2015年8月23日 日曜礼拝説教
詩 篇 を 読 む ?
空しいのは一度しかない人生を、自らの造り主なる神を無視したままで生きること
詩篇127篇1、2節(旧約聖書口語訳865p)
〈説教のアウトライン〉
1.尊いのは、自らの務めを果たそうとする勤労精神
2.空しいのは、自らの造り主なる神様抜きの頑張り
3.有り難いのは、時に応じて与えられる神からの支援
はじめに
夏の甲子園が神奈川代表の東海大相模高校の優勝で終わりました。決勝戦は宮城県代表の仙台育英高校との間で行われ、双方共、死力を尽くしての激戦となりましたが、栄冠は東海大相模のものとなりました。
私は神奈川県出身ですので、普通ならば神奈川代表に肩入れするところですが、今回は東北の悲願である「白河の関越え」が実現できればよいかも、などと思いながら、仕事の合間にテレビ観戦をしておりました。
東海大相模は「とうかいだいさがみ」ですが、あわてんぼうがこれをうっかり、「とうかいおおずもう」と読んでしまったそうです。
確かに「相模」は「相撲」という字とよく似ていますので、有り得ることとは思いましたが、間違えたとはいえ、「相撲」という字を知っていることの方が驚きです。
さて今年の夏は、例年になく蟻の活動が目立ちました。
蟻を見ますとイソップ物語の「アリとキリギリス」あるいは「アリとセミ」の話しを思い出しますし、旧約聖書の箴言にある、「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈り入れの時に、かてを集める」(6章6~8節)という教訓が頭に思い浮かんできて、暑さを言い訳にして怠惰に陥りがちな夏の日々を戒められているように思えました。
それにしましても、この炎暑の中、平日は朝早くから仕事に励み、日曜日には神を拝すべく早起きをして教会に集う皆さま方の上に、神の限りなき祝福がありますように、また、諸般の事情で礼拝を共にすることができなくても、いつも寝屋川にある教会を覚えて、祈り、献げ、協力することを惜しまない方々の上に、神の恵みが豊かにありますように。
夏は詩篇から「サラッとした」説教をと願っておりますが、残暑の厳しい八月の下旬の今週は、一二七篇の前半から、神と共に勤しむことの幸いを確認したいと思います。
そこで今週の説教題は「空しいのは、自らの造り主である神様抜きで生きること」です。
1.尊いのは、自らの務めを果たそうとする勤労精神
先々週の説教でも触れましたが、先祖のイスラエル民族同様、その末裔であるユダヤ人もまた、勤勉であることを旨としていたようで、詩篇一二七篇にも、何かを造り上げるという勤労、そして大事なものを守り抜く労苦というものを前提として、教訓が展開されます。
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」(詩篇127篇1節 旧約聖書詩篇)。
ここには「建てる者の勤労」(1節)とあります。また、町を「守る者のさめている」(同)とありますが、ここでは「家を建て」るという「勤労」つまり働くということ、そして、町の安全対策の責任を担う者が、がその職務を果たすため、常に目が「さめている」(同)という状態を維持する努力が前提となっています。
信仰を持つ以前、カール・マルクスが言ったと勝手に思い込んでいた言葉を思い出します。「働かざる者、食うべからず」ですが、実はこれと似た言葉が二千年も前に、使徒パウロが書いた書簡にあったことを知ったのは衝撃的でした。
「また、あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた」(テサロニケ人への第二の手紙3章10節 新約聖書口語訳326p)。
この箇所は、文語訳では「働かざる者」ではなく、「働くことを欲せずば」と訳されています。そして、「働かざる者、食うべからず」では事情に関係なく、「労働に従事していない者は食うべからず」ということになります。
しかしパウロが言っているのはそうではなく、あくまでも働く能力、働く機会があるにも関わらず「働こうとしない者」、働く意欲を持たず、誰かに寄食して暮らすという生き方は止めましょう、ということでした。
ですから、長年にわたり汗水流して働いてきて、その成果で今、悠々自適の生活を送ることができているならば、それは結構なことですし、働く意欲はあるけれど、種々の事情がそれを許してもらえていないという場合は、胸を張って法律による公的支援を受けつつ、健康の回復や社会的事情等の変化を俟つことは、決して責められることではありません。
尊いのは、与えられた機会を生かして、自らの職務に精進すること、勤労意欲を燃やし続けることです。
2.空しいのは、自らの造り主なる神様抜きでの頑張り
では、頑張っていればよいのかと言いますと、そうでもないのです。勤労自体は尊いけれど、誰のもとで働くか、誰の指導で働くか、誰と共に働くか、ということが問われます。
詩人は言います、自らの造り主であり、天地の支配者である神様抜きの勤労、努力は空しいのだ、と。
一二七篇の一節と二節には計三度も、「むなしい」という言葉が出て来ます。二節の前半も含めてもう一度、お読みしましょう。
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることはむなしいことである」(127篇1、2節前半)。
ここで使われている「むなしい」(1、2節)という言葉は、無駄になる、無意味だ、というような、結構厳しいニュアンスの言葉です。
ところで、ここで詩人が例にあげている「勤労」や労苦の内容は、一つは「家を建て」(1節)ることであり、もう一つは「町を守」(同)ることです。
「家を建て」るが何を指すのかということですが、いくつかの意味が考えられます。
一つは主の「家」としての神殿の建設を指す場合、二つ目は国「家」(こっか)の運営、そして三つ目が個々が所属する「家」庭(ホーム)の形成です。
もしもこの詩篇の背景に、捕囚の民がバビロンから帰還したあとの時代、神殿崩壊のままの時代の様相が反映されているのであれば、預言者ハガイの指摘、神の民にとっては何よりも優先すべき「主の家」なる神殿再建を後回しにしておいて、自宅の建築や生活再建を優先させているという実態に対する嘆きがあるのでしょうか。
「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか」(ハガイ書1章4節 1307p)。
もしもそうであるならば、「家」庭形成の上で、生活の基盤としての住まいの確保も大切なことではあるが、神様抜きでのマイホーム建設優先は、所詮「むなしい」、という教訓がここに込められているのかも知れません。
先週八月十六日の説教の中で、英語の「エコノミー」を訳したものが「経済」で、その「経済」は中国古代の文献にある「経世済民(けいせいさいみん)」の略であって、その意味は「世を経(おさめ)民を済(すくう)」ことであり、「エコノミー」の語源はギリシャ語の「オイコノミア」であったと申しました。
なお、先週は「オイコノミア」を動詞の意味から説明しましたが、「オイコノミア」そのものは「オイコス」と「ノモス」という二つの単語から成っています。つまり「オイコス」は「家」、「ノモス」は「法」ですので、これは「家を建てる」(1節)という意味の言葉だということになります。
また、「町を守」(同)るということは、大きく言えば自身が住んでいる町である国家や地域社会の安全を「守」ることを意味します。
それは、一つは国の防衛、一つは治安の維持、そしてもう一つが防災です。
まず国を防衛するということですが、国防は国家の責務です。
八世紀の中国の詩人、杜甫は「春望」という五言律詩において、「国破れて山河あり」と詠じましたが、戦争で国の防衛が破れて外敵が攻め込んできたならば、法の支配も人権も自由もへったくれもない、悲惨な立場に陥ります。
ですから国家にはどうしても外敵から自国を「守る」(1節)強固な防衛力が必要なのです。
そもそも「国」の旧字の「國」は「或(わく)」という字と「口(くにがまえ)」から出来ており、「或(わく)」は「口(くにがまえ)」と「戈(ほこ)」とから成っています。
「口(くにがまえ)」は人々が居住している町を囲った城郭を指し、そして「戈(ほこ)」は武器や兵器を表します。
つまり、兵器を持った兵士たちという「守る者」(2節)が「守る」邑(むら)や町である「或(わく)」にさらに強固な外囲いをしたものが「國(くに)」なのです。
そういう意味では日夜、国(國)を守る任務に挺身をしている人々が、働きにふさわしい尊敬と待遇を受けることは健全な在り方であるといえます。
一方、治安と言えば何といいましても警察です。
この寝屋川市でむごたらしい事件が起きました。男女の中学生が市内に住む変質者により拉致されて、無残にも殺害され、駐車場と竹林に遺棄されるという事件でした。
一昨日の二十一日、この憎むべき犯人が警察に逮捕されましたが、容疑を否認しているもようです。
それにしましても深夜から明け方にかけての、二人が雨宿りをしていた駅前の商店街に設置されていた防犯カメラの映像を視ながら浮かんだ疑問は、「店の前を行ったり来たりするのみか、店の前に置かれているベンチに座り込んでいる子供たちに、二十四時営業の弁当屋の店員がなぜ声を掛けなかったのか、なぜ、警察に通報しようとしなかったのか、警察に電話さえすれば、駅の西側に設けられている駅前交番から三分で警察官が駆けつけてきて、二人を保護してくれる筈であり、そうすればこの忌まわしい、悲しみに満ちた事件は未然に防ぐことができたかもしれないのに」というものでした。
今でもとても残念でなりません。
一方、海の警察が日夜、尖閣を中国の侵略から守っている海上保安庁です。海上保安庁は国土交通省の管轄下にあります。
そして防災といいましたら何といっても「119番」の消防、救急です。
詩篇一二七篇の一節と二節で詩人が言いたいのは、たとい、どんなに頑張ったとしても、神様抜きの勤労や労苦は空しい、ということなのです。
いま、大型の台風十五号が沖縄と九州を窺っていますが、台風のニュースでお馴染なのが気圧の単位を表す「ヘクトパスカル」です。
この「パスカル」という単位は、「パスカルの原理」などの発見者としても知られている、フランスの数学者、キリスト教の弁証家として名高いブレーズ・パスカルからとられたものです。
このパスカルが三大告白録の一つとされる「パンセ」の中で強調したのが「神なき人間の悲惨。神とともなる人間の幸福」(田辺 保訳「パスカル著作集第六巻 パンセ?」44p 教文館)ということでした。
詩人も言います、「主が家を建てられるのなければ、建てる者の勤労はむなし」(1節)く、「主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」(同)のだ、神様抜きでは「早く起き、おそく休む」(2節)などの勤勉によって得た「辛苦のかてを食べることはむなしいこと」(同)なのだ、と。
自らの務めに向かって日夜励み、頑張ること自体は尊いことです。でも、空しいのは、自分自身の造り主を忘れての労苦、神様抜きでの頑張りです。
3.有り難いのは、時に応じて与えられる神からの支援の賜物
先々週の説教で、十戒の「安息日規定」とは、ついつい働き過ぎて過労死しかねない働き者への配慮から定められた規定でもある、ということを申し上げましたが、一二七篇の前半は神の配慮に満ちた励ましの言葉で締め括られます。
「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」(127篇2節後半)。
労働基準法の規制も何のその、睡眠時間を削ってまでも働きづめに働き、やっとの思いで労働という「辛苦の」(2節)実である「かてを食べる」(同)ことができる者に向かい、「眠ることは決して怠惰なことではない。休息と睡眠は神からの贈り物であるのだから、咎めの気持ちを持つ必要はない。なぜならば、主はあなたを愛し給う、そして主はご自身が愛してやまない者の米櫃(こめびつ)に関しても、責任を持ってくださるのだ」と、詩人は自身の体験を語るのです。
実は二節の後半を新共同訳は「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」と訳します。
それは文語訳でも同様に訳されていることから神学校時代、授業で睡魔に負けてしまった際などに、「主は愛する者に眠りを給う」などとこの箇所を自分に都合よく使ったりしたものでした。
この箇所で使用されている原語を直訳すれば、確かに「眠りを」であることは事実です。
しかしこの場合は口語訳や新改訳のように、人が「眠っている時にも」(口語訳)、「眠っている間(ま)にも」、主なる神が人の暮らしに「なくてならぬものを与えられる」(口語訳)、「備えてくださる」(新改訳)という意味で読んでも差し支えないと思われます。
勤労は確かに美徳です。
真面目な性格は主なる神様からの贈り物です。
しかし、働き過ぎはよくありません。適度な休息は健康な生活を維持するためにも必要です。
この「なくてならぬもの」(2節)とは何か、ということですが、領土、領海のみならず、国民ひとりひとりの生命と暮らしと自由を守ることを責務とする為政者たちにとっては、国政推進のための知恵でしょう。
また、庶民一同にとって「なくてならぬもの」は日々の糧であり、働く機会や場であり、健康な心身でもあります。
そういう意味では石川啄木の「はたらどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」(一握の砂)という歌を、実感として思うこともあるかも知れません。
そういう時にはこの詩人の言葉を神への告白としたいと思います。
健康もまた、「なくてならぬもの」(2節)の一つです。睡眠不足は病気や怪我のもとでもあります。
健康に不安のある方はこの二節後半の言葉を通して、健康の恢復を祈願してください。
何よりも有り難いのは、辛苦している者の日々の必要を知り、「なくてならぬもの」を与えてくださる神のご配慮です。
神は神の支援という賜物を必要とするものに対しては、不断にサポートしてくださる全能の神さまなのです。
「神とともなる人間の幸福」(パンセ)を、この夏の終わりにも、そして間もなく迎える収穫の秋にも、更に深く深く味わいたいものだと思います。