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2015年12月13日 待降節第三主日礼拝説教 キリストとの運命的な出会い? 女は井戸の側で思いもかけず、待ち望んで止まなかった救世主に出会った(後)ーこの救世主により、神礼拝の確かな道が開かれた ヨハネによる福音書4章15~26節

15年12月13日 待降節第三主日礼拝説教

キリストとの運命的な出会い?

女は井戸の側で思いもかけず、待ち望んで止まなかった救世主に出会った(後)ーこの救世主により、神礼拝への確かな道が開かれた
 
ヨハネによる福音書4章15~26節(新約口語訳149p)
 
はじめに
 
立場上、よく電報を打ちます。御祝い電報やお悔やみ電報などですが、最後の差出人の名前の確認の際の電報受付担当者の決まり文句が、「寛容、寛大の一文字」、です。
 
私の場合、「名は体を表す」か否かの議論は扨措くとして、宗教に対する日本人の感覚が寛容であるとされるのに対し、一神教のキリスト教は非寛容であるとする通説があります。
確かに西洋史とりわけ、欧米のキリスト教歴史を概観する限りにおいてはそう言えなくもありませんが、実は非寛容で排他的なのはキリスト教の特性というよりも、歴史的、地理的に偶々、キリスト教を信奉した西洋人の民族性から来ているのではないか、という見方もできます。
 
私自身の場合を例に取れば、日本の伝統宗教に対し、またその祖師たちに対しては、高い尊敬の気持ちを持っております。
 
キリスト教の教義を一面から見れば、排他的と見えなくもありません。神は唯一ですし、救世主も一人であり、救済の道も一つ、と主張するからです。
 
ユダヤ当局に対するペテロのこの人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)という弁明にもそれが現われています。
 
 しかしだからと言って、他宗教を頭から蔑視したり、否定したりするのはイエス・キリストの教えではありません。
 ただ、欧米人やアラブ人などの「あれかこれか」に対し、私たち日本人が持つ宗教観は、「あれもこれも」と寛容、寛大です。
 それを端的に表すものが、一休禅師が歌ったとされる「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月をこそ見る(月を見るかな)」という歌でしょう。
 
 問題は、月を見ること、すなわち永遠の生命を掴むことのできる高嶺に分け登る道は、果たしていくつもあるのか、ということです。
 実はキリスト教は、種々の他宗教との論争以前に、母体でもあるユダヤ教との間で熾烈な神学論争を経て、発展してきましたが、その最初の営みは苦悶する無名の人との対話から始まったのでした。
 
 
 
 今週は、サマリヤの女とイエスの対話の続きです。

 

1.女が井戸の側で出会ったのは、神が歴史の中に遣わした救世主キリストであった
 
サマリヤ人とは決して交際をしない筈のユダヤ人が、自分の方からサマリヤ人に声をかけて、しかも水を飲ませて欲しいと頼んだということは、当時の慣習では考えられないことでした。
そのために頼まれたサマリヤ人女性の方が訝(いぶか)ります。
 
その訝る女性に向かってイエスは、二つの知識について語り出されます。
 一つは、これからイエスが与えようとする神の賜物、渇くことのない「生ける水」、すなわち、人に本当の満足をもたらす永遠の命という神からの賜物のことでした。
 
 
 
 これにつきましては先週の説教で触れましたが、もう一つが、彼女の眼の前にいて、「水を飲ませて下さい」と頼んでいる人物についての知識でした。
 
「イエスは答えて言われた、『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、水を飲ませてくれと言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』」(ヨハネによる福音書4章10節)。
 
 この後、会話は進んで行き、話しがサマリヤ女性の個人生活に及びます。ところで個人情報は、大切にされなければなりません。
 
 教会という親しげな場所であったとしても、お互いの個人的生活にずかずかと踏む込むような質問はすべきではありませんし、仮に個人的情報を聞かされたとしても、それは信頼関係の上でなされたことですから、自分自身の内に秘めておくべきであって、聞いたことを妄りに人に話したりしてはなりません。
 
 イエスは個人というものを誰よりも尊重されるお方でした。でもイエスはこの時の会話の中で、サマリヤ人女性の個人生活に関わるような領域に踏み込みます。
 それは好奇心などという低俗な興味からのものではなく、彼女の救いと悟りのためにはどうしても必要なことであったからでした。
 
 イエスは彼女に対して唐突に、「あなたの夫をここに連れて来るように」と言います。
 
「イエスは女に言われた、『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』」(4章16節)。
 
これに対して女性は、「自分には夫はいない」と答えるのですが、そこでイエスは言います、「それは答えとしては正確である。あなたには嘗て、五人の夫があったが、いま、あなたが交際している男性は法的な意味での夫ではない。あなたは偽りを言ってはいない」と。
 
「女は答えて言った、『わたしには夫はありません』。イエスは女に言われた、『夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである』」(4章17~18節)。
 
 このやりとりから説教などでよく聞くのは、「この女性がふしだらな女性で、乱れた生活をしている」という解釈です。
 でもそうとは言い切れないと思います。イエスの「五人の夫があった」(18節)という指摘は、彼女が正規の手続きを踏んで結婚をしてきたという事実を意味する言い方です。
 
 
 
 つまり、この女性は極めて生真面目な人であって、結婚というものを真剣に考え、期待もして結婚生活に入った。しかし、その結婚生活は期待に反して失望するものであった、そこで、まあ、結婚というものはこんなもんだろうと妥協していればそのまま、結婚生活を続けていたかも知れない、しかし、真面目な性格のゆえ、自分の気持ちを誤魔化して妥協したまま、現状での生活を続けることができない、そこで離婚をし、期待を持って次の結婚生活に入るがそれもまた違う、これを何度か繰り返しているうちに、生真面目であるがゆえに結婚という制度に失望して、夫婦という形式をとらない関係を選んだ、今でいう事実婚ということでしょうか。しかし、世間はそういう彼女の生き方を認めず、白い目で見る、そこで止むなく、女性たちが集まる夕暮れ時を避けて昼日中に水を汲む日々となった、という事情なのかも知れないのです。
 
 なお、イエスがどのようにして彼女の過去と現在の個人情報を入手したのかは不明ですが、イエスの指摘に対し、女はイエスを律法の教師以上と考えて、「あなたは預言者です」と言い出します。
 
「女はイエスに言った、『主よ、わたしはあなたを預言者とみます』」(4章19節)。
 
 サマリヤ人の宗教には二つの特徴がありました。
 一つは聖書に関するもので、ユダヤ人がモーセ五書、預言者(預言書)、諸書の三つからなる二十二巻のヘブライ語原典を聖書とするのに対し、サマリヤ人はモーセ五書だけを聖書としていました。
 
 
 ということは、このサマリヤ女性が「わたしはあなたを預言者とみます」(19節)と言ったということは、それがエリヤやエリシャあるいはイザヤやエレミヤなどの預言書におけるポピュラーな預言者などではなく、そのものズバリ、モーセのような預言者を意味したということになるのです。
 モーセへの神の語りかけです。
 
「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起こして、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることをことごとく彼らに告げるであろう」(申命記18章18節 旧約聖書273p)。
 
 そしてこの場合の女が言う「預言者」(19節)はほぼ、彼女が信じ、その到来を待ち望んでいた救世主、ヘブライ語ではメシヤ、ギリシャ語ではキリストと同義だったのです。
 そこで女はイエスに言いました。
 
「女はイエスに言った、『わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせてくださるでしょう』」(4章25節)。
 
 そのように言う女に向かってイエスは宣言します。「あなたの目の前にいるこの私が、そのメシヤ・キリストです」と。
 
「イエスは女に言われた、『あなたと話しているこのわたしが、それである』」(4章26節)。
 
 疲れ果てた身を井戸の傍らで休ませつつ、一杯の水を所望したユダヤ人の巡回教師こそが、彼女が待望して止まなかったメシヤ・キリストであったのです。
 彼女の驚きはいかばかりであったことでしょうか。イエスこそ、天地の神が人類の歴史の中に遣わした救世主でした。
 それはまた、心ひそかに神の救いを待望して止まない無名の一個人の現状を変革するお方でもあったのです。
 
 
2.女が井戸の側で出会ったのは、人に真の神を正しく教える救世主キリストであった
 
サマリヤ人の宗教のもう一つの特徴は、神をどこで礼拝するかという、礼拝の場所にありました。正規の礼拝場所としてエルサレムを主張するユダヤ人に対抗して、サマリヤ人はゲリジム山に神殿を建設し、そこで選民イスラエルをエジプトから救出したモーセの神を礼拝していました。
 
でもこの結果、どこで、あるいはどの神殿で捧げる礼拝が正統的な礼拝であるのかという問題が起こりました。
 
この、どこで礼拝を捧げるべきかという問いについてもイエスは、明快に二つのことを答えています。
その一つは、神とは如何なるお方であるか、ということでした。
 
どこで礼拝を捧げるべきかという問いは、神とは如何なる存在であるかという問いとも関係します。
そこでイエスは言いました、「問題はゲリジム山とかエルサレムとかいう場所の問題ではない。なぜならば、神は霊的な存在であられる、だから、神を礼拝するに際しては、特定の場所を限定すべきではないのだ」と。
 
「イエスは女に言われた、『女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』」(4章21節)。
 
 それは神が目に見えるかたちで存在しているのでもなく、空間にも縛られない霊的な存在であるからだ、とイエスは教えます。
 
「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまことをもって礼拝すべきである」(4章24節)。
 
 イエスは神の本質について、「神は霊である」(24節)と説明しております。
 神が「霊である」ということは第一に、神が実在する神であることを示したものです。今の時代、目には見えなくても実在するものはいくらでもあることは常識です。
 神は不可視ですが実在するのです。見えないから神はいない、などと主張したら笑われます。
 霊である神は、霊的に存在されるお方なのです。
 
 第二に、神が「霊」であるということは、能力的には限界がないという、全能性を意味します。また物質的存在とは異なっていて、不滅、不朽の存在であるということを意味します。
 
 更にまた、神が霊であるということは偏在でもあるという意味です。偏在ですから神は空間に縛られるということはありません。
 つまり、ここにいて、あそこにはいない、ということもないのです。
 神は霊ですから、教会の交わりの中におられますし、それぞれの家庭、職場、学校、時には病院などにもいてくれるということになります。 
 神が霊であるからこそ、場所の制限や空間の制約を受けることなく、常に共にいてくれるのです。
 
 また、わたしたちが神を呼び求めた時、目にそ見ることはできませんが、神を信じ愛する者には、夜となく昼となく、常に側にいて、救い主についての知識を与え、行くべき道を示し、神の大いなる愛を感じさせてくださるのです。
 
 
3.女が井戸の側で出会ったのは、真の神礼拝を可能としてくれた救世主キリストであった
 
 イエスがサマリヤの女に語られたもう一つの真理それは、神に近づく方法、神を正しく礼拝するための道についてでした。
 具体的には、正しい仲介者による仲介を通しての礼拝のみが、神に受け入れられる有効な礼拝であるということでした。
 それが「霊とまこと」による礼拝ということです。
 
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父はこのような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(4章23、24節)。
 
 このイエスの言葉は一般的には、礼拝の心構えや姿勢を正しく整えるという意味で理解されています。
 しかしある時、そういう意味で語られたのではない、という見解に接して、将に「目から鱗」状態になったものでした。
 これは礼拝者の姿勢についての教えなどではなく、礼拝を可能にする資格についての教えなのだ、ということでした。
 
 例えば、新幹線を利用しようとした場合、チケットが必要となります。チケットが無ければ、どんなに礼儀正しい態度を取ったとしても、改札に入ることはできませんし、のぞみであろうとこだまであろうと、とにかく新幹線自体に乗車することも出来ません。
 
 神礼拝も一緒です。真の神を礼拝し、神と交わるためには、正規のルートで入手するチケットが不可欠です。
 そしてこの高価なチケットを自らを犠牲にして入手し、信じる者に無償で提供してくれたのがイエスという名の救世主、キリストだったのです。
 
 また、「霊とまこと」(24節)の「霊」とは、神の御霊のことであって、御霊とは神の御子でもあるイエス・キリストの本質でもあります。
 つまり復活後の御子は父と同様、霊的な存在であることを意味します。
 
 また、「まこと」(同)は真理のことですが、イエスこそ「道であり、真理であり、命」そのものでした。
 
「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(14章6節)。
 
つまり、「霊とまこととをもって」(同)捧げる礼拝とは、礼拝姿勢のことではなく、キリストであるイエスを通して、という意味なのです。
イエスという名のキリストを仲介者として、そしてイエスを主と信じる信仰に対して与えられる神礼拝のチケットによって、今や正規のルートを通じての神礼拝が可能となっているのです。
 
サマリヤの女が思いがけず井戸の側で出会ったお方は、真の礼拝を可能とするためにこの世に来られた救世主キリストだったのです。
 
そしてイエスは今日もまた、心の渇きを覚える者に向かい、私を通して「まことの礼拝を」(23節)しなさい、と呼びかけておられるます。
この呼びかけに対し、心を低くして応じる者は幸いです。