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2016年1月10日日曜礼拝説教 信仰を生きた人々? 神の喜ぶ供え物は、砕けた悔いた心ー アベルが神に受け入れられたものは、砕けた悔いた彼自身の心であった 創世記4章1~10節 ヘブル人への手紙11章4節 12章22、24節

16年1月10日 日曜礼拝説教

 

信仰を生きた人々?
 
神の喜ぶ供え物は、砕けた悔いた魂
ーアベルが神に受け入れられたものは、砕けた悔いた彼自身の心であった
 
創世記4章1~10節 
ヘブル人への手紙11章4節、12章22、24節

 

はじめに
 
戦後の日本人がよく言えば温順、悪く言えば優柔不断になってしまったのは、日本人を骨抜きにしようとしてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が推進した占領作戦である日本弱体化政策が成功したからですが、その方策の一つが歴史教科書に関する指示でした。
 
GHQの指示のもとで編纂された戦後の歴史教科書では、戦前の日本は封建主義、軍国主義の非民主国家であったという前提の下、自虐的な内容に執筆、編集されました。そしてその一つの特徴が、偉人とされていた人物伝の消去でした。
 
戦前、子供たちの模範として挙げられていた人物が教科書から落とされたため、お手本が消えてしまったことは教育上、大きな痛手となりました。それどころか、少し前のある歴史教科書などは、明治の元勲、伊藤博文を暗殺したとされるテロリストの安重根を高く評価するかのような取り上げ方をしておりました。一体、どこの国の教科書かと首を傾げたくなるような有様でした。
 
もちろん、偉人、英雄と雖も不完全な人間ですから、弱さもあれば過ちを犯したりもしますが、美化することなく、それらも含めて、どのように生き、どのように歩んだかを知ることは、教育上、極めて有益ではないかと思います。
 
そこで本年の日曜礼拝の前半では、「信仰を生きた人々」と題して、聖書の中の主だった人物を取り上げて、その信仰の実相に迫ることと致しました。
 
そこで第一回で取り上げる人物は、アダムとエバの次男のアベルです。
今週はこのアベルという人を通して、神が喜ばれる生贄とは、ただただ砕けた悔いた心であるということを教えられたいと思います。

 

1.   アベルが神に顧みられたのは、最良の供え物を砕けた悔いた心で捧げたから
 
昨年(2015年)十一月第一週の説教(11月1日 祝福された人間関係 その六人間関係を一新するキリストの贖い)では、アダムとエバの長男、カインを取り上げましたが、今回の「聖書人物伝」で取り上げる人物は、カインの弟のアベルです。
神との約束に違反したため、楽園を追われたアダムとエバに二人の子供が生まれました。カインとアベルです。
 
「人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、『わたしは主によってひとりの人を得た』。彼女はまた、その弟アベルを産んだ」(創世記4章1、2節前半 旧約聖書口語訳4p)。
 
 やがて成長した二人は、弟は牧畜業、兄は農業に従事するようになりました。
 
「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」(4章2節後半)。
 
 時が巡り来て、二人はそれぞれの収穫を神の前に携えてきて供え物としました。
 
「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた」(4章3、4節前半)。
 
 ところが神はアベルの方を受け入れたにも関わらず、カインの方は受け取りを拒否したのでした。これに対し、カインは己の姿勢を省みるどころか、憤激してしまいます。
 
「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは、大いに憤って、顔を伏せた」(4章4節後半、5節)。
 
 結果、あろうことかカインは、罪のないアベルを野原へ誘ってこれを殺害してしまいます。
 
「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」(4章8節)。
 
 あまりにも理不尽なことですが、カインがアベルを殺したのは恐らくは、カインがアベルを神のお気に入りと邪推し、そのアベルを殺すことによって神に対する意趣返しをしようとしたのでしょう。
 
 では、神は人を依怙贔屓するお方でしょうか。両者に対する神の判断の基準は何であったのかといいますと、それは二人の供え物を捧げる気持ち、姿勢の違いにあったと考えるのが妥当です。
 
 当該箇所には、「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」(4節後半、5節前半)とありますように、「供え物」に先立って捧げた人の名前が出てきます。
 つまり「主はアベル…を顧みられた。しかしカイン…は顧みられなかった」というわけです。
 供え物を捧げた人の気持ちや動機、つまり姿勢を神は見た(顧みられた)のでした。 
 
 ここで、「聖書は聖書によって解釈する」という聖書解釈学の方法論を適用しますと、詩篇が参考となります。
 統一イスラエル初代の王、ダビデの作とされる、懺悔の詩篇に分類される箇所をお読みしたいと思います。
 
「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔際(はんさい)をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51篇16、17節 792p)。
 
 これは預言者ナタンによって罪を指摘されたダビデが詠んだ詩とされていますが、ダビデは告白します、「神の受けられるいけにえ」(17節)つまり「供え物」は、「砕けた魂」(同)なのだ、と。
 
 アベルはその供え物を「砕けた悔いた心」(同)で携えて、生ける神の前に出ようとし、その結果、「供え物」も有り合わせのものなどではなく、よく吟味された最良のもの、すなわち「その群れのういごと肥えたもの」(4章4節)を選び、それで「主はアベルとその供え物とを顧みられた」(4節)という評価になったのだと思われます。
 なぜならば、「主は心を見る」お方だからです。
 
「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。…わたしが見る所は人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」(サムエル記上16章7節)。
 
日曜ごとの礼拝も、自らはささやかと思う捧げ物も、そして具体的な教会奉仕も、「心を見る」お方を意識し、「砕けた悔いた心」で行う時に、それらもまた最良のものとして神に顧みていただけるのです。
 
 
2.アベルが砕かれた悔いた心で供え物を捧げたのは、父母の物語を虚心に聞いていたから
 
では、同じ親から生まれた兄弟でありながら、二人がなぜこれ程までに異なった性格、価値観の持ち主になってしまったのかと言いますと、それは彼らが幼いころから聞いてきた父母の物語、父母が経験したエデンの園における出来ごとの、聴き方にあったのではないかと思われます。
 
想像ですが、カインは両親が語るエデンの園での物語を聞いて、厳格な神というイメージを持ち、そんな神に抵抗することもなく唯々諾々と楽園を追放された(と思われる)両親を蔑んだのではないか、一方、アベルは「それを取って食べると、きっと死ぬ」(2章17節)と言ったにも関わらず、罪を犯したアダムとエバを憐れんで、死一等を減じて楽園からの追放にとどめ、「人が造られたその土を耕せられ」て、再起の機会を与えてくれた神の深い慈しみと憐れみに感謝する気持ちを持ったのではないか、と思うのです。
 
創世記の記述は確かにアダムとエバには酷なようにも見えます。
 
「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕せられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(3章23、24節)。
 
 しかし、実はこの時、人が追い出された「エデンの園の東」(24節)から、神もまた出てきて、人の行く末を見守ってくださっていたのでした。それがアダムとエバの支えであった筈でした。
 
 人は物事の是非を、自分自身が培われた価値観で判断します。こんな例があります。
 
 ある女性が福音を聞いて信仰を告白し、クリスチャンになりました。彼女は神の大いなる愛とキリストの犠牲に感激して、機会あるごとに出会う人に対し、神の御言葉、自らの体験を語り、時間を割いてボランティア活動に励むのが常でした。
 
 この婦人には二人の娘がおりました。長じて姉は母親の生き方に感動し、同じように人への奉仕を喜ぶ生き方を選びました。
 しかし、妹の方はそういう母親や姉の生き方を、何の得になるのかとバカバカしく思っていたのだそうです。
 価値観が異なれば、血が繋がっている兄弟姉妹であっても、このような違いになってしまうのです。
 
 カインは両親の物語を自分のフィルターで否定的に聞き、アベルは虚心に聞いた結果が、彼らの性格、価値観の形成つながったのでしょう。アベルの生き方と繋がる教えが箴言にあります。
 
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓とを軽んじる。わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教えを捨ててはならない」(箴言1章7~9節880p)。
 
これらを踏まえてヘブル書の著者は、「アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ」たと結論付けました。
 
「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が彼の供え物をよしとされたからである」(ヘブル人への手紙11章4節前半)。
 
 
3.アベルが流した血は、キリストが十字架上で流した契約の血の意味を明らかにした
 
でも、正しく生きているアベルは何と、逆恨みした兄によって殺害されてしまいます(4章8節)。 理不尽極まりないこの出来ごとに救いはあるのでしょうか。アベルが可哀そう過ぎます。
事件後、あたかも神がカインを難詰しているかのように思える記述があります。
 
「主は言われた、『あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます』」(4章10節)。
 
 「あなたは何をしたです」(10節)という言い方は、話しの流れからは神がカインを難詰をしているように見えなくもありません。
 しかしこれは難詰などというよりも、神がカインに対して悔い改めの機会を与えようとしたとも考えられます。そしてもしもそうであるならば、神はどこまでも寛容です。
 
 ところでアベルの「血の声」は「土の中から」神に対して何と「叫んでい」(10節)たのでしょうか。
 このことに関しては英国の卓越した聖書註解者、ウィリアム・バークレーはその註解書の中で、「最後にアベルの血とイエスの血が比較されている。アベルが殺されて流された血は、人を呪った。しかしイエスが殺されて流された血は、人を呪うのではなく和解への新しい道を開いた」と解説します(バークレー著 松村あき子訳「ヘブル」229p ヨルダン社)。
 
 バークレーの言うように、アベルの血が「人を呪った」のか、復讐を神に願ったのかどうかはわかりません。 
しかし西暦三十年四月、エデンの東の遥か西方の地のパレスチナにおいて、アベル同様、罪のない一人の人が血を流して死にました。イエス・キリストです。ヘブル人への手紙の著者は、キリストが流した血の効力を強調する際、それをアベルの血と比較します。
 
「しかし、あなたがたが近づいているのは、…新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」(ヘブル人への手紙12章22、24節)。
 
人類の長い歴史を俯瞰すれば、そこにはアベルのように実に多くの無辜の血が流されてきたことがわかります。そしてそれは二十一世紀の現代においても、世界各地で、そしてこの日本においても起きています。
 
中には仇する者を呪い、神に対して報復を叫んでいる血もあるかも知れません。一方、報復ではなく、赦しと平和を求める血もあることでしょう。
 
しかし、二つのことが明らかです。一つは、創世の昔に流された「アベルの血」(24節)が、有史以来現在までに理由もなく流された無数の血を代表しているという事実です。無数の「アベル」が多くの「カイン」によって不当に殺害され、傷つけられてきました。それは歴史が証ししています。
 
そしてもう一つ明らかなこと、それは、十字架の上で流されたイエスの血が、それらの犠牲者、被害者が流した「血よりも力強く語るそそがれた血である」(同)ということです。
 
いつの日にか、「新しい契約の仲保者イエス」(同)と、そのイエスが流した尊い犠牲の血が、人の中から神への敵意、人への敵意を解消して和解を実現することを信じること、それが福音であり、キリスト「信仰」の真髄です。
 
 その時、無駄死にと思われてきた無数の人々の犠牲の意味が理解され、川のように流された涙が拭われ、それによって大いなる慰めと完全な報いとが、「アベル」を始めとする犠牲者、被害者の身に実現するに違いないと思うのです。
 
 神は創世の昔から今日までそうであったように、将来にわたっても神であられます。アベルの生き方とその死は、現代を生きる私たちにとっての希望であり、信仰の縁(よすが)、契機でもあります。