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2015年5月24日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? 「われは聖霊を信ず」との告白が意味する、豊かな恵みと光栄 エペソ人への手紙5章18、19節

2015年5月24日 聖霊降臨日礼拝説教 

基本信条としての使徒信条?
 
「われは聖霊を信ず」との告白が意味する、
  豊かな恵みと光栄
 
エペソ人への手紙5章18、19節(新約聖書口語訳306p)
 
 
はじめに
 
子供の頃の記憶によりますと、我が家では味噌汁のことを「おみおつけ」と言っておりました。「おつけ」は「御汁」で、これは「つける」の名詞形の「つけ」に「汁」を当てたもので、これに接頭語の御をつけたものが「御汁(おつけ)」です。
 
でも、これではまだまだ丁寧さが足りない、品が無いと考えたのかどうか、昔の日本人女性はこの「御汁(おつけ)」に更に二つ御をつけて、「御御御汁(おみおつけ)」としたようです。
 
似たような用法が「足」であって、その丁寧な表現が「御御足(おみあし)」です。丁寧な表現は大変結構なのですが、何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」で、度が過ぎるのは考えものです。
 
たとえば、「牧師先生」という敬称です。「○○先生」という言い方には相手を揶揄する気持ちが含まれていることが多いものなのですが、「牧師先生」の場合は牧師に対して、素朴で率直な敬意の気持ちを示したものなのでしょう。
でも、「師」が既に先生ですので、先生をつけなくても敬意は十分に伝わっていると思います。ですから「牧師」だけで十分です。
 
時々、牧師さま」と呼ぶ方もおられますが、「お医者さま」という呼び方があることから、それはそれでよいのではないかと思います。
ただし、これが「牧師先生様」となりますと、やや度が過ぎるように思えますが。
 
ところで「神の霊」に関する呼称ですが、「神の霊」を意味する聖書の原語は、ヘブライ語では「ルァハ」、ギリシャ語では「プネウマ」です。
このギリシャ語「プネウマ」に「ハギオス(聖なる)」がついたものが「聖霊」と訳されました。そして「ハギオス(聖なる)」がつかないものは、口語訳や新改訳では尊敬の意味の「御」をつけて「御霊(みたま)」と訳しました。
 
ところが、新共同訳はただの「プネウマ」には「御」をつけることをせず、これを「霊(れい)」、あるいは「霊」を二重引用符(ダブルクォーテーション)で囲むという訳し方をしているのですが、これには少々違和感を感じます。
 
と言いますのはこの訳し方には、「神の霊」に対する尊崇の気持ちが感じられない上、多くの日本人が持っている、得体の知れない働きや作用の担い手としての「霊」を連想させてしまうからです。
 
何しろ、古代、中世の我が国には「怨霊(おんりょう)」信仰というものがありましたので、ただの「霊」という訳語を見た場合、初心者はそれを尊い神の霊というよりも、あらぬものを連想してしまう危険性があるからです。
 
衆知を集めた結果なのだろうとは思いますが、このような訳し方は適切であるようには思えません。今後、訳が見直されるような時には、ぜひ、考慮をして欲しいものです。
 
ところで「聖霊」への呼び方ですが、「聖霊」では何だかぞんざいな呼び方のような気がするというので、これに「様」をつけて「聖霊様」と言ったり、中には「ご聖霊様」と呼ぶ人がいます。
「霊」に「聖なる」がつかない場合、つまり「御霊」の場合、尊敬するあまりの呼び方だとは思いますが、「御霊様」などと呼んだりする人がいます。
 
もちろん、その気持ちは大変よく理解できます。よく理解はできるのですが、神の霊の呼び方としては「聖霊」あるいは「御霊」で、既に十分、尊崇の気持ちを表しているのです。
 
我が国では、天皇と皇后が亡くなった時だけ「崩御(ほうぎょ)」を使用します。もともと「崩」自体、古代中国では天子が亡くなったことを表す言葉でしたが、そこで敬意を示す意味から、これに「御(ぎょ)」をつけて「崩御(ほうぎょ)」としたわけです。
二十数年前、昭和天皇が崩御した折、どこかのテレビ局の女性アナウンサーが「御崩御」と言っておりましたが、この場合も、敬意を表すものとして「崩御」で十分なのです。
 
本日五月二十四日は教会暦では、二〇一五年の「聖霊降臨日」にあたります。また本日は折よく、「使徒信条」の第三条、「聖霊」に対する信仰告白に入る週でもあります。
 
そこで今週の礼拝説教では「『われは聖霊を信ず』と告白することの、豊かな恵みと光栄」というタイトルで、聖霊とはそもそも何ものであるのか、聖霊の主な機能とは何であるのか、さらに、聖霊の効用とは何なのか、という三点について、聖書からご一緒に学びたいと思います。
 
 
1.聖霊は、天に帰ったイエスに代わるもう一人の弁護人として天から送られた
 
わかっているようでわかっていなもの、それが聖霊です。使徒信条で「われは聖霊を信ず」と告白しますが、その聖霊の位置に聖母マリヤを置いたのが、古代のローマ教会であったといわれています。
 
先週、「最後の審判」について学びましたが、「最後の審判」では、判決を下す裁判官、人を天国に入れるか、地獄に落とすかを決める最終審判者はイエス・キリストです。
その結果、古代の人々にとってイエス・キリストは、親しみを覚える救い主というよりも、畏怖すべき支配者、近寄りがたい存在というイメージで捉えられるようになってしまいました。
 
でも、恐るべき審判者であっても、キリストも母親の言葉には耳を傾けるであろう、ならばキリストの生母であるマリヤを通して願い出ればキリストも無碍にはできないであろうという期待から、マリヤの執り成しという信仰が生まれるようになり、それも一つの理由でマリヤ信仰が発達したのだといわれています。
 
でも、マリヤの執り成しは必要ありません。なぜならば、執り成し手としては、聖霊なる神が天から送られているからです。
マリヤは私たちの信仰の模範であり手本であっても、礼拝や祈願の対象ではありません。
 
ヨハネの福音書によりますと、最後の晩餐の際、弟子たちは不安感でいっぱいであったようです。そこにイエスの約束が語られました。
 
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネによる福音書14章16、17節前半 新約聖書口語訳165p)。
 
そしてキリストが昇天したあと、約束の通りに聖霊は父なる神と子なるキリストから、キリストに代わる「助け主」(16節)として教会に送られてきたのでした。それが「聖霊降臨日」です。
ユダヤの祭の「五旬節」の日に降臨したので、「五旬節」を意味するギリシャ語の「ペンテコステ」から、この日を「ペンテコステの日」などといいます。
 
ところで「助け主」(同)ですが、「助け主」と訳された原語の「パラクレートス」は、そのまま訳しますと「助けを求められる人」となるそうです。
つまり、告発された人のために弁護をする「弁護人」、病人に付き添う「医師」や「看護人」「介護者」を意味するものでもあることから、「助け主」(口語訳、新改訳)や「弁護者」(新共同訳)とも訳されます。
 
なお、十六節で口語訳が「別に」(同)と訳した言葉を、新共同訳は「別の」と訳しましたが、これは新改訳の、「もう一人の」が適切だと思われます。
神の御霊はキリスト昇天後、キリストに代わるお方としてキリスト信者の傍らに付き添う「もう一人の」「助け主」「弁護者」(新共同訳)として送られてきたのです。
 
しかも、それは単なる助け手などでもありません。聖霊は神であって、「父なる神」「子なるキリスト」に次ぐ第三位格の神です。ですから聖霊は礼拝や祈りの対象でもあるのです。
 
人を不安にするものは何といいましても、「一人ぼっち」、難しい言葉を使えば「孤立無援」という状況に置かれることです。
だからこそイエスは不安を感じていた弟子たちに対して、「私はあなたがたを見捨てることは決してしない」と約束されたのでした。
 
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる」(14章18節)。
 
 「帰ってくる」(18節)という言葉から、これを再臨のことを言っているという見方もありますが、そうではありません。これはイエスが、昇天した後も、聖霊において弟子たちと共にいる、という意味の約束の言葉です。
 
「相互内在」という専門用語を思い出していただきたいと思います。イエスは聖霊を通して、あるいは聖霊に内在することによって、地上にある私たちと、常に共にいてくださるのです。助け主として、弁護人として、そして痒い所に手の届く看護人として、です。
 
 
2.聖霊に従って歩む時、人は生まれつきの自己である肉の働きから解放される
 
聖霊が、信じる者の人生に「助け手」として寄り添ってくれる神でもあるということを、昔、米国のアッセンブリー教団が発行した「わたしたちの信仰と生活シリーズ」の「聖霊」という小冊子を読んで、納得したものでした。
 
著者はそこで、私たち人間というものを重い病気で苦しむ患者に喩え、一方、三位一体の神については、父なる神を、患者を苦しめている病を正確に診断し、適切な薬剤を処方する医師として、またキリストについては、不治の病を癒す特効薬そのものとして、そして聖霊は、病者に対してその薬の効能を説明して納得の上で服薬させる看護婦のような存在として説明しており、読んでいて実に腑に落ちる解説であると感動したものでした。
 
まさに聖霊は気難しい者に対しても、難しいことを優しく忍耐深く、そして易しく説き明かす「真理の御霊」(ヨハネ14:17)として、私たち信者の傍らにあって助け導き、時には弁護人のように、神に向かって執り成してくださるのです。
 
この聖霊なる神の働きは、実に多方面にわたりますが、その一つが私たち信者の生き方の変革、悪しき力からの解放のための援助です。
そして、そこで勧められているのが、神の御霊に支配され、神の御霊に従って人生を生きるということでした。
 
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互いに相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」(ガラテヤ人への手紙5章16、17節 299p)。
 
使徒パウロは人間というものを、善を志向してやまない一方、どうにもならない我欲に支配されている者として理解しておりました。そして、その我欲の中心にあるものをパウロは「肉」(16節)としました。
 
「肉」(同)の原語である「サルクス」は通常、食用としての肉や、人間の肉体を指す場合に使われますが、パウロはこれを「人間の生来の性質、生まれながらにして持っている古い人間性を意味するもの」として使いました。
 
つまり、「肉」そのものはただちに罪なのではありませんが、「肉」は罪を生み出す温床としての自我そのものでもあり、生まれ変わっていない自我は容易に「肉の欲」(同)として、「御霊」の思い、御霊の志向に「反する」(17節)傾向へと向かいがちになります。
 
そこでパウロは書いたのでした、本能に任せて「肉」に従うというマイナスの生活に陥らないためには、「御霊によって歩」(16節)くようにとしなさい、と。
 
では「御霊によって歩」(同)く、とはどういうことかと言いますと、人間を構成する知、情、意に、御霊の支配を仰ぐことであると言えます。
それは親しい者は玄関先や客間にではなく、居間、寝室、台所、書斎という、暮らしの空間にお迎えすることがあります。
それと同じように、自らのプライベートな領域である知性のレベル、意思の分野、感情の深み、深層心理、無意識の世界にまで、聖霊の支配を仰ぐことを意味します。
 
そういう意味では、キリストにある私たちの生涯は、「御霊」と生まれながらの古い性質である「肉」との戦いの舞台、戦場であるという見方をすることもできます。
 
そして、私たちへの愛のあまりに、身を捨てて私たちを原罪から解放した救世主は、その愛する者の内に聖霊を送って、私たちがこの世に誕生し、さらには新生へと導かれた本来の目的の達成である真の自由、解放へと導いてくださる筈です。
 
「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(5章13節)。
 
パウロは勧めます、折角与えられた自由というものを、生まれながらの性質である「肉の働く機会」(13節)すなわち「肉に罪を犯させる機会と」(同 新共同訳)しないで、「愛をもって互いに仕えなさい」(同)と。
 
日々、助け主なる御霊を仰ぎ、このお方の支配に服することによって、「愛をもって互いに仕え」る自由の行使へと導かれたいと思います。
 
 
3.聖霊に満たされてこそ、人は神の栄光を現わす器となって用いられる
 
聖霊には多種多様な機能がありますが、そのうちの一つが表現の霊、あるいはコミュニケーションの霊であるということです。
 
若かった頃、教職仲間でドイツの新約学者、エドアルト・シュヴァイツアーの「聖霊」に関する論文(キッテル編「新約聖書神学辞典」)を学んでいて知ったのは、「使徒行伝」では、癒しなどの奇跡、力あるわざなどは「イエスの御名」が、そして宣教や預言などの言葉の働きは聖霊が担っているということでした。
 
聖霊は勿論、超常現象にも関与しますが、その働きは主に、証し、伝道、礼拝、祈祷、讃美などの表現、コミュニケーションの分野においての活動を助けるようです。
 
 ところで、アルコールはOK!という教会もあれば、教会規則でアルコール禁止を打ち出す教会もあるようです。
 
この教会ではそれぞれに任せていますが、私自身はピューリタニズム(清教徒主義)の固い教会で信仰を持ったせいか、アルコールを嗜む機会がないまま大人になったので、その結果、ビールなども苦いだけで、一向に飲みたいとも思いません。
 
では、聖書はどう言っているかといいますと、エペソ人への手紙の著者は「酒に酔ってはいけない」と、どうやら飲酒に関しては否定的のようにもみえます。
 
「酒に酔ってはいけない。それは乱行(らんぎょう)のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌を歌いなさい」(エペソ人への手紙5章18、19節 306p)。
 
しかし、いや、「酒に酔うな」とは書いてあるが、「酒を飲むな」とは書いていない、酔わない程度に飲む分には構わないのでは、と言う人もいます。
確かに聖書解釈学の原則の一つは、著者の言いたい事を読みとる、ということですから、そういう意味ではこれは、飲酒自体を禁じたものではなく、本来の自分を失う程に「酔ってはいけない」という意味なのだろうと思います。
 
問題は「酔」うということのようです。酔うことがなぜ問題なのかといいますと、酔いが「乱行のもと」(同)だからです。
 
そして、人はしばしば、アルコールには酔わなくても、自己陶酔、つまり自分に酔う場合があります。
 
とりわけ、語るということに秀でた者は自分の弁論、弁舌に酔いやすく、書くことを専らにする者は自らの文筆の才に酔うことがあります。
また、楽器を奏でることに卓越した者は自らの技量に酔い、歌う者は自分自身の美しい声や歌唱の素晴らしさに酔いしれるという危険性がないでもありません。
 
自分自身に酔うことがなぜ注意しなければならないのかと申しますと、自分に酔っているとき、人はともすれば、その優れた才能を与えてくれたお方を忘れ、あるいはその賜物が与えられた目的である、人を生かし、神の栄光を現わすという、本来の意味と目的とを忘れてしまうことが、無きにしもあらずだからです。
 
今日は少しだけ、思い出話をしたいと思います。
 
私にとりまして十五歳の時の記憶は、人生の分岐点としてとりわけ濃密な記憶として残っております。
 
生まれて初めて教会に行ったのは十五歳の春でしたし、聖書を熟読して、唯一の神が実在すること、その神が世界を創造した神であること、自分自身もまた偶然ではなく、その神の不可思議な選びによってこの世界へと送り出されたのだということを信じたのも十五歳の春から夏にかけてであり、神なき人生に訣別する思いで水の洗礼を受けたのも十五歳の秋でした。
 
そしてそれまで、苦々しい記憶しかなかった「西洋の祭である」クリスマスというものを教会で迎えたのが十五歳の冬でした。
 
その年のクリスマスでは、私が所属していた中高生の会がクリスマス劇を上演することになりました。
演目は「靴屋のマルチン」でした。その後、この民話がロシアの文豪トルストイによって書かれた「愛あるところに神います」であることを知りましたが、当時はそんなことも知りませんでした。
 
劇では主役の「靴屋のマルチン」には一学年上のKさんが選ばれ、出演者それぞれ、練習の成果を発揮して感動的な劇が上演されました。
 
 私にはキリストの役が与えられました。キリストと言いますと何やらいい役のように思えるのですが、この劇では実は声だけ。声はすれども姿は見えずという役どころです。
 
劇の前半は、妻を亡くした後、一人残された息子をも亡くしてがっくりきていた靴屋のマルチンが、仕事を終えて休んでいるところに、「マルチン、マルチン、私は明日、お前の所に行くからね」というキリストの声が聞こえます。
 
キリストが来られるというので張り切るマルチンですが、翌日、道に面した仕事場から見える街角には、老いた雪かきのステパノが凍える体を壁にもたせかけている姿が。そこでマルチンはステパノを暖炉の燃える仕事場に入れて、暖かいお茶を振る舞います。
 
やがて、冬だというのに夏ものを着て赤子を抱き、途方にくれている若いお母さんを見つけたマルチンは、二人を仕事場に招き入れて、赤子には暖めたミルクを飲ませ、お母さんには古い毛皮の外套を与えます。
 
その後、外で騒動が。見るとりんご売りのお婆さんの籠からひもじさのあまりにリンゴを盗んだ男の子がおばあさんに見つかって、折檻をされそうになっている、そこでマルチンは飛び出していって、お婆さんにはリンゴの代金は自分が払うこと、男の子にはやはり盗みはいけないと諭し、その結果、二人は仲好くなって帰っていくなどして、一日が終わってしまいます。
 
その夜、「ああ、キリストさまは来なかったなあ」と言ってマルチンが座って福音書を読んでいると、彼の眼前に雪かき爺さんのステパノが現われ、次の瞬間、「これは私だよ」というキリストの声が聞こえます。
 
そして赤子を抱いた若いお母さん、リンゴ売りのお婆さん、リンゴを盗んだ男の子たちが次々と現われ、その度に、「これは私だよ」「これも私だよ」というキリストの声が聞こえてきます。
そこでマルチンは、「ほんとうに主は今日、私の所に来てくれたのだ」と言って感謝の祈りをささげる、という劇でした。
 
因みに、一日の仕事を終えたマルチンが、直前に読んでいた福音書の箇所が、先週の礼拝説教でご一緒にお読みしたイエスの譬え話でした。
 
「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは。すなわち、わたしにしたのである』」(マタイによる福音書25章40節 43p)。
 
とても感動的な劇でしたが、私は、と言いますと、台詞は多いことは多いのですが、どこから声を出すかと言いますと、舞台の横に当時あったトイレの中からメガフォンで、「マルチン」と呼びかけるわけです。
 
しかも、五十数年前の当時のトイレは、当然ながら水洗ではありません。その水洗ではないトイレの中に、劇の始めから終わりまでいて、キリストの声を演じたというわけです。
中高生全員が心を合わせ、そして力を結集した劇は大成功でした。劇を見てくれた大人たちもみな、心から感動をしてくれました。
 
そして後年、いつの頃からか、その時の自分に与えられた役は、人生を貫く自分の在り方を示しているのではないか、と思うようになりました。
 
とりわけ、説教者としてキリストの言葉を解き明かす立場になって思ったのは、「自分の姿は人の目からは隠されて、キリストの声となってキリストを示すことが自分の役割である。人からの称賛などではなく、キリストが崇められることだけが報酬であるという働き、生き方をすること、それがお前の人生である」と神から言われているように思えるようになりました。
 
「エペソ人への手紙」の著者は、「酒に酔ってはいけない」(18節)と書いたあと、「むしろ御霊に満たされて、(互いに)語り合い、主にむかって心からさんびの歌を歌いなさい」(同)と勧めます。
 
「御霊に満たされ」(同)るとは、御霊に占領されるという意味です。意識のレベルだけでなく無意識のレベルまで、キリストの代わりの「助け主」である聖霊に満たされ、占領される時、互いに徳を高め合う「語り合い」(同)が可能となり、神の栄光とみわざとを称える「さんびの歌」(同)を「主にむかって」(同)捧げることが日常となるのです。
 
この聖霊降臨日、それぞれが神の栄光を現わす器として、御霊に酔い、「御霊に満たされて」(同)神と人に用いられるものでありますよう、心を込めて祈りたいと思います。