2016年1月31日 日曜礼拝説教
信仰を生き抜いた人々?
望み得ないのになおも望みつつ信じる信仰
―アブラハムは望み得ないにも関わらず、ただ一途に神の言葉に従った
創世記17章1~8節 ヘブル人への手紙11章1節
はじめに
NHKの番組に「100分de 名著」というものがあります。毎週水曜日の午後十時から二十五分ずつEテレで(EテレとかJRとか、何でアルファベットを使うのか不可解ですが)、四回に分けて放映されています。
一月の「名著」は内村鑑三の著書「代表的日本人」であって、内村鑑三があげる五人の「代表的日本人」とは西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹(とうじゅ)、日蓮上人の五人でした。
この「代表的日本人」は日清戦争中に「日本及び日本人」のタイトルで出版された書物の再版で、明治四十一年(1908年)にまず日本で刊行され、その後、諸外国において翻訳出版されました。原著は英語で書かれており、日本人自身によって英語で書かれたものとしては他に、新渡戸稲造の「武士道」、岡倉天心の「茶の本」が有名です。
NHKの番組では第一回が西郷隆盛、第二回が上杉鷹山と二宮尊徳、第三回が中江藤樹と日蓮上人が取り上げられているようです。では最終回の四回目は、と言いますと、内村鑑三の講演をまとめた「後世への最大遺物」と「代表的日本人」とが関連付けられているとか。
放映は既に終わっていますが、四回目の再放送は二月三日(水)午前六時と午後〇時だそうです。興味のある方は是非、視聴なさってください。
なお、中江藤樹につきましては二〇一三年一月一三日の「旗幟(きし)を鮮明にするということーアリマタヤのヨセフに倣(なら)う」において、「後世への最大遺物」については二〇一三年四月十四日の「信仰の祖アブラハムは、勇ましくもまた高尚な生涯へと踏み出した」で取り上げております。週報に挟んである説教要旨または、教会のホームページで読み返してみてください。
ところで聖書における「代表的信仰者」と言えばやはり、アブラハムでしょうか。アブラハムにつきましては二〇一三年の二月から七月にかけ十六回にわたって取り上げ、その信仰の足跡を辿ることによって大きな恵みを得ましたが、それから三年後の今年、「信仰を生きた人々」シリーズの信仰偉人群像の一人として取り上げることになりました。
そこで改めて、その信仰の真髄に迫りたいと思います。
1.神が称賛する信仰とは、確かな望みとして望んでいる事がらが既に実現しているものと確信すること
さて、信仰とは何か、ということについての記述で知られているものが、ヘブル人への手紙十一章の、冒頭の言葉です。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信…することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」(ヘブル人への手紙11章1前半、2節 新約聖書口語訳354p)。
「信仰とは」(1節)とありますが、著者はここで信仰の学術的な定義を述べようとしたわけではなく、信仰の特質あるいは特徴とでもいうものを強調しようとしたのだと思われます。
では「信仰とは」何かと言いますと、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し」(1節)とありますように、「望んでいる事がらを」(同)既に得ている、手に入れていると「確信」(同)することである、とします。
そして、この信仰の特質を体現した人物が信仰の父とも呼ばれたアブラハムでした。
アブラハムの父親のテラは「カルデヤのウル」を出て、カナンの地への移住を目指しましたが、途中の「ハラン」に留まって、そこで死去したようです。
「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ」(創世記11章31、32節 旧約聖書口語訳12p)。
その「カルデヤのウル」(31節)ですが、この「ウル」は従来、ユーフラテス川下流にあったとされていましたが、そうではなく、現在のトルコ南東部の、シリヤとの国境に近い「ウルファ」ではないか、という説があり、私もこの説に傾いております。
父テラの死去後、神はアブラハムに御声をかけて、「私はあなたを祝福の基とする、だからハランを出て、私が示す地であるカナンに行きなさい」と命じました。
「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』」(12章1、2節)。
現代人の感覚でいえばこれは無茶もいいところです。遊牧民であったとしても、未知の世界への移動です。親戚がいるわけでもありません。伝手(つて)があるわけでもありません。「行きなさい」と言った神との間で契約書を交わしたわけではありません。神の言葉に従ったとしても何の保障もありませんし、日本の外務省が発行する、国民の身分、安全を保証するパスポートもありません。
でも、アブラハムは神の召しに応えて、神「が示す地」(1節)つまりカナンに向かっていで立ったのでした。なお、このカナンは現在のパレスチナのことです。
「アブラムは主が言われたようにいで立った。…アブラムはハランを出たとき七十五歳であった」(創世記11章4節 旧約聖書口語訳13p)。
この時以来、アブラハムは「望んでいる事がら」(ヘブル12章1節)すなわち、自らが「祝福の基となる」(2節)という約束の望みを、既に得ているという確信のもとに、神の示すままに歩み続けたのでした。
「信仰によってアブラハムは、『受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った』」(ヘブル11章8節 新約聖書口語訳35p)。
二十一世紀を生きている私たちもまた、アブラハムの信仰の子孫として「祝福の基」(創世記11章2節)たるべく、神に召されている者といえます。
週の初めの日曜日ごとに、そして一日が始まる朝ごとに、自身が「祝福の基」として用いられるという「望み」を新たにし、またその望みの実現を確信して前進していきたいと思います。それこそが神に「賞賛され」(ヘブル11章2節)る信仰です。
2.神に喜ばれる信仰とは、まだ見ていない出来ごとをあたかも既成事実であるかのように確認すること
同時に「神に喜ばれる」(6節)信仰とは、まだ見てはいない出来ごとをあたかも既成事実であるかのように確認することでもあります。
ヘブルの手紙の11章1節の後半です。
「さて、信仰とは、…まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11章1節後半)
「祝福の基」となるにあたって、アブラハムが神に期待したことはただ一つ、子が与えられるという一事でした。ところが待てど暮らせど彼は子供が授かりませんでした。アブラハムの焦慮は募ります。このままでは後継ぎは召使の中から立てるしかない、と。
そんな時、神はアブラハムを天幕の外に連れ出して空を見上げさせ、「あなたの身から出る子孫は、あの数え切れない程の星々のようになる」と断言されたのでした。
「そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』」(創世記15章5節)。
アブラハムと妻のサラとは常に、不動の信仰心を持って歩んでいたというわけではありません。信仰よりも人の知恵と経験の集積である常識に頼って、人間的方策を実行したり、あるいは折角の神の言葉を信じられないとして心の中で笑い、それを指摘されて慌てふためくという失敗もしました。
まず、アブラハムです。
「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」(17章17節)。
サラもまた笑いました。
「それでサラは心の中で笑って言った、『わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか』」(18章12節)。
けれども、彼らは間違いや不信仰を神に指摘されるたびに、その不信仰を悔い改めては本道に戻ってきたのでした。不信に陥るたびに戻って行った原点、それが「あなたの子孫はあのように(註 あの無数の星のように)なる」(15章5節)という神の言葉でした。
道に逸れた時もありました。人間の常識が克ったために、回り道をした時も確かにありました。しかし、子孫が与えられるという「まだ見ていない事実を」(ヘブル11章1節後半)「確認する」信仰、つまりまだ見てはいない出来ごとを、あたかも既成事実であるかのように信じ受け入れる信仰を、アブラハムは確かに持っていたと思われます。
それが天幕の外でのアブラハムに関する創世記の記述です。
「アブラムは神を信じた」(創世記15章6節前半)。
そしてこの後、アブラハムの妻サラは、その手に我が子を抱くことになります
「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ」(21章1、2節)。
この奇跡的出来事は、神の言葉が不変であるという事実を確認させます。
またこの出来事を私たちに適用させようとするならば、何とかして福音を伝えたいけれどうまくいかない、なかなか聞いてもらえない、あるいは、聞いてはもらえるんだけれど、そこから先に進めない、と失望し自信喪失している真面目な人にとって、霊の子供を産むことができるという希望を与えてくれる出来ごとかも知れません。
それは「まだ見ていない」(ヘブル11章1節)ことであるかも知れません。しかし、信仰とは「まだ見ていない」将来の出来ごとを、あたかも既成の「事実」であるかのように信じることなのです。
どうせ持つならば、神に「賞賛され」るような信仰、「神に喜ばれる」ような信仰を持ちたいものです。
ヘブル書の著者は言い切ります。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル人への手紙11章6節)。
3.究極の信仰とは、行いが無くても信じるだけで義とされる福音を信じること
もう一つ、アブラハムの信仰の特徴は、信仰の究極のかたちというものを示していることにあります。何かと言いますと、行いが無くても信じるだけで神に義とされるというキリストの福音を、ただただ信じ受け入れるというそのことを、アブラハムの信仰は指し示していたのでした。
天幕の外での出来ごとの締め括りの記述は、とりわけ重要です。
「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15章6節)。
西暦一世紀の半ば、この天幕の外での出来ごとについての記述を以て、キリスト教の最重要教理である信仰義認論の根拠としたのが使徒パウロでした。
「もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。なぜなら、聖書はなんと言っているか、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ローマ人への手紙4章2~5節 237p)。
神に義とされるためには信仰だけではなく、善行も必要、というのがパウロの時代のユダヤ教の教義であって、それを受け継いだのが原始キリスト教会の中のユダヤ教出身者たちであり、さらには中世のローマ教会でした。
その「信仰と善行」という教義が当然のこととして浸透していた十六世紀の初め、詩篇とローマ人への手紙の研究から、「信仰のみによる義」という福音を再発見したのが、ローマ教会の司祭で大学教師でもあったマルティン・ルターでした。
ローマ教会は教会の主張とは異なる教えを掲げるルターを、教会と教皇庁の根幹を揺るがす異端者として弾劾し、「ルターは善行を否定している」と非難しました。そこでルターが書き上げたものが「善きわざについて」という文書でした。ルターはその著作の中で、キリストを信じることが、最高の善行であると断言します。
あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。…キリストは答えられた。「神がつかわされた者をあなたが信じること、それがすなわち神のよいわざである」(マルティン・ルター著 福山四郎訳「善きわざについて」11p ルター著作集第一集2 聖文舎)。
聖書の戒めを守り、正しい生活を送ることを神は喜ばれます。しかし、善行は人が神に義とされる条件ではありません。
神による義の宣告は、キリストによる十字架の贖罪の結果であって、善行は無償、無代価の神の憐れみによって義とされた者に結ばれる義の実です。
「アブラハムはただただ神を信じた、その彼の信仰を神が嘉(よみ)した、だからアブラハムは義とされた」のでした。
そういう意味においてアブラハムは、パウロ以来の「信仰による義」という福音信仰の魁(さきがけ)でもありました。アブラハムが生きた究極の信仰とは、行いが無くてもキリストを信じるだけで神に義とされる福音を信じ、これを大事に守るということでした。
そして、私たちこそ、アブラハムの信仰の系譜を継ぐ者なのです。
最後にガラテヤ人への手紙の一節をお読みして、アブラハムの神を称えましょう。
「このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』のである。だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを知るべきである」(ガラテヤ人への手紙3章6.7節 295p)。
「アブラハムの子」(7節)とはアブラハムの子孫という意味です。たとい血のつながりがなくても、私たちはまさに、「アブラハムの」信仰の「子」(子孫)なのです。