2015年9月27日 日曜礼拝説教
マタイによる福音書の譬え話
隠されていた宝、高価な真珠の譬え―天国という宝の価値を見抜く鑑定眼を持つ
マタイによる福音書13章44~46、51、52節(新約聖書口語訳21p)
《今週の説教アウトライン》
1.「天国」を何にもまさる「宝」と見抜く鑑定眼を持つ
2.「天国という宝」のためには何でもするという価値観を持つ
3.「天国という宝」についての情報を伝達する使命感を持つ
はじめに
「宝」と聞いたらまず思い出すのが、万葉集にある山上憶良(やまのうえのおくら)の歌、「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子に及(し)かめやも」でしょう。
「希少価値の高い銀や金、高価な宝石と雖も、わが子という宝物に比べれば遥かに及ばない」という意味で、子供という存在への親の熱い想いを歌ったものです。
子供とりわけ、幼気(いたいけ)ない幼児が大人の心を揺さぶるのは、子供というものが大人から見て、等しく宝そのものであるからです。
戦乱において犠牲となるのはいつも弱い立場の女性であり、子供です。
ヨーロッパを目指すシリヤなどからの大量の難民の流入を制限していたヨーロッパ各国の雰囲気がガラっと変わったのは、トルコの海岸に漂着した幼児の写真が世界に配信されたことがきっかけでした。
クルド人のシリヤ難民である両親は二人の幼児と共にギリシャを目指しましたが、大波によってボートは転覆し、父親だけが助けられたそうです。
海岸にうつ伏せになって打ち上げられていた赤いシャツを着た三歳の子供の写真は、それまで難民の受け入れを渋っていた西欧諸国の人々の気持ちを変え、その後急速に積極的な対応が検討されるようになりました
難民問題の犠牲となるのが、子供という掛け替えのない宝であることに気付いたからです。
但し、業者に多額の仲介料を支払ってでも、難民として国外に脱出できる人々はまだ恵まれている方であって、貧しいがために国を出るに出られず、戦乱のさ中、難民キャンプにとどまらざるを得ない、圧倒的多数の国内難民がいることに、世界は目を向けるべきでしょう。
ところで、聖書において子供、とりわけ我が子にも匹敵する宝、人生の行程において是が非でも手に入れるべき垂涎の宝として強調されているものが「天国」です。
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の第三回目の説教は、「畑に隠されていた宝、高価な真珠の譬え」からで、タイトルは「『天国』という宝の価値を見抜く鑑定眼を持つ」です。
1.「天国」を何にもまさる「宝」「高価な真珠」と見抜く鑑定眼を持つ
イエスは天国、あるいは神の国を説明にするにあたって、しばしば「譬え話」というものを用いました。
二年前のルカによる福音書の譬え話を取り上げた際にもご説明しましたが、譬えの英語「パラブル」の語源はギリシャ語の「パラボレー」です。
「パラボレー」は「横に」という意味の「パラ」と「投げる」を意味する「ボレー」の組み合わせで「横に投げる」という意味の言葉です
つまり「譬え話」という物語の「横に(パラ)」に、語り手が本当に伝えたいという真理が「投げられている(ボレー)」ということなのです。
「天国」は直訳すれば「神の支配」を意味しますが、具体的には神様との良い関係、親しい関係を指します。それはまさに人間が求めてやまない「宝」です。
イエスはこの「天国」という宝を、一つは「畑に隠されていた宝」に譬え、もう一つは宝石商人が何としても手に入れたいと願っていた「高価な真珠」に譬えました。
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。…また天国は、よい真珠を捜している商人のようなものである」(マタイによる福音書13章44節前半、45節後半 新約聖書口語訳21p)。
最初の譬えの「畑に隠してある宝」の場合、少々説明が必要です。
実はパレスチナは常に戦場になっておりました。そこで人々は戦乱を避けて他に避難をする前に、大事な宝を床下や畑などに埋めて隠しておいたりしたようです。
ドイツの新約学者、エレミアスの著書の引用です。
「隠された宝」―イエスは、銀貨や宝石のはいった土器を考えておられるのだろう。パレスチナが二大河の国〔チグリス、ユーフラテスの河河、メソポタミアを指す〕とエジプトの中間に位置したため、数百年にわたってその国土に吹き荒れた数多くの戦争は、繰り返し、恐ろしい危険に直面して貴重品を土に埋めさせるように強いたのである(ヨアヒム・エレミアス著「イエスの譬え」217p 新教出版社 現代神学双書41)。
ある時、畑に埋められていた「宝」(44節)が発見されました。長い年月が経過したからか、あるいは宝を埋めた本人が物故したかして、宝が畑に隠されたという事実は人々の記憶からも、そして記録からも失われてしまったのか、「宝」は土中に埋められたままでした。
そしてある時、真面目に仕事をしていた男が、地中に埋められていた「宝」を発見したのでした。
彼は畑の所有者ではなく、畑を耕作するために雇われていた労働者でした。
「宝」を発見した彼はどうしたかと言いますと、すぐに帰宅して、持ち物全部を売り払って資金をつくり、所有者から畑を購入したのでした。
「人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」(13章44節後半)。
「それを見つけると」(44節)所有者に知らせないで、「隠しておき」(同)、畑の購入資金を工面して「その畑を買う」(同)という行為は、某国ならばともかく、日本人の倫理からしますと、「ちょっとどうかなあ」とも思いますが、今から二千年も前の中東の話であって、それ自体としは、当時では誰もがしている合法的な行為であったようです。
現代でも、たとえば食料品を満載したトラックが横転したりすれば、それっとばかりにバケツやざるを手にした住民が群がり集まって、道路に散乱している品物をあっと言う間に拾い上げて自分の家に持ち帰ってしまうという国がありますが、もしもこれがその国であるならば、見つけた宝を密かに自宅に持ち帰り、何事もなかったかのように仕事を続けるかも知れませんが。
二つ目の譬えも似た譬えです。
真珠商人がおりました。彼は良質の真珠を求めて世界を巡り、ある所で希少価値の高い、一個の真珠を見つけたのです。
そしてそれを見つけるな否や、迷うことなく自分が所有していた多くの真珠や宝石類を処分して購入資金をつくり、発見した一個の真珠を入手したというのです。
「高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(13章45節)。
この二つの譬えの違いは、前者が宝を偶々発見し、後者は明確なイメージを持って捜し続けたというところにあります。
ある人は日々の営みの中で、「天国」という宝に偶然出会います
私の兄の場合、高校三年生の時、ひょんなことから偶々帰り路が一緒になったクラスの友人に案内された教会主催の天幕集会に、夏休みでもあったということで何気なく行ったことから信仰を持ち、「天国」という宝を発見するに至ったわけです。
その兄から勧められて、「では話のタネに一度だけ」という軽い気持ちで教会に行ったのが私でした。
一方、ある人は真珠商人のように、求めて求めて、尋ねて尋ねての求道、精進の暁に、ついに探し求めていた真理に出会い、「天国」という「高価な真珠一個」を手に入れます。
しかし、両者に共通している事柄があります。それが人を幸せにする「宝」であること、「高価な真珠」であることを見抜く、鑑定眼、鑑識眼というものを持っていたことでした。
教会にはこれまでに沢山の人が来ましたが、教会に残る人というのは、聖書の中にこそ真に値打ちのある「宝」が有ることを見抜く目、見極める眼力というものを持っていた人たちでした。
この見極めるための視力を持っていなかった者は、肉眼に見える物に目を向けたために躓いたりもしましたし、中には、一度は「天国」という「宝」を受け入れても、いつしか他の物に目移りしたりして、折角苦労して手に入れた価高き「宝」や「真珠」を、捨て去ってしまうという人もいます。残念なことですが
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」(7章6節)。
見えるものにしか目を向けない人が多い中で、唯一の神が実在していることを信じ、イエス・キリストこそが唯一の救世主であることを素直に受け入れ、神との不断の交わりを楽しむ中で、永遠の生命の希望に生きる者は幸いです。
そしてそれが可能であるのは、確かな眼力、鑑識眼というものを駆使したからでした。
2.「天国」という「宝」を手に入れる為には何でもするという価値観を持つ
「宝」を偶然に発見し、あるいは「価高き真珠」を計画的に捜し求めた末での出会いであったとしても、この二つの譬えに共通するものは優れた鑑識眼の他にもう一つ、神との密なる交わりという「天国」を手に入れるためであるならば、自らが既に持っているものを投げ出してもよい、犠牲にしても構わないという考えを持っていたことにあります。
両者がそれぞれ、「宝」(44節)あるいは「高価な真珠一個」(46節)を購入するための資金とするために「持ち物を売りはら」(同)ったのは、それだけの代償を支払ってでも手に入れる十分な価値があると思ったからでした。
人は時には、何かを得るために今持っているものを放棄することを迫られる場合があります。
しかし、その価値を知っていれば犠牲を払ったなどと思うどころか、「喜びのあまり」(44節)に行動するのです。
長い間、「律法による自分の義」を追い求めてきたパウロが、「キリストを信じる信仰による義」を知った時、そしてその義をもたらすために神の御子が十字架にかかってくれたことを知った時、彼の中に一大方向転換が起こったということを告白しています。
「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
わたしはさらに進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基ずく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ人への手紙3章7~9節 311p)。
「宝」あるいは「高価な真珠一個」にもまさる「天国」を手に入れるためには失うということ、持っているものを手放すことを恐れてはならないと、イエスは言います。
「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイによる福音書16章26節 26p)。
すでに信仰に入れられている者は、自らの手中にある「宝」「真珠」をどうか、決して手放さないように努めてください。
実はこの「宝」「真珠」に喩えられる「天国」という、生ける真の神との良い関係は、神からの無償の賜物です。
日々の暮らしの中で、この「天国」の喜び、力を味わい続けたいと思います。
ここからは、今朝、お配りした説教要旨にはないものです。
この聖書箇所を読みますと、私がまだ若かった頃に聴いた、ある牧師さんの説教を思い出します。
その方によれば、畑の宝の方は「天国は~宝のようなものである」とあるけれど、真珠の方は、「天国は~商人のようなものである」とあることから、天国が良い真珠を捜している商人として譬えられている。
そして、天国が捜している良い真珠とは、実は私たちのことであって、弱く情けない者であっても、神さまから見れば「高価な一個の真珠」なのだ。
そしてキリストは神の子という立場も栄光も全部捨てて、私たちを贖ってくださったのだ、という説教でした。
聴いた時には成るほど、と感動したという記憶があります。ただ、残念なことに、解釈学的にこの箇所からそのように解釈を導き出すことには無理があります。
この箇所の強調点は、人にとって天国はあくまでも高価な一個の真珠であって、いかなるものを犠牲にしてでも手に入れる価値のあるものである、ということです。それがイエスの意図でした。
解釈を離れて、私たちが神の目に高価であるということを伝えようとするならば、新改訳のイザヤ書43章4節、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という聖句を引用するのが適当かと思います。
この牧師先生は10年くらい前に病を得て天に召されましたが、素朴で純粋な人柄を思い出しますと、今でも懐かしさがこみあげてきます。
「天国」という、畑に埋まっている「宝」、捜し求めてきた価高き一個の真珠としての価値を見出す者は幸いです。
なお、イザや書43章4節の「私の目には、あなたは高価で尊い」という個所につきましては近いうちに単独の説教として取り上げたいと思っております。
3.「天国」という「宝」についての情報を伝達する使命感を持つ
そこで最後に、「一家の主人の譬え」から、譬えの意味を理解した者の務めについて学びましょう。
「『あなたがたは、これらのことが皆わかったか』。彼らは『わかりました』と答えた。
そこで、イエスは彼らに言われた、『それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである』」(13章51、52節)。
ここでイエスは、「譬え」を理解した者を「天国のことを学んだ学者」(52節)に譬えました。キリスト信徒とは「天国のことを学んだ学者」、「天国」についての知識と体験を持つ専門家なのです。
「天国のことを学んだ学者」(52節)はこの日本では少数者ですが、だからこそ貴重な存在と言えます。
この「学者」には務めがあります。「学者」は持っている知識を独占するのではなく、分け与えるという務めです。
それは「新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人」(同)にも譬えられます。
「倉」(同)が何を意味するのかという聖書解釈学上の議論はさて置き、私たちは誰もが、神の恵みに関する知識を持っております
要は、「惜しむことなく、それを必要とする人々に分けることができるのだ」というのがこの譬えの趣旨です。
説教はしなくてもよい、「伝道」などと大袈裟に考えなくてもよい、ただ、「天国」という「宝」あるいは「真珠」についての喜ばしい情報を内に仕舞ったままにするのではなく、機会があれば伝えたい、という使命感を持っていることが大切です。
私たちひとりひとりは「天国のことを学んだ学者」(52節)であり、人々が必要としている良きもの、つまり福音というものを神の「倉から取り出す一家の主人のようなもの」(同)なのだということを、この譬えから学べることを感謝したいと思います。