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2015年11月22日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話?最終回 忠実で思慮深い僕と不忠実な僕の譬え―人生の縮図でもある時間の、賢明な費(つか)い方 マタイによる福音書24章44~51節

15年11月22日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話? 最終回 
 
忠実で思慮深い僕と不忠実な僕の譬えー人生の縮図でも  
ある時間の、賢明な費(つか)い方
 
マタイによる福音書24章44~51節(新約聖書口語訳41p)

 

はじめに
 
小学校の六年生は算数の時間に、「拡大図と縮図」を学ぶようです。「縮図」を手許の辞典(大辞林)で引いてみますと、「実物を小さくちぢめて写した図面」とあります。
 
「縮図」で思い出すのが、救世軍の山室軍平中将が常に言っていたという、「一日は一年の縮図、一年は一生の縮図」という言葉です。
この言葉は一日を大事にするということが、どんなに大切なことかということを教えてくれます。
 
時間ばかりがあっと言う間に過ぎて、今年もあと一カ月で終わるという時期に来ましたが、「マタイによる福音書の譬え話し」の最終回は、一日一日を大事にした人と、一日一日を蔑(ないがしろ)にして一生を棒に振ってしまった人についての譬えです。
 
そこで今週の説教のタイトルは、牧師自身の反省も踏まえて、「人生の縮図でもある時間の賢明な費(つか)い方」としました。
 
タイトルの文言を「使い方」とせずに、「費い方」としましたのは、「時は金なり」という格言にもありますように、時間というものは無駄に費(つい)やすこともあれば、賢く費やすこともあるからです。
 
一度しかない人生です。もとより凡人である私たちには、悔いのない人生を生きることは不可能かも知れません。
しかしそうであっても、悔いの少ない人生を生きることは可能です。一生の縮図である一日を賢く生きることを通して、意義深い人生を送ることは、今からであっても可能です。
 
1.神の良き管理人として、委ねられた時間を意義深く生かすことが大事
 
   
 
         
  今週の説教の最初のポイントは、「神の良き管理人とて、委ねら
た時間を意義深く生かす」 です。最初に、マタイによる福音書の二
四章を、少し長めの箇所すが一緒にお読みしたいと思います。
 
「だから、あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、誰であろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人の帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみしたりするであろう」(マタイによる福音書24章44~51節 新約聖書口語訳41p)。
 
 「主人がその家の僕たちの上に立てて」(45節)いる「僕」(同)とは、下働きの使用人たちの上司の立場にいる者を指します。つまり、責任のある立場に着いている者のことですが、この譬えは指導者や責任者だけを対象にしたものではありません。
 
 人生においては、どんな人でも責任のある立場に着いていると言えるからです。新規に就職した者であっても、就職した瞬間から、その務めと職場に対して、一定の責任を持つことになります。
そしてどんな人であっても人であるならば、天の神に対して責任があります。人と神との関係は将に、「僕」(45節)と「主人」(同)の関係だからです。
 
「僕」は自分の「主人」に対して、任せられたものを管理し、これを正しく使用する責任があります。とりわけ人には、神から委ねられた時間というものを大事に、かつ有効に管理するという責任があります。
 
時間は人の所有物ではありません。神から管理を委ねられたもの、しかも有効に使うよう、費やすようにとそれぞれに任されたもの、それが時間です。
 
この譬えの中の「忠実な思慮深い僕」(45節)は、主人のいない留守の間も陰日向なく働いて、下働きの使用人たちの世話をします(同)。
 
しかし「悪い僕」(48節)はまだまだ「主人の帰りはおそいと心の中で思い」(同)、下働きの使用人たちを虐待するは、仲間を集めて宴会するは、などしますが(49節)、まさにその「日」(50節)その「時」(同)、突如、「主人」(同)が帰ってきて、あわてふためくということになります。
 
この「悪い僕」(48節)の脳内にあったのは、「時間はまだまだ十分にある」という考えでした。
 
ウィリアム・どうバークレーの註解書で読んだのどうか、記憶が定かでないのですが、こんな話があります。
 
修行中の見習いの悪魔たちに、悪魔の頭であるサタンが、「人間を誘惑して、その人の人生を台無しにする」という方法を問うた。第一の悪魔は言った、「私は人間に、『神などはいないのだ』という考えを吹き込みます」サタンは答えた、「ダメだ、そんなことでは人間を騙すことは出来ない。神が存在することは、まともな人間ならば誰もが知っている」二番目の悪魔が言った、「私は、『地獄などは実在しない』と言って、人間を油断させます」サタンは言った、「それもダメだ、罪を犯した者が地獄に行くということは、子供でも知っている」と。そこで三番目の悪魔が言った、「私は人間に、『神は実在する、地獄も存在する、しかしまだ時間がある、急ぐ必要はない』」と言います」その時サタンは満足げに破顔一笑し、三番目の悪魔に言った、「合格だ、お前は大勢の人間を堕落させることができる。人間世界に出て行って、『まだ時間はある、十分にある』と耳元で囁け」と。
 
「まだまだ時間は残っている、十分にある」と多くの人が考えています。何の根拠があるわけでもなく、ただ自らの期待を込めて「主人の帰りがおそいと心の中で思」(48節)うということは、人に対して神が委ねている時間というものを、自分勝手にしているということの証左です。
 
「忠実な思慮深い僕」(45節)とは、主人がたとい、「思いがけない日、気がつかない時に帰ってき」(50節)たとしても、あわてず騒がず、「ご主人さま、お帰りなさいませ」と出迎えることのできる僕のことです。
 
そのように、人間の主人であるイエス・キリストが突如、天から戻ってくることがあったとしても、「主よ、お帰りなさい」と、心安んじて迎える「良き管理人」でありたいと思います。

 

2.神の良き管理人として、与えられた務めを忠実に果たすことが大事
 
神の僕、神の管理人には時間と共にもう一つ、神から委ねられたものがあるのですが、それが「務め」というものです。具体的には主人の留守の間、下働きの使用人たちと共に主人の家を管理し、下働きの使用人たちの面倒を見る、というものです。
 
「忠実な思慮深い僕は」(45節)主人がいなくても、あるいは不在であるからこそ忠実に委ねられた職務に勤しんだのでした。
 
一方、「悪い僕」(48節)の方はと言いますと、主人がいないことをいいことに、家を治める職務を放棄して、あたかも自分が主人であるかのように、我が物顔に振る舞っていたのでした。
 
そしてそれらの結果は明らかでした。主人が突如帰宅した時、「忠実な僕」(45節)の常に変わらぬ振る舞いを見た主人は、彼を家全体の管理者に取り立てて、栄光ある大きな務めを委ねます。
 
しかし、主人の不在をいいことにして自分の務めを怠った「悪い僕」(48節)には、厳罰が下されます。
つまり、神の国の外で「泣き叫んだり、歯がみをしたりする」(51節)という惨めな結果を、自らが招いてしまうのです。
 
どのような人にもなすべき「務め」があります。神は人それぞれに務めを与えると共に、務めを果たすために必要な賜物を与えておられます。
時間も体も含めて、人生は神からの借り物です。
 
人は誰もがある時、「主人」(50節)である神の前に出ていって、委ねられた「賜物」をどのように使用したのか、任された「務め」をどのように果たしたのかを報告しなければなりません。
神はその報告に基づいて評価を下されますが、これを聖書は「神の審き」と言います。
 
「審き」と言いますと、思い浮かぶのは刑罰ということですが、「審き」という言葉自体は、「評価する、判断する」という意味であって、神の務めに対して忠実であった者には結果として豊かな報いが、そして不忠実であった者には結果として、悲しい報いが下されます。
 
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節 282p)。
 
 なお、口語訳が「自分の行ったこと」(10節)と訳した箇所は、原文には「肉体において」というギリシャ語があります。
 そこを直訳すれば、「(人は)肉体において自分の行ったことに応じて」となります。つまり、「審き」の査定対象は、人間の現世での生活、行動、生き方すべてです。
 
 私たちは現在、置かれている職場においては、誠実に仕事に励むことが大切です。
 
学生や生徒、児童は本分である勉学や運動を通しての成長を図ることが大事です。
 
育児は母親だけの仕事ではありません。夫は側面から妻の働きを支えて、家庭の形成に努めることが求められます。
 
キリスト信徒にとり、教会生活において、時間もまた神から委ねられたものという理解のもと、委ねられた賜物を用いて出来る範囲で奉仕に打ち込み、礼拝出席にも励むことが求められています。
 
そうしていつの日にか、主人であるキリストが天から帰って来られた時に、忠実な生き方を見てもらえる人は幸いです。
 
「主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである」(24章46節)。

 

3.神の良き管理人であるために、よい習慣を意識的に身につけることが大事
 
 「忠実な思慮深い僕」(45節)と「悪い僕」(48節)との違いはどこにあるのかと言いますと、一つはその性格にあるとも言えます。
 
つまり前者はもともとが真面目な性格で、後者はいい加減な性格の持ち主であったということが考えられます。
 
そういう意味では、後者にはハンディがあると言えなくはありません。しかし、それは言い訳にはなりません。
生まれつきの性格は矯正が可能だからです。
どのようにしてかと言いますと、聖霊なる神の助けとご支配とを求めつつ、意識的に日常の習慣を変えるように努めることによって、です。
 
以前もご紹介しましたが、十九世紀に英国において、「孤児の父」として慈善活動と宣教活動に邁進したジョージ・ミュラーこそ、悪しき性格が良き習慣によって造り変えられた人物といえるでしょう。
 
 ジョージ・ミュラーの生涯を書いた伝記で、最良のものはピアソンという人が書いたものだと、勝手に思っているのですが、ピアソンはその著書の中で、習慣について言及します。
 
習慣というものは、その人の本来の姿を示し、またその 人をつくり上げるものである。それは歴史的であり、また預言的である。その人のありのままを映す鏡であり、将来その人がどのようになるかを示す鋳型である(A・T・ピアソン著「信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業」126p いのちのことば社)。
 
ピアソンは言います、習慣とは性格を含めての「その人の本来の姿を示」すものだと。ですからたとえば、今の時点で時間や約束にルーズは人は、それは子供の頃からそうだった、というわけです。
それが「歴史的であり、…ありのままを映す鏡である」という意味です。
 
しかも、それは(習慣は)将来に向かって「その人をつくり上げるものである」ということは、大人になり、高齢になってもやはり時間や約束にルーズになるということを意味します。
つまり、「預言的である」というのです。
 
ですからもしも今の「習慣というもの」が「その人をつくり上げるものである」とするならば、気がついた時点で自分の短所を意識し、その上で意識的によい習慣を身につけるように努力すれば、その習慣が本来の性格を修正し、よいものを生み出す、よい特質を持った人に「つくり上げ」られることが可能になるというわけです。
 
生まれつきの性格が人生を左右することは事実です。
しかし、性格は、人が願うならば変えられる。そしてそれを実際に証明した人物が、この伝記の主人公のジョージ・ミュラーでした。
 
後年のミュラー牧師を知る人には想像不能なのですが、ミュラーという少年は、十代の頃、感性や感情、そして良心そのものが麻痺したような性格の人物でした。
十四歳のジョ―ジ・ミュラーは、彼の母親が死の床にあった夜、酒に酔って街中をよろめきながら歩いていたそうです。
 
また十五歳の時には、教会での信仰告白式を受ける為に父親から預かった献金をくすねごまかした末に、教会員となっています。
 
十六歳の時には牢獄にも入ったという、まさに箸にも棒にもかからない札付きの悪でした。
しかしジョージ・ミュラーが二十歳の時、彼は聖書との出会いによって回心を経験します。そして変えられていき、やがて牧師になります。
 
しかもみなしごに対しての関心から、地元の英国は元より、単純な祈りと信仰を支えに、家庭に恵まれない「孤児たちの父」となり、世界に影響力を与える人物となりました。
 
人は変わります。習慣によって、良くもなれば悪くもなってしまいます。人は変わります。もって生まれた性格も、修正は可能です。
よい習慣が身につけば、その習慣が第二の性格を形成してくれるのです。
 
「一日は一年の縮図、一年は一生の縮図」です。だからこそ、人生の営みの初めの日曜日を、神との交わりという貴重な体験に費やす時間として聖別する日曜礼拝は、人生を変える機会となるのです。
性格は変わります。変化を望めさえすれば、人はたとい徐々にではあっても、変わります。そのことを確信していて、コリントの集会を励ましたのが、使徒のパウロでした。
 コリント集会への書簡の一節を読んで、ご一緒に祈りましょう。
 
 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人への第二の手紙5章17節 283p)。