2016年1月24日 日曜礼拝説教
信仰を生きた人々?
たとい「時代おくれ」と呼ばれても
ーノアは時流に抗い、神を仰いで清廉潔白な人生を生きた
創世記6章1~22節 ヘブル人への手紙11章7節
はじめに
阿久悠という、傑出した作詞家がおりました。この作詞家は実に数千という厖大な数量の詞を世に送り出しましたが、この人が作詞した作品の中に「時代おくれ」というタイトルの歌があります。
河島英五という個性的な歌手の歌でレコードが発売されたのが、今から三十年前のことです。この歌の歌詞の締め括りが、「時代おくれの男になりたい」というものでした。
しかし、別段意識して時代遅れの男になりたいと思ったわけでもなく、ただただ神を仰いで日々を暮らしていたら、結果として「時代おくれの男」になってしまった人物がおりました。「ノアの箱舟」で有名なノアです。
本年前半の説教シリーズ、「信仰に生きた人々」の三人目として取り上げる人物は、このノアです。
1.ノアはその時代の中で、結果として時代遅れの人間として生きていた
ノアが生きた時代がどんな時代であったかと言いますと、創造主である神さまが人を造ったことを悔いて心を傷め、ついには人を地のおもてから一掃しようとまで考える程に、人の悪が地に蔓延(はびこ)っていた「時代」でした。
「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてから拭い去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた」(創世記6章5~7節 旧約聖書口語訳7p)。
あの忍耐強く寛容な神さまの心情が、そのまま吐露された御言葉です。神の堪忍袋の緒が切れたのです。
神は通常、後悔をしないとされています。その知性と判断が完全であるから、つまり全知であるからです。
「サムエルは言った、『…またイスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることもない」(サムエル記上16章28、29節)。
しかし、神の心情はその愛の対象である人類の生き方によって揺れ動きます。その揺れが「わたしは、…悔いる」(8節)という告白になったのでしょう。
こうして、人が生み出す罪悪が人類社会に充満していることを歎いた神でしたが、神はそこで一人の人、時代遅れの人物、ノアに目を留めました。それが「ノアは主の前に恵みを得た」という記述です。
「しかし、ノアは主の前に恵みを得た」(6章8節)。
つまり罰あたりの時代の中で「時代遅れの男」であったノアのみが、神による救済の対象、新しい人類の先祖として選ばれたのでした。
ある意味では、「時代遅れの」者こそが、時代の先端を行っているともいえるのです。
2.ノアが神に選ばれたのは、時代遅れであっても清廉潔白に生きていたから
ノアがなぜ、神に選ばれたのかと言いますと、乱れた時代にあって彼のみが神を仰いで、清廉潔白な人生を生きていたからでした。
「ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」(創世記6章9節前半)。
ノアは「その時代の人々の中で」(9節)は、「正しく」(同)そして「全き」(同)人として認められておりました。その「正し」い人とは、いわゆる正義の人のことであって、彼が正義の人であったからこそ、「その時代の人々の中」(同)から選ばれたのでした。
また、「全き人」(同)の「全」くは、欠けのない者という意味で、誠実、真実を意味します。次週で取り上げるアブラハムに対して、神が求めた資質、あり方がこれでした。
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現われて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』」(17章1節)。
ノアに対する神の評価の「正しく、かつ全き人」を、四字熟語で表現するとするならば、「清廉潔白(せいれんけっぱく)」ということになるでしょう。
「清廉」とは心が清らかで、私欲がないことであり、「潔白」とは後ろ暗いことがないことです。
人生において尤も重要なことは、時流に乗って生きることではなく、たとい時代遅れと評されようとも、時流に抗(あらが)ってでも、神を意識しながら清廉潔白な人生を生きることです。
これを別の言葉で表現すれば二心(ふたごころ)が無い、ともいえます。主イエスが山上の垂訓で教えられた「心の清い人」(マタイによる福音書5章8節)のことです。
では、清廉潔白に生きることの秘訣はどこにあるかと言いますと、それが「神と共に歩」むということでした。
「ノアは神と共に歩んだ」(6章9節後半)。
「神と共に歩」むということは、先週の礼拝で取り上げたエノクの際にも触れましたように、神が行く所ならば何処までもついて行く、「嬉しい時も悲しい時もいつも」(子どもさんびか90)ということです。
ノアが「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であ」(9節)ることができたのは、彼が神を仰いで「神と共に歩ん」(同)でいたからでした。
私どもの場合、清廉潔白であろうとしつつも、日々の歩みの中で心ならずも自我や我欲あるいは感情が先立って、結果、誘惑に負けてしまう、という場合があるかも知れません。
でも、そんな時に大事なことは、後ろ向きに後悔をするのではなく、砕けた、悔いた心でいつも共にいて下さる神に向かって祈るということです。
3.ノアが神の命令に従い得たのは、時代に左右されず神の告知を真実として信じたから
神が地を滅ぼす決断をしてから、時が流れました。学者によればそれは「百二十年」であったと言います。それがモラトリアム、執行猶予期間というわけです。
「しかし、彼の年は百二十年であろう」(6章3節)。
しかし、執行猶予期間中も、地上の民には心を入れ変える様子はありませんでした。それどころか、神の意志を無視した罪悪の結果としての暴虐は、ますます「地に満ち」るようになっていました。
「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」(6章12節)。
そこでついに神は、ノアに対して洪水による地の滅びを宣告すると共に、ノアの家族を新しい人類の祖として生き残らせると通告し、そのために箱舟を建造するように、という命令を下したのでした。
「そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地と共に滅ぼそう。あなたはいとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでその内外を塗りなさい』」(6章13、14節)。
ノアは神が示す詳細な設計図に基づいて箱舟の建造に取り掛かり、ついにこれを完成させます。
「ノアはすべて神の命じられたようにした」(6章22節)。
やがて大洪水が起こり、ノアの家族と、箱舟の中に収容された一つがいずつの生き物以外、すべての生命は死に絶えてしまいました。
残酷といえば残酷かも知れません。しかし、見方によれば洪水は人類を生き延びさせるための外科的手術のようなものだったのでした。
仏教の用語から派生したとされる言葉に「鬼手仏心(きしゅぶっしん)」あるいは「鬼手菩薩心」というものがあります。最近では専ら、外科医による外科手術を言い表す言葉として使われますが、洪水は将に、人類を延命させようとする神の外科手術でした。
そして現代を生きる私たちが感動して止まないのは、ノアが「すべて神の命じられたようにした」(22節)という創世記の記述です。
ノアは神によるこの信じ難く受け入れ難いい命令を、厖大な費用と長い年月をかけて実行し、完成させたのでした。ノアはその間、人々の嘲笑、嘲弄の的となったでしょう。
でもノアが神の指示に従い得たのは彼が、時代の風潮に左右されず、神の告知を真実なものとして信じたからでした。
ヘブル書の著者はそれを「信仰」と言います。
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」(ヘブル人への手紙11章7節 355p)。
「ノアはまだ見ていない事がら」(7節)どころか、そんなことがあり得ようかとさえ思う、一般常識では到底信じることの出来ない「事がら」にも関わらず、それを神からの真実な「御告げ」(同)として受け入れたのでした。驚嘆すべき信仰です。
でも、翻って考えてみるとき、私たちもまた、現代のノアなのです。神を見た人がいるでしょうか。復活のイエス・キリストと会った人がいるでしょうか。いない筈です。そんな人はいるわけありません。いたらおかしいのです。
ノアが神からの直接啓示によって「まだ見ていない事がら」(同)つまり、地を覆う洪水について、そして洪水から救済されるための箱舟の建造に「ついて御告げを受け」(同)たとき、当然、惑い、疑いの気持ちになり、煩悶もしたと思います。
しかし、彼は最終的にその「御告げ」を自分自身の思い過ごしなどと思わず、また、そんなことはあり得ないと否定するのでもなく、それを神からの啓示として信じ受け入れたのでした。
実は私たちもまたノア同様、「まだ見ていない事がら」であるキリストの十字架による救済の道というものを信じ受け入れて、キリスト者となったのです。
考えて見れば、「信じるだけで救われる、義とされる」とする福音は、ノアが受けた「御告げ」に匹敵するような、信じることの困難な内容のものであるともいえます。
洪水が起こった時、箱舟に乗ったノアと、ノアの家族は救われました。それと同様、イエス・キリストの福音という箱舟に乗った者はどんな人でも救われる、それが福音です。
西暦一世紀の半ば、ピリピ伝道の際に、自害しようとした獄吏に対し、囚人であるパウロとシラスがそれを思い止まらせ、ついで彼に対して重要な勧告をします。
「ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』。それから、彼とその家族一同とに、神の言葉を語って聞かせた」(使徒行伝16章31、32節 210p)。
パウロとシラスの言葉を直訳しますと、「信じなさい、主イエスを。そうしたらあなたは救われます、そしてあなたの家(家族)も」となります。
この奨めは、家長が信仰を持ったら家族とその系譜が自動的に救われると言っているわけではありません。「イエスを信じれば家長である「あなた」は救われる、そして家長に倣ってイエスを主と信じるあなたの家(家族)も救われる」という意味です。
ノアも場合、ノア自身、そしてノアの家族つまり、ノアの妻、三人の息子たちの家族もまた、自らの意志で箱舟の中に入ったからこそ、滅びからの救済という恵みに与ることができたのです。
二人の使徒が告げる勧めは、ローマ人である獄吏とその家族にとっては信じ難いことであったかも知れません。しかし、彼らは「まだ見ていない事がら」(7節)であるキリストの身代わりの死、救いの完成のしるしとしての復活という福音を信じ受け入れ、その信仰のしるしとして、その場で洗礼、つまりバプテスマを受けたのでした。
「彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、そのうち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」(16章33、34節)。
この獄吏は「まだ見ていない事がら」を信じ受け入れたという点では、ノアの信仰の系譜を引き継ぐ者といえます。
そしてキリストの福音を信じ受け入れている私たちもまた、二十一世紀を生きるノアでもあるのです。
でも、ノアの時代と現代とでは一つ、違いがあります。ノアの箱舟の入り口は時が来たとき、神によって閉ざされてしまいました。ノアは箱舟建造の段階でその時代の人々に向かい、今からでも心を翻して神に帰るべきこと、箱舟に入るようにと何度も勧めていた筈です。でも、ノアの言葉に耳を傾ける者はいなかったのです。そして、戸が閉ざされたのでした。
「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」(創世記7章16節後半)。
しかし二十一世紀の現代、有り難いことに、キリストの福音という現代の「箱舟」の入り口は、まだ開かれたままです。
神の時が来て、ついに「戸を閉ざされ」(16節)る前に、願わくはひとりでも多くの日本人がキリストの十字架による福音という、現代の箱舟の中に入っていくことができますように、未だ福音を聞いたことのない方々に対し、祈りつつ、折を見ては声をかけ、あるいは時に応じて証しをするなどしてアプローチしていきたいと思います。