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詩篇を読む? 滅びの嵐の過ぎ去るまでは、神よ、私はあなたをわがシェルターとします 詩篇57篇1~3節

16年7月24日 日曜礼拝説教 

 

詩篇を読む? 「滅びの嵐の過ぎ去るまでは、神よ、私はあなたをわがシェルターとします」

 

詩篇57篇1~3節(旧約聖書口語訳)

 

はじめに

  先週は詩篇四十六篇から、神こそが弱い立場にある者たちにとっては、永遠に変わらぬ「避け所」つまり避難所であることを確認しましたが、「避け所」を避難所とするよりもむしろ、シェルター、と呼んだ方がより適切な場合もあります。 

例えばDV(ドメスティック・バイオレンス)、つまり配偶者などからの暴力や虐待で苦しんでいる女性を一時的に緊急避難させる、いわゆる隠れ家などを指す場合です。
そこで今週は神をシェルター、隠れ家として呼び求めた詩篇の告白を通して、人生における危急の際の適切な逃れ方について学びたいと思います。タイトルは「滅びの嵐の過ぎ去るまでは、神よ、私はあなたをわがシェルターとします」です。

 

1.滅びの嵐から弱者を匿う堅固なシェルター
 
 テレビの草創期に、「事実は小説よりも奇なり」という決まり文句で始まる番組がありました。番組名は「私の秘密」で、司会者は高橋圭三というNHKの国民的アナウンサーでした。
 
 ところで人は時には「事実は小説より奇なり」を地で行くような出来ごと、まさに想定外ともいうべき災いに遭遇する場合があります。
 とりわけ、人に対して誠実に接し、義務を果たしてきたにも関わらず、その相手から理不尽な仕打ちを受けて二進も三進もいかなくなってしまったなどという場合などは、思わず、神も仏もいないのか、などど叫びたくなることでしょう。
 
 実は統一イスラエルの初代の王となったダビデも、その若き時代にそのような悲哀を経験したものでした。
 ダビデがまだ羊飼いであった時、彼は戦場において単身、自ら進んでガテのゴリアテという巨人に戦いを挑み、そして人々の予想に反してこれを撃破するという武勲を挙げました。(3月16日日曜礼拝説教「信仰を生きた人々? 人の目には不可能と見えることを可能にする信仰ーダビデは大能の神への信仰によって、巨人のゴリアテに敢果に立ち向かった」)。
 
このあと、その卓抜した勇気と軍事的能力を見込まれて軍人として働くようになったダビデは、サウル王に対して忠誠を果たし続け、文字通り命がけで戦場に赴き、死地を潜り抜けてサウル王に勝利と栄光をもたらしました。
 
「ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした」(サムエル記上18章5節)。

  ダビデがいなかったならば、彼の貢献がなかったならば、王制に移行したばかりのイスラエル王国は根底から揺らぎ、国家体制も崩壊した筈でした。

 
苛烈な戦場で数々の勲功をあげたダビデは、イスラエルの民衆から圧倒的な支持を受け、サウル王もまた彼を信任して娘の婿とします。ダビデの青年期は順風満帆でした。
しかし徐々に暗雲が立ち込めてきます。
 
民衆によるダビデへの高い人気ぶりに対して、サウルは警戒心を抱き始めます。自分はダビデによって王の地位を奪われてしまうのではないか、と。
疑心暗鬼になり、嫉妬心に駆られるようになったサウル王は、ダビデを亡き者にしようとし、そのためダビデは国中を逃げ回ることになってしまいます。
何とも理不尽な出来事です。詩篇の五十七篇はそのような逃亡中のダビデが、死地の中で読んだものと伝えられています。
 
「これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの」(詩篇57篇表題後半 796p)。
 
 この「ダビデが洞にはいってサウルの手をのがれた時」(表題)とは、サムエル記上の二十四章に書かれている事件を指したものと考えられます。
 サウルは、自分の前から逃亡したダビデが死海の西のユダの荒野にいることを情報によって突き止め、自ら三千の兵を率いてダビデ捜索に向かいます。
 
 
 
 そして途中、サウルは用を足すために大きな洞穴に入るのですが、何とその穴の奥にはダビデとその従者たちが息を殺して隠れていたのでした。
 ダビデにとっては災いの根を絶つ絶好の機会です。しかし神を恐れるダビデは、サウルは神が立てた王であるとして、従者たちの進言を受け入れず、サウルを見逃したのでした。
 
「ダビデは従者たちに言った、『主が油を注がれたわが君(きみ)に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない』。ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった」(サムエル記上24章6、7節 420p)。
 
ダビデは神を畏れ敬うがゆえに、すべてを神に委ねていたのでした。そのために苦難は続きます。
 ダビデの寛容な取り扱いに感動して一度はダビデの追撃の放棄したかに見えたサウルでしたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、また性懲りもなくダビデを追い続けます。
 そのような中で挙げられた神への祈りが詩篇五十七篇であったとされます。
 ダビデは祈ります。
 
「神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びの嵐の過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰をわたしの避け所とします」(57篇1節)。
 
 ここで「滅びの嵐」(1節)と訳された言葉は、新共同訳では「災い」、新改訳では「滅び」と訳されていますが、まさにそれはダビデにとって、彼の人生を壊滅させる「滅びの嵐」でした。
 
 人は真面目に生きているのに、謂われのない誤解で苦しむ場合があります。誠実を尽くしているのに嫉妬心や敵意の的になる場合があります。
 ダビデはサウルに対し、敵意には敵意で対抗することも出来ました。しかし彼は煩悶の末に従者の勧めを振り切って、神を、神の「翼の陰を」(同)自らの緊急の避難所、隠れ場、シェルターとすることを選んだのでした。
 
 人生、時には思いもよらないような「滅びの嵐」に襲われる場合があるかも知れません。でもそんな時、この詩篇の作者のように兎にも角にも、「滅びの嵐の過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰をわたしの避け所とします」(同)と告白することのできるような隠れ家、シェルターを持っている者は幸いです。

 

2.いと高き天の神こそが真のシェルター
 
では、死地においてダビデがシェルターとして選び、助けを求めた「神」(1節)とは如何なるお方だったのでしょうか。それは寄り縋る者を死地から確かに救い出すことのできる、いと高き所にいます天地の主なる神でした。
 
「わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべてのことをなし遂げられる神に呼ばわります」(57篇2節)。
 
 どのような権力者もまた、いと高き神を必要とします。
 確かに弱体化しつつありますが、それでも今日、世界でもっとも影響力のある者といえばそれは、米国の大統領です。 
 
 このたび、共和党の大統領候補に指名された人物はかつて、ローマ法王から「彼はクリスチャンではない」と批判された際に、「いや、私は神を信じるクリスチャンである」とあわてて告白したものでした。
 「クリスチャンではない」などという烙印をローマ法王から押されたりしたら、キリスト教国のアメリカで大統領になることはまず不可能だからです。
 
 先週開催された共和党の大会で、大統領候補から副大統領候補にインディアナ州知事が指名されました。
 副大統領とは、現職の大統領に万が一のことがあれば、直ちに大統領に昇格あるいは、臨時に大統領権限を代行するという極めて重要な職務です。
 
 だからこそ指名された人物は指名受諾演説の冒頭で自らを「クリスチャン」、そして「コンサヴァティブ(保守派)」と告白した上で、三番目に「リパブリカン(穏健な共和党員)」であることを表明することによって、自らが副大統領に相応しい者であることを宣言したのでした。
 
この人が自身を「(穏健な)共和党員」であるとしたのは大統領候補に対するアレルギーを緩和するためだと思われますが、「保守派」といいますのは思想的には社会主義を排して建国以来の米国の伝統を保守するということです。
具体的には同性婚などには反対、という立場です。
 
そして彼が真っ先にした「私はクリスチャンである」という自己紹介は、唯一の神こそが世界を創造した創造主であって、その神の御子キリストが人類の救世主であることをシンプルに信じるキリスト教信者である、という意味なのです。
 
四十代大統領のロナルド・レーガンは、日曜礼拝にはそれ程熱心に出席してはいなかったそうですが、それでも三十五年前の暗殺未遂事件による手術の直後、二階に住んでおられる偉大なお方から命をいただいた。この命を改めて国のために捧げる」と語ったと伝えられています。
 
この「二階に住んでおられる偉大なお方」とは勿論、米国民の多くが信じ仰いでいる「いと高き神」(2節)のことでした。
 
重要な決断を迫られる立場にいる者は批判と攻撃に晒されますが、だからこそ、「いと高き神」(同)を仰ぐと共に、確かなシェルターの許に身を避け、あるいはそのシェルターによって守られているという実感を持つことが常であったのでした。
 
翻って考えれば、私たちもまた、たとい平凡で目立たない存在であったとしても、いつ何時、理不尽な目に遭わないとも限りません。そんな時、「いと高き神」(同)の「翼の陰を」(1節)を「わたしの避け所」(同)、堅固なシェルターとして持っているものは幸いです。
 
この「いと高き神」に向かって救いを「呼ばわ」(2節)る時、私たちは混乱と苦しみの中にあっても、「滅びの嵐の過ぎ去るまで」(1節)、安全と平安の中で憩うことができるのです。

 

3.いと高き天の神が、尊い救済を実現した
 
 では、この「いと高き神」ご自身に向かって呼ばわる者への救いを、どのようにして「なしとげられ」(2節)のかと言いますと、天から、すなわち、神の住まいである天から救いとして、「いつくしみとまこととを送られる」ことによって助け給うのです。
 
「神は天から送ってわたしを救い、わたしを踏みつける者をはずかしめられます。すなわち神はそのいつくしみとまこととを送られるのです」(57篇3節)。
 
 神が天から送るものの一つである「いつくしみ」(3節)は、新改訳では「恵み」と訳されていますが、これは不変の愛を表す法律用語でもあります。
 それは相手が裏切らない限り、契約の当事者はその相手に対して変わることのない忠誠を尽くすことを意味します。
 
 天の神は御子イエス・キリストによって、ご自分を信じる者との間に永遠の同盟関係を結んでくれました。
 すなわち、神はご自分に縋る者に対しては「いつくしみ(恵み)」という不変の愛で、全力を尽くして救済の手を伸ばしてくれるのです。
 
 真実を意味する「まこと」(同)も、「いつくしみ」同様、契約の基本です。だからこそ、「いつくしみとまこととを送られる」(3節)という告白が意味するところは、神に寄り縋る者に対して神ご自身が契約の当事者として、あたかも天から下ってくるかの如く、関与してくれるということなのです。
 
 ダビデの場合、サウル王との理不尽な確執の中に神自身が介入し、その神をわがシェルターとして寄り頼むダビデを、サウルに代えて統一イスラエルの初代の王としたことがその証しです。
 
 そして血統から言えばそのダビデの子孫として誕生したのが、神の御子のイエス・キリストこそまさに、神が人間世界に送られた恵みという「いつくしみ」と、真実な神の「まこと」が形となって現われた存在であったのでした。
 ヨハネの福音書の冒頭の言葉です。
 
「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとりごなる神だけが、神を現わしたのである」(ヨハネによる福音書1章17、18節 新約135p)。
 
 「めぐみとまこと」(17節)すなわち、詩篇の作者が告白した、「神が天から送ってわたしを救い」(57篇3節前半)給う「いつくしみとまこと」(同)は、イエス・キリストという形をとって私たちにもたらされたのでした。
 
 しかもこのキリストは聖霊においてこの地上に留まり、しかも信じる者の内に住みこんでいてくださいます。
 そういう意味においても、神を人生のシェルター、隠れ家とする者ほど幸いなものはないのです。
 
 とりわけ、吹き荒ぶ「滅びの嵐」(1節)に弄ばれていると感じる方々は今こそ、「滅びの嵐の過ぎ去るまでは」(同)キリストの「翼の陰を」(同)隠れ家、シェルターとすることにより、確かな平安を得ていただきたいと思います。