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2015年12月27日 二〇一五年最終日曜礼拝説教 主は今に至るまで、我らを助けられたー 日ごと夜ごとに「助けの石」を据える幸いを サムエル記上7章5~13節

15年12月27日 二〇一五年最終日曜礼拝説教

主は今に至るまで、我らを助けられた ― 日ごと夜ごとに「助けの石」を据える幸いを
 
サムエル記上7章5~13節(旧約聖書口語訳391p)

 

はじめに
 
年末を迎えますと日本漢字能力検定協会が発表し、清水寺の貫主(かんす)が揮毫することで知られているのが「今年の漢字」ですが、今年二〇一五年の漢字は「安」だそうです。
 
国論を二分した(?)安全保障法制の「安」とか、偽装建築や食品の「安」全への疑問、テロや異常気象に対する不「安」などから「安」という字の応募が多かったのかも知れませんが、安全、安心、安定を求めつつも、今とこれからに対する不安の気持ちと戦ってきた一年であった人も少なくなかったことと思います。
実際、「一難去ってまた一難」はまだ有り難い方で、一難が居座っている間に次の一難がやってくる、という経験をした方もおられることでしょう。 
 
そんな二〇一五年、平成二十七年も最終の日曜礼拝を捧げる日を無事に迎えることができました。
主なる神がみなさまの一年間のご労苦を労い、人知れぬ傷みに対しては天からの癒しを、心を込めた働きに対しては豊かな報いを備えて下さいますように。
 
今年の最終礼拝では、「主は今に至るまで、我らを助けられた」というタイトルで、助け主なる神を崇めたいと思います。 
 
1.主なる神はご自分に拠り縋る者を、今もなお、お助け下さる
 
不安と言えば、カナン(パレスチナ)に入植して二百数十年後の、紀元前十一世紀後半のイスラエル民族は、近代文明と先進軍備によって強力武装した海洋民族ペリシテ人に悩まされ、戦々恐々の日々を送っておりました。
 
戦いは連敗に次ぐ連敗で、ついには契約の箱までも奪われてしまうという有様でした。尤もペリシテ人が戦利品として奪った契約の箱が、ペリシテ人への禍の種となったため、恐怖にかられたペリシテ人は、契約の箱の返還を申し出、こうして箱はイスラエルに返されることになるのですが。
 
そして、ここで立ち上がったのが預言者サムエルでした。意気阻喪しているイスラエルの民に向かってサムエルが要求したことは、衷心からの悔い改めと真実の礼拝の回復でした。 
 
「その時サムエルがイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されるであろう」(サムエル記上7章3節 旧約聖書口語訳390p)。
 
 預言者のこの勧告を聞いたイスラエルの民らは、悔い改めてカナンの神々への礼拝を放棄し、イスラエルの神への礼拝を回復します。 
 
「そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた』」(7章4節)。
 
 民らの態度を見たサムエルが、神に犠牲を捧げてイスラエルのために執り成しの祈りをしている丁度そこに、ペリシテの軍勢が押し寄せてきました。
 
「サムエルが燔祭(はんさい)をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた」(7章10節前半)。
 
 絶体絶命のピンチです。しかし、そこに主なる神が介入してくれたのです。空に雷鳴が響きわたり、これにペリシテが誇る軍馬や戦車隊の馬が反応して大混乱となり、弱小のイスラエル軍の前に敗走するという事態となったのでした。
 
「しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ペテカルの下まで行った」(7章10節後半、11節)。
 
 劇的な勝利でした。サムエルは神によるこの奇跡的な助けを記念して一つの石を据え、それを「エベネゼル」と名づけました。
 
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた」(7章12節)。
 
 「エベネゼル」は「エベン・エゼル」で、「エベン」は石、「エゼル」は助けを意味しますので、「助けの石」となります。
 
 教会の初期のこと、ある青年が結婚式を挙げましたが、挙式後の日曜礼拝で挨拶に立った時の言葉が印象的でした。
 彼は言いました、「私は今まで何でも自分の力でやってきたつもりでいました。大学進学も就職も人の世話にならず、自分で決めてきました。結婚相手も自分で選んだつもりでした。でも今回結婚式を挙げて、まわりの人たちから実に多くの協力と助けを受けているということが、ほんとうに良くわかりました」と。
 
 これは彼がまさに大人の世界へと踏み出したことを物語る言葉であったと思ったものでした。「助けられた、助けられていたのだ」という事実を認識もし実感をすることが、実は人が大人となった徴です。 
 
 神の助けはイスラエルの民のように、神からの直接的な助けとして経験する場合もあれば、人を通して間接的に受ける場合もあります。目に見える人の助けの背後に、見えない神の御手があったことを思って、人と神に感謝をする感性を持つ者は幸いです。

 

2.主なる神はご自分に拠り縋る者を今に至るまで、助けて下さっている
 
「エベネゼル」建立の際の預言者サムエルの告白をよく読んでみますと、それがこの時のペリシテへの勝利だけでなく、それまでの歴史においても主が助けて下さっていた、という認識があることがわかります。もう一度、読んでみましょう。
 
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた」(7章12節)。
 
 神の助けは今だけではなく、これまでのイスラエルの歩みにも数多くあったということを、サムエルはそこで改めて思い起こしたのです。それが「今に至るまで」(12節)という告白となったのだと思われます。
 
 映画「カサブランカ」の中でハンフリー・ボガードが、「夕べはどこにいたの?」という質問に対して、「そんな昔のことは覚えていない」と答える有名なシーンがありますが、神から受けた助けは、たとい「昔のこと」であったとしても、しっかりと覚えている者は幸いです。
 なぜならば、神は人が捧げたかつての忠誠を忘れてはいないからです。
 
「神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない」(ヘブル人への手紙6章10節 新約348p)。
 
 よくよく考えてみれば、「もうダメだ、ダメかも知れない」と望みを失いかけた時、そこに不思議な助けがあって、危機を潜り抜けることができたという体験は、誰もが持っていることと思います。
 その助けはあるいは人からのものであったかも知れません。しかし、その人の助けの背後に神がいて、その神がその時々にご自分の使者として、人を助け手として遣わしてくれたのかも知れないからです。 
 
 主なる神はご自分に拠り縋る者をお見捨てになることはありません。「主は今に至るまで…助けられた」(12節)と告白して、人生の岐路に、目に見えない「助けの石」を立てて来た者は幸いです。
 
 
3.主なる神はご自分に拠り縋る者をこれまで同様、今から後も助け給うに違いない
 
 今の今、神の助けを経験し、過ぎし日に受けた助けを思い起こす時、そこに生まれるものは、「今に至るまでわれわれを助けられた」(12節)主なる神は、今から後も助け給うに違いない、という確信です。 
 
 実はサムエル記上のこのあとの記述(7章13、14節)は、歴史的事実に関しては必ずしも正確ではありません。尤も、読み方によっては信仰的先取りといえるかもしれない記述ですが、歴史的にはこの後もペリシテによるイスラエルへの軍事的脅威は去らず、あたかも現今のアジアにおける共産中国や、中東における「IS(イスラム国)」のように、厳然として存在し続けました。
 
 イスラエルの最初の王サウルの生涯もペリシテとの戦闘に明け暮れましたし、それは統一イスラエルの最初の王となったダビデの時代まで継続しました。
 しかし、神が苦難の中でも彼ら神の民を見放すことはありませんでした。真心を込めて神を呼び求めれば、神は答えて下さるのだという経験は、その後のサムエルの預言者としての歩みと活動とを支え、同時に神の民の信仰を支えるものとなったことは確かでした。
 
 人生の路を往く時、進むに進めず、退くに退けず、まさに途方に暮れて行き詰まった時などには、過ぎ去った日々に神の助けを記念して建てた「エベネゼル(助けの石)」が多ければ多い程、それが信仰を鼓舞し、祈りへと向かわせてくれる助けとなります。
 
 神への感謝の石、証しの石である「エベン」を日々の歩みの中に建てながら、新しい年へと入って行きたいと思います。
 私どもの教会にとりましてもそう遠くない時期に、バス通りの拡張計画に伴なう教会堂の移転事業という難題に取り組まなければなりませんが、「主は今に至るまで、われわれを助けられた」(12節)、「だから、これからも」という信仰を持って、一丸となって取り組んでまいりたいと思います。
 
 もう一度、サムエルの告白を読んで信仰の祈りを捧げます。
 
「主は今に至るまでわれわれを助けられた」(7章12節)。
 
 確かに主なる神は危機の中にあっても、今に至るまで私たちを助けて下さっていたのでした。その神はこれからも、神の民である「われわれを助け」(12節)てくださるに違いありません。