるでしょうが、働くということ自体が喜びだからなのです。
その点、半島には労働を卑しいこととした支配層の両班(やんぱん)の考え方が伝統としてあるようです。
そういう意味ではキリスト教徒が人口の四十パーセントを超えたと豪語する国ですが、学者によれば、マックス・ウエーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」は、韓国ではなく日本でこそ、結実したのだとのことです。
つまり、高い教育と、そして労働を尊ぶという伝統が質の良い労働者を生み出し、それが日本の驚異的な国力増強の基礎としての経済成長につながったというわけです。
イエスの譬えに出てくる金持ちの農夫も勤勉でした。その勤勉の結果として、「豊作」がありました。
「そこで一つの譬えを語られた、『ある金持ちの畑が豊作であった』」(12章16節)。
実りに実った畑を見た農夫は有頂天になることなく、沈思黙考します。そして、「これだけの物を収納する倉がない、どうするか、既存の倉を取り毀して収穫の全部を収納できる大倉庫を建造しよう」、そう考えます。
「そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておくところがないのだが』と思いめぐらして、言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまいこもう』」(12章17節)。
彼は自らが刻苦勉励して得た結果である「穀物や食糧」(18節)を腐敗や盗難あるいは火災から守るために、それらを収納、保管できるだけの大倉庫の建設を目論みますが、そのこと自体をイエスは非難してはいません。
彼は不正をして蓄財したわけではありません。汚職役人に袖の下を握らせて便宜を図ってもらったこともありません。
彼は人が眠っている時にも頭を巡らせ、創意工夫をし、昼はお天道様の下で汗みずくになって働き、その結果が「豊作」(16節)だったのです。
繰り返しますが、富むこと自体は悪ではありません。正当な勤労の結果の富に関し、周囲からあれこれ言われる筋合いのものではないのです。それをどう使うかは本人の問題です。
凧上げの実験から雷が電気であることを明らかにした人、また「時は金なり」と言ったということで知られているベンジャミン・フランクリンの場合、マックス・ウエーバーによりますと、自身は理神論者であった彼が厳格なカルヴァン主義者の父親から教えこまれた聖書の言葉が、箴言二十二章二十九節の「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え、怪しげな者に仕えることはない」という聖句だったそうです(マックス・ウエーバー著 阿部行蔵訳「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」138、9p 河出書房新社)。
なお、この聖句をリビングバイブルは「まじめにいい仕事をする人は、必ず出世します」と訳していますが、譬えの中の農夫は農業従事者として、「まじめにいい仕事を」したからこそ、「豊作」(16節)という結果を得たのです。
一般的に言えば、このお百姓さんは成功者の一人と言えます。しかし、重要な知識が彼には欠落していたのでした。
3.命の貸し主である神に対し、借りた命を返還する日が来ることを人は意識しなければならない
問題はこの後のことでした。彼は資産運用計画を立案したあと、自らに向かって言いました、「これだけの財産があるのだから、もう安心だ、人生計画は完成した、あとはこの財産で人生をうまくやって行こう」と。
「そして自分の魂に言おう。たましいよ、お前には長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」(12章19節)。
しかしこの後、彼は神から「愚かな者よ」と叱責されます。
「すると神が言われた、『愚かな者よ、』」(12章20節前半)。
ある人は、と言うより、多くの註解書が、彼が神から「愚かな者」(20節)と言われたのは彼がその財産を「わたしの作物」(17節)とし、また「わたしの倉」(18節)と、「私、私」と言って一人占めしようとした利己主義者であったからであり、「さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」(19節)と自らに言ったりした刹那的な人間であったからである、とするのです。
確かに原文を見れば「私の」「私の」とあります。しかし、「作物」は彼の所有物であり、「倉」も彼の名義であって、それを「わたしの」と言ったからといって、何が問題なのでしょうか。
むしろ、所有を曖昧にしていることが、他人の物であっても隙あらば我が物としたいと考える強欲な周囲、近隣との間に軋轢や混乱を生むことになるのです。それは竹島にせよ、尖閣諸島にせよ、日本が領有権を明確にして来なかったつけが回ってきたことで証明されました。
竹島は日本が主権を回復する前であったとはいえ、違法な李承晩ラインが引かれた一九五二年の段階で国際問題にすべきでありましたし、尖閣諸島の場合も実効支配をしているから大丈夫などと寝言を言っていないで、国により早い段階で島の整備、公務員の駐屯等を実行すべきでした。
ではこの金持ちの問題は何かと言うと、それは彼が「魂」を「自分の魂」(19節)といってその所有権を主張したことにあります。
「作物」(17節)も「倉」(18節)も彼の物です。しかし、「魂」(19節)は自分のものではないのです。ということは、「魂」が宿っていてこそある農夫の「いのち」もまた、「魂」同様、自分のものではないことになります。
ではだれのものか、それは神のものであって、人はいのちを真の所有者である神から借り受けているのです。
ですから、いのちの源である「魂」が神の許へ取り去られるとき、人は死を迎えることになるのです。そして死は突然、予告もなしに来ることもあります。
「すると神は言われた、『愚かな者よ、あなたの魂が今夜のうちに取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』」(12章20節)。
「あなたが用意した物は、だれのものになるのか」(20節)という神の言葉に対し、ある人は言うかも知れません。「遺産は法律に従い、相続人に相続されます」と。しかし、ここでイエスが言わんとしていることは遺産相続のことではないのです。
最初の主題に戻るのですが、財産に固執する「貪欲」(14節)な人の人生哲学は、「たくさんの物」(15節)が「いのち」(同)の保障であるというものでした。
これに対し、イエスが言わんとしたことは、「財産はあくまでも財産であって、それは『いのち』を保障するものではないし、『いのち』に替えられるものではない」ということだったのです。
では「いのち」をどう取り扱うべきか、イエスは言います。借りている「いのち」を私物化することが「自分のために宝を積」むことであり、反対に借りものである「いのち」は自分のものではないということ、「いのち」は神からの借り物であり、いつの日にか貸し主である神に返却する日が来るのだと言うことを常に意識して、これを有意義に使う、それが「神に対して富」むことなのだ、と。
「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(12章21節)。
「これと同じ」というのは、この金持ちの農夫と「同じ」生き方である、という意味です。
「アンパンマン」の作者の柳瀬さんが生前に書いた詩画に「願い」という題の作品があります。
もしまだ この世のために
ぼくが役立つことがあれば
生かしておいてください
なければ もういいです
神さま
この詩を柳瀬さんがいつ作ったのかはわかりません。しかし、まさに「自分のために宝を積」(21節)むのではなく、「神に対して富」(同)むという生き方を貫いた柳瀬さんは、九十四歳と八カ月の先週の日曜日、神さまから、「あなたはほんとうによくやった、もう十分だ、私の許に来てゆっくりしなさい」と言われて、神の許に召されたのだと思います。
「何の為に生まれて 何をして生きるのか」という問いに対する答えをしっかりと持って生き、そして神から授けられた才能を神さまと人々にしっかりと「役立」てて神の許に召された柳瀬さんこそ、「神に対して富」(22節)むという生き方を貫いた人であったのではないでしょうか。