2015年9月6日 第四回日曜特別礼拝説教
祝福された人間関係 その四
人間関係を良くするポジティブ・シンキング
テサロニケ人への第一の手紙5章16~18節(新約323p)
《今週の説教アウトライン》
1.ポジティブ・シンキングが、人間関係を良いものに変える
2.ポジティブ・シンキングは、高い信頼感から生じ易い
3.高い信頼感は、神への畏敬の感情を基盤にして育成される
はじめに
今日は九月の六日ですが、今から二十六年前の平成元年九月五日の午前十一時十七分、ひとりの少年が静かに息を引き取り、イエス・キリストの御許に召されていきました。北水秀春兄弟、恵子姉妹の長男の崇(たかし)さんです。中学二年生でした。病気は脳腫瘍でした。
彼は自らの病いを受け入れ、苦しい中でも自分の事よりも人のことを気にかける少年であったそうです。病院に見舞いに来てくれているお母さんには、家にいる二人の妹たちのために、早く家に帰るようにと促すのが常であったそうです。
抗がん剤の副作用で頭髪が抜け落ちた際にも、その状態で堂々と通学をしたそうです。天に召される三日前にはベッドの上で、両手を高く上げて、何かを見ているようなしぐさを繰り返していたそうです。
殉教直前のステパノのように、神の御座から立ち上がるイエス・キリストを見ていたのかも知れません。
不平を言うこともなく、愚痴をこぼすこともなく、身に発した病いを受け入れ、すべてを神に任せて短い十四年間という人生を、神と共に駆け抜けた少年がいたことは、本当に奇跡としか言いようがありません。
北水崇さんについて書かれたトラクト「崇君の勝利」(新座純福音教会発行)を最近、お父さんから贈呈され、一読して感動を新たに致しました。
この北水崇さんという少年の思考というものを一口で表すとするならば、それは素朴な信仰によって醸成された「ポジティブ・シンキング」つまり、肯定的な思考ということではないかと思います。
そこで九月の「祝福された人間関係」の四回目は、「人間関係を良くするポジティブ・シンキング」です。
1.ポジティブ・シンキングが、人間関係を良いものへと変える
最近、アニメの「アルプスの少女ハイジ」の場面が使われているCMを目にするようになりました。あの名作がこんな使われ方をして、とも思いますが。
「アルプスの少女ハイジ」というこのアニメは約三十年ほど前、フジテレビ系列で「世界名作劇場」の一つとして放映されていたものですが、その懐かしいアニメの場面を見るたびに、その二年ほど後に一年にわたって放映された「愛少女ポリアンナ物語」というアニメがしきりに思い出されます。
このアニメの原作の「少女パレアナ」(作者はエレナ・ポーター)は日本では、「赤毛のアン」の翻訳で有名な村岡花子の訳で、一九五九年に出版されていますが(「少女パレアネ」(偕成社))、その二十七年後の一九八六年に放映されたアニメ「ポリアンナ物語」を家族みんなで、毎回感動しながら見ていたという記憶がよみがえってきます。
物語は一九二〇年のアメリカ西部で、主人公のポリアンナ(Pollyanna)は四歳の時に母親を亡くし、牧師であった父親と暮らすのですが、この父親が娘に教えたのが、「人の悪口を言わないで、人の良い所を探すように」ということでした。
これは「よかったさがし」(原文では「the Glad Game」岡村花子の訳では「よろこびのあそび」、童話作家の立花えりかのダイジェスト版、「女の子の心をはぐくむ名作」では「喜びのゲーム」)と名づけられ、以後、ポリアンナの人生を貫く教えとなります。
牧師のお父さんはポリアンナに教えます、「聖書には八百もの『喜び』や『楽しみ』という言葉がある、それは神様が、私たちみんなが喜ぶことを望んでいるからだ、だから毎日の出来ごとの中から喜びを探すように、どんな事にも『よかった』と思えることがある筈だから」と。
ある時、父親は教会の本部にポリアンナが欲しがっていた人形を依頼するのですが、届いたのは子供用の松葉づえでした。ポリアンナは当然がっかりしますが、お父さんは彼女に、「松葉づえがなくても歩ける子供でよかった、と思えばよい。ね、こうやってどんなことからでも、よろこびを探すゲーム(the Glad Game)をしようじゃないか」とさとします。
やがて病弱の父親は亡くなり、その遺言でポリアンナは米国東部(バーモント州のベルディングスヴィル)に住む、亡き母の妹、パレーの家に引き取られることになります。
ところがこの叔母はポリアンナの父親をよく思ってはおりませんでした。なぜならば家を継ぐ筈であった姉がこの牧師と一緒になるために、家も財産も何もかも捨てて出ていってしまい、そのため、妹である叔母が心ならずも家を継ぐことになったからです。
おまけに彼女は、将来を約束していた男性と些細なことから言い合いをしたのがもとで婚約を解消したという過去があり、広大な屋敷に使用人たちと静かに暮らしておりました。
そういうことから、ポリアンナを喜んで迎えたわけではありませんでした。しかし、厳しい取り扱いもなんのその、ポリアンナは「よかったさがし(喜びのゲーム)」という、父親から教えてもらった方法を用いて対応します。
この、人を、そして次々と起こる事態や現象を否定的にではなく肯定的に捉えるというポリアンナの「ポジティブ・シンキング」は、心を閉ざしていた叔母だけでなく、孤独で偏屈な生き方しかできなかった町の金持ちの性格や生き方をも大きく変えていくことになっていきます。
人生、とても喜べないような事態に直面することがあります。到底、赦すことのできないような扱いを人から受ける場合があります。出来れば接触したくないと思えるような苦手な人、癖のある人に関わらざるを得ないという立場に立つこともあります。
そんな困難と見える状況を打開するもの、人間関係を良好なものに変える力を持つもの、それが積極的、肯定的な思考、ポジティブ・シンキングです。
少し前、テレビドラマの影響で「倍返し」という言葉が流行りました。確かに悪口には悪口、悪意には悪意で返したくなるのが人間です。
しかし、使徒パウロは悪には悪で返すのではなく、むしろ、善で返しなさい、と勧めました。
「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互いに、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章15節 新約聖書口語訳333p)。
大切なのは「いつも善を追い求めなさい」(15節)という勧めの後に続く勧めです。
「いつも喜んでいなさい」(5章16節)。
パウロこそ、「よかった探し(「the Glad Game」「喜びの遊び」「喜びのゲーム)」の推奨者、実践者でした。
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ人への手紙4章4節 312p)。
実はこのポリアンナの物語から、現実逃避としての楽天主義のマイナス面を指摘する「ポリアンナ症候群」という用語も生まれてきはしました。
しかし、「よかった探し」というポジティブ・シンキングはお気楽な能天気状態を推奨するものではなく、現実の厳しさ、人の弱さ、醜さを正確に認識しつつ、思考の持ち方によってマイナス面にプラスの側面を見出そうとするものなのです。
世界名作劇場の「アルプスの少女ハイジ」も幼かった子供と共に茶の間で楽しみましたが、その二年後に一年続けて放映された「ポリアンナ物語」から受けた衝撃は、当時はほんとうに絶大でした。
しかし時間の経過と共にいつしか、それは忘却の彼方に置かれてしまっておりました。
改めて、人生の晩年を迎えている今、ポリアンナという少女が実践した「よかった探し(the Glad Game)」というゲームを、日常の中で楽しみたいという願いが私自身のうちに生まれてきています。
物事をついつい否定的に見てしまうという癖がついているかも知れません。しかし、その癖をよい癖、「ポジティブ・シンキング」という癖に、思考に変えればよいのです。
人間関係をより良くするもの、それがポジティブ・シンキングです。
2.ポジティブ・シンキングは、高い信頼感から生じ易い
目の前に起こってくる物事や事態、あるいは人との関係を肯定的に受け止めるポジティブ・シンキングは、「信頼」という環境で育てられます。
とりわけ人間関係におけるポジティブ・シンキングの実践には、相互信頼という要素が関係します。
ポジティブ・シンキングの反対はネガティブ・シンキング、つまり否定的思考ですが、思考がネガティブになりがちなのは、信頼を裏切られたという経験の記憶が不信感となって、心の底に澱(おり)のように沈んでいることがあるからです。
以前、中谷巌という経済学者が書いた「資本主義はなぜ自壊したのか」という本を先輩牧師が、「これはいい本だ、読む価値がある」と推薦して、送ってきてくれました。
著者はこの中で、「隙あらば相手を騙してもかまわない、あるいは、油断していると他人から利用されてしまうと考えるような『不信』が蔓延している社会では経済発展はむずかしい」というバンフィールドという経済学者の説を紹介しつつ、この説を世界中の国々に当て嵌めて研究した政治学者のフランシス・フクヤマの説明をまとめて紹介します。
なぜ、経済発展と信頼が関係してくるのかについて、フクヤマは次のように説明している。
すなわち、他人同士の信頼関係が成り立ちにく低信頼社会においては、事業を行う場合に重要な仕事を部外者に任せることができないので、血縁者を優先的に採用せざるをえす、縁故主義が主流となる。
なぜならば「身内」の人間であれば、そうそう血族を裏切って儲けを持ち逃げしたり、あるいは賄賂を受け取るなどの利己的な行動に出たりはしないだろうと考えるからである(中谷巌著「資本主義はなぜ自壊したのか」309p 集英社文庫)。
個人的にはこのフクヤマという人物は余り好きではないのですが、それはともかく、その見方は妥当であると思います。
九月三日、中国政府主催による「抗日戦勝七十年記念軍事パレード」が天安門広場で行われましたが、壇上に立つ中国、ロシア、韓国の首脳の顔を眺めながら、それら三か国のいずれもが、血縁と縁故、賄賂と汚職で名高い「低信頼国」であることに興味を持ちました。
たとえば韓国という国は桁外れの訴訟社会であって、この国の裁判事例の場合、偽証事案は日本の約400倍、誣告(ぶこく 虚偽告訴のこと)事案は500倍になるそうです。人口比を考慮しますと、考えられないような統計になります。
血縁関係にない者に対する不信感の表れでしょう。
最近、毎週土曜日の午前中にテレビ朝日で放映されている「正義のミカタ」という番組を視聴しています。韓国、中国、ロシア、ギリシャ、中東などの時事問題に関する解説を、その道の専門家が分かり易くしてくれます。
先月の番組(8月1日)のロシアについての解説はほんとうに驚きでした。担当は筑波大学教授の中村逸郎というロシア問題の専門家の、ロシアの警察官に関する話しでした。
ロシアでは今年、内務省の役人(つまり警察官)が11万人解雇されたとのことですが、それが国民には極めて好評だったそうです。
なぜかと言いますと、彼らの賄賂や不正行為によって市民が多大の迷惑を被っていたから、ということでした。
この教授が紹介した四年ほど前の統計では、モスクワ市民のうち、「警察官に好意を抱いている人」が36%、「不信感を持っている人」が42%、「警察官は自分を犯罪から守ってくれる」が33%、「守ってくれない」が56%だったとか。
別の調査では「警察官に恐怖を感じる」が61%、「犯罪者よりも怖い」が51%なのだそうです。
そして番組ではこの中村教授自身の体験が紹介されていました。
半年前、この教授がモスクワのクレムリン宮殿にほど近い、地下道を歩いていた時のこと、前を行く二人連れの警察官の一人が財布を落とした、そこで落ちた財布を拾ってやったところ、彼は「ありがとう」と喜んだが、連れの警察官が「おれも財布を落とした、お前、隠しているだろう」「とんでもない」「なら、警察署で話を聞く」というわけで警察に連行され、「ポケットのものを出せ」と言われた。
そこで六千円ほどが入っている財布をポケットから出すと、警察官は「これは俺の財布だ」と言ってそれを取り上げ、後ろを向いて中を覗き、ロシア語で「これっぽっちかよ」と呟いた。そして、それを回りの警察官たちがニヤニヤしながら見ていた、という話です。
自動車で停止線をちょっとオーバーしただけで警察官がとんできて、「交通違反だ」と言って罰金と称するものを払わせられるのが通常のことなのだそうです。
日本でも神奈川県警と大阪府警の評判は確かに良くありませんが、ロシアとでは流石にレベルが違います。
なお、この番組の動画はyou tubeで視聴することができます。
そして中国ですが、この国は天津の爆発事件を見るまでもなく、例を上げれば枚挙にいとまがありません。
前掲書(資本主義はなぜ自壊したのか)によれば、「日本はドイツやアメリカと並ぶ『高信頼国』であり、中国やフランス、イタリア南部などは『低信頼国』である」(309p)とのことです。
イタリア南部はともかく、フランスが「低信頼国」であるとは驚きですが、それだけのデータがあるのでしょう。フランスを旅行する場合は御用心ください。
「低信頼国」ではどうしても、「人を見たら泥棒と思え」という格言のように、人間というものを否定的に見ざるを得なくなり、結果として否定的な思考(ネガティブ・シンキング)が発達してしまうのですが、幸いなことに日本のような「高信頼国」では、「よかった探し」の基本となるポジティブ・シンキングの醸成は比較的容易であるということを、改めて神さまとご先祖とに感謝したいと思います。
そして、信頼感の醸成に欠かすことができないのが、感謝の心です。感謝する気持ちがなければ、他者を信頼するという信頼感も生まれず、そうなりますと、仮に「よかった探し」をしたとしても、それは世渡りの単なるテクニックに堕してしまいかねません。
そう考えますと、「よかった探し(the Glad Game)」のベースになるものは感謝の心であるともいえます。
神への感謝、周囲への感謝という感謝の心こそが、ポジティブ・シンキングの結果としての「良かった探し」の原点です。
パウロの言葉を読みましょう。
「すべての事について、感謝しなさい」(5章18節)。
北水崇さんも、そしてポリアンナも、「すべての事について感謝し」(18節)ていたからこそ、ポジティブ・シンキングという「よかった探し(the Glad Game)」ができたのでしょう。
3.高い信頼感は、神への畏敬の感情を基盤にして育成される
感謝の心を原点として醸成される高い信頼感は、実は、生ける神への畏(おそ)れの心、つまり畏敬の感情を根本の基盤として、人の中に育成されます。
日本人の場合、唯一の神という神概念こそありませんが、神が創造した宇宙、天体、自然の中に神の創造のわざを見出し、それらに対する畏敬の念を持っています。
残念なのは、そこから造り主の存在に至らず、神が創造したものを礼拝や祈祷の対象としてしまったことでした。
韓国の保守的なキリスト教会などからは、「偶像礼拝の国」などと蔑視される日本が、プロテスタントの国である米国やドイツと同様に「高信頼国」とされているのは、日本の伝統宗教の教え、さらには武士道に代表されるような日本独自の倫理意識が、プロテスタントの宗教観、倫理観と相似しているからであろうと思われます。
私たちの切なる願いは、日本人ひとりひとりが、今は伝統的宗教を保持したままでよいから、具体的に言えば仏壇を大事にしたままでよいから、正月には神社に初詣をしてもよいから、とにかく、「天地の造り主」であり、何でもできる「全能の父」なる唯一の「神」に向かって、祈る、祈願することから始めてもらうことなのです。
幸い、日本人は祈りますし、拝みます。偉大なもの、畏敬すべきものに対して敬意を示します。そういう点ではカトリック教会の祈祷文は参考になります。
私どもの教会でも初めての方々も読むだけで、それで天にいます神への祈りとなる「朝の祈り」「夕べの祈り」を準備しようかと思います。
パウロは勧めます、絶えず祈れ、と。
「絶えず祈りなさい」(5章17節)。
「祈」(17節)るという行為は、礼拝の対象者である神との会話です。それは教会では勿論のこと、家の中の居間でも台所でも寝室でも、神に向かって語りかけることを意味します。
「ポリアンナ物語」では、ポリアンナが学校帰りに自動車事故に遭い、下半身が麻痺して一生、歩けないという体になってしまうのですが、叔母と気まずい仲にあるため、出入りを禁止されていた医師から、この医師の友人がポリアンナと同じ症状の患者の手術に成功したという話が伝わり、ポリアンナはボストンで手術を受けることになります。
そして手術室の前では、ポリアンナとの出会いによってすっかり変わった叔母が懸命に神に祈り、一方、町の人々が心を合わせて祈った祈りが神に届き、手術は成功し、ポリアンナは再び、自分の足で歩けるようになります。ボストンのサナトリウムに入院して十カ月目のことでした。
あたしは歩けるようになりました。今日は寝台から窓までしっかり歩きました。六歩です。歩けるということは、なんてうれしいことでしょう。…なにもかもうれしくてたまりません。
ちょっとのあいだ、足をなくしたこともうれしいのです。足がなくなってみなければ、― 歩ける足がですよ ― 足がどんなにありがたいことかということはわかりませんもの。明日は八歩歩きます(村岡花子訳「パレアナの青春」10p 角川文庫)。
これは百年近く前の、まだ素朴なキリスト教信仰が残っていた米国の、神を信じるということ、神に祈るということが普通であった時代の物語ですが、十一歳の(アニメでは九歳)少女が父親から教えられるままに実行した「喜びのゲーム(the Glad Game)」というポジティブ・シンキングが、人の心を、そして生き方を変えていく内容は、とても示唆に富むものでした。
そこでもう一度、テサロニケ人への手紙を声を合わせてご一緒にお読みしたいと思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(5章16~18節)。
ポリアンナによる「よかった探し(the Glad Game)」というポジティブ・シンキングの実践は、殺伐な現代社会を生きる私たちに対して、「キリスト・イエスにあって、神が…求めておられること」(18節)なのかも知れません。