【お知らせ】2024年3月より、寝屋川市錦町に移転しました。

2015年5月3日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? 「全能の父なる神の右に座」すキリストは、その民を迎えるため、やがて再び「かしこよりきたり」給う(後)― 「再臨」をどのように受け止めるべきか テサロニケ人への第一の手紙4章11~18節 5章1~11節

15年5月3日 日曜礼拝説教
 
基本信条としての使徒信条?
 
「全能の父なる神の右に座」すキリストは、その民を迎えるため、やがて再び「かしこよりきたり」給う(後)―「再臨」をどのように受け止めるべきか
 

テサロニケ人への第一の手紙4章12~18節 5章1~11節(新約聖書口語訳322p)

 
はじめに
 
 今日、五月三日はGHQから押し付けられたとされる「日本国憲法」が、新しい憲法として施行された日です。あれから六十八年が経ちました。
それから二十年後の一九六七年には、玩具メーカーの「タカラ」から「リカちゃん人形」が発売されました。時間が経つのはほんとうに早いものです。
 
ところで「リカちゃん」の誕生日がいつかご存じでしょうか。「リカちゃん」の誕生日は憲法の施行の日と同じ、今日、五月三日です。
ついでに言いますと「リカちゃん」のフルネームは、「香山(かやま)リカ」というのだそうです。知りませんでした。
 
時間ということですが、先週四月二十六日の日曜礼拝説教では、時間(大きく言えば歴史)というものをどう捉えるかという時間理解には、時間を円、つまり「円環的」に理解するものと、線、つまり「直線的」に理解するものとがあること、そして時間の「円環的理解」には希望というものがなく、「直線的理解」にこそ確かな希望があるということをお話しました。
 
 そしてその三日後、米国の上下両院合同会議において、日本の安倍晋三総理大臣が日本の首相としては初めてという演説を致しました。
内容もさることながら、四〇分間丸々英語で演説すると聞いていましたので、コーヒーカップを片手に万全の態勢を整えて、テレビの前に座りました。
 
現地のワシントン時間では四月二十九日の水曜日、午前十一時過ぎ、日本時間では三十日の木曜日午前〇時を少し過ぎて始まった演説は予定よりも五分ほど長い四十五分間にも及びましたが、議会の儀礼とはいえ、議員たちのスタンディングオベイションは十度を超えて、まずまずの反応であったようでした。

 翌日、外務省のホームページを覗くと、英語の原文とその和訳がアップされていましたが、朝日新聞と読売新聞の朝刊が、左と右に対訳のかたちで英文と和訳を載せていると聞きましたので、朝日の方をコンビニで一五〇円を支払って購入しました。この新聞は他に読むところがほとんどないので、勿体ない気もしましたが。

  演説の全文を入手して知ったのは、演説の英語のタイトルが単なる「希望の同盟」ではなく、「希望の同盟へ(Toward an Alliance of Hope トゥワード アン アライアンス オブ ホープ」であったことでした。
 
 タイトルに「~に向かって(Toward)」があることはとても重要なことであると思いました。それは、現在の日米間の「同盟」が更に堅固なもの、真の意味での「同盟」を意味する「希望の同盟」というかたちに向かって前進することを意味しているからです。
 
議会演説をリアルタイムで聞いていて感じた個人的感想を言うならば、言い回しや内容が米国に阿(おもね)っている、諂(へつら)っている、とまでは言いませんが、少々媚びたものとなっていたように思えました。
 
また、歴史認識に関しては、「お詫び」とか「謝罪」といった用語を使わなかったことは適切でしたが(演説が米国民を代表する上下両院の議員へのものであって、韓国や中国は無関係ですから、当然です)、「深い悔悟(ディープ リペンタンンス)とか、「痛切な反省(ディープ リモース)」など、あたかも先の大戦の責任が日本にのみあるかのような用語、表現に、何でも彼でも日本が悪かったのだという、戦後の自虐史観の基となった、いわゆる「東京裁判史観」を核とした「戦後レジームからの脱却」を政治信条としているといわれる首相の演説にしては、意外な感じもしました。
しかし、大きな目的の達成、つまり、迫りくる中国の脅威に対抗する意味での日本国の安全保障のためには、やむを得ないもの、考えに考えた末の深謀遠慮の文言であったのかも知れません。

 一切の同盟関係を否定して永世中立を掲げるスイスの場合、徴兵制度が布かれていて、女性は任意ですが、男性の場合は十九歳か二十歳になりますと、十五週間の兵役訓練を受け、その後も予備役として、二十年以上、毎年、訓練を受けることが定まっていて、各家には国から貸与された自動小銃が備えられているとのことです。

 また、同国では二年前に、徴兵制度の是非を問う国民投票が実施されましたが、民意は制度の継続でした。 

スイスのような国を目指すならば、徴兵制はともかくとして、国防予算を現在の何倍にもしないとやっていけませんし、第一、地政学的に見ても「一国平和主義」政策を取ることが不可能である以上、独立国家として延命する道は、基本的価値観を共有する、信頼の出来る大国との同盟関係を強化する以外にはないことになります。
そういう意味では、日本が米国との関係強化を謳った「希望の同盟」という方針は、現時点において日本が取り得る唯一の外交政策なのだろうと思われます。
 
それはそれとして、改めて気がつかされたのは、本当の意味での堅牢な安全保障としての「希望の同盟(アライアンス オブ ホープ)」というものを、「全能の父なる神の右に座」しておられる最高の主権者なるイエス・キリストとの間に、ただ恵みと憐れみによって結んでいるという特権に与かっているのが、イエスを主と告白している私たちなのだという事実でした。
「感謝、感激、雨、霰(あられ)」とはまさにこの事です。
 
今週は先週の続きで、キリストの第二降臨である「再臨」の時期や様態について、そしてその備えに関して、聖書がどのように教えているかということについて、見ていきたいと思います。
   
 ところで、説教には三つの要素があります。
一つ目は正しい説教であること、二つ目はわかり易いものであること、そして三つ目が楽しいこと、です。
当教会で語られている説教が楽しいかと言いますと、そうとは言えませんし、分かり易いかと言うならば、分かり易さは心掛けてはいるのですが、理屈っぽくて分かりづらいかも知れません。

 しかし、正しさ、特に聖書解釈の正確さや教理理解の正当性に関しては、特に注意を払っております。

 三つの要素で最も大事なものは正しいかどうか、ということだと思います。そういうわけでこれからも、何よりも正しさを追求しつつ、その上で分かり易く、できるだけ楽しい説教に「向かって」努めていきたいと思いますので、お祈りとご協力とをお願い致します。
 
 
1.再臨の時期 その日その時は誰も知らない
 
 さて、「再臨」という教えを信じる者の関心は当然、それはいつになるのかという時期に向かいます。では、聖書は何と言っているかといいますと、時期は「誰も知らない」です。
 
「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マルコによる福音書13章32節 新約聖書口語訳75p)。
 
 知っているのは「父だけ」(32節)であって、「子も知らない」(同)とイエスは言いました。しかし、今は「子も知」っています。なぜならば、「子」は全知全能の神の立場に復帰しているからです。
 
 また、「再臨」は予告なしに突然、起こるとも言われています。
 
「兄弟たちよ。その時期と場合については、書き送る必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」(テサロニケ人への第一の手紙5章1~3節322p)。
 
  「盗人」(1節)は普通、犯行を予告しはしません。前以て犯行を予告するのはアルセーヌ・ルパンくらいのものです。
そのように、「再臨」に代表される「主の日は盗人が夜くるように」(2節)、「突如として」(3節)「来る」(2節)と、テサロニケの人々に対してパウロは書き送りました。
 
「エホバの証人」とか「ものみの塔」とかいうカルトグループがあります。
特に二十世紀には、キリストの「再臨」の時期を予告して教勢を拡大してきました。しかし、予告は悉く外れてきました。
彼らは「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」など、いわゆる「黙示文学」の記述を一方的に都合よく解釈して再臨の時期を尤もらしく算出して発表したりします。
 
しかし、「時期や場合」(1節)、つまり、時間の流れとしての「時期(クロノス)」や、特定の機会としての「場合(カイロス)」は、天地の支配者である全能の父なる神と子なるキリストが決めることですから、私たちは知らなくてもよい、お任せしておけばよいのです。
 
時々、自称預言者が現われて、再臨の時期を予告する場合がありますが、それらは例外なく偽預言者の類いです。無視して差し支えありません。
それは今年中に「来る」かも知れませんし、来年かも知れません、あるいは百年後、二百年後かも知れません。
 
でも、神との交わりという霊的な「昼」を生きている者にとっては、それはいつであってもよいのです。

「しかし、兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう」(5章4節)

 
2.再臨の様態 「再臨」は文字通り「再臨」として生起する
 
では、「再臨」は具体的にどのようなかたちで起こるのかと言いますと、キリストの天からの来臨として起こるとされています。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(4章16、17節)。

 キリストの「再臨」の際には二つのことが起こるとされていますが、それには順序があるようです。

まず、キリストが「天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(16節)と、「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」(同)ます。つまり、膨大な数の死者が眠っている状態から目覚めて、不死のからだ、復活のからだを与えられます。
 
そして次に起こることが、その時点で生存している信者が、「最初によみがえ」(同)った者たちと「共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会」(17節)うのですが、その際、生存者のからだは不死のからだ、復活のからだに化せられるようです。
 
パウロはどうも、主の「再臨」は自分自身が生きている間に起こると思い込んでいたようです。ですから、「生き残っているわたしたち」(17節)と書いたのでしょう。
 
問題はこの後です。キリスト教の保守派(コンサバティブ)あるいは原理主義(ファンダメンタリズム)に立つ教派は、キリストは「空中」(17節)までは来るが、すぐには地上に降りてくるわけではなく、しばらく、空中にとどまって、その後、地上に下ってくる、と考えます。
つまり「再臨」には「空中再臨」と「地上再臨」とがあると言います。
 
キリストの「再臨」に伴ない、その時点で地上で生存をしていた信者が「引き上げられ」(同)ることを「携挙(けいきょ)」と言うのですが、その際、すべての信者が「携挙」されるとする見解と、そうではなく、信者は分別されて、忠実な信者のみが「携挙」され、ちゃらんぽらんな信仰生活を送っていた信者は地上に取り残される、そして、「携挙」された忠実な信者は「小羊の婚宴」という目出度い祝宴に出席することがゆるされる一方、地上に残された信者は患難時代という苦しい期間をくぐる中で、清められて救われるという見解とがあるようです。
 
最終的に救われるのならば結構なようにも思えますが、「携挙」に伴なって、もしも航空機の機長や新幹線の運転士、偶々乗ったタクシーの運転手さん、あるいは手術中の外科医が忠実な信者で「携挙」の対象者であったならば、どうなってしまうのでしょうか。
 
実は米国で数千万部も売れて、ニコラス・ケイジ主演で映画化もされた「レフト・ビハインド」という小説があるそうです。
高度一万メートルの上空を飛んでいるジャンボ機の機長が、コックピットを出て客室に行くと、客室は異常に状態になっていて、何人もの乗客が衣服や持ち物を座席に置いたまま、忽然といなくなっている、という事象を見ることとなり、それが発端となって物語が展開するのだそうです。 
 
そういえば、この「レフト・ビハインド」という映画が六月に日本でも上映されるという案内が、教会にも届いていたような記憶があります。
因みに「レフト・ビハインド」とは「置いていかれる」とか「とり残される」という意味です。
 
私が学んでいた全寮制の神学校では、日曜派遣と言いまして、日曜日には学生は朝からみな、都内か都下、あるいは近隣の神奈川、千葉、埼玉の各教会に、訓練という名目の奉仕に派遣されて、夜、学生寮へと帰ってきます。
ある時、同級生の一人が派遣先の教会から帰寮したところ、寮は真っ暗で学生は一人もいなかった。彼は驚き慌てふためきました、「『携挙』が起こって、自分はとり残されたのだ」と。
しかし、やがて三々五々、学生たちが寮に帰ってきて、彼はホッと胸を撫で下ろしたと告白しておりましたが。
 
キリスト教ファンダメンタルズによると、聖徒たちが「携挙」された後の地上には「反キリスト」が出現し、すべての権力を掌握して、ユダヤ人を迫害するのだそうです。これを「患難時代」と言い、その期間は七年間あるいは三年半なのだそうです。
 
「レフト・ビハインド」を信じる者たちは、「携挙」から洩れて「とり残された」信者たちも、この「患難時代」を通るが、悔い改めて信仰を新たにし、結束をすることによって、「反キリスト」に抵抗するのだと考えるようですが、この間、「携挙」された聖徒たちはキリストと共に空中で「小羊の婚宴」を祝い、その後、キリストと共に地上に降りてきます。
その結果、「反キリスト」の勢力は最終的に鎮圧され、地上に「千年王国」が始まるのだとのことです。
 
問題は、それらの見解が主に「ヨハネの黙示録」や「ゼカリヤ書」などの黙示文学を根拠にしていることです。どのようにでも解釈することが可能な譬え話や黙示文学などから、教理を引き出すことは避けねばならないというのが、原則なのですが。
 
では、「携挙」というものをどう考えたらよいのかと言いますと、パウロが書いているように、キリストは確かに最初、空中に来られる、そしてその時点で死者の復活と、地上で「生き残っている」(17節)信者たちのからだの栄化があり、間を置かずによみがえった聖徒たちと共にキリストが地上に下ってくると考える見解もあります。
 
この見解を取る者は、前者の見解が「再臨(セカンドカミング)」ではなく、「三臨(サードカミング)」あるいは「2.5臨」になってしまいかねないと考えているようです。
どちらにせよ、キリストの「再臨」は、いつの日にか見字通り「再臨」として生起する、それが聖書の主張です。
 
 
3.再臨への備え 目を覚まし、落ち着いて暮らす
 
最後に、「再臨」に対する心構え、備えというものについて教えられたいと思います。イエスは「再臨」を、用事で出かけていた家の主人が帰ってくるようなものであるとしました。
 
「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当たり、その僕(しもべ)たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」(マルコによる福音書13章34~37節)。
 
  大事なことは信仰的に「目をさましてい」(35節)るということです。
信仰的に目覚めていれば、主がいつ戻ってきても、すぐに迎えに出ることができるからです。 
 
この箇所ではイエスは三回も「目をさましていなさい」と言っています(33、35、37節)。
大事なことは信仰的に目覚めているということです。そして、信仰的に目覚めているということは、来たり給う主を常に意識し、主と共に日々を暮らすということです。
  
「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである」(テサロニケ人への第一の手紙5章10節)。
 
  そして、「主と共に生きる」(10節)ということは、決して特別な生活をすることではなく、日常生活をきちんと生きるということです。
 
「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人に対しても品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(4章11、12節)。
 
 一世紀半ばのテサロニケの信者さんたちの場合、「再臨」信仰が高まると共に、浮足立って仕事が手につかないという人が出てきたようです。だからこそ、パウロは注意をしたのでしょう。「つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働」(11節)くようにと。
 
 それは決して禁欲的に生きるということではありません。むしろ、私生活を充実させて、日々の生活を楽しむことも「落ち着いた生活を」(11節)送ることでもあります。
 そういう「落ち着い」(同)て、日々の職務に励み、家庭を形成する中で、ある種の緊張感を持って、やがて来る「世の終わりの終わり」を意識することが大切なのです。
 
 「エスカトロジー」、つまり「キリスト教終末論」には大別すると、「現在的終末論」と「未来的終末論」とがあります。
 
 そして「現在的終末論」の一つに「実現された終末論」と呼ばれるものがあります。
 「実現された終末論」は、キリストが完全支配する「神の国」は、既に実現しているという見方です。その根拠の一つがパリサイ人の問いに対するイエスの答えです。
 
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、見よ、ここにある、あそこにある』などとも言えない。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17章20、21節 119p)。
 
 しかし、これは先週、四月二十六日の礼拝説教で触れましたように、イエスによって「世の終わり」が始まったのだとすれば問題ありません。事実、神の国、神の支配は信じる者の心と人生に既に始まっているからです。
 
 一方、「未来的終末論」にも「未来的終末論」と「将来的終末論」とがあります。
 どこがどう違うかと言いますと、「未来」とは「未だ(いま)来たらず」で、遠くにあって見えていないものなのです。これに対し、「将来」は「将(まさ)に来たらんとす」で、もう、すぐそこまで来ている、という意味での「将来的終末論」です。
 
 たしかに神の国、つまり神の支配は始まってはいますが、未完成であって、完成の途上にあり、完成に向かって進んでいる状態です。

でも、それは決して遠い未来ではなく、「将(まさ)に来たらんとす」る将来なのであって、そこに希望があるわけです。

キリスト信者とは、イエスを主と告白することによって神の子という立場、身分を与えられ、全能の父なる神、子なるキリストとの「同盟(アライアンス)」の関係に入れられた者のことなのです。

 地上の政治的、軍事的同盟関係は、自国の国益が優先ですから、いつ何時、破棄されるかわかりません。

大東亜(太平洋)戦争末期のソ連の侵攻、具体的には日本がソ連との間に結んでいた「日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)」の破棄がそのいい例といえます。

昭和二十年八月、ソ連は条約の一方的破棄を通告して、日本が支配している満州、朝鮮北部、南樺太、千島に侵攻してきて、多くの日本人住民を虐殺しました。そして、それがまさに国際政治なのです。今日の友がいつ敵になるかも知れません。 

しかし、イエス・キリストはいつまでも信じる者たちの友であり、永遠の救い主です。だからこそ、この主なるキリストを裏切ったり、悲しませたりしてはならないのです。

「再臨」への備え、それは主なるキリストとの同盟を「希望の同盟」として有り難く受け止め、この「同盟」を強化することであるともいえます。

すなわち、信仰的に目覚めて主を想い、教会生活を大事にすると共に、それぞれの日々の務め、それが仕事ならば仕事、学業ならば学業、家庭の形成ならば家庭の形成に、心を傾け身を入れて陰日向なく励むこと、それが将来に起きる「再臨」への健全な対応であり、備えだと思います。

「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをしてくださるであろう」(5章23、24節)。