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2015年6月14日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? ひとりが悩めば全体が悩み、ひとりが尊ばれれば全体が喜ぶ、それが「聖徒の交わり」コリント人への第一の手紙12章26、27節

2015年6月14日 日曜礼拝説教 

基本信条としての使徒信条?
 
ひとりが悩めば全体が悩み、ひとりが尊ばれれば 
全体が喜ぶ、それが「聖徒の交わり」
 
コリント人への第一の手紙12章26、27節(新約271p)
 
 
はじめに
 
半島の隣国での「マーズ(MERS)」の感染拡散がやみません。昨日(6月13日)の段階で、感染者が十二人増えて合計一三八人となり、その感染者のうちの一人が死亡し、これで同国内における死者は十四人になってしまったそうです。
 
最初に「マーズ」と聞いた時にはすぐ、火星を意味する「マーズ(MARS)」を思い出しましたが、古代の神話に興味がある人の場合は、ローマ神話に登場する「マーズ(マルス)」という神さまの名前を連想したかも知れません。
因みにローマ神話のマーズ(マルス)はギリシャ神話に出てくる軍神「アレス」に由来していますが、「アレス」はクリスチャンにとっては、パウロがアテネ市民に演説をしたことで知られている「アレオパゴス」(使徒行伝17章22節)が「アレスの丘」という意味であって、ここで軍神アレスが裁判にかけられたことに因んで命名された場所であるとして馴染んでいます。
 
その「MARS」ではない「MERS」の方ですが、これは「中東呼吸器症候群コロナウイルス」という病原体が引き起こす呼吸器感染症で、ここ三年の間に、中東つまりミドルイースト(Middle East)のサウジアラビアで始まって、一気に世界各地に感染が拡大したものなのだそうです。
 
その感染症の「マーズ(MERS)」が何でお隣の国で感染拡大が起こったかといいますと、先月(五月)四日、バーレーンに半月ほど滞在した六十八歳の男性韓国人がこの「マーズ」に感染しているとは知らずに帰国をし、一週間後に発症したことから病院に行ったのはよいのですが、ここはダメ、ここも合わないといって、四つもの病院を次々と渡り歩いたことにより、それらの病院内で多数の感染者が出てしまったようなのです。
 
このような事態が起きた場合、一般常識としては、感染者はもとより、感染者と接触をした者は病院や自宅で隔離ということになりますが、自宅で隔離中の者の中には、家に閉じこもっていると息が詰まるというので、友人を誘ってゴルフに行った者や、旅行に出かけてしまったという豪の者もいるそうです。
 
また、信じ難い事ですが、「マーズ」の症状が出ているにも関わらず、多数の人が参加する会合に出席していた医師もおり、そんなこんなで拡散が止まらず、現在は四次感染者も出ているとのことです。
しかし、そうなりますと素人としては、感染爆発の「パンデミック」が引き起こされる危険性を心配してしまいます。
 
なお、「マーズ」の実態調査のために韓国を訪れていたWHO(世界保健機関)と韓国の合同調査団が、昨日発表した調査結果によりますと、「韓国での流行は大規模で感染者が今後も増える可能性がある」とのことです。
また、韓国の防疫措置については「ある程度効果をあげているが、感染の終息には時間がかかる」という見通しを示したとのことでした。
 
感染拡散の原因としてあげられたものの一つが、親戚や上司が入院したというと、一斉に見舞いに訪れ、しかも病室には長時間滞在するという彼の国独自の習慣です。
また、閉じこもるのが嫌いで人と接触することが大好きという、外交的、社交的な国民性に加え、普段から大声で飛沫を飛ばしながらしゃべり回るという習慣が裏目に出て、感染拡散につながったのではないかという見方もあります。
 
同国における感染拡大の終息を願うと共に、我が国にウイルスが持ち込まれることのないよう、ただただ祈るばかりです。
 
ところで人というものは、ひとりでは生きていけません。赤ん坊が良い例です。
草食動物の馬であるならば、生まれてから数時間で立ち上がって歩きだすそうですが、人間はそうはいきません。
また、自分の足で歩くことができるようになったからといって、自立できるわけではありません。
 
来週あたり、選挙権行使の権利を現行の二十歳から十八歳に引き下げるという「公職選挙法」改正案が国会で承認される見込みのようですが、引き下げは十八歳を大人と見做す動きを加速させることになるかと思います。
しかし、十八歳を大人扱いとしても、人が大人であると認められるには、少なくとも十八年はかかるということを意味するわけであって、年齢ととして大人になったとしても、人というものが他者との出会い、あるいは交わりの中でしか生きていくことができないという事実には変わりはありません。
 
問題はその交わりが健全な交わりであるかどうか、それが人の不断の成長を促すようなよい交わりであるかどうかです。
 
使徒信条も今週で、終わりから数えてあと四回となりましたが、今週は、聖霊がもたらす賜物の一つである「聖徒の交わり」について解説をしたいと思います。
「聖徒の交わり」は私たちがこの地上にあって信仰的、霊的に健やかに成長するために不可欠の要因です。
 
そこで今週の礼拝説教のタイトルは「ひとりが悩めば全体が悩み、ひとりが尊ばれれば全体が喜ぶ、それが『聖徒の交わり』」としました。
「聖徒の交わり」の中を生きることの幸いというものを、改めて噛みしめたいと思います。
 
 
1.「聖徒」とは気高い聖人のことではなく、罪赦された元罪びとのこと
 
 使徒信条は「聖なる公同の教会(を信ず)」という信仰告白に続いて、「聖徒の交わり(と信ず)と告白します。
 
「聖徒の」とありますが、ラテン語の「サンクトールム」とは「聖なるもの」のことで、具体的には神殿の奥の「聖所(至聖所)」を意味しました。そこでそこから「聖餐」、そして、さらに転じて「聖なる者」「聖徒」を指すようになったわけです。
では「聖徒」とはどのような者のことを言うのでしょうか。
 
ローマ・カトリック教会は少し前まで、この条項を「諸聖人の通功(つうこう)」としておりました。つまりここでいう「聖徒」とはローマ教会が認定した「聖人たち」を指すというわけです。
 
では、「聖人」とはどのような者をいうことですが、段階があります。
カトリック中央協議会によりますと、教皇庁に設けられている「列聖省」という機関が「聖人」の候補者をリストアップします。
 
リストに挙げられた人はその段階で「神の僕(しもべ)」と呼ばれるようになり、次の段階で「尊者」と宣言されます。
 
そして、「尊者」と宣言された人の生涯が調べられて、徳の高い行為や殉教したという事実が確認されますと、「福者(ふくじゃ)」に列せられます。
但し、殉教者ではない場合、「福者」と認められるためには重病を癒すなどの奇跡が必要となります。
 
そして「聖人」ですが、「福者」の列に加えられた者の中から、その生存中にキリストの模範に従うと共に、更にもう一つ、目覚ましい奇跡を行った者を、各種の厳密な調査と手続きを経て、教皇つまり法王様が「聖人」の列に加えると宣言をし、公に認められることになるのです。
 
このように目出度く「聖人」に列せられた者には、地上の信者はキリストへの取り次ぎを願うことができるようになり、また特定の「聖人の日」が定められます。
一方、「聖人」に列せられた者も、天において地上の信者のために執り成しをすることができるようになるというわけです。
 
私たち凡人はこういうことを知りますと、「わしゃ、アカン」と思います。「聖人」に列せられるどころか、天の御国の端っこに入れてもらえるだけで有り難い、と思うのですが、幸いなことに聖書は、殉教しなくても、奇跡を何一つ行わなくても、心の底から悔い改めて、「イエスは主なり」と告白した者を「聖徒」と認定してくれるのです。
 
ローマの集会に宛てられたパウロの書簡の冒頭の挨拶の言葉です。
 
「あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである― ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ」(ローマ人への手紙1章6、7節 新約聖書口語訳233p)。
 
 ここでいう「彼ら」(6節)とは、神による救済と宣教の対象である「異邦人」(5節)、つまり異教徒のことで、その異教徒の中から先に「召されてイエス・キリストに属する者となった」(6節)者、つまりクリスチャン(クリスチアヌス)はみな、「神に愛され、召された聖徒」(7節)なのです。
 パウロの書簡によれば、使徒信条の「聖徒の交わり」の「聖徒」とは、気高い聖人を指すのではないということになります。
 
勿論、信仰の勇者として苦難の中、信仰のために戦い抜き、殉教の死さえも遂げた先人たちを尊敬することにおいて、私たちは吝かであってはなりません。
しかし、「聖徒の交わり」の「聖徒」とは、地上にあって、地道に信仰を持ち続けている無名の信仰者たちを言うのだということを、改めて確認したいと思います。
イエスを主と告白をしているならば、誰もが立派な「聖徒」(使徒信条)のひとりなのです。
 
 
2.「聖徒の交わり」は諸聖人の功徳に与かることではなく、神の家族としての交わりを意味する
 
さて、その「聖徒の交わり(を信ず)」という信仰告白の意味ですが、ローマカトリック教会は使徒信条を現行の口語体に改訂するまで、この部分を「諸聖人との通功(つうこう)」としておりました。
 
「諸聖人」とは前項で説明しましたように、諸種の調査と手続きを経て、尊い「聖人」の列に名を連ねた者たちのことです。
 
そして「通功」とは、「功」績を融「通」してもらうという意味です。つまり、聖人たちが積み上げてきた信仰と善行という功績は、彼らが自らを救済するには十分すぎる程のものなので、そこで、功績が不足している一般信者にもそれを分けることができる、融通することができるとしたのでした。
 
プロテスタントから見ますと何とも奇妙な考えですが、このような理解に立つからこそ、洗礼を受ける際には洗礼名として、名高い「聖人」の名をつけてもらい、以後、その天にいる「聖人」は彼あるいは彼女の生涯にわたる守護聖人となって、彼らを見守り支えるというわけです。
 
考え方によっては、いつもボディガードが側にいてくれるような、そんな心強さを感じるかも知れませんが、そうなりますと、キリスト信仰がぼやけてきて、聖人信仰になってしまわないのかと、ついつい心配になったりしてしまいます。
 
でも、使徒パウロは天にいる「聖人」があなたを守護してくれるとは言っていません。偉い「聖人」ではなく、神の霊である御霊が助けてくれるのだと使徒は言います。
 
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」(ローマ人への手紙8章26、27節)。
 
キリストによる完全な贖いがありますから、それで罪の赦しは間に合っています。ですから私たちは「聖人」の功績を分けてもらう必要はありませんし、聖霊の執り成しがありますから、「聖人」の執り成しも不必要なのです。
 
使徒信条における「聖徒の交わり」とは、罪を赦された者である「聖徒」の「交わり」のことです。
「交わり」と訳されたラテン語の「コンムニオ」、そしてギリシャ語の「コイノーニア」には、「それぞれが持っているものを持ち寄り、分かち合う」という意味があるそうです。
 
そういう意味において、「聖なる公同の教会」の実質が「聖徒の交わり」であって、別の言葉を使えば「神の家族」ということになります。
 
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ人への手紙2章19節 303p)。
 
 この節の「聖徒たち」(19節)とはアブラハムやモーセ、エリヤなどを含めた代々のイスラエル共同体に属する者のことを言うのですが、あなたがたはその彼らと「同じ国籍の者」(同)であると共に、「神の家族」(同)でもあるのだとパウロは言い切ったのでした。
 
勿論、「神の家族」はあくまでも霊的、信仰的共同体ですので、当然、一定のけじめが必要であることは論を俟ちません。
私的領域つまり私生活には、「神の家族」といえども踏み込むべきではありませんし、それぞれの個人情報は守られねばなりません。
「聖徒(たち)」はあくまでも「神の」「家族」として、喜怒哀楽を共有するのです。それが、コリントの集会に宛てられた書簡の指摘です。
 
「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(コリント人への第一の手紙12章26、27節 271p)。
 
ところで、ローマカトリック教会は二十一世紀に入ってから、従来の「使徒信経」を改訂したのですが、改訂後のこの箇所は、プロテスタントと同じ「聖徒の交わり」となっています。
 
しかし、訳は同じでも、その意味するところは従来と変わったわけではないようです。それは教皇フランシスコが一昨年の十月、サンピエトロ広場で行った、「聖徒の交わり」についての解説でも明らかです。
 
聖徒の交わりは地上の生活を超えます。それは死を超えて、永遠に続きます。私たちの一致はこの世を超え、来世においても継続します。…地上の洗礼を受けたすべての人と、煉獄の霊魂と、すでに楽園にいるすべての聖なる人々は、唯一の大きな家族を構成します。地上と天上の交わりは、とくに執り成しの祈りによって実現します。
(教皇フランシスコの23回目の一般謁見演説 2013.10.31カトリック中央協議会 「フランシスコ」より)。
 
 この演説において教皇は、「地上と天上の交わりは、特に執り成しの祈りによって実現します」と語っておりますが、この「執り成しの祈り」とは第一に、「天上」にいる「諸聖人」すなわち、「すでに楽園にいるすべての聖なる人々」による「地上」の信者に対するよる執り成しのことを意味します。
つまり、その訳が「聖徒の交わり」に変わっても、依然として「諸聖人の通功」が信じられているわけです。
 
 しかもそれだけではありません。この「執り成しの祈り」は「地上の洗礼を受けたすべての」「聖徒」が、「煉獄の霊魂」のために捧げる祈りとして推奨されているのです。
 
 そしてその教理の根拠とされるものが、私たちが旧約外典に位置付け、ローマ教会が第二正典としている「マカベア書(新共同訳続編では「マカバイ記」)」の記述です。
「続編」付きの新共同訳聖書をお持ちの方は、旧約と新約の間にある「続編」をごらんください。
 ここでは教文館発行の「旧約外典偽典」から引用します。
 
もし戦死者たちの復活を信じていなかったならば、死者のために祈ることは余分なばかげたことであった。― さらに彼は信仰をもって眠りについている人々のためにたくわえられているすばらしい恵みに思いをいたした。それは聖く義しい思想であった。そういうわけで戦死者のために宥めの供え物を献げ、罪が赦されるようにと願った(第2マカベア書12・44、45 土岐健治訳 聖書外典偽典? 旧約外典?194p 教文館)。
 
 しかし、「マカベア書」はあくまでも正典外の「外典」ですし、しかもそこにある信仰は初期ユダヤ教の信仰でしかありません。
 新約正典には、「諸聖人」による執り成しの祈りを肯定する記述は見当たりませんし、「煉獄」にいる人々のために執り成しの祈りを推奨する言及もありません。おまけに「煉獄」という中間的場所の存在を示す聖書箇所もないのです。
 
ただし、ローマカソリック教会の教えには、参考にしてもよい点もあるのではないかとも思います。
確かに聖書は生者と死者との交流あるいは交信を禁じております。それは神の民であるイスラエル共同体への、異教的慣習の流入を防止するためでした。
 
「あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国国の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。…また占いをする者、卜者(ぼくしゃ)、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない」(申命記18章9~11節 旧約口語訳272p)。
 
 「口寄せ」(11節)は今日でいうところの霊媒のことで、「かんなぎ」(同)は降霊術、つまり両者は共に「死人に問うことをする者」(同)でした。
 モーセ五書ではこれらの、死者を呼び寄せて「問う」などという行為を、異教の悪しき習慣として禁じられていますので、これらの記述が拡大解釈されて、死者との交流のみならず、死者に対して呼びかけることまでもが禁止されたものとするという理解が、保守的教会に浸透してしまったようなのです。
 
しかし、亡くなった家族や親しい友への呼び掛けや挨拶までも禁止されているのでしょうか。
 
葬儀におけるキリスト教と仏教の違いの一つが、弔辞です。弔辞を述べる者は、仏教では参列者に背をし、前を向いて、亡くなった者に対し第二人称でよびかけます。
これに対してキリスト教は棺を背にあるいは横にし、遺族、参列者に向かい第三人称で慰めや故人の想い出を語ります。
 
しかし、時間が経過した記念会ならばともかく、故人が亡くなった直後の葬儀では、第二人称で語りけるのも有りかな、と個人的には思うこともあるのです。
 
また、先に天に召された愛する家族を想って、折に触れて呼びかけ、話しかけて近況を報告したりすることも有りかな、とも思うのです。
 
勿論、死者に対して祈願をしたり、執り成しを求めることなどは一線を超えてしまうことになります。
しかし、故人に対して生前、言い足りなかった感謝の気持ち、あるいは言いそびれてしまっていた謝罪などの思いを言葉で示すことは、自然の感情の発露であると思いますし、人生の節目節目に、経験した出来事を故人に報告することなどもまた、あってよいのではないかと、個人的には思うのです。
 
ある人はそれは日本的キリスト教だと言うかも知れません。しかし、日本的キリスト教のどこが悪いのでしょうか。亡くなった者を懐かしく思い、折に触れて語りかけることが非聖書的であるとは思えません。
 
 勿論、人は肉体の機能が停止した段階で「眠っている」という状態に入りますので(テサロニケ第一4:13、15)、地上からの呼び掛けは聞こえてはおりません。ですからそれを承知で語りかけることは自己満足のようにも見えます。
しかし、自己満足でもよい、あとは聖霊にお任せして語りかけたいと思うならば、それはそれでよいのではないかと思うのですが如何でしょうか。
 
 
3.「聖徒の交わり」の基礎は、神の霊である「聖霊の親しき交わり」にある
 
 時間が来てしまいました。そこで最後に「聖霊の親しき交わり」という祝祷について簡単に触れたいと思います。
 
「コリント人への第二の手紙」の結びの箇所をお読みしましょう。通常、礼拝の最後に牧師が祈る「祝祷」はこれに基づいています。
 
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(コリント人への第二の手紙13章13節 292p)。
 
 「聖霊の交わり」(13節)とは何かということですが、これには二つの意味があります。
 
一つは「聖霊との交わり」です。聖霊は専ら執り成しの霊として知られていますが、第三位格の神として、礼拝や祈りの対象でもあります。
 歌われることが少なくなりましたが、消えないで欲しい讃美が「讃美歌500番」です。讃美歌の中では珍しく、聖霊が祈りの対象として歌われます。
 
御霊なる聖き神 我が弱き魂を
主の許(もと)に導きて 隠れしめ給えかし
(折り返し)
御霊よ 御霊よ 我が魂(たま)ぞ 憧(あこが)るる
縋り奉る 手をば取りて 主に導き給えかし
(詞 ジョン・ベル 曲 オースティン・マイルズ
「讃美歌500番」日本基督教団讃美歌委員会編集)
 
 そして「聖霊の交わり」のもう一つが、「聖霊による交わり」「聖霊からくる交わり」という意味であって、「聖徒の交わり」を基礎づけ、成り立たせるもの、それが聖なる霊である「聖霊」という神がもたらす「交わり」なのです。
 
聖霊の働き抜きでは、「聖徒の交わり」はただの「交わり」に変質する危険性があります。
そういう意味においても、「聖なる公同の教会」の実質である「聖徒の交わり」は、聖霊なる神がもたらす豊かな賜物であるといえます。
 
どうぞ、この「聖徒の交わり」という賜物を大切なものとして受け止め、その「交わり」から離れることなく、その中を終生、主と共に生きて行ってください。