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2015年8月2日 第三回日曜特別礼拝説教 祝福された人間関係? 人間関係における感情の制御 コロサイ人への手紙3章15節

15年8月2日 第三回日曜特別礼拝説教 

祝福された人間関係 その三
 
人間関係における感情の制御
 
コロサイ人への手紙3章15節(新約口語訳317p)
 
 
〈説教のアウトライン〉
 
1.否定的な感情
2.否定的な感情の制御
3.否定的な感情から肯定的な感情へ
 
 
はじめに
 
茶の湯といえば何と言いましても千利休(せんのりきゅう)です。
利休は豊臣秀吉の側近としてその寵愛を一身に受け、茶人としてその名を天下に知らしめた人物ですが、その晩年に至って秀吉の怒りを買い、切腹を命じられて、天正十九年、西暦でいえば一五九一年、京都で切腹して果ててしまいます。
しかも死後、利休の首は梟首(きょうしゅ)といいまして、一条戻橋(もどりばし)で晒し首にされます。
 
利休の何が時の権力者の逆鱗に触れたのか、そしてなぜ、晒し首にされる程の怒りを買うことになったのかということについては諸説があり、確定していませんが、どのような理由であったとしても最終的には利休の年齢に関係するといわれています。
 
つまり利休は時の権力者の要求に対し、どんな時にも柔軟に対応していたけれど、高齢になるに従って忍耐力あるいは自己抑制力が衰えていき、ついに権力者の忌諱(きき、きい)に触れるような行動、態度、あるいは表情を取ってしまったのではないかというわけです。
確かにこの年、利休は数えで七十歳となっていました。
 
なお、朝鮮半島への出兵というオペレーションもそうですが、この時期の秀吉の判断、行動は異常ともいうべきものであって、自らの欲望や感情を制御できないような状態に陥っていたと思われます。
 
利休を切腹させたこの年、秀吉は大陸の明(みん)の征服を見据えて、半島の朝鮮出兵を決め、その翌年にそれを決行することになるのですが(文禄の役)、若い頃の怜悧な判断や才覚は、老齢となったこの頃にはすっかり影を潜めてしまっていたようでした。
 
一方、利休の方も高齢になるに従い、そのような秀吉に合わせるエネルギーが枯渇してきていて、そのためにそれまで抑えに抑えてきた秀吉への否定的感情が、つい表面化してしまったのではないでしょうか。
 
それにしましても梟首(きょうしゅ)という仕打ちに、「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉を思い起こさせもしますが、どちらにしましても、人間関係の背後には理屈では割り切れない感情という不合理なものが存在していることは事実です。
 
そこで「祝福された人間関係」の第三回目は、「人間関係における感情の制御」としました。
「制御」とは「コントロール」という意味です。「祝福された人間関係」を築くには、感情の制御、とりわけ否定的感情のコントロールが何としても重要な要素となります。
そして出来れば制御というレベルを超えて、否定的感情を肯定的感情へと昇華させることができればベストと言えると思われます。
 
 
1.否定的な感情
 
感情には二つの側面があります。一つは肯定的感情、そしてもう一つが否定的感情です。
これを簡単に言ってしまえば「好き嫌い」ということでしょう。多くの場合、好意を抱いていれば、人が持っている多少の欠点には目を瞑ることができますし、第一、気になりません。
ところがひとたび嫌になれば、言うこと為すことがいちいち、気に食わなくなってきます。つまり、否定的感情に支配されるようになります。
 
人間関係を損なう否定的な感情としては、三つが挙げられます。
一つは「敵意と憎悪」、二つ目は「羨望と嫉妬」、そして三つ目が「怒りと怨み(恨み)」です。
 
このことに関して、使徒パウロはそれらを生まれつきの人間が持つ良くない感情、あるいは性向として問題視します。
 
「肉の働きは明白である。すなわち、…敵意、争い、そねみ、怒り、…ねたみ、…および、そのたぐいである」(ガラテヤ書5章19~21節前半 新約聖書口語訳299p)。
 
分かり易い例をあげれば、半島にある隣国との関係です。
テレビドラマの「冬のソナタ」からヨン様ブームが起こり、これを契機として韓流ブームが特に年配の婦人層に浸透していったのがおよそ十年前のことでした。
しかし、「韓流ブーム」は潮が退くように退いていき、代わって「嫌韓ムード」が各年代に広がってきました。
 
引き金になったのは前の大統領が落ち目の支持率を上げるため、紛争地である竹島(韓国名 独島)に上陸したことと言われていますが、それだけではありません。
 実はその直後、当該大統領は韓国教員大学校を訪問した際、席上、日本の天皇について言及し、「(日王が)『痛惜の念』などというよく分からない単語を持ってくるだけなら、来る必要はない。韓国に来たいのであれば、独立運動家を回って跪(ひざまず)いて謝罪すべきだ」と言ったということが日本に伝わったことが、多くの日本人の怒りを引き起こすこととなったのでした。
 
この「跪いて謝罪する」というのは、韓国において、罪人が謝罪をする際に、足を縛って跪かせ、土下座をさせる刑罰を連想させる表現です。
国民の歓心を買おうとした結果の発言かも知れませんが、非礼にも程がある大統領発言でした。
 
これがきっかけとなって、同国の日本に対する過剰なまでの敵意や反感が、実は根拠に乏しいものであること、同国が主張するいわゆる歴史的事実なるものが、同国がそうであるべきだと欲した見方にすぎないものであることを解明した雑誌や書籍が、その後本屋さんの店頭に並ぶようになりました。
 
特に、執拗に謝罪と賠償を要求されてきた、いわゆる「従軍慰安婦」問題の場合、日本の官憲や軍部による強制連行説がデマでしかなかったこと、また「慰安婦」なるものは当時、どの国にもあった合法的な戦時売春婦であったことなどが明らかとなってきたことも同国に対する反感を醸しだす契機となりました。
 
とりわけ、それまで連日のようにテレビ放映されていた韓流ドラマに描かれている同国の家庭や男性像が、実態や実像とはかけ離れた美化されたものであることが指摘されるようになったこと、また、歴史ドラマにしましても、実際の歴史であるかのように描写された壮大な物語が、史実とは全く異なった架空のものでしかないことが歴史学者によって明らかにされたことなども、嫌韓ムードに拍車をかけました。
 
さらに同国があらゆる機会に自国の領土と主張する竹島(韓国名独島)が、日本の主権回復の直前に同国により火事場泥棒的に横奪され、不法占拠された日本固有の領土であることなどの歴史的事実が、ネットを通して、それまで日本がすべて悪い悪いと信じ込まされてきた若い人々が知ったことも、同国への気持ちを冷ますきっかけとなったようです。
 
厚化粧が剥がれて素顔を見た以上、そしてかかっていた催眠が解けた以上、余程のことが無い限り、以前のような親韓ムードに戻ることはもうないでしょう。
 
同国の反日は、歴史的事実の無視、誤認を基にして立案された国家的政策により、被害者感情と加害者(と思い込んでいる)への「敵意と憎悪」によって強固なものとなっており、そこに何をしても勝てない日本という国への「羨望と嫉妬」と、根拠のない「怒りと怨み」という否定的感情が混入されて岩盤のようになっているとされます。
 
否定的感情というものを放置し、あるいは煽ってきた結果が、隣国の惨状であり、こじれてしまった日韓関係です。
そして、これを個人的レベルにおいて、「以て他山の石とする」ことが、今の私たちが学ぶ教訓です。たとい仮に、正当性が有ったとしても、否定的感情というものを放置していれば、ついには彼の国のようになってしまいかねないからです。
 
 
2.否定的な感情の制御
 
では、放置すれば硬化しあるいは増殖をしてしまう否定的感情は、どのように取り扱うべきでしょうか。
同国の場合、まず、事実はどうなのかという歴史的真実というものを知ることから始めることが第一歩となります。
 
そしてこの原則は人と人との関係にも適用できます。現在のどうしようもない否定的感情は、ひょっとすると誤解に基ずくものではないか、一方的な思い込み、一面的な見方によるものではないか、という自己吟味です。
 
吟味をした上で、否定的感情の原因が確かに相手方にあるとなった場合はどうするか、ですが、その場合、否定的感情に流されるのではなく、これを制御するという段階に至ることが必要です。
 
「制御する」と申しましたが、聖書で唯一、これが使われている箇所があります。ヤコブの手紙です。
 
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる」(ヤコブの手紙3章2、3節 362p)。
 
 ここで「制御する」(2節)と訳された原語の動詞は「カリナゴーゲオー」ですが、これは「手綱、くつわ」と「導く」という言葉の合成語で、意味は「手綱をとって導く」「轡(くつわ)をつける」です。
 ヤコブの手紙では言葉が問題となっていますが、否定的感情が言葉となった時、それは人の心を傷つけ、ダメージを与える悪口となります。
 
ところで、悪口が最も発達しているのが大陸の大国と、半島の隣国だそうです。金文学と金明学という兄弟が二〇〇四年に共著で出版した「韓国民に告ぐ」という本があります。
 
著者は中国で生まれた朝鮮族三世であって、中国の大学を出てから日本で研究生活を送り、祖父母の故郷である母国・韓国とを何度も行き来して、この三つの国の文化を客観的に眺め渡すという条件下で研究活動、著作活動を続けている研究者ですが、これによりますと、韓国人がすぐ口にするのが「シッパル(くそったれ)」という悪口であって、韓国は世界一の「悪口大国」なのだそうです。
 
中国とともに、世界的に悪口がとりわけ発達したのが韓国である。逆に日本はあまり他人を悪く言わないから悪口のボキャブラリーは極めて貧弱である。
わたしがこのように率直に言うと「このシッパル!」と韓国人に悪態をつかれるかもしれないが、韓国が日本よりも発達しているところがあるとすれば、まさしくそれは悪口だけだ(金文学 金明学著「韓国民に告ぐ 日本在住の韓国系中国人が痛哭の祖国批判」181p 祥伝社黄金文庫平成14年)。
 
 言葉というものは感情の発露ですから、言葉の制御とは感情の制御に他なりません。
つまり、感情とりわけ、相手を傷つけ、結果としてブーメランのように自分に返ってくる否定的感情を制御することが、成熟した人間が第一になすべきこととなります。
 
感情は言葉に出さなくても態度や表情に出る場合があります。千利休が秀吉に面と向かって言い逆らうとも思えませんから、抑え切れぬ否定的感情が態度や表情に出たのでしょうか。
自らの地位の安定を第一とする独裁者は、家臣の反応に敏感です。完璧に利休が演じてきた従順な態度に、ついに破れが生じたのかも知れません。
 
ところで明らかに相手方に問題が有るとする場合、紛争を解決するには問題点を指摘して反省を求め、行動や言動を変えてもらうことがベストです。
 
しかし、一向に変わらないという場合、二つの対応が考えられます。一つは適当な距離を置く、という対応です。
 
そしてもう一つが自分の感情、とりわけ怒りや憤りという、それは誰がみても確かで正当な感情を制御、コントロールして、理性的に対応するという道です。
 
具体的には、怒りの対象が近い関係にある場合、たとえば家族のような場合、これが家族ではなく、他人だったらどうするか、と考えることです。
先週もお話ししました、妻と共に参加していた勉強会で心に残っている教訓があります。
家族には他人行儀に」というものでした。
 
講師が言いました、
 
家族だと思うと照れや気恥かしさから、あるいは甘えから、すべき挨拶をしないことがある。
しかし、他人ならばお礼にせよ、謝罪にせよ、きちっと挨拶をする。
また、家族だと思うから遠慮なくすぐに怒りを言葉にしてぶつけてしまう。
しかし、それが他人ならばどうだろうか。怒りをぐっと堪えて、たとい問題を指摘するにしても、頭ごなしに怒鳴るのではなく、諄々と説くであろう。
だから「家族には他人行儀に」、それが円満な家族関係を構築する秘訣である。
 
確かに「親しき仲にも礼儀あり」です。聴きながら「成る程」と感心した記憶があります。
 
 では赤の他人に対して抱く否定的感情は、どのように制御すればよいのかということですが、制御の前の段階で、自らの感情を抑制するということが始まりです。
 
それが自分を変えるということであって、その場合の自分を変えるとは、自分の度量、キャパシティーを広げるということです。
その上で理性と言葉とを使って相手の問題点を指摘し、変化を求めます。それを訓戒と言います。
 
「そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、…」(コロサイ人への手紙3章16節 317p)。
 
 「教え」(16節)るということは、相手が持っていない知識を与えることです。それに対して「訓戒」(同)とは、相手の間違いを指摘した上で、矯正へと導くことを言います。
 
ただ、プライドや面子で、自らの非を認めない人、民族、国家の場合、成功するとは限らないのがこの方法です。そういう意味では相手を選ぶという要素も必要であって、時には自身の中に湧き上がる否定的感情というものを制御するということ、つまり、自らの度量を大きくすることに努めることが求められます。
 
 
3.否定的な感情から肯定的な感情へ
 
 最終的には否定的な感情を単に制御するというのではなく、それを肯定的な感情へと変える、という対応ができればベストです。
 
本日のメインテキストです。
 
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ人への手紙3章15節 316p)。
 
 ここで言う「あなたがたの心」(15節)の「心」の原語は「カルディア」で、元々は心臓のことでした。
古代ギリシャ人は心臓に心があると思っていたようです。そしてこの「心」とは感情のことを意味します。更にここで使われている原語は複数形ですので、様々の感情という意味になります。
 
その一つ一つの感情に「キリストの平和」(同)を「支配」(同)させなさいと書簡の著者は言います。
 「キリストの平和」の「平和」とは平安という意味です。
 
地上にいた時のキリストは勿論、人間ですから理不尽な事態や現象を見れば動揺もし、感情が波立ち騒ぐという時もあったでしょう。
 
しかし、海の上は嵐によって波立っていたとしても、海の深い底は穏やかであるように、イエスの心の深い所は「平和」が「支配」しておりました。
なぜならば、全能の父なる神が自身と共にいて、万事を益としてくださるという確信を、イエスが持っていたからでした。
 
 そして、誰でもキリストを主と仰ぎ、心の中に迎え入れれば、「キリストの平和」が私たちの波立つ心を支配して、否定的感情を肯定的感情に変えてくれるのです。
 
 十五節について英国の聖書学者バークレーは興味深い解説をしています。
 
(書簡の著者の)パウロの言っていることを文字通りにとれば、「神の平和をあなたがたの審判者としなさい」ということである。
パウロが用いている動詞は、運動用語からきている。
競技中、何か問題が紛糾した場合、それに決定を下す審判員にあてて使われることばである。
もし、イエス・キリストの平和が心の中で審判員となるならば、わたしたちの感情が対立したり、同時に二つの指示を受けたとき、…キリストの決定がわたしたちを愛の道に立ち続けるようにして下さる…」(ウィリアム・バークレー著 鳥羽徳子訳「ピリピ・コロサイ・テサロニケ」230p ヨルダン社)。
 
 バークレーによれば「パウロが用いている動詞」つまり「支配する」(15節)という動詞は「運動用語からきている」のだそうです。
 今、中国において、日本、韓国、北朝鮮、中国の四カ国により、東アジア選手権というサッカーの国際試合が行われています。
確かにサッカーの試合を観ていますと、審判には当該の試合を「支配する」権限が与えられていることがわかります。
 
ということは、「わたしたちの感情が対立したり、同時に二つの指示を受けたとき」には、「イエス・キリストの平和が心の中で審判員となる」ことによって、「キリストの決定がわたしたちを愛の道に立ち続けるようにして下さる」、つまり、否定的感情に代えて肯定的感情が心を支配するように変えてくださることを期待してもよい、という訳です。
 
否定的感情という暴れ馬に轡をはめ、あるいは手綱を操ることによって、自在に自らを「制御する」ことができれば、多くの問題は解決するかも知れません。
 
しかし願わしいのは感情の抑制あるいは制御を超えて、否定的感情を肯定的感情に代えてもらうことです。
「キリストの平和があなたがたの心(感情)を支配するようにしなさい」(15節)というコロサイ人への手紙の勧めは、否定的感情がついには肯定的感情に変えられるという希望を私たちに抱かせます。