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2016年3月20日棕櫚の日曜日・受難週礼拝説教 キリストは私たちの罪を償う生け贄となられた ヨハネの第一の手紙2章1、2節

16年3月20日 棕櫚の日曜日・受難週礼拝説教

キリストは私たちの罪を償(つぐな)う生け贄(にえ)となられた

ヨハネの第一の手紙2章1、2節(新約聖書口語訳376p)
 
 
はじめに
毎年この時期になりますとついつい口から出てしまうのが、「クリスマスは固定日であるのに、キリストの復活を祝うイースターは毎年変わる」という愚痴?です。
イースターは西暦三二五年の教会会議において、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」と定められました。
 
ですから本年のイースターは来週の三月二十七日です。因みに昨年は四月五日でした。この結果、復活日の一週前の日曜日におけるキリストのエルサレム入城の日も毎年変わり、今年は三月二〇日で、キリストが十字架にかけられた受苦日も今週の三月二十五日ということになります。
 
ところで欧米では十三日の金曜日は不吉な日とされています。十三日が不吉、という理由ははっきりしませんが、金曜日はキリストが処刑された日だからということなのだそうです。
でもこの日は不吉かと言いますとそうではなく、有り難い日なのです。正確には西暦三十年四月七日の金曜日にエルサレム郊外の死刑場で起こったことは、人類にとっても個人にとっても運命を変えるような大きな出来ごとでした。
 
そこで本年の棕櫚の日曜日・受難週礼拝では、キリストの死は私たち全人類の罪を償う生け贄としての死であったということから、キリストの処刑の日が不吉どころか全人類救済の道が開かれた、特別に有り難い日であることを確認したいと思います。
 
 
1.「的外れ」という罪と、その罪の赦し
 
教会に行き始めた頃、大衆伝道者のビリー・グラハムによるキリスト教入門書、「神との平和」を読んで、キリスト教の教えを大まかに理解することができました。中でも罪についての解説は印象深く記憶に残っています。
 
ある人は言う、「罪という言葉は耳触りが悪い。もっと別の言い方がないか」と。でも、毒が入っている瓶には、「ポイズン(毒)」と表示されているからこそ誰もが用心する。
 
成る程、と思いました。確かに罪は罪なのです。罪をきれいな言葉で表現した場合、却って危険です。
 
罪というものをはっきりと、そして正確に認識した上で、罪に対する正しい対応を学ぶこと、そこにこそ、人の幸せがあるといえます。
 
「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである」(ヨハネの第一の手紙2章1節前半 新約聖書口語訳376p)。
 
 聖書を、そしてキリスト教を正しく理解するためには、「罪」とは何であるのか、ということを正しく理解することが必要です。
  「罪」(1節)の原語は「ハマルティア」で、これは標的を外す、目的から外れることを意味する「的外れ」のことです。人間は原罪の結果、「狂った弓のように」なってしまったのです。
 
「しかし彼らはいと高き神を試み、これにそむいて、そのもろもろのあかしを守らず、そむき去って、先祖たちのように真実を失い、狂った弓のようにねじれた」(詩篇78篇56、57節)。
 
 この詩篇の指摘は、具体的には、エジプトのにおける奴隷状態から解放されて約束の地に導かれながら、恩人である神に背いたイスラエルの民についての言及ですが、それはまた、人類全般に当てはまる指摘でもあります。人はあたかも「狂った弓のようにねじれ」(57節)曲がってしまったのでした。
 
  「狂った弓」から放たれる矢は、どんな的に当てようと試みても、射る矢、射る矢がすべて、的外れになってしまうのです。そのためにたとい、罪を犯すまいと思ったとしても、言うことやることがすべて「的外れ」つまり、「ハマルティア」状態になって、神と人とを傷つけてしまうという結果を生み出します。
 
 そこで重要なことは、自分は「狂った弓のよう」なもの、罪ある者であるという自覚、認識があるかどうかです。それを罪責感あるいは罪意識と言います。人間が上等か下衆(ゲス)であるかを見分けるには、この罪責感というものを持っているかどうかで弁別することができます。
 
 内村鑑三もまた、強い罪責感の持ち主でありました。
 内村鑑三が三十三歳の時に執筆、出版した「基督信徒の慰(なぐさめ)」は、彼がそれまでに経験した、四つの苦難における慰撫の経験を語ったものなのですが、第二章の「國人に捨てられし時」、第三章の「基督?會に捨てられし時」、第四章の「事業に失敗せし時」に先立って記されている苦難が、第一章の「愛するものの失せし時」であって、そこには執筆の二年前に逝去した亡き妻に対する深い悔恨の情と罪意識が溢れています。
 
余は余の失いしものを思う毎に余をして常に断腸後悔(だんちょうこうかい)殆(ほとん)ど堪ゆる能(あた)わざるあり、彼が世に存せし間余は彼の愛に慣れ、時には不興(ふきょう)を以て彼の微笑に報い、彼の真意を解せずして彼の余に対する苦慮を増加し、時には彼を呵責(かせき)し、甚だしきに至りては彼の病中余の援助を乞うに當(あたり)て―假令(たとえ)数月間の看護の為めに余の身も精神も疲れたるにせよ―荒(あら)らかなる言語を以て之に応ぜざりし事ありたり、彼は渾(すべ)て柔和に渾(すべ)て忠実なるに我は幾度(いくたび)か厳酷(げんこく)にして不実なりしや、之を思えば余は地に恥ぢ天に恥ぢ、報ゆべきの彼は失せ、免(ゆるし)を乞うの人はなく、余は悔い能(あた)わざるの後悔に困(くるし)められ、無限地獄の火の中に我身で我身を責め立てたり(内村鑑三著「基督信徒の慰」8p 内村鑑三集 明治文学全集39 筑摩書房)。
 
 特に、「彼」つまり妻の愛の配慮を当然のこととし、妻の微笑みに対しては不機嫌な態度で接したこと、あるいは妻が病の中で手助けを求めた際には、乱暴な言葉でこれに対したことなどを思い出すにつけ、「無限地獄の火の中に」我と我が身を責め立てる思いであった、と述懐しております。
 
 この内村鑑三のように、自らの「罪」の意識に苦しむ私たちのすべてが、「ハマルティア」という「罪を」繰り返し「犯さないようになるため」(1節)の「助け主」として登場してくれたのが、「義なるイエス・キリスト」でした。
 
「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのための助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(2章1節後半)。
 
 「罪を犯す者」(1節後半)とは、罪を犯すまいと思っていても、罪を犯してしまう者、つまり私たちのことです。
 ここで使われている「罪」は複数形です。つまり、犯すまいとしてもついつい犯してしまう様々の種類の「罪」を、明確に自身の「罪」と認めた上で、それらの「罪」をに告白すれば有り難いことに、神による赦しときよめとが即座に与えられるのです。
 
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」(1章9節)。
 
 「罪」を誰に懺悔、告白するのかといいますと、教誨師にではなく、イエス・キリストに対して、です。勿論、
 人を傷つけたような場合には、先ず被害者に対して謝罪することが必要なことは、法的にも倫理的にも必要であることは論を俟ちませんが、最も大事なことは聖なる神さまからの「ゆるし」(9節)です。
 
 
2.キリストは私たちの罪のための贖いの供え物、償いの生け贄となられた
 
罪をキリストに告白すればゆるしてもらえるのはなぜなのか、と言いますと、それはキリストが私たち一人一人の罪のために、完璧な償いをしてくれたからです。
 
「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である」(2章2節前半)。
 
 キリストと雖も、勝手に人の罪をゆるすことは出来ません。たとえば子供がボール投げをしていて、隣家の窓ガラスを割ってしまったとします。その場合、「ごめんなさい」と謝るだけでは済みません。過失を詫びると共に、割ってしまったガラスの代金を弁償するのが常識です。人の罪も謝るだけでは済みません。償いが必要です。
 
 でも、どんな聖人も人の罪を償うことは出来ません。そこで「的外れ」という人間の罪のために、罪を犯したことのないイエス・キリストが、「償いの生け贄」となってくれたのです。
 これを口語訳は「あがないの供え物」(2節)と訳しましたが、これは人の罪の身代わりとなって、罪の罰としての死を引き受けて犠牲となった生け贄を意味しました。
 
 具体的にいえば、ゴルゴタ(されこうべ)という名称の刑場で、十字架刑で死んだイエスこそが、「わたしたちの罪のための、あがないの供え物(償いの生け贄)」(2節前半)なのです。
 
 どこで誰から聞いたのか記憶が定かでないのですが、ここで以前お話しました例話をもう一度、ご紹介したいと思います。米国の話です。
 
未成年の少年が刑法に触れる罪を犯し、裁判にかけられました。裁判の席で少年が顔を上げてみたら、担当判事は彼の父親でした。「しめた」と彼は思いました。ところがその裁判官は素知らぬ顔で少年に訊ねます、「被告、あなたの名前を言いなさい」少年は言いました、「お父さん、ボクだよ、ボク」しかし裁判官は言いました、「被告、今は裁判官と被告である、早く名前を」そこで少年はやむなく「○○○○です」と答えました。「父親の名前は?」「お父さん、わかってるでしょ?」「今は裁判官と被告だ」審問が終わったあと、裁判官は判決を言い渡しました。「被告は拘留日か、罰金○○ドルのどちらかを選びなさい」少年は「払う罰金は無いし、お父さんは他人みたいだった、拘留されるしかない」と失望していると、そこに私服に着替えた父親が現われ、少年を連れて罰金を支払う窓口に行き、ポケットから小切手帳を出して罰金を払ってくれて、「さあ、家に帰ろう、もう罪を犯すのではないよ」と言ったというのです。
 
 どこかの独裁国家ならばいざ知らず、法治国家の場合、被告が我が子だからといって、犯された罪の事実を判事が無かったことにするわけにはいきません。
 神の国も同様です。いくら神が愛だからといって、人類の罪を有耶無耶にするわけにはいかないのです。正義という観点から言えば、罪は裁かれ、処分されなければなりません。
 
 この例話に出てくる被告の少年は私たち人類、被告を裁く裁判官は父なる神、そして少年の罪のために支払われた罰金がイエス・キリスト、というわけです。
 
 まさに神の義と、そして私たちへの神の愛とが折り合ったところ、それがゴルゴタの十字架だったのでした。キリストが、「わたしたち」(2節)、イエスを主と告白している者たちの「助け主」(1節)であるということは、クリスチャンになってからでも「罪を犯す」(同)ことがある私たちのための「助け主」でもあるということを意味します。
 
 心ならずも「罪を犯し」たと思った時、キリストがクリスチャンである「わたしたちの罪のための、あがないの供え物」(2節)となって下さったという事実を思い出して、「父のみもと」(1節)に「おられる」「助け主」に祈るようにと、ヨハネは勧めます。
 
 
3.キリストは全世界の罪のための贖いの供え物、償いの生け贄でもある
 
 しかもイエス・キリストは、「わたしたち」(2節前半)クリスチャンだけの「助け主」(1節)ではありません。ノンクリスチャン、あるいは他宗教の信者さんたち、さらには神を否定する無神論者のためにも、罪をあがなう「あがないの供え物」(2節前半)として死なれたお方なのです。
 
「ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(2章2節後半)。
 
 人間として、この「全世界」(2節後半)に含まれていない者は誰ひとりおりません。イエス・キリストは「全世界の罪のため」(同)にも、「あがないの供え物」(2節前半)となってくださったのでした。
 
 
 
 この日本という国において今は、「わたしたち」キリスト者は絶対的少数者です。しかし、失望することなく、力を合わせ心を尽くし、教会を通じて福音を宣べ伝え続けていきたいと思います。
 
 
 
 今は真の神を知らずに、しかし真面目に生きている同胞たちが、「天地万物を創造した神が、このわたしの罪のためにご自分の御子をおつかわしになった」と告白する日が来ることを信じましょう。
 
 
 
 今は、信仰を告白する「わたしたち」は絶対的少数者かも知れません。しかし、ひとりでも多くの日本人が「わたしたち」の中に導かれて、神の愛を高らかに讃美し、告白する日が来ることを信じて、倦まず弛まず、この信仰に励みたいと思います。
 最後に、珠玉のような聖句をご一緒に読んで、生け贄となられた主、我が子を敢えて世界の救いのために遣わした父なる神を誉め称えましょう。
 
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(4章10節)。