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2015年8月16日日曜礼拝説教 詩篇を読む? すべての恩恵(めぐみ)の源なる天の神を誉め称(たた)えよ 詩篇65篇9~13節

2015年8月16日 日曜礼拝説教

 詩 篇 を 読 む ?
 
すべての恩恵(めぐみ)の源なる天の神を誉め称(たた)えよ
 
詩篇65篇9~13節(旧約聖書口語訳802p)
 
 
説教アウトライン
 
1.生けるもののため、天然資源を恩恵として備えた神を誉めよ
2.天然資源を活用する知恵と能力を、人に授けた神を称えよ
3.造られた者は、勤労意欲という美徳を人に備えた神を拝せよ
 
 
はじめに
 
大東亜戦争(太平洋戦争)は正式には、昭和二十年(1945年)九月二日のミズーリ号上における降伏文書への調印によって終結しましたが、実質的には八月十五日の正午の、天皇による「大東亜戦争終結の詔書」の放送によって終戦となりました。
そういうわけできょう八月十六日は、敗戦後の日本が敗戦という代償を払って、戦後の第一歩を踏み出した記念の日でもあります。
 
敗戦から僅か二十一年後の昭和四十一年(1966年)、戦争の痛手を克服した日本は、東京オリンピックを開催するまでに国力を回復し、更にその四年後の昭和四十五年(1970年)には、大阪万博を開催するまでになりました。
 
東京オリンピックの開催に合わせて、東京と大阪を三時間十分で結ぶ東海道新幹線が開通したのは昭和四十一年の十月でした(開業当初は四時間、一年後に予定通りの三時間十分)。
 
米軍を苦しめた高性能の零戦の例が示すように、日本の航空機技術の高さに恐れをなした米国は戦後、日本が航空機を開発、製造することを禁じました。そのため、航空機の設計、開発、製造にあたっていた技術者たちが新幹線構想により、その開発、製造に採用されて、そこで世界が驚く日本の「シンカンセン」となったのです。
 
ただ、日本の驚異的な国力の復興と経済発展は、東西冷戦という国際情勢の結果でもあったことは事実です。
第二次世界大戦後、世界は東と西に分かれて覇を競うようになりました。そして東側からの攻撃を恐れた米国は、昭和二十六年(一九五一年)、サンフランシスコで行われたサンフランシスコ講和条約締結の際に、日本との間で日米安全保障条約を結びました。
 
これは米国が日本の安全保障に全面的に責任を負う代わりに、日本は基地を米国に提供するという条約で、この結果、日本は防衛費を最少にして、その分、多額の予算とエネルギーを経済発展につぎ込むことができるようになったのです。
 
一九六十年代から七十年代にかけて、経済成長を続ける日本を、「経済的な利益ばかりを追求する動物のような国」という意味で自虐的に、「エコノミックアニマル(経済的)」と呼ぶ表現が流行りました。
 
しかし、経済に力を入れることは悪いことではありません。「経済」は「経世済民(けいせいさいみん)」の略であって、それは「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という意味であり、英語の「エコノミー」の訳として用いられました。
 
そして「エコノミー」はギリシャ語の「オイコノミア」が語源であって、この言葉は「家事を支配する」という動詞から来ているのですが、それは「家計を管理する」ということだけでなく、天の神による壮大な人類救済計画を指す「摂理」という意味でも使用された言葉でした。
つまり、「経済」とは天然資源も含めた、神の大いなる恩恵を人がどう受け止め、どのように生かすかという動的な活動でもあるわけです。
 
そこで今週の「詩篇を読む」の第十三回目は、六十五篇の後半から「すべての恩恵(めぐみ)の源なる天の神を誉め称(たた)えよ」です。
 
 
1.生けるもののため、天然資源を恩恵として備えた神を誉めよ
 
詩篇六十五篇の九節から終わりまでは(新共同訳では10節から)、人類をはじめとする生きとし生けるものの生命の保持、とりわけ作物の収穫等になくてはならない「水」が、神の恩恵によるものであることを詩的に謳いあげます。
 
「あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのようにして備えして彼らに穀物を与えられる。あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立ちをもって柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、またその恵みをもって年の冠とされる」(詩篇65篇9~11節前半 旧約聖書口語訳802p)。
 
 古代の中近東における飢饉の原因は、一つは蝗(いなご)の大群の襲来による害、つまり「蝗害(こうがい)」で、もう一つが水不足による「旱魃(かんばつ)」でした。旱魃とは日照りという意味の漢語です。激しい日照りと水不足が飢饉という災害をもたらしました。
 
とりわけ、収穫に不可欠の「水」(9節)という資源は、自然の創造者であり支配者である天の神の恩恵(めぐみ)として、雨となって天から「そそ」(同)がれて、「田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立ちをもって」(10節)大地を「柔らかにし」(同)、その結果として無くてならない食糧としての「穀物」(9節)生産に至らせてくれていたのでした。
 
大阪万博が開催された次の年、ベストセラーとなった「日本人とユダヤ人」において、著者のイザヤ・ベンダサン(山本七平)は、駐日イスラエル公使館(大使館の前身)の書記官の言葉として、「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」(イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」19p 角川文庫)と指摘しました。
確かに日本という国が「水」に代表される自然に恵まれていることは事実です。
 
 詩篇六十五篇の後半は自然という恩恵(めぐみ)、とりわけ「水」という資源を雨として天から降らせる恵みの神を、感謝の気持ちで誉め称える詩歌として有名です。
 
「自然」といいますが、「自然」は決して自然に、あるいは偶然に出来たものではありません。それは偉大な存在である天の神の緻密な設計と精巧な作業によって造られたものなのです。
 
通常、私たちは二カ月にいっぺん、使用してきた水道の料金を、請求された通りに市に支払っています。天から降り注がれる水を、市の水道局が浄化をし、水道水として加工、提供してくれているからです。
水に限らず、天然資源を無代価で、つまり恩恵として惜しみなく提供してくださっている天の神を、心低くして誉め称える者は幸いです。
 
 
2.天然資源を活用する知恵と能力を、人に授けた神を称えよ
 
水」(9節)に象徴される自然という神の恵みは、差別なく、地に住む者たちに注がれています。主イエスの言葉です。
 
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者の上にも、雨を降らして下さるからである」(マタイによる福音書5章45節 新約聖書口語訳7p)。
 
そして人にはこの天与の賜物を賢く管理し、生活の質の向上のために生かす知恵が与えられました。たとえば水道です。
日本では十七世紀初頭、江戸ではすでに上水道が敷かれていました。
そして二十一世紀の今、蛇口から出る水をそのまま飲むことができる国は、世界中で十三カ国だけ、アジアでは日本のみで、日本の水道水はペットボトルに詰められて販売されている程です。
 
日本人は自然の恵みを天からの賜物という認識の下、天与の知恵を駆使して高度の技術を発展させ、水資源を生かしてきたのでした。
 
しかし一方、大陸の大国はといいますと、かつては豊富な自然に恵まれていたにも関わらず、乱開発と利己的な経済活動、そして行政の劣化により、堆積されたゴミの山から滲み出た有害な毒素が地下水に浸み込み、河川へと流れ込んで、それらの汚染水によって生産された農産物は、出荷はしても生産者自身は決して口にはしないという状況です。
その結果、富裕層が日本の森林資源、水資源に目を付け始めているとのことです。
 
さて詩人は、収穫の豊かさを天の神の恩恵として喜び歌います。
 
「野の牧場はしたたり、小山は喜びをまとい、牧場は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をもっておおわれ、彼らは喜び呼ばわって共に歌う」(65篇12、13節)。
 
 この箇所は心が躍るような詩的、文学的表現で記されています。しかし、豊かな収穫と生産は勝手に生まれる、というものではありません。それは人間の側の不断の創意と工夫、技術の革新があっての結果です。
 
天の神は人間に資源、原料を与えるだけでなく、それらの資源や原料を使って生活に必要な物資を生産、製造する技術を発展させるなど、社会を潤す知恵を与えて下さっているのです。
 
神は溢れる程に、生き物が生きるために必要な天然資源を豊富に用意してくれました。しかし、生き物の中で、資源を有効利用し、原料を用いて新しい資材を造り出す知恵は、人間だけに与えられているのです。
そのような知恵を与えて下さっている恵みの神を、感謝しつつ崇めたいと思います。
 
 
3.造られた者は、勤労意欲という美徳を人に備えた神を拝せよ
 
 資源、原料が備えられ、それらを加工して生活材を生みだす知恵や能力が与えられていても、それがなければ宝の持ち腐れとなるものがあります。
何かと言いますと、労働意欲、勤労意欲です。少し前、ギリシャ危機が問題となっていました。その際、明らかにされたのが、ギリシャ人の国民性、資質ということでした。
 
少し前、あるテレビ番組で、「EU加盟国におけるアンケートによると、『EU加盟国で最も勤勉な国はドイツ、最も働かない国はギリシャ』が共通の意見であったが、ギリシャ国民のみ、『最も勤勉な国はギリシャ』と答えた」という内容に、出演者が大笑いをしている場面がありました。
確かに同じアダムの子孫でも長い年月、風土や環境、歴史や文化によって異なってくるようです。
 
その点、イスラエル民族はゲルマン民族や大和民族同様、極めて労働意欲に富んだ資質を持っているようです。
 
紀元前十三世紀はじめ、エジプトから救出されたイスラエルの民に、モーセを通して「十戒」が授けられます。その「十戒」の中でも特に有名な戒めが四番目の安息日規定です。
 
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたのむすこ、娘、」しもべ、はしため、家畜、またあなたの門にいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を造って、聖とされた」(出エジプト記20章8~11節 102p)。
 
 「六日のあいだ働いて」(9節)、「七日目は」(10節)は労働を休め、というこの規定が何で定められたのかといいますと、一つの理由は、イスラエルの民が過労死に陥ることを避けさせるためでした。
 
勿論、「ブラック」雇用者から雇い人を守るという労働基準法的要素もありはしましたが、何よりも労働者自身が働き過ぎて、その結果、自らの健康を損ね、あるいは過労死しかねないという状況を未然に防止しようとする神の配慮が働いた規定であった筈です。
 
ということは前提として、イスラエル民族の気質が勤勉であったから、という推測は当たらずとも遠からずです。
 よく似ているのが日本人です。先週、トルーマン大統領から公職を解任されたマッカーサーの、米国上院の軍事外交合同委員会における証言をご紹介しましたが、その中でマッカーサーが日本人の勤勉性について言及している箇所があります。
 
「日本人の半数が農業に従事し、半数が工業生産に従事している」との発言の後です。六年間の日本体験は、偏見に満ちていたマッカーサーの日本観を劇的に変えたようです。
 
私が知る限り、日本の潜在的な労働力は量的にも質的にも、どこにも負けないほど優れている。彼らは既に、労働の尊厳と呼ぶべきものを発見している。
すなわち、人間というものは怠惰でいる時よりも働いている時の方が幸福であるということを、である。この厖大な労働人口の余裕は、彼らには働くための仕事が必要なことを意味する(19510503 米国上院軍事外交合同委員会)。
 
 マッカーサーの証言を俟つまでもなく、日本人は古来、勤労意欲というものを天然資源同様、天与の賜物として受け止め、老いも若きも働くこと自体を美徳としてきた民族でした。
 
二十世紀初頭、ドイツの経済学者、社会学者のマックス・ヴェーバーはその著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」において、「資本主義は勤労を美徳としたプロテスタント諸国において発達した」としていますが、開国後、近代日本に資本主義が根付き、発達したのは、日本人にはプロテスタント同様、勤労を美徳とする伝統が脈々として伝えられていたからでした。
 
その明治日本が西欧のキリスト教国と接する中で導入した画期的なシステムが日曜日を休日とする「七曜日制」でした。これによって過労死する人は激減をし、平均寿命は画期的に伸びることとなったのでした。
安息日規定は単なる戒律ではなく、勤勉な人々を働き過ぎ、過労死から守る神の配慮でもあったのです。
 
安息日規定が授けられたもう一つの理由、それは、神に造られた者が、創造者である神と共に体を休めつつ、救済者でもある神を礼拝することで魂の安息を得ることにありました。
もう一つの資料の申命記五章です。
 
「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導きだされたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである」(申命記5章15節 254p)。
 
 出エジプト記(二十章)における安息日規定は、神の天地創造の由来が理由となっておりますが、申命記においては奴隷という苦役からの解放としての出エジプトの出来事が、その理由となっております。
 
つまり、ただ体を休めるという休息ではなく、贖い主である神への礼拝を通して、体と共にたましいの安息を人が楽しみ、そこから新しい明日に臨むように、という意味です。
 
神の民は、神の賜物を受けて働きかつ休み、その上で神を礼拝する人生という幸いに招かれているのです。ですから毎週の日曜礼拝は、義務などではなく、私たちに対する神の恩恵、神の配慮の現われなのです。
 
今週は天然資源という恵みだけでなく、それらを活かす知恵、そして勤勉性という賜物を惜しみなくお与えくださる天の神を、思いも新たに誉め称えたいと思います。