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2015年7月12日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条(21)最終回 「とこしえの命」の付与という約束は、夢まぼろしなどでは決してない ヨハネによる福音書17章1~3節

2015年7月12日 日曜礼拝説教 

基本信条としての使徒信条 (21) 最終回
 
「とこしえの命」の付与という約束は、夢まぼろしでは決してない
 
ヨハネによる福音書17章1~3節(新約170p)
 
 
はじめに
 
最近、よく耳や目にするのが「アンチエイジング」という言葉です。「エイジング」は加齢、もっとはっきり言うと老化であって、「アンチ」が否定とか対抗などを意味する言葉ですから、「アンチエイジング」とは「抗加齢」「抗老化」、つまり加齢や老化を阻止したり抑制したりする手当て、対策、技術、努力などの全般を意味すると思われます。
 
因みに、最近、あるインターネット調査会社が一万二千人の男女を対象に行ったアンケートによりますと、男性の四割、女性の七割が「アンチエイジング」に関心があると答えたそうです。
また、実際の年齢より若く見られたいと思っている人が六割、年相応に見られたいが二割だったとか。
 
人は生き物ですから、生きている限り、時間の支配下にあります。ですから「アンチエイジング」とは、ある人にとっては、自分の身に及ぶ時間の流れの影響というものを、出来る限り遅くすることであるとも言えるかも知れません。
 
しかし、見た目が若く見えるように努力したとしても、内臓や血管などの見えない器官が年齢以上に衰えているならば本末転倒です。
その本末転倒の極致が、健康を重視する余り、「健康のためならば死んでもいい」などと口走るというジョークですが、痩せ願望が高じた結果、見た目は美しくスレンダーであっても、内臓や血管がボロボロという若い人が増えているそうです。
 
時間は冨者、貧者、権力者、一般庶民を問わず、冷厳に、そして時には残酷なまでにその支配下に置いていて、それぞれの持ち時間が尽きた後、そこに待っているのが死という最後の敵です。
 
どこに書いてあったのか記憶が定かでないのですが、昔、フランスにルイ何とかという王様がいたそうです。この王様はとにかく、死を恐れるあまりに臣下に対し、自分の前では一切、死という言葉を使わないようにと命じたということですが、その王様を嘲ったのが有名な皮肉屋の哲学者であったとか。この哲学者が言うには、「それは駝鳥(だちょう)の知恵である」と。
たしか、こんな話でした。
 
この地上で最も速く走ることのできる生き物が駝鳥(だちょう)である。駝鳥は猟師に出会うと全速力で逃げ出す。しかし、悲しいことに駝鳥は長距離ランナーではなく短距離走者であるため、息が続かず、長くは走れない。そこで逃げ切れないと悟った駝鳥は窮余の一策で、砂の中に頭を埋める。
自分には周囲が見えなくなる、だから自分の姿も猟師の眼から隠れていると駝鳥は思い込む。そこを後から追いかけてきた猟師が、「頭隠して尻隠さず」の駝鳥を、悠々と捕獲してしまう。
「王様はこの駝鳥と同じだ。死という言葉を自分の回りから排除したからといって、死から逃れられるわけではないのだ。彼がしたことは駝鳥の思考と変わらない」
 
一月から取り組んできました「使徒信条」の講解説教も、今回で二十一回目の最終回を迎えることとなりました。
最初は上半期のうちに十九回で終える予定でしたが、二回に分けた方がよいと思える主題が二つありましたので、七月に入ってしまいました。
 
ところで、人間である私たちのの最大の関心事は、何と言いましても人生の終末としての死でしょう。「しゅうかつ」と言いましたら少し前までは就職活動の「就活」でしたが、最近の「しゅうかつ」は「終活」のことなのだそうです。
 
そして一般に「終活」と言いますと墓の準備とか身の回りの整理などを意味するのですが、真の「終活」とは人の死後の状態を知り、自らの行く先をしっかりと確かめることではないかと思います。
 
このことに関し「使徒信条」は、その第三条の霊霊の働きに関する告白において、人の死後のかたちとしては「からだのよみがえり」とし、死後の状態としては「とこしえの命」として告白します。
 
そこで「使徒信条」の最終回の題目は、「『とこしえの命』の付与という約束は、夢まぼろしでは決してない」としました。
この世の知者、識者には荒唐無稽にも思える「とこしえの命」は、決して夢や幻ではなかったのです。
 
 
1.人類の永遠の夢であったもの、それが不老長寿、不老不死
 
戦国武将として人気があるのが織田信長です。その織田信長が人生の要所要所で謡い舞ったのが幸若舞の「敦盛」の一節だったそうなのです。有名なのが桶狭間の戦いに際し、これを謡い舞い、それから出陣をしたそうですし、本能寺の変においてもこれを謡い舞ったと伝えられています。
 
この「敦盛」は源平の戦いの一つ、須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で平敦盛の首を討ち取った熊谷次郎直実が、後にこれがトラウマとなって出家を志す中で、世を儚んで詠ったとされています。
 
人間五十年 化天(けてん)のうちを比ぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり 
一度生を享け 滅せぬもののあるべきか(「敦盛」幸若舞)
 
 「人間五十年」とありますが、ここでの「人間」はこの世とか人の世を意味するものなので、「にんげん」ではなく「じんかん」と読むのがよいそうです。
 
化天(けてん)のうちを比ぶれば」の「化天(けてん)」は「化楽天(けらくてん)」とも言いますが、仏教の世界観の「天上界」の下部の「六欲天」の一つであって、そこに住む者の寿命は八千歳とのことです。
 
なお、信長はこれを「下天(げてん)」と謡ったそうですが、「下天」は「六欲天」の最下層の天で、その住人の寿命は五百年だそうです。
 
「化天」にしろ「下天」にせよ、とにかく、この世において権力の頂点に登り詰め、あるいは成功を果たして称賛を享けたとしても、それはせいぜい五十年という短さでしかない人間の、儚さ、脆さを嘆いたのが「敦盛」の一節でした。
 
しかし、この現実を受け入れることができなかった権力者がいました。群雄割拠の中華世界を初めて統一した秦の始皇帝です。
彼は不老不死の霊薬を得るべく、徐福という人を東方にあるという蓬莱(ほうらい)に派遣するのですが(紀元前219年)、徐福の帰還を俟たず、四十九歳で死去してしまいます。紀元前二百十年のことでした。徐福は今でいう詐欺師みたいな人だったのでしょう。
 
始皇帝に限らず、不老長寿、不老不死は人類全般の変わらぬ夢でした。そういう意味では進歩の著しい近代医学、最新医療の発展は、夢の不老長寿への形を変えた挑戦であるかも知れませんし、「アンチエイジング」などの試みは、思いっきりハードルを下げた憧れであるのかも知れません。
 
もちろん、長く生きること、出来る限り健康で暮らすことを願うことはよいことです。
「PPK運動」というものがあるそうです。「PPK」とは「ピンピンコロリ」の略ですが、長寿日本一の県である長野県で、最も長寿の地域が佐久市だそうで、この佐久市には「ぴんころ地蔵」なるものが建立されているそうです。
 
佐久市と言えば堂場瞬一の警察小説「アナザーフェイス」の主人公である大友鉄刑事が、この佐久市出身であることを最新刊の「高速の罠」で知りました。
この作家の小説は、主人公の心理分析、心理描写がウジウジと長いのが特徴で、謎解きを求める読者としてはいい加減イライラすることが多いのですが、このシリーズに限っては比較的早いテンポで物語が展開します。
 
なお、「ぴんころ地蔵」のご利益については、まだ調べておりません。
 
しかし、人はいつかは死にます。ローマ時代に発展した初期ユダヤ教に「死人の復活」という信仰に見られますように、死後への希望が顕著ですが、バビロン捕囚以前のヘブライ民族の死生観は、きわめて現世的であったようです。
長命、富裕、美貌、子沢山など、目に見える繁栄が神の祝福の象徴とされる一方、短命、貧困、不妊などは神から見放されたしるしとされていたことが、旧約聖書の物語から窺い知ることができます。
 
でも、死後の運命は共通していて、正しい者も悪しき者も等しく行くところが陰府(黄泉)であるとされ、陰府は神のいない所であり、希望もなく、ただただ死者が空しく漂うところと考えられていたようです。
 
「死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか」(詩篇6篇5節 旧約聖書口語訳753p)。
 
 では、現実はどうかと言いますと、現実の人生は骨折りと悩みの連続であるという嘆きを、詩篇の中に見ることができます。
 
「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」(詩篇90篇10節)。
 
だからこそ、イエスの時代のユダヤ教では現世利益の結晶としてのメシヤ王国への待望と、死後における不老不死の実現としての「死人の復活」が強調されたのだと思われます。
 
 
2.不老不死としての永遠の生命は、夢まぼろしでは決してない
 
では、不老不死としての「永遠の生命」は、所詮、夢や幻でしかないのかといいますと、決してそうではありません。
使徒信条が告白するまでもなく、不老不死としての「とこしえの命」の付与は確実な約束です。
 
ただ、「不死」といいましても、古来、キリスト教会にはいくつもの不死説がありました。
同志社大学の故大塚節治元総長の著書によりますと、不死説には三つの説があるとのことです。
 
第一は天国に行く者と地獄に行く者との二様に分かれるとする二元的不死または甦りの信仰、
 
第二はすべての者が究極においては天国に行くとする一元的不死、または甦りの信仰である。これは万人救済説(Universalism)と呼ばれる。
 
第三は救われる者のみ永存するとなすもので、これを通常、条件的(conditional)不死また甦りと呼ぶ。
それは救われるという条件に叶う者のみが甦り、永存するとなすゆえんである(大塚節治著「キリスト教要義」301p 日本基督教団出版局 1971年)。
 
なお、「条件的不死説」では、「どうしても頑強に神に反抗する者は神によって無に帰せしめられる。換言すれば神に帰順するという条件のもとに永生が与えられる」(上掲書303p)そうで、「無に帰せしめられる」とは、要するに絶滅するという意味です。
なお、この「条件的不死説」を採用する教会は現在、多くはないようです。
 
素朴に考えれば「一元的不死説」の、「すべての者が究極において  は天国に行くとする」、いわゆる万人救済説は、私たちの目には極めて魅力的な説に映りますが、この説は、保守的ではない、どちらかと言いますとリベラルな信仰を持つ教会やキリスト教徒が支持をしているようです。
 
では保守的教会は、と言いますと、「二元的不死説」を支持しているようです。では使徒パウロは、と言うと、パウロもどうやら「二元的不死説」を主張していると思われます。
 
「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと憤りとが加えられる」(ローマ人への手紙2章6~8節 新約聖書口語訳234p)。
 
 問題はこれらの神学説が、国民の大多数がキリスト教徒であるあるいはあった、いわゆるキリスト教国で論じられてきた学説であって、では国民の大多数が非キリスト教で構成される我が国の場合はどうなるのか、ということなのです。
 
 福音派教会を結集しているとされる日本福音同盟(JEA)の信仰基準では、「キリストを信じない者は永遠の刑罰に定められる」と明確に謳われているのですが、そうなりますと、日本人の多くは「永遠の刑罰に定められる」ことになる「キリストを信じない」者になってしまうのでしょうか。
 
 統計では我が国の現時点でのキリスト教人口は総人口のせいぜい一パーセントです。戦後、マッカーサーの個人的野望もあってキリスト教ブームが起こり、このまま行くと日本もキリスト教国になるのではという期待が米国で持たれたりもしましたが、それは一時的な現象でした。
戦後七十年の今日も「一パーセント」で推移しているのが現実です。
 
 では、キリスト教徒ではない九十九パセントの日本人は、「キリストを信じない」者として「永遠の刑罰に定められ」ているのでしょうか。
 
 一つの手掛かりがパウロの書簡にあります。
 
「すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現わし、そのことを彼らの良心と共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリストによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」(ローマ人への手紙2章14~16節)。
 
 もしもこのパウロによる記述が、福音を聴くことのないままこの世を去った人に適用されるとすれば、神が「良心」(15節)的に生きた日本人のひとりひとりの生き方を丁寧に調べて、適切な判断を下すことになるという希望があります。
 
 でも、大事なことは、御子を信じる者は確実に永遠の生命に与かることができるという事実です。そして伝道の意義はそこにあります。
 
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節 139p)。
 
 
3.生ける神との究極の和合の永続こそが、永遠の生命の本質
 
「永遠の命」についてはこのように、不老不死という観点から見ることが通常なのですが、不死という、いわゆる量的長さは永遠の生命の本質ではありません。
実は量的長さは、永遠の生命という本質の結果です。では永遠の生命の本質は何かと言いますと、それはイエス・キリスによる生ける神との和合にあるのです。
 
最後の晩餐における弟子たちへの説教のあとに捧げられた父なる神へのイエスの祈りに、それが示されています。
 
「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネによる福音書17章3節)。
 
 イエスは断言します、「永遠の命とは」(3節)「唯一のまことの神」(同)と、「イエス・キリストとを知ることであ」(同)ると。
では「知る」(同)とは何かということですが、それには知識として「知る」以上の意味があります。
 
それは人格的に交わること、密接不離の一体になることを意味します。
 つまり、「永遠の命」(同)とは父なる神、子なるキリストとの不断の交わり、和合という質的な面こそが本質であって、量的長さは神との和合という本質に対する賜物、贈り物なのだということです。
 
「使徒信条」の最後が「とこしえの命を信ず」という告白で締め括られているのは、「使徒信条」という信仰告白がこれに集約されているから、神の大いなる恵み、憐れみがこの告白に凝結されているからだと思われます。
 
まさに、敢えて人類という病者の主治医となられた父なる神と、死に至る病の特効薬となられたイエス・キリストの犠牲、そして聖霊なる神の細密な看護の結晶としてもたらされたもの、それが「とこしえの命」であって、その内実が神と御子とを「知ること」(3節)なのです。
 
そうであるならば、「とこしえの命」は死後に享けるものではなく、この世において、「イエスは主である」と告白したその瞬間に享けているとも言えるのです。その証拠があのテロリストへのイエスの宣言です。
 
「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」(ルカによる福音書23章43節)。
 
「使徒信条」の完結にあたり、このような豊かでまことに有り難い告白に導かれていることを感謝すると共に、ひとりでも多くの同胞がキリストの教会に導かれ、あるいは聖書の言葉を通して、この「とこしえの命」に与かることができますよう、これからも心を合わせて祈り、命に満ちた福音の伝達に努めていきたいと思います。
 
この半年、「使徒信条」の拙い説教を聴いてくださり、また説教要旨、教会ホームページを読んでくださった方々の上に、生ける神と御子と、そして聖霊なる神の祝福が、常に豊かに注がれますように。