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2015年6月21日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? 「罪のゆるし」に与(あずか)ることの幸いを歌う ローマ人への手紙4章6~8節

2015年6月21日 日曜礼拝説教 

基本信条としての使徒信条?
 
「罪のゆるし」に与(あず)かることの幸いを歌う
 
ローマ人への手紙4章6~8節(新約237p)
 
 
はじめに
 
「父帰る」といったら菊池寛ですが、先週、木村拓哉主演のテレビドラマ「アイムホーム」の最終回を見て、この戯曲を思い出しました。
 
会社人間の、実質、家出状態にあった主人公(木村拓哉)が、単身赴任先から息せき切って我が家に帰る途中、爆発事故に遭遇します。
その結果、主人公はそれまでの五年ほどの記憶を喪失してしまい、帰宅してからも妻(上戸綾)と幼い息子の顔がなぜか仮面に見えてしまうという展開となります。
最終回を見終わって思ったのは、これは妻にとっては「夫帰る」、息子にとっては「父帰る」の物語であると共に、主人公自身にとっては「われに帰る」というドラマであったということでした。もちろん、ドラマの結末はハッピーエンドです。
 
ところで今日、六月の第三日曜日は「父の日」です。「父の日」の由来につきましては昨年六月の第三日曜礼拝説教(2014年6月15日)で、縷々ご説明しましたので詳細は省きますが、六人の小さい子どもを妻に託して南北戦争に従軍した父親が、軍務を終えて復員して間もなく、妻が過労で亡くなってしまいます。
そこでこの父親は残された六人の子供を男手一つで育て上げるのですが、子供たちの成人を見届けてから、妻の後を追うようにしてこの世を去ります。
 
その父親の労苦を見て育った子供たちのひとりが、父を偲んで開いた記念会終了後、父の墓前に一輪の白い薔薇を手向けます。
そしてこのことがきっかけとなって、父親に感謝を示す「父の日」の行事が全米に広まったということです。
 
母親に比べますと何かと影が薄い日本の父親ですが、先月、ある保険会社が主催した「サラリーマン川柳コンクール」で二位に輝いた川柳が何とも秀逸でした。「沸きました 妻よりやさしい 風呂の声」という川柳です。
 
「父の日」の今日、お父上が存命であるならば、いつもより少し優しく接してあげてください。また、もうご存命でないならば、今からでも遅くはありません。亡くなったお父上に向かい、改めて感謝の言葉を述べてみてはどうでしょうか。
 
さて、「使徒信条」の第三条、聖霊がもたらす賜物の三つ目それが、「罪のゆるし」です。
ドラマの「アイムホーム」も、そして菊池寛の戯曲の「父帰る」も、「罪のゆるし」が主題です。
 
そこで今週のタイトルは「『罪のゆるし』に与(あず)かることの幸いを歌う」としました。
 
 
1.「罪のゆるし」の教理こそが、キリスト教の根幹
 
「使徒信条」は「(我は)罪のゆるし(を信ず)」と告白します。この「罪のゆるし」こそがキリスト教の根幹の教理です。
 
昨年の四月十三日に行われた棕櫚の日曜日・受難週礼拝で、キリストの受難の意味をいわゆる「5W1H」で解説しましたが、「罪のゆるし」を理解するため、その時の説教をおさらいしたいと思います。
 
まず、神による人類救済の目的は、人類の「神との和解」にあるということを申し上げました。
 
「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けてくださった」(コリント人への第二の手紙5章18節 283p)。
 
「神との和解」が成立すれば、人の心の中にある神への敵意が消えて、「神との平和」が実現します。理不尽な話なのですが、敵対関係にある時、加害者の方に被害者に対する敵意が生まれてしまうのです。
しかし、本当に有り難いことに、被害者である神の方が一方的に手を差し伸べてくれ、それによって加害者側の私たちの内から神への敵意が取り除かれ、その結果、「神との平和」という関係が生まれたのでした。
 
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ人への手紙5章1節 新約聖書口語訳238p)。
 
この「神との平和」を生みだす「神との和解」という最終目的を達成するために設定された具体的目標が、「罪からの救い」「罪からの解放」です。
「神との和解」を実現するためには、神との不和をもたらしている原因を除かれなければなりません。
そしてその原因が、罪の根である「原罪」です。つまりこの、罪の根という「原罪」からの「救い」、そして罪の力からの「解放」こそが、「神との和解」という最終「目的」達成のための具体的「目標」なのです。
 
「救い」については、使徒パウロたちがピリピの獄屋番に向かって語りかけた言葉があります。
 
「ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」(使徒行伝16章31節 210p)。
 
原罪という罪からの救い、解放ということについては昨年四月の説教で、「蟻地獄」を例にあげて解説しました。少々長いのですが、引用致します。
 
蟻地獄というのは薄翅蜉蝣(うすばかげろう)の幼虫です。私が子供のころに住んでいた神奈川県、湘南地方の家の縁側の下には、夏になりますとこの蟻地獄が巣をつくっていたものでした。
巣は直径で二センチくらいのすり鉢状で、この巣に一度蟻などが落ちますと決して這い上がることができず、外へ出ようと空しく足掻いているうちに、穴の奥に隠れていた(薄翅蜉蝣の幼虫の)蟻地獄によって捕まえられて、その挙句に体液を吸い取られ、干乾びた抜け殻状態となって、巣の外に放り投げられ、一巻の終わりになるわけです。
 
キリスト教神学においては、この蟻地獄にあたるものが原罪といわれるものです。人類は先祖アダムの堕罪以来、原罪という蟻地獄に陥ってもがき続けてきたのでした。罪は個々の罪と、その基となる罪とがあります。木で言えば、枝や枝になる実が個々の罪であるとするならば、幹や根にあたるものが原罪です。
そして、この原罪という蟻地獄からの救済を指すものが、いわゆる「救い」であり、「解放」なのです(20140413棕櫚の日曜日礼拝説教「最重要事項として伝えられたこと、それはキリストが予告通り、私たちのために死んだこと」)。
 
 この「救い」とは、原罪及び諸々の罪の束縛の状態からの解放のみならず、神の怒り、神の刑罰からの救いを意味します。また「解放」は、奴隷状態からの自由への救出を意味します。
 
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである」(ガラテヤ人への手紙5章1節 298p)。
 
そしてそのことをなし遂げたので、イエス・キリストは救世主と呼ばれるのです。
 
「神との和解」を妨げている障害でもある「罪」からの「救い」あるいは「解放」を実現する手段が、今週のテーマである「罪の赦(ゆる)し」、「罪の贖(あがな)い(贖罪 しょくざい)」です。
 
「贖い」ということですが、まず「購(あがな)い」とは代金を払って購入することです。また、「贖い」とは身代金を払うことによって奴隷の立場にあるものを買い戻すこと、あるいは奴隷の身分から解放することを意味します。 
また「贖い」は「償(つぐな)い」でもあります。ですから、キリストは私たち人類いの罪を償う供え物となって、十字架で死なれたのでした。
 
「神はこのキリストを立てて、その血によるあがないの供え物とされた」(ローマ人への手紙3章25節前半 237p)。
 
 口語訳で「あがないの供え物」と訳された原語「ヒラステーリオス」は、新共同訳では、「罪を償う供え物」と訳されています。
 そして、この供え物が捧げられた結果、人類を覆っていた「罪」の「ゆるし」が完成したのでした。
最後の晩餐はこの「罪のゆるし」の出来事を象徴する食卓でした。
 
「また杯(さかずき)を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である』」(マタイによる福音書26章27、28節 44p)。
 
「罪のゆるし」「罪からの解放」が「罪からの救い」をもたらし、同時に「神との和解」を成し遂げることとなりました。
だからこそ「罪のゆるし」は、キリスト教の根幹の教理なのです。
 
そして、この「罪のゆるし」という真理を罪びとに教え、悟らせ、信じる心を与えてくれるお方が聖霊なる神です。
 
 
2.「罪のゆるし」の祝福は、罪の自覚から始まる
 
キリストは新しい「契約の血」(マタイ26:28)を「多くの人のために流」(同)してくれました。
ここでいう「多くの人」というのは過去、現在、未来に跨る人類すべてという意味です。
 
ただし、「罪のゆるし」を受けるには条件があります。何かと言いますと、「罪の自覚」を持っているということです。
それはキリストの料簡が狭いなどという意味ではありません。
 
そうではなく、「罪の自覚」つまり罪意識が無い者は、その有難みがわからないからなのです。
「豚に真珠」という諺があります。「真珠を豚に投げてやるな」と言ったのはイエスです(マタイ7:6)が、豚には真珠の価値が分かりません。ですから、豚の首に真珠の首飾りを付けてやったとしても豚は鬱陶しがるだけでしょう。
 
すなわち、「罪のゆるし」の祝福は、罪の自覚を持っている者にのみもたらされます。
その、罪を赦された喜びを詩文で表現したのが、統一イスラエルの初代の王、ダビデであったということを、使徒パウロが指摘しました。
 
「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちはさいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである』」(ローマ人への手紙4章6~8節 237p)
 
パウロの時代のユダヤ教は、倫理的に優れた宗教でした。当時、地中海世界を支配していたのがローマ帝国ですが、ローマの宗教の頽廃ぶりに辟易していたのが潔癖なローマの女性、特に上流社会の女性たちでした。
何しろ、神殿には神殿娼婦なるものがいて、参拝客を迎えるのが常であったようです。
そういう時代と環境の中で潔癖な女性たちは、ディアスポラ(離散)のユダヤ人がローマ帝国内に建てたシナゴグ(会堂)に出席して、聖書(旧約聖書)の教えを聞いていたと伝えられています。
 
ついでに言いますと、そのシナゴクにおいて、律法学者の資格を持つパウロが語るイエス・キリストの福音を聞いていたのが会堂に集っていたローマの女性たちで、結果、それらの女性たちの中からキリスト教に帰依する者が起こったということも、キリスト教に対するユダヤ人の反感を煽ることとなったと言われています。
 
それはさておき、倫理的には高い標準を保っていたユダヤ教ですが、一つの限界がありました。それが、神に義と認められるためには、モーセ律法を遵守しなければならないという教えした。
そして、この教えはキリスト教会においても、特にユダヤ教出身の教師たちにおける確信として、異教から回心した者たちに教えられていたようです。
 
この結果、異教からキリスト教に改宗した外国人の中には、律法に定められた割礼を受けなければ「罪のゆるし」を受けることができないと思い込む者もいたようでした。
 
そこでパウロの登場です。パウロは断言します。「割礼を受けたか受けなかったかは問題ではない。大体、信仰の父とされるアブラハムが神に義と認められたのは、彼が割礼を受ける前であったではないか」と。
 
「さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、『アブラハムには、その信仰が義と認められた』のである。それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった」(4章9、10節)。
 
 パウロはアブラハムについて言及する際に、「この幸福は」(9節)と言っていますが、これは、律法に定められている行いが足りなくても、あるいは無くても神に義と認められる幸福のことであって、その幸福に与かった者こそが、統一イスラエルの初代の王であったダビデであったのです。
 
このダビデという人に見られる著しい特徴は、「罪の自覚」、「認罪意識の強さ」にありました。
パウロが引用した箇所の原文は、詩篇三十二篇でした。ダビデの告白です。
 
「わたしが自分の罪を言いあらわさなかた時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみてが昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた」(詩篇32篇3、4節 旧約聖書口語訳773p)。
 
そしてダビデは強い罪意識の果てに、悔い改めの祈りを捧げます。
 
「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(同32篇5節)。
 
 パウロがローマ信徒への書簡において引用した箇所は、この詩篇三十二篇の冒頭の告白でした。「罪のゆるし」がもたらす祝福は、罪の自覚、認罪意識から始まるのです。
 
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」(32篇1節)
 
「さいわい」(1節)なのは、聖なる神から「罪のゆるし」の宣告を受けることですが、それは罪意識の浅さ、深さによって違いが生じます。
ダビデ王が持った幸福感は、言葉にもペンにも表現しようのない、歓喜に満ちたものであったのでしょう。
 
 
3.「罪のゆるし」の経験が、愛ある人生への入り口
 
最後に一つのことを確認をしたいと思います。それは「罪のゆるし」の経験が、人をして愛のある豊かな人生への入り口となる、ということです。
 
第一に、赦された者だけが人を赦す者となります。
一方、赦されたことのない者、というよりも、赦されているから今があるということがわかっていない者に限って、他者の非を激しく非難しがちです。
そして、両者の端的な例が、ルカによる福音書に採録されている出来ごとです。読んでみましょう。
 
「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓につかれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓についておられることを聞いて、香油が入れてある石膏(せっこう)のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そしてその足に接吻して、香油を塗った」(ルカによる福音書7章36~38節 97p)。
 
 イエスの時代、社会的有力者は高名なラビ(教師、律法学者)を家に招いて、食事を共にしながら講話を聞くという習慣があったそうです。
 そしてイエスは、「あるパリサイ人」(36節)の要請に応えてその家に赴き、食卓につきました。
 
食事は中庭で行われたと思われます。ユダヤの庶民の家は屋上のあるワンルームで、入り口は歩道に面していますが、裕福な家の場合、建物に囲まれた中庭があって、そこに食卓と椅子とが備えられていた、ということです。
 
特徴的なのは食事の際の姿勢です。まず椅子は長椅子であって、人々はその長椅子に足を伸ばし、肘をついてもう片方の手を食卓の皿に伸ばして食事をしたそうです。
 
当時、招待講師の講話は近隣の人々に開放されていました。ですから、そこには招待客以外の住民も自由に出入りすることができたのです。
だからこそ、そこに「罪の女」(37節)と言われる女性も来ることができたのでしょう。「罪の女」とは遊女のことだそうです。
彼女は長椅子に伸ばされたイエスの足を涙で洗い、髪の毛で拭って、最後に持参の香油を塗ったと記録されています。
 
しかし、招待者であるパリサイ人は心中、イエスを批判しました。「彼はラビでありながら、この女の正体もわからないのか。巷では預言者などと持て囃す者があるが、これでお里が知れた」と。
 
「イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるならば、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」(7章39節)。
 
しかし、パリサイ人の心中の思いをイエスは見抜いて、彼に対し、短い譬え話をします。
 
「イエスは言われた、『ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたりをゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか』」(7章41、42節)。
 
 「デナリ」はローマの貨幣単位で、「一デナリ」は当時の労働者の日当に相当しました。パリサイ人は答えます、「そりゃあ当然、多くゆるしてもらった方でしょう」と。
 
「シモンは答えて言った、『多くゆるしてもらった方だと思います』」(7章43節前半)。
 
 しかし、答えとしては正しい答えをしたにも関わらず、このパリサイ人は自らが神によって「多くの罪をゆるしてもらっ」(43節)ているからこそ、今があるという認識には至っていません。
だからこそ、この女性を「罪の女」(39節)として蔑むという高慢さを、そしてその行為の意味が理解できないという鈍感さを露呈してしまったのでした。
 
先週の水曜日、米国南部のサウスカロライナ州のチャールストンという町の黒人教会が、銃を持った白人男性に襲撃され、聖書研究に集まっていた九人の黒人が射殺されるという、陰惨でまことに痛ましい事件が起きました。
 
数日後、殺人罪などで訴追された白人男性に対する審理が開かれたのですが、被害者の遺族のうち、息子を殺された母親が、「私の体の繊維の一。本一本が痛んでいる。(しかしそれでも)神があなたを救済することを望みます」と述べ、母親を殺された女性は被告に対し、「もう母を抱きしめることはできませんが、私はあなたを許します。(神の)ご慈悲がありますように」と言い、姉妹を亡くした女性もまた、「私たちに憎しみはありません。(あなたの)罪を赦します。神のご加護がありますように」と語ったということでした。
 
この驚くべきコメントは、これらの被害者の肉親たちがたまたま、特別に優しい性格の持ち主だったからというよりも、自分たちが神に「多くゆるしてもらっ」(43節)ているという自覚と信仰を日頃から持って生きているからこそ、愛する者を突然に、しかも理不尽なかたちで失ったという痛みに苛まれつつも、このよう赦しの言葉を被告に対して述べることができたのだと思います。
 
同じ神を信じてはいても、神に赦されて生きているという自覚のないパリサイ人にとって、この「罪の女」(39節)は赦し難い汚れた存在に思えたのでしょう。
 
イエスはこのパリサイ人に対し、人を招待しておきながら、通常行うべき礼というものを失した彼のマナー無視を、この女性の行為との比較の中で指摘すると共に、彼女の行為の背後の思い、動機というものを高く評価します。
 
「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(同7章47節)。
 
 イエスは「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」(47節)と言いましたが、このイエスの言葉を表面的にとりますと、愛するという行為が罪のゆるしをもたらしたように読めてしまいます。
 
しかしそうではありません。例えば、「今日は三十度もある、だから暑い」と言ったりもします。しかし厳密に言えば、暑いから温度計が三十度を示しているのです。
 
このようにわたしたちは、時には、原因と結果とが逆であるかのような言い方をすることがあるのですが、それがイエスが語った言葉の意味です。そして、イエスがここで言いたかったのは、「この女が多く愛したのは、多く赦されているからだ」ということでした。
 
 それは後半の言葉、「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(47節)という補足の言葉でわかります。
 
 「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(47節)ということは、「多く赦された者は多く愛する」ということでもあります。
「自分はゆるされ難い多大の罪を赦されている者なのだ」という自覚、経験を持っている者だけが、感謝のあまりに愛を惜しむことなく注ぐという生き方をするということを、イエスはここで指摘したのでした。
 
 そしてイエスは、彼女を深い罪の意識からも解放します。それが彼女への、「罪のゆるし」の宣言でした。
 
「そして女に言われた、『あなたの罪はゆるされた』」(7章48節)。
 
 この時、同席の客たち、おそらくはパリサイ人の仲間のパリサイ人たちは、心中、イエスを非難すると共に、非難の眼差しをイエスと彼女に向けたと思われます。
 
「すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、『罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう』」(7章49節)。
 
しかしイエスは彼らの疑問や批判を意に介することなく、神の権威に基づいて彼女を励ますのです。それは彼女が進むであろう新しい人生の門出に対する祝福の言葉でもあったと思います。
 
「しかし、イエスは女に言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(7章50節)。
 
二十一世紀の今日も、二千年前と同じように、イエスによる「罪のゆるし」の宣言は有効です。
なぜならばイエスだけが、人類の罪の償いを成し遂げて「罪のゆるし」を完成させてくださったパーフェクトな救い主、キリストだからです。
 
紛(まが)い物ではない、完璧な「罪のゆるし」は、「罪からの救いと解放」を有効なものとし、そして「神との和解」「神との平和」という関係を