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2015年10月25日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話? 花婿を出迎える十人のおとめの譬え―思慮深いおとめたちは、予備の油を備えて花婿を待った マタイによる福音書25章1~13節

2015年10月25日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話?
花婿を出迎える十人のおとめの譬え―思慮深いおとめたちは、予備の油を備えて花婿を待った

マタイによる福音書25章1~13節(新約41p)

説教の梗概

1.花婿なるキリストがいつ来てもよいように、信仰という「あかり」を灯しておく

2.信仰という「あかり」を灯し続けるために、神との交わりという「油」の備えを怠らないように努める

3.神との交わりという「油」は、個人的にしか手に入れることができないという事実を肝に銘じる

はじめに

 よく使われる「備えあれば憂(うれ)いなし」という警句は、中国古代の文献、「書経」にある言葉ですが、これは「備えあれば患(うれ)いなし」が本来の言葉だそうです。

専ら地震や台風などの災害対策を促す言葉として使われてきた言葉でしたが、今年は国防という国の安全保障政策強化の必要を促すものとして用いられました。
あの騒ぎは何だったのでしょうか。法案が通れば日本は米国の戦争に巻き込まれて、すぐにでも徴兵制が布かれ、子供たちが戦争に駆り出される、と大騒ぎしたことが、まるで嘘のような昨今です。
 
その後、政権の支持率は下がらないどころか上昇しており、与党の支持率も安定し、憲法違反だ、戦前に逆戻りだ、政権は民意を無視している、と、眦(まなじり)を決して安保法案を攻撃した野党の支持率は、一向に上がらず低迷状態です。
 
熱狂が去って冷静になり、よくよく考えてみたら、「備えあれば患(うれ)いなし」なのだという当たり前のことが、わかってきたのかも知れません。 
 
戸締りは大事です。防犯は大切です。大都会で、「私は人間の善性を信じています、ですから戸締りをしません」と外に向かって宣言する家があったら、その日のうちに目も当てられない被害を被ること、請け合いです。
 
警戒するに越したことはありません。人生、何があるかわかりませんので、「備えあれば患(うれ)いなし」なのです。
 
想定外の事態に対して備える、という心構えは、自然災害などへの対応だけではありません。
それは神による救済という未来に起こる事態に対しても、常に備えをしておくことが大切です。
そしてその重要性を教えたものが、「マタイ」が福音書に採録した「十人のおとめの譬え」でした。
 
 
1.花婿なるキリストがいつ来てもよいように、信仰という「あかり」を常に灯(とも)しておく
 
物事には資格というものがあります。早い話し、バスや電車に乗るには乗車券を購入する必要があります。
 
自動車を運転するためには、各都道府県の公安委員会が発行する運転免許証の携帯が必要となります。
私の免許証には「優良」とありますが、たとい、運転の技量が優良でなくても、正規の手続きを経て取得した免許証を、保持、携帯していれば、いつでも自動車運転は可能です。
因みに私が持っている運転免許証が「優良」なのは、私が優良なドライバーだからではなく、ペーパードライバーだからなのですが。
 
聖書は、救世主は人の世界に二度、来臨すると言っております。
その一回目、救世主はイエスという人間の姿で、この世界に誕生しました。その誕生を祝うイベントがクリスマスです。子供でも、クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う行事であることは知っています。
 
クリスマス・イブの夜に、教会の前を通りかかった酔っ払いが、「最近は教会でもクリスマスをするのかあ」と感心したというジョークは、戦後七十年の今は流石に耳にしなくなりましたが、近頃、巷やテレビで目につくのが、ハローウィンです。意味も由来もわからずに軽薄に騒いでいるのには正直、違和感があります。バレンタインデーもそうですが、日本人の横文字コンプレックスにはいい加減、辟易します。
 
イエス・キリストのもう一つの来臨は、世界の支配者、主権者としての来臨です。二度目、つまり再びの来臨なので、再臨といいます。これは未だ実現を見ておりません。
 
そしてマタイによる福音書の譬えでは、この救世主の二度目の来臨は花婿としてのそれであって、花婿を出迎えるためには、『あかり』を手にして迎えること」が求められておりました。
つまり灯(とも)した「あかり」が花婿を出迎える資格なのです。
 
イエスが語られた譬えをご一緒にお読みしましょう。
 
「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出ていくのに似ている」(マタイによる福音書25章1節 新約聖書口語訳41p)。
 
 この譬えを理解するためには、既に何度も触れておりますが、当時のユダヤ社会の風俗や習慣を知っておく必要があります。
ユダヤの結婚には三つの段階がありました。
 
第一段階は、本人たちがまだ幼い時に、本人たちの意志に関係なく、親同士が決める許嫁(いいなずけ)という段階がありました。
 
これはやがて男性が二十歳くらい、女性は十五歳か十六歳になりますと、本人同士の意志を確かめた上で結婚、ということになります。
この段階になりますと二人は法律上の夫婦となりますので、この関係を解消する場合は婚約破棄ではなく、離婚ということになるのですが、この段階では二人はまだ一緒に暮らすわけではありません。
 
そして、第三段階が同居という段階で、この時に婚宴が行われ、二人は名実共に夫婦となるわけです。
 
婚宴は、花婿の家で行われます。その際、花婿が花嫁の家まで迎えに行き、その足で花婿の家に戻り、そこで婚宴が開かれるのが通例なのですが、双方の家が遠く離れている場合などは、花嫁の家に花婿が到着しだい、そのまま花嫁の家で婚宴が行われることがあったそうです。
 
この譬えでは、婚は花嫁の家で行われております。なお、この時代のユダヤでは新婚旅行などというものはなく、婚宴が一週間ほど続けられたということです。
 
ところで花婿を出迎えるのは花嫁ではなく、花嫁の友人の娘たちでした。
 婚宴は日が暮れてから行われますので、花嫁の友人の娘たちは「それぞれあかりを手にして花婿を迎えに出ていく」(1節)ことになっておりました。
 「あかり」(同)はおとめたちが花婿を迎えるための資格であり、この「あかり」を灯している者だけが、花嫁の友人であることのしるしでした。
ついでに言いますと「あかり」の原語の「ランパス」が、「ランプ」の語源ではないかとされています。
 
 ここでいう「花婿」(1節)は、天から帰って来られる再臨のキリストを指します。
パウロ書簡では通常、「花嫁」は教会に擬せられていますが、この譬えでの「おとめ」は、「花嫁」と一対化しておりますので、「十人のおとめ」(同)は個々の教会あるいは個々のキリスト信者を意味すると考えてよいでしょう。
 
 この「十人のおとめ」が手にする、「花婿」(同)を出迎える資格を意味する「あかり」(同)とは、イエスへの信仰、「イエスは主である」という信仰告白のことであり、その信仰告白に従ってイエスを信じ仰ぎ、イエスを崇め、尊び、その御言葉と意志を第一にしようとする信仰生活、それが灯されている「あかり」です。
 
 長い人生、失敗したりすることもあります。心ならずも神の言葉に背き、躓いてしまうこともあります。善かれと思ってしたことが却って人を傷つけてしまって意気消沈すること、気持ちが落ち込んで、スランプ状態が続くことがあるかも知れません。
 
 しかし大切なことは、聖書の正しい教えに基づいて、イエス・キリストこそが主であり、救い主であることを信じ続けて、その告白の中を生きることです。
 
 「あかり」にはあかあかと輝く「あかり」もあれば、小さな「あかり」もあることでしょう。
でも大切なことはどんな時にも信仰の「あかり」を消さないこと、どんなことがあっても信仰という「あかり」を灯し続けることです。
 
 
2.信仰の「あかり」を灯し続けるため、神との関わりという「油」の備えを怠らないよう努める
 
この信仰という「あかり」(1節)を常に灯しておくために欠かせないものが、「油」の備えです。
この譬えで強調されていることは、この「油」の備えということです。「油」の備えの有無が「十人のおとめ」たちの命運を分けることとなりました。
 
「その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
思慮の浅い者たちは、あかりを持っていたが、油を用意していなかった。
しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
花婿が来るのがおくれたので、彼らは居眠りをして、寝てしまった。
夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちの油が消えかかっていますから』」(25章2~8節)。
 
 「花婿が来るのがおくれ」(5節)るということは、交通事情がよくなかった古代にはよくあることでした。
また、時間の観念も現代とは異なったものでした。現代でも、電車や列車が時刻表通りに来る国など、日本くらいのものです。
 
 「世界ジョーク集」で見たのか、麻生元首相の著書にあったのか記憶が定かでないのですが、インドの話です。嘘か本当かはさて措くとして、インドでは列車が遅れることなど、ごくごく普通のことなのだそうです。
 
インドのある駅でのこと。正午発の列車の切符を持った乗客たちは、常態化している列車の遅れを見越して、待合室やプラットフォームに食べ物や飲み物などを持ちこんで時間をつぶしながら、いつ来るとも知れない列車を待っていた。中にはどうせ遅れるのだからと、駅舎の外に用足しに出た者もいた。ところがたまたまその日、正午に列車が駅を発車した。列車の遅れを見越して駅の外に用足しに行っていたため、その列車に乗れなかった乗客らは激怒して駅長に詰め寄った。「何で今日に限って列車が時刻表通り、正午に発車したのだ」と。しかし駅長は悠然として答えた、「お客様、どうかご安心ください。先ほど駅を出たのは、昨日の正午に発車する予定の列車です」
 
 さて、花婿の到着が遅れて、真夜中になってしまいました。
 「夜中に『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(6節)ので、「おとめたちはみな起きて」(7節)、花婿を迎えるための「あかり」を点検しました。
 
「あかり」は陶製の平べったい容器に油を入れたもので、容器のてっぺんの穴から外に出ている芯に、火を灯すという構造になっていました。紅茶のティ―ポットを思いっきり、平べったくしたものを想像してみてください。
 
何しろこの容器は片手で掲げるような小さなものですから、時々、油を足さなければなりません。 
そして、こんなこともあろうかと、「自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた」(4節)おとめたちは、その予備の油をランプに補給して、到着した花婿を迎えに出ようとしました。
 
一方、予備の「油を用意していなかった」(3節)おとめたちはあわてふためき、「油を用意していた」(4節)おとめたちに向かい、「あなたがたの油をわけてください。わたしたちの油が消えかかっていますから」(8節)と頼み込みます。
 
さて、この「油」とは何を譬えたものかと言うことですが、「油」は信仰という「あかり」を灯し続けるために無くてならないもの、つまり、神との関わり、神との交わりを意味すると思われます。
 
 神との交わりがあってこそ、信仰は持続します。反対に神との交わりが途切れてしまえば、信仰自体も消えてしまいます。そしてこの神との交わりを可能にしたものが「神との和解」でした。
 
 イエス・キリストの十字架の死は、人類が負っている罪と罰の身代わりであって、それに続く墓からの復活は、その身代わりの死が神に受け入れられたことを証しする出来ごとです。
そしてこの結果、実現したのが「神との和解」でした。
 
今年、一月から七月の始めにかけ、二十一回にわたって「使徒信条」の講解説教を行いましたが、その中心テーマは「神との和解」です。是非、毎週の説教要旨あるいは教会ホームページから、その要点を味わい直してみてください。
 
 そこで、パウロのギリシャ・コリントの集会に対する呼びかけを読みましょう。理解を助けるため、ところどころに言葉を付け加えております。
 
「神の和解を受けなさい。神が私たちの罪のために(身代わりとして)、罪を知らない(罪を一度も犯したことのない)かたを罪とされた(罪人として罰した)。それは、(罪びとである)私たちが、彼にあって(キリストを通して)神の義となる(神から無罪宣告をされる)ためなのである」(コリント人への第二の手紙5章20、21節 283p)。
 
 信仰という「あかり」は私たちがその心と人生に、イエス・キリストを主として信じ受け入れた瞬間から灯されます。
 
 洗礼はこの信仰という「あかり」が人生に灯されたことを記念する儀式です。譬えればキリストと法的な意味での婚姻関係に入ったことを証しする礼典です。それはゴールではなくスタートであって、人は神との交わりの中で成長し、変えられていくのです。
 
ある時期、パッと燃えて、いつの間にか消えてしまう信仰ではなく、地味でもよい、目立たなくてもよい、とにかくキリストとつながり続け、神との交わりを絶やさないようにすることです。
 
そうすれば、信仰の「あかり」を灯し続けることができ、思いがけない時、「夜中に『花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声」(6節)を聞いた時にも、信仰の「あかりを整え」て、花婿なるキリストを迎えに出ることができる「思慮深い」(4節)おとめのようになることができるのです。
 
 
3.神との交わりという「油」は、個人的にしか手に入れることのできないという事実を肝に銘じる。
 
この譬えでは、「油を用意していなかった」(3節)おとめたちは確かに「思慮の浅い者たち」(3節)でした。でも「思慮深い女たち」(9節)が「油」を「わけて」(8節)あげないのは、少々冷淡過ぎはしないだろうか、という疑問が生じるかも知れません。
 
「すると思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』」(25章9節)。
 
 でも、「思慮深い女たち」(9節)は決して冷淡などではなく、また吝嗇であったから断ったというわけでもありませんでした。
譬え話しの解釈においては、まず中心点を把握することが先決で、細部にはあまり拘泥しないこと、そしてそのためには、譬え話の語り手の意図を正確に探るということが、何よりも重要なのです。
 
実は、神との交わりという「油」は、個々人ひとりひとりが「用意」(4節)すべきものであって、互いに貸し借りをしたり融通をしたりするということができるものではありません。
それは親子や夫婦の間でも同様です。神との交わりは、神と私という個人関係が基本であって、「わけて」(8節)あげることのできないものなのです。
 
「思慮深い女たち」(9節)は油を「店に行って」(9節)購入することを勧めましたが、強いて言うならばこの「店」は、地域のキリスト教会での日曜礼拝や、教会に繋がっている者が日常的に行う個人的礼拝、デボーションを意味するのかも知れません。
 
礼拝という行為は、自身がするものであって、誰かの代わりにする、あるいは誰かに代わってしてもらうというものではありません。
 
 日本の宗教では代わりに神仏に参拝する、代参というものがあります。
 有名なのは遠州森の石松が、親分の清水次郎長の代参で、讃岐の金毘羅(こんぴら)さんに刀を奉納しての帰路、石松の懐の香典を狙った都鳥吉兵衛によって殺される、という話です。
 中学生の頃、家にあった広沢寅造の浪花節のレコード「石松金毘羅代参」で繰り返し聞いた記憶があります。勿論、このあと次郎長は、可愛い子分の仇をキチンと取ることになるのですが。
 
でも、神との交わり、という「油」はたとい親しい間柄であっても、貸し借りは出来ないものですし、礼拝の代参もできません。
 
しかも、地上においては礼拝自体、いつでもできる、というわけではなく、間に合わなくなる場合があるのです。
なぜかといいますと、喜びに満ちた「婚宴のへや」の「戸がしめられ」る時が来るからです。
 
「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」(25章10節)。
 
 二十一世紀に入って、あっという間に十五年が経ちましたが、まだ「花婿」なるキリストは来てはいません。
 
 そこで今すべきこと、それは、もしも「油」が切れかけている人、「あかり」が消えかかっている人がいるならば、花婿がまだ来ていない今のうちに、地域の教会における礼拝という「店」(9節)に走り込んで、神との交わりという「油」を備え、そして信仰という「あかり」を灯し続けていただきたいと心から思うのです。
 いつか、「戸がしめられ」(10節)る日が来るからです。その「戸」の中にいるか、それとも外にいるかは、「思慮」の有無にかかっています。
 
 そして、今現在、油の備えがある者も決して油断することなく、神との不断の交わりを、そして交わりの機会としての礼拝を、大事に守り続けていただきたいと、切に願います。