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2015年9月13日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話? 遅れてぶどう園に雇われた労働者の譬え―イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである マタイによる福音書20章1~15節

 2015年9月13日 日曜礼拝説教

 マタイによる福音書の譬え話?

ぶどう園に遅れて雇われた労働者の譬え―イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである
 

マタイによる福音書20章1~15節(新約聖書口語訳31p)

 

《今週の説教アウトライン》
 
1.イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである
2.イエス・キリストの神は、約束を誠実に守る神さまである
3.イエス・キリストの神は、今も変わらず人手を求める神さまである
 
 
はじめに
 
先週の半ば、ハラハラドキドキしながら、日本列島を真っ二つに横断する気配の台風十七号の行方を注視しておりました。
 
何しろ、三年前の夏、凄まじい集中豪雨によって教会前のバス通りが冠水し、道路に溢れた大量の水が教会に流れ込んで、一階が水浸しになるという被害が出たことから、大量の雨をもたらす雨台風には、特に神経質になっております。
 
台風の接近に伴って静岡や三重には浸水被害が出たというニュースに心を痛めつつも、大阪の方は何事もなく通過したため、それはそれでホッとしていたところ、週末になって北関東の栃木県と茨城県で、大雨による川の氾濫で、田畑や住宅街に大量の水が流れ込み、大変な被害がもたらされました。
 
この水害のために家々や住宅の屋根、電柱にとり残された被災者を自衛隊などのヘリコプターが救出する様をリアルタイムで伝えるテレビ画面に、目が釘付けになりました。
 
願わくは、大きなダメージを受けた被災者の方々の上に、神の励ましと支援が、具体的には国や県からの適切な支援があるようにと祈るものです。
 
酷暑の夏が過ぎていきます。この夏も一昨年、昨年に続いて詩篇をご一緒に読みましたが、今年の秋の九月、十月は、イエスが弟子や群衆に語られた譬え話を、マタイによる福音書から取り上げたいと思います。
 
ところで国会は政府提出の「安全保障関連法案」の審議が大詰めを迎えていて、法案の成立は今週末には実現する見込みですが、先週、九月の十一日、その国会(第189回通常国会)において、「改正労働者派遣法」という法案が可決されました(施行は今月の30日)。
 
これは正式には「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護に関する法律案の一部を改正する法律」という名称のものだそうですが、推進する側と反対する側の言い分が真っ向からぶつかっていて、内容を読んでもこれが良い改正なのか、それとも悪い改正なのかがよくわかりません。
 
と言いますのも、雇用する側が賛成する案は大概、雇用する側に有利、雇用される側が不利、ということが多く、雇用される側に有利なものは、雇用する側のデメリットが大きいというわけで、両者が満足するということはなかなか無いからです。
 
この法律の是非はともかくとして、雇用は働く者とその家族の暮らしに直結します。そのため、雇用という問題は国家の政策としては最重要課題の一つであって、イエス時代のユダヤ社会にももちろんそれはいえました。
 
有名なのが「葡萄園の労働者の譬え」、もう少し正確に言えば「葡萄園に遅れて雇用された労働者」の譬えです。
 
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の第一回目は、「イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまであった」です。
 
1.イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである
 
神学生であった一年目の夏は北海道に派遣され、二年目は九州でしたが、三年目の夏は残留と言いまして、東京の寮に残りました。そこで時間のゆとりもありましたので、バイトをすることにしました。手っ取り早いのはいわゆる日雇いです。
 
夏の日の朝早く、横浜の桜木町のガード下に行きました。待っていますと手配師が来て、「お前とお前とお前とお前」と適当に指名をしますので、指名されたら迎えの車に乗って現場に連れていかれて作業をするわけです。
 
 記憶に残っているのは砂糖工場で、長靴を履いて砂糖の山に登り、スコップで砂糖を掬うという作業でした
 
 ペプシコーラの工場でも働きました。コーラの瓶が入った箱をベルトコンベアに載せたり降ろしたりしたような記憶があります。この工場にはコーラの自動販売機のようなものがあって、レバーを引くだけで瓶が出てきますので、工場で働いている者はいつでも自由にコーラを飲むことができました。もちろん、無料です。
 
 一日働いて、日当は確か、千円くらいだったでしょうか。並んで現金の入った封筒を係りの者から受け取りました。何しろ、半世紀近い昔のことです。
 
 イエスはしばしば、弟子や群衆に対し、神の国について教えるにあたり、譬え話というものを用いましたが、イエスが特に用いたものが「葡萄園」の譬えでした
 
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけていくようなものである」(マタイによる福音書20章1節 新約聖書口語訳31p)。
 
イエスの時代、つまり西暦三十年頃のユダヤの主要な産業の一つが、葡萄の生産、具体的には葡萄を原料とするワインの製造でした。
葡萄の収穫は人海戦術で、大量の人手を動員して短期間で行いました。
 
時期は雨季の直前です。雨が降れば葡萄の品質は落ちてしまいますから、時間が勝負となりますし、短期間で多くの収穫を得るためには、仕事の出来そうな良質の労働者を雇うことが鍵となります
 
賃金は一日、「一デナリ」でした。
 
「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った」(20章2節)。
 
「デナリ」は当時、ユダヤを属州として支配していたローマ帝国の通貨単位です。「一日」は夜明けから日没までです。ですから冬は十一時間くらいですが、夏は十三時間、十四時間にもなりました。
 
猫の手も借りたいようなこの時期、夜明けと共に募集した人員だけではどうしても、人手が足りないということがわかりました。何しろ、雨季は目前で、時間との勝負です。
 
そこでぶどう園の「主人」(1節)は「九時」と「十二時」そして「三時」にも出かけて行って、仕事にあぶれている人々を雇い入れました。
 
「それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと、三時ごろとに出て行って、同じようにした」(20章3~5節)。
 
雇用条件としては「一デナリ」(1節)の支払いではなく、「相当な賃金を払うから」(4節)ということでした。誰もが異議を申し立てることもなく、主人が出した条件を受け入れてぶどう園に向かいました
 
そしてぶどう園の主人が市場に、夕方の五時に行ってみると、まだそこに立っている者たちがいましたので、主人は彼らを雇うことにしました。
 
「五時ごろにまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』」(20章6、7節)。
 
その際、賃金の話しはありません。「相当な賃金を払う」(4節)という話もありません。雇い主にお任せです。
 そして日が暮れました。作業は終了です。日当が支払われます。
 主人は管理人に言いました、「最後に来た者たちから順に払ってやりなさい」と。
 
「そこで夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい』」(20章8節)。
 
まず、五時に雇われた者たちが恐る恐るやって来て、「管理人に」手を差し出しました。そしてその掌には何と「一デナリ」銀貨が置かれたのでした。
 
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった」(20章8、9節)。
 
 彼らは喜ぶよりも先に、驚き惑ったことと思います。彼らの実働時間は正規の時間の十二分の一の、たったの一時間にしか過ぎませんでした。ですから、まさか一日分をもらえるとは想像もしていなかったことでしょう。
 
 ではなぜ、実働時間が十分の一にも満たない者たちに、「ぶどう園の主人」は一日分に相当する労働賃金を支払ったのでしょうか。
 
それは主人が、彼ら日雇い労働者の暮らしというものを心配したからでした。「一デナリ」は一つの家族が一日を暮らしていくための最低の金額でした。
 
彼ら日雇い労働者たちは、家族の必要を満たす「一デナリ」の収入を期待して家を出て、朝早くから寄せ場に集まった筈です。労働意欲はありました。しかし、仕事にあぶれてしまいました。家を守る妻、空腹をかかえている子供たちの顔が浮かんでいたかも知れません。
 
でも、「一デナリ」を持って帰らなければ家族は飢えてしまいます。そういう彼らの切羽詰った状況を理解し憐れんで、主人は彼らにも「一デナリ」を支払ってやったのです。
 
 この主人は、イエス・キリストの神を、恵の神を示すものです。恵み(カリス)とは「受ける資格のない者に与えられる特別な賜物(カリスマ)を意味します。
 
遅れて雇われた人々は、無くてならぬ「一デナリ」を、働きに対する報酬としてではなく、恩恵として与えられたのでした。
 
この並はずれて親切な「ぶどう園の主人」(8節)のようなお方こそ、キリストの父なる神、そして今は私たち一人一人の父なる神なのです。

 

2.イエス・キリストの神は、約束を誠実に守る神さまである
 
この扱いを見た「最初の人々」は期待します。一時間しか働かなかった者たちに対してさえ、かくも気前よく支払ったのだ、ならばこの炎天下、朝早くから汗水流して働いた我々には、ボーナスがはずむことだろうと
しかし、彼らに支払われたのは「一デナリ」だけでした。
 
「ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるであろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった」(20章10節)。
 
 当てが外れた彼らは激怒し、不満を一斉に口にします。「公正ではない、不公平だ、不正もいいところだ」と。
 
「もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しかはたらかなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』」(20章11節)。
 
 これに対して主人は不平分子の代表に向かって平然と答えます、「私はあなた方に対して不正をしてはいない、契約通りにしただけだ」と。
 
「そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたのではないか。自分の賃金をもらって行きなさい』」(20章13、14節前半)。
 
 確かに主人の言う通りです(2節)。主人は彼らに対し、約束を履行しています。
 最初の約束通りに「一デナリ」を支払っているのです。
 
ここにキリストの神が如何なるお方であるかというメッセージがあります。
神は約束を守られる神さまなのです。最初の者たちは勝手な期待をし、妄想を膨らませ、その期待が裏切られたと言って不平を言っているだけです。
神は約束を誠実に守られるお方です。
 
 ところで、聖書解釈の原則は「読み込むな、読み取れ」であって、聖書記者の、福音書の場合は登場人物の意図を読み取ることにあります。
とりわけ譬え話の解釈の場合は、枝葉のことは置いておいて、話し手が言いたい中心だけを掴み取ることが重要です。
 
英国の新約聖書学者、A.M.ハンターはその著書において、古代教父のオリゲネスによる寓喩的解釈を紹介しております。
 
つまり、朝の六時に雇われた者とは世界創造からノアの時代までのことであり、最後に雇われた者とはキリストの時代までを表している、デナリは救いを意味する、というわけです。
 
彼(オリゲネス)は上述の最初のもの(ぶどう園の労働者たち)をこう説明する。労働者の最初の組は世界創造からノアまでの時代を、第二の組はノアからアブラハムまでの時代を、第三の組はアブラハムからモーセまでの時代を、第四の組はモーセからヨシュアまでの時代を、第五の組はキリストに至るまでの時代を表している。主人は神であり、一方、デナリは救いを表している(A.M.ハンター著 高柳伊三郎 川島貞雄共訳「イエスの譬え・その解釈」34p)。
 
 
ハンターによれば、オリゲネスより少し前に活動したエイレナイオスが、「働き人たちへの最初の呼びかけは、創造された世界の端緒を示し、第二の呼びかけは古い契約を象徴する。第三の呼びかけはキリストの伝道を意味する。わたしたちが今生きている長い時間は第四の呼びかけで、最後の呼びかけは終末時を象徴する」と説いたそうです(前掲書32p)。
 
一方、世代論的ともいえる解釈もあります。バークレーの註解書で紹介されている見方です。
 
神の国に早く入る人もおくれて入る人もいる。成功しやすい青年期、分別さかりの壮年期、また、日かげの傾く老年期に入る者も、みな等しく神の前に尊い(ウィリアム・バークレー著 松村あき子訳「マタイ福音書 下」246p ヨルダン社)。
 
古代教父の寓喩的解釈は論外としても、バークレーの世代的解釈は魅力的ではありますが、聖書解釈の原則からはやはり、無理があるようです。
 
しかし、この「ぶどう園に雇われた労働者たち」の譬えを語られたイエスの意図を推察しますと、早朝の六時に「一日一デナリの約束」(2節)で雇われた者たちが、律法を遵守すれば神によって義とされ、永遠の生命を得ることができるとした契約を信奉するユダヤ人を指していたということは、間違いのないことでしょう。
 
実際、律法を守り切れば永遠の生命を受けるということは、論理的には可能です。でも、律法を守るということは単に律法の字面を守ることなどではなく、律法の精神を守ることを意味しました。
 
そして律法の精神とは、力を尽くして神を愛することであり、隣人をおのれのようにとことん愛し抜くということでした。
 
「そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した。『先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか』。イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん、大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(22章35~40節)。
 
そして、イエス以外、律法の精神を完璧に実行し抜いた者はおりませんでした。他のことごとくが失格をしてしまったのです。そしてあのパウロですら、失格者でした。
 
つまり、この譬えが語る真理の一つは、誰であっても神との契約を完璧に守り抜くならば、その働きに対しては恩恵としてではなく、働きの実としての報酬を受けることできる、というものだったのです。
 
そしてこの約束は今日でも有効です。ただイエス以外、ただのひとりもこの約束をクリアした者はいなかったのです。
 
 これとは対照的に、最後に雇われた者たちのように、自分は救われるに価しないと考えた者たちは、その働きによってではなく、神の憐れみによって救いを得たのでした。それが私たちです。
 
 どちらにしましても、キリストの神は、弱い者に対しては並はずれた親切を示す一方、自己の義に関して自信のある者に対しては、とことん契約を守る神さまです。
神は「不正」(13節)とは無縁なお方なのです。

 

3.イエス・キリストの神は、今も変わらず人手を求める神さまである
 
この譬えから教えられるもう一つの真理は、キリストの神はご自分の事業を遂行するにあたって、人の手を必要としているお方であるということです。
そして、それは昔も今も変わることはありません。
 
確かに神は働きの無い者に対しても、憐れみを施す恵みに満ちたお方です。
しかし、神に擬せられる葡萄園の経営者は慈善事業としてではなく、あくまでも人手が必要であったからこそ、労働力としての彼らを雇ったのです。
 
主人が「九時ごろ」(3節)「十二時ごろと三時ごろ」(5節)そして「五時ごろ」(6節)に「市場」(3節)に出かけて行ったのはあくまでもぶどうの収穫作業に必要な人手を確保するためでした。
それくらい、ぶどう園の収穫量は厖大で、しかも緊急性があったのです。
 
ところで「天国」(1節)とは「天の支配」という意味です。「神の国」も「神の支配」という意味で、「御国(みくに)」も同じ意味です。
イエス・キリストの到来以来、神なき人間世界には、天の支配、神の支配が始まりました。
 
そして人が神の支配に入ることを聖書は「収穫」と呼んでいます。福音という御言葉の種まき、そして種まきに続く「収穫」は始まっているのですが、何しろ人手が足りないのです。
神は昔だけでなく二十一世紀の今も、そして日本という特別な地においても、人手を求めておられます。
 
「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てているのをごらんんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、『収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』」(9章36~38節 14p)。
 
 これはイエスの活動の初期に、「弟子たちに」(37節)対して語られた言葉です。
 
全人類を対象とする神の救済計画としての「収穫」(同)に比べると「収穫」のための「働き人」(38節)は圧倒的に少ない、だから今、「働き人」が必要である、あなたがたは自ら「働き人」として神の国の働きに従事しつつ、さらに多くの「働き人」が輩出するよう、「収穫の主」(38節)である神に祈りなさい、また祈ると共に、「働き人」の育成にも努めなさい、という意味です。
 
  「イエスは主なり」と告白している者は、まことに恐れ多いことですが、その告白の瞬間から神の「働き人」として選ばれ召されているのです。
 
ですから、少しでも多くの日本人が主イエスの恵みと神の愛を知って、今も人手を必要とする神の求めに応じる人材となることができるよう、私たちもまた、微力を尽くして証しと信仰に励みたいと思います。