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2015年8月30日日曜礼拝説教 詩篇を読む? 時期が来れば、実は必ず結ばれる 詩篇第1篇1~3節

2015年8月30日 日曜礼拝説教 

 
  詩 篇 を 読 む ?
 
時期が来れば、実は必ず結ばれる
 
詩篇第1篇1~3節(旧約聖書口語訳750p)
 
 
〈今週の説教アウトライン〉
 
1.幸いな人とは、神を仰ぎながら日々を歩む人
2.神を仰ぐ人の特徴は、神の言葉を喜ぶことにある
3.神の言葉を喜ぶ人の人生は、時期が来れば実を結ぶ
 
 
はじめに
 
中国の経済がおかしくなってきたと中国ウオッチャーが言うようになりました。独裁体制が傾き始めた兆候でしょうか。
 
わが国に対しては「歴史を正視せよ」などと声高に要求しつつ、歴史を改竄(かいざん)し続けてきたのが彼の国でした。来週には「抗日戦勝七十年」を記念するとかいう行事を、民主化を求めた多数の学生を戦車が轢き殺した天安門事件の現場である天安門広場で開催をするようですが、かつて戦場であった中国大陸において日本軍と戦ってきたのは、蒋介石が率いていた国民党軍であって、毛沢東の共産軍ではありませんでした。
 
共産軍はいつも国民党軍の後方にいましたし、第一、日本軍を負かしたのは圧倒的な物量を誇った米軍であって、国民党軍は日本軍に連戦連敗のまま、終戦の日を迎えたのでした。それが歴史の事実です。
 
でもそうなりますと政権の正統性というものが根底から揺らいでしまいます。一党独裁の現体制を維持するためには、史実を捩じ曲げてでも、国民には共産党軍が日本軍に勝利したと信じ込まさなければなりません。
そこで荒唐無稽の抗日ドラマが生まれ、捏造(ねつぞう)された歴史が学校で教えられているというわけです。
 
今回の行事はもう一つ、「反ファシズム」が強調されていますが、全体主義を意味するファシズムというものを、現代に体現している体制が何を言っているのだろうと、識者は訝しがります。
 
ところで聖書は言います、時期が来れば「実(み)」は生(な)るのだ、と。
「実」には良い「実」と悪い「実」とがありますが、どちらにせよ、実が結ばれたとき、大きな意味では歴史の、そして小さな面では個々人の真実が明らかになる筈です。
私どもの場合も、時期が来れば必ず良き実が生ると信じて、日々の務めに精出し励み、神の言葉に依拠する歩みを続けていきたいと思います。
 
八月も下旬、酷暑の夏も終わりつつあります。暑さとの戦い、みなさま、本当にお疲れ様でした。詩篇の方も今週の十五回目で、本年はひとまず、最終回です。
そこで今夏最後の詩篇は第一篇から、そしてタイトルは「時期が来れば、実は必ず結ばれる」としました。
 
 
1.幸いな人とは、神を仰ぎながら日々を歩む人
 
百五十篇もある詩篇の冒頭の詩の最初の言葉が「幸いなるかな」であることは、それが詩篇全体を貫く主題であることを示します。
 
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は幸いである」(詩篇第1篇1節 旧約聖書口語訳750p)。
 
 
口語訳では一節の終わりに「さいわいである」として訳出されていますが、これを新改訳は原文通りに文章の始めに持ってきて「さいわいなことよ」と訳し、新共同訳も同様に冒頭において、「いかにさいわいなことか」と訳しますが、これは文字通り、幸福な状態を表現する言葉です。
 
 どのような人が「幸い」なのか。それは、「造り主なる神を無視して、自分の思いのままに歩んでいる人の仲間に加わらない人である」と、詩人はいいます。
 
 それはまず第一に、「悪しき者のはかりごとに歩ま」(1節)ない、つまり悪しき影響というものを受けない人のことです。
「悪しき者」とは義なる人の対極を行く生き方をする自己中心的な人、一口で言えば神を敬わない不敬虔な人のことです。
 
次の「罪びとの道に立たず」(同)とは、「罪びと」の原意が的外れですので、神の心を知っていながら敢えて神の心を無視する者とは行動を共にしないように、ということです。
 
三つ目の「あざける者の座にすわらぬ人」(同)とは、「あざける者」が積極的に神を、宗教を、信仰自体を嘲る者を指すことから、そのような交わりに深くのめり込まない人、という意味になります。
 
ここでは「歩まず」「立たず」「すわらぬ」と、徐々に良からぬ状態へとのめり込んでいく過程が描写されています。
大事なことは深みにはまる前にきっぱりと手を切ることです。
 
しかし、この教訓は異教社会において信仰者が、信仰の異なる者や、信仰を持っていない人たちと交際をしないように、という意味ではありません。
 
私の限られた知識や経験では、日本社会にはこの詩篇が言うような「悪しき者」「罪びと」「嘲る者」はそんなに多くはおりません。ほとんどの日本人は宗教的であり、敬虔であり、他者の信仰や信条を尊重する人たちです。
 
確かに、外国人宣教師やその影響を受けた日本人伝道師の中には、日本の伝統や宗教を頭ごなしに悪と決め付ける狭量な人々がいます。
一時、話題となった神社仏閣への「油まき事件」などは、道を外れた狂信者の、日本の伝統、宗教への一方的な見方によって起こされた事件でした。
 
ただ、宗教そのものをバカにし、神への祈祷や礼拝行為を愚かで無意味として蔑む人々が、私たちの周囲には一定数存在することは確かです。
ではそのような人とは絶縁すべきかというと、そうではなく、関係や交流はほどほどにして、その影響を受けないように心がけることが大切です。
 
幸いな人とは、何が善であり悪であるか、何が神に喜ばれるかということを見極めて、生ける真の神を仰ぎながら日々を歩む人のことです。
 
 
2.神を仰ぐ人の特徴は、神の言葉を喜ぶことにある
 
 では、神を仰ぐ人の特徴は何であるかと言いますと、それはひたすら、神の言葉を喜ぶところにある、と詩人は言います。
 
「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」(1章2節)。
 
 口語訳が「主のおきて」(2節)、「そのおきて」(同)と訳した「おきて」の原語は「トーラー」です。ですから、直訳をすれば「おきて」「律法」なのですが、「トーラー」とは本来、神の言葉を成文化したものですから、要するに主の言葉のことであって、今日でいえば聖書のことです。
 
神を仰ぐ人の特徴は何と言いいましても、神の言葉を尊ぶこと、具体的には神の言葉である聖書が言わんとすることに喜んで耳を傾け(主のおきてを喜び)、寝ても覚めても神の言葉を思い続ける(そのおきてを思う)ところにある、と詩人は言います。
 
 口語訳が「主のおきて」(2節)と訳した「トーラー」を、新改訳、新共同訳共に「主の教え」としていますが、聖書は単なる「教え」の集積本ではなく、神の心、神の思い、神の計画など、神に関する事柄が詰め込まれた文書であり文献です。
 
 文書や文献などといいますと堅苦しくなりますが、これを別の言葉で言えば書簡つまり手紙です。聖書は天の神さまから人に宛てて書かれた手紙、という性格を持った文書なのです。
 
 神さまからの手紙であるからこそ、詩人は「昼も夜もそのおきてを思う」(同)のです。口語訳で「思う」と訳された言葉は、新改訳や新共同訳のように「口ずさむ」とも訳せる言葉です。
 
「口ずさむ」のは、それが心にしっかりと記憶されているからであり、記憶されているのは、その言葉に感動したからです。感動して心に刻み込まれたからこそ、折りに触れて、読み、かつ聞いた内容が心の中から湧き上がってくるのです。
 
 神の言葉が慕わしいものであるかについての告白は詩篇十九篇の十節でしょう。
 
「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よるも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(詩篇19篇10節)。
 
 この箇所は昨年の七月二十七日の「詩篇を読む」の七つ目の説教「神の言葉は純金よりも慕わしく、蜂の巣の滴りにもまさって甘い」でご紹介しました。
 
 勿論、ある意味では聖書という文献は、「取り扱い注意の危険物」という側面もあります。実は聖書は、間違った解釈を施してしまうことによって、読む者や聞く者の道を誤らせてしまうという危険性のある文書でもあるのです。
 
ですから聖書の調理人である説教者は、聖書を取り扱う上での専門的訓練を積み、言うなれば聖書の「調理師免許」とでも言うべき資格を与えられて説教壇に立ちます。
その資格証明書が各教団が発行している「按手礼授與証(あんしゅれいじゅよしょう)」です。
そういうわけで、当教会の日曜礼拝では、安心して聖書の言葉の豊かさを味わってください。
 
ところで旧約で三十九巻、新約で二十七巻、合計で六十六巻もの厖大な文書の集合体である聖書がなぜ「よろこ」(2節)ばしく、また「昼も夜も」(同)口ずさむほどに「思」(同)えてならないのかと言いますと、それは聖書の中心、主人公が、あのイエス・キリストだからです。
 
イエスの時代、つまり西暦二十年代のユダヤ人も先祖同様、聖書を敬い大事にしてはきました。なぜかと言いますと、聖書には永遠の生命に至る秘密が隠されていると彼らが信じていたからでした。
しかし、イエスは彼らに対して大胆に、聖書は私イエスについての証言の文書であると告げたのでした。
 
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 新約聖書口語訳144p)。
 
 イエスの時代、聖書といえば「トーラー」という、この場合は創世記から始まる「モーセ五書」というものを中心として、歴史書や預言書などの「預言者」の書、そして詩篇を中心とした「諸書」という文書群で構成されていましたが、イエスはこれらの文書の集合体である「聖書」(39節)を、後の時代に神が送る救世主到来の予告の書であるとしたのでした。
 
つまりキリストであるイエスに関し、旧約聖書は、後の時代にこういう救世主が「出現する」とした預言の書であり、イエスの死後に編まれた新約聖書は、確かにこういう救世主が「到来した」という歴史的事実を報告する報告書なのです。
 
救世主のことがおぼろげでしかなかった時代の人々がそれ程までに、救世主到来の予告の書である聖書を慕わしく思っていたのであれば、福音書を通し、使徒行伝を通し、そして使徒たちの書簡を通してより具体的にイエス・キリストについての報告を聞くことのできる現代の私たちは、もっともっと聖書というものを喜ばしくもまた、慕わしく懐かしいものとして「思う」(2節)ことができる筈です。
 
 
3.神の言葉を喜ぶ人の人生は、時期が来れば実を結ぶ
 
 そして、詩人は言います、神の言葉を喜ぶ人の人生には、時期がくれば大いなる実が必ず結ばれる筈である、と。
 
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(1篇3節 750p)。
 
 十六世紀の初頭、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者のよって起こされたプロテスタント運動を聖書論という観点から見れば、「聖書解釈の自由化」ということでした。
 
つまりそれまで、ローマ教皇庁が独占していた聖書の解釈権が自由化されて、だれもが自由に聖書を読み、そこから意味を汲み取ることができるようにされたのでした。
 
ですからルターはローマ教会の追手を遁れている間に、聖書を平易なドイツ語に翻訳する作業に没頭します。こうして、小学生程度の国語力さえあれば誰でもが聖書を読むことができるようになったのです。
 
しかし、聖書解釈の自由化」には弊害もありました。聖書にとんでもない解釈を施す異端が出現したのでした。
 
その、聖書解釈の自由化、曲解によって生じた仇花のような神学の一つが、異端とまではいえませんが、二十世紀に生まれた「繁栄の神学」というものです。
 
これは簡単にいえば、熱心な信仰が現世的御利益を生みだす、という神学です。これは中南米や韓国などの貧しい発展途上国に発達し、それが今日、日本には一種の教会成長運動として流入しています。
 
この神学の危険性は、繁栄が信仰の目的となり、信仰が繁栄を生みだす動機になってしまうことにあります。
 詩篇の一篇でいえば、熱心に聖書を読み、集会に出席し、奉仕と献金に励んでいれば、それが投資となって多くの実の収穫につながる、というものです。
 
 当市で開拓伝道を始めた頃、市民会館で行われた超教派の集会に出席したのですが、献金の勧めに立った司会者が、「皆さまがスプーンで献げれば神様はスコップで返して下さいます、もしもスコップで献げれば神様はバケツで返してくれるのです」とアピールしていたのを思い出します。
 
 この勧めがおかしいのは、神への奉仕や献金などの信仰的行為が利益を生みだす投資のようになってしまっていることです。
しかし、それらは投資などではなく、神の無償の愛と恵みに対する感謝の気持ちの現われとしてなされるものなのです。
 
今のうちに老いた親の世話をしておけば、遺産相続で有利になるなどと考えてする親孝行が不純であるように、「繁栄の神学」にはどうしても、信仰が利益をもたらす手段となるという側面が窺えるのです。
 
確かに詩篇の一篇は「主のおきてをよろこび、その教えを思う…人は…そのなすところは皆栄える」(2、3節)と言い切ります。
しかし、「栄える」ことは目的ではなく、結果です。「繁栄」が熱心な信仰の目的となった時、それはもはや、神の喜ぶ信仰とは言えなくなります。
 
 「エホバの証人」または「ものみの塔」というキリスト教の新興団体があります。熱心な家庭訪問で迷惑がられている団体です。この団体のメンバーさんは確かに熱心ですし、末端の方々の多くはまことにまじめで柔和です。
 
これらの活動家には主婦が多いのですが、家事や家族を犠牲にしてまでも伝道のための家庭訪問に打ち込みます。
 以前、この団体の幹部と差しで週一回の割合で三カ月ほど、聖書の勉強会をしたことがあります。そこでこの団体幹部さんと話していてわかったのは、彼女たちの熱心な活動の理由が、自分自身が救済されるためであるということでした。
つまり、伝道に従事し、伝道の成果をあげないと世の終わりの救済から、自分が洩れてしまうという不安が、活動の動機になっているというのです。
 
末端の活動家もまた、誤った聖書解釈が生み出す誤った教義の犠牲者、被害者ですが、これもまた、結果が目的となってしまう、一種の「繁栄の神学」が生み出す悲劇かも知れません。
 
 純粋に神を愛して神に仕え、神の言葉を喜び慕う者の人生に「実」(3節)が「結」(同)ばれて、「そのなすところは皆栄える」(同)という結果が与えられることは事実です。
 
そして、その理由は極めて論理的です。つまり、運河という「流れのほとりに植えられた木」(3節)は、恵まれた環境にあって根が十分な水分を吸収しますので、時期さえ来れば「実を結ぶ」(同)ことになるのは必然だということです。
 
 ただし、それは「時が来ると」(同)、つまり時期が到来すれば、です。そしてこの時期という「時」、ギリシャ語でいえば「カイロス」は人によって異なり、ある人にとっては植えられて間もなく「時が来る」かも知れませんし、ある人にとっては長い「時が」かかるかも知れません。まさに「桃栗三年、柿八年」です。
 
この「時がくると実を結」(同)ぶという自然界の法則は、信仰の世界でも真理です。
なぜならば、「神は正しい者の道を知られる」(6節)お方だからです。そこに希望があります。
 
神の言葉を喜ぶ人の人生には、時期さえくれば、いつの日にか大いなる「実」の「結」ばれる日が訪れます。それが詩人の確信でした。
 
 そこで最後に、バビロニア捕囚から帰還したエルサレムの住人たち、「苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者」たちに対する、神からの励ましと慰めの言葉を読んで、詩篇の確かさを心に刻みたいと思います。特に十三節の約束、「あなたの子らは主の教えをうけ、あなたの子らは大いに栄える」です。
 
「苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者よ、見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、サファイヤであなたの基をおき、めのうであなたの尖塔を造り、紅玉であなたの門を造り、あなたの城壁をことごとく宝石で造る。あなたの子らは主の教えをうけ、あなたの子らは大いに栄える」(イザヤ書54章11~13節 1023p)。