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2016年1月17日日曜礼拝説教 信仰を生きた人々?  最高の生き方それは、神とともに歩むことー エノクは回心後、ただ神と共に歩み続けた 創世記5章21~24章節 ヘブル人への手紙11章5節 12章22、24節

16年1月17日 日曜礼拝説教

信仰を生きた人々?
 
最高の生き方それは、神と共に歩むこと
ーエノクは回心後、ただ神と共に歩み続けた
 
創世記5章31~34節 ヘブル人への手紙11章5節
 
 
はじめに
 
いわゆる「イスラム国(IS)」のテロが世界中で猛威をふるっています。年が明けてからはインドネシアでも自爆テロが起こりました。
 
これら、頻繁に起こるイスラム過激派によるテロもあってか、ある人はイスラム教の危険を指摘するようになり、そうすると別の人はキリスト教を含めた一神教そのものを問題にし、その結果、「一神教は排他的だが、多神教は寛容だ」などという意見が新聞や雑誌、ネットで散見されるようになりました。
 
昨年の秋、社会学者の橋爪大三郎と外務省の主任分析官であった佐藤 優の対談をまとめた本が出版されました。
この対談集のまえがきの中で佐藤 優は、このような見方をピントの外れた言説として論破しています。
 
「一神教は偏狭であるが、多神教は寛容だ」「キリスト教やイスラム教は偏狭で、戦いばかり起こすが、仏教や神道は寛容で、平和愛好的だ」という言説だ。キリスト教徒でもジュネーブの世界平和協議会(WCC)に加盟し、エキュメニカル運動(宗教間の対話と協力を進める運動)を推進する教会は寛容だ。プロテスタンティズムのメノナイトやクエーカー派は絶対平和主義を掲げ、従軍を拒否する。また、タイの内乱で銃を取って戦っている人々は仏教徒だ。スリランカで爆弾闘争を展開する仏教徒もいる。
(中略)宗教について論ずるときに、「どのキリスト教か」「どのイスラム教か」「どのユダヤ教か」「どの仏教か」「どの神道か」と具体的な議論をすることが重要なのである(橋爪大三郎佐藤優「あぶない一神教」4、5p 小学館新書)。
 
 つまり寛容、非寛容を大枠の宗教で規定するのはナンセンスだというわけです。その点についてはそれこそ大枠では同感です。
 尤も私としましては、どちらかといいますと、信奉する宗教よりも、民族性の方がより大きな要素を占めている、という見解に与しますが。
 
 ところでユダヤ教徒とキリスト教徒が正典とする旧約聖書にも、そしてイスラム教徒にとっての聖典であるクルアーン(コーラン)にも出てくる人物のひとりがエノクです(エノクはクルアーンではイドリスという名で登場します)。
 
 そこで「信仰に生きた人々」の二人目はそのエノクについてです。エノクの生涯を通して教えられることそれは、神と共に歩む生き方こそが最高の生き方である、ということです。

 

1.最高の生き方それは、神と共に日夜歩み続けること
 
 創世記の五章にはアダムの子孫が列記されているのですが、それぞれが長寿であることに驚かされます。たとえば「メトセラ」などは「九六九歳」です。
 
「メトセラの年は合わせて九六九歳であった。そして彼は死んだ」(創世記5章27節 旧約聖書口語訳6p)。
 
 仮にその誕生が、源頼朝が征夷大将軍となった、いわゆる「いいくにつくろう」の一一九二年だとしますと、二〇一六年の今年から更に一四五年も生きることになるわけです。
 
 これをどう理解するかということですが、信仰的にリベラル(自由主義的)な立場の人は、「これは神話の世界の話しだ」と切り捨てます。そして一方、聖書の記述は一字一句、間違いがないとする保守派は「罪が入って来るまでは、人類は不老長寿だったのだから、長生きして当たり前だ」と考えます。
 
 或る人は、「当時の一年は今の一カ月だったのだろう」と言いますし、別の見方は、「これらの名前は個人名というよりも部族や一族を代表する名称であって、長いのはその部族、たとえばメトセラ族が存続した期間をいうのだ」とします。
 
  たとえば、私の家の場合、先祖が木材問屋で、当主は江戸時代から代々、熊野屋安兵衛を名乗っていて、父親の父親が第十八代でした。そのあと父親の長兄の代でこの「熊野屋」は終わったそうですが。
 
 
 
 
つまり、そういう意味ではないか、という説です。
 
 でもややこしくなりますので、教会の説教においては、これらの名前は個人として取り扱いたいと思います。勿論、二番目の保守派の立場をとっても結構ですし、最後の部族説でもかまいません。
 
さて、これらの系図における長寿の先祖の中でも、メトセラの親とされるエノクは、当時の人々の中では特に短命であったということで知られているのですが、エノクの特徴は別にありました。
 
エノクの特徴の一つは回心後の彼が、神と共に歩んだということでした。
 
「エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだの後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ」(5章31、32節)。
 
 エノクの特徴それは、彼が回心後の「三百年」(32節)の間、ただただ「神とともに歩み」(同)続ける生涯を生きた、ということにあったのでした。
 
この「神とともに歩み」という記述は三十三節でも繰り返されますが、説教者が神学校の授業で旧約聖書の原語であるヘブライ語を学ぶ時、ここに使用されている「歩む」という動詞の説明として、この動詞が「再起動詞」というものであること、そしてそれは動作や行動が一回限りのものではなく、繰り返される際に使用される、ということを最初に教えられます。
 
確かにエノクが「神とともに歩ん」(同)だということは、「エノクが神から片時も離れることなく、神の行くところにはどこにでも付いて行った」という意味になる、というわけです。
 
そこで思い出されるのが「子どもさんびか」の「主イェスと共に(Walking with Jesus)」という歌です。
 
主イェスと共に歩きましょう どこまでも
主イェスと共に歩きましょう いつも
嬉しい時も 悲しい時も歩きましょう どこまでも
嬉しい時も 悲しい時も歩きましょう いつも
(子どもさんびか90 いのちのことば社)
 
 エノクの人生にも多くの苦難があり、悲喜交々(こもごも)の日々であったであろうと思います。 しかしエノクは「嬉しい時も、悲しい時もいつも」神の顔を仰ぎながら「神とともに歩」んだのでしょう。
 
 そういうエノクの生き方が時代を共に生きた人々の記憶に印象深く残り、それが創世記のこの記述となったのだと思われます。 
 
二〇一六年もエノクのように「神とともに歩み」(23、24節)続ける日々でありたいと思います。それが人としての最高の生き方です。
 
 
2.最高の選択それは、神無き人生から神を持つ人生を選択すること
 
エノクの生涯の特徴の二つ目は、彼が神と出会うまでは、神無き人生を生きていたことであり、そしてある日ある時、神を信じる人生を生きる選択をした、ということにあります。
 
「エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。エノクの年は合わせて三百六十五歳であった」(5章21~23節)。
 
 つまりエノクはメトセラという男の子を得た後に、何かがきっかけとなってその後の「三百年」(22節)を「神とともに歩み」(同)続けたことになります。
 
 このエノクもかつては自分自身の腹を神として、神様抜きの人生を送っていたのでした。しかしエノクはそのような人生に別れを告げて、神を崇め、神の御心を窺う喜びを知って、神を信じ崇める人生に入って行ったのでしょう。
 
エノクにとって人生における最高の瞬間は、神無き人生に別れを告げて、神を持つ人生を選択した瞬間であったのだと思われます。
 神と出会うまでの人生が如何なるものであれ、重要なことは今からでも神を持つこと、神を持ち続けることです。
 
パスカルの「パンセ」における記述、「神なき人間の悲惨 神とともなる人間の幸福」(パスカル著 田辺 保訳 「パスカル著作集? パンセ」44p 教文館)を思い起こします。
 
改めて、神を持たない人生に別れを告げ、神を持つ人生、神と共なる人生への転換を選択した瞬間を思い起こし、またそのように導いてくれた聖霊なる神の働きに感謝して、信仰を新たにしたいと思います。
 
 
3.最高の終わり方それは、神によって神の御許に引き上げられること
 
 エノクの特徴の三つ目、それが、エノクが神により、神の御許へと引き上げられたという事実です。
 
「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」(5章24節)。
 
 創世記がエノクの人生の終わり方について、「神が彼を取られたので、いなくなった」(24節)と記述したことから、エノクがまるで人々の見ている前で生きたまま昇天したかのように受け取られるようになりました。ヘブル人への手紙の著者がまさにその例でした。
 
「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである」(ヘブル人への手紙11章5節 新約聖書口語訳354p)。
 
でも、「神が彼を取られたので」(同)と訳された「取る(ラーカー)」という動詞は、神がエバを造るためにアダムのあばら骨の一つを取ったとされる際にも使用されていて、別に携挙というような意味はありません。
 
「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた」(2章21節)。
 
 ですからヘブル人への手紙の「死を見ないように」(5節)はやや読み込み過ぎかも知れません。大事なことは生を終えようとする者を、神がその主権と責任において、ご自分の御許へ引き上げてくださる、という事実です。
 
そのことを信じることこそが最高の終わり方であり、最善の終活と言えるかもしれません。「終わり良ければ全て良し」です。
 
人生の終わり方を見据えつつ、神を仰いで今を生きる、それが「神に喜ばれた者と、あかしされ」(5節)る人生であって、それこそが神が人に望まれる最高の生き方であると、エノクについての記述が語っていると思われます。
 
喧騒と多忙のうちに日を過ごしがちな私たちですが、エノクの生涯が語るメッセージを心に留めながら、始まった新しい年の一日一日を、「神とともに歩」(5章22節)み続けたいと思います。