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2015年4月19日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? 昇天したキリストは今、最高の主権者として「全能の神の右に座し」ている エペソ人への手紙1章20、21節

15年4月19日 日曜礼拝説教 

基本信条としての使徒信条?
 
昇天したキリストは今、最高の主権者として「全能の父なる神の右に座し」ている
 
エペソ人への手紙1章20、2節(新約聖書口語訳302p)
 
 
はじめに
 
 四月の半ばを過ぎて、今年も中国大陸から飛来する黄砂とpm2.5に不安を感じ、悩まされる時期になりました。
この時期は外出時のマスクの着用は欠かせません。とりわけ大陸に近いため、大気汚染の被害をもろに受ける九州地方では、気象予報の際には当日の天候と共に、黄砂とpm2.5の飛来状況を放送するのが常のことなのだそうです。
 
彼の国は今、「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」の設立に向けて余念がありませんが、アジアのインフラ云々の前に、資金とエネルギーを投入して優先的に取り組むことは、他国にまで甚大な被害をもたらしている同国の大気汚染の原因解明と、その抜本的解決ではないかと思います。
 
そういう意味では、国家主席として彼の国の最高権力の座に着いているお方には、今こそ、国民の健康と暮らしを守るために、強力な指導力を発揮してもらいたいものです。
その座にはそれだけの権限と、そして責任とが付与されているからです。
 
さて、先月末から先週まで、教会では、棕櫚の日曜日礼拝、復活祭礼拝、墓前礼拝・教会開設記念野外礼拝などが続きましたが、今週から「使徒信条」の連続説教を再開したいと思います。
 
三月二十二日の第十一回で、キリストの昇天の意味について教えられましたが、これからの三回は、昇天後のキリストの現在と、そして未来における働きについてご紹介したいと思います。
 
そこで今週は「死にて葬られ、陰府(よみに)くだり、三日目によみがえ」って、元の住まいである「天にのぼ」られたキリストが、その天においていかなる立場となり、またどのような務めを果たしておられるのかということについて、ご一緒に教えられたいと思います。
 
今週の説教タイトルは、「昇天したキリストは今、最高の主権者として『全能の父なる神の右に座し』ている」です。
 
 
1.昇天したキリストはついに、「全能の父なる神の右に座」するに至った
 
以前、ルー・ウォリスという米国の作家が書いた、「ベン・ハー」という、キリスト時代のパレスチナを舞台とした小説について触れたことがあります。
 
「ベン・ハー」とは、小説の中では「ハ一」というユダヤ人家族の息子という意味で、主人公の父親の名前はイタマール、主人公の名はユダです。
ユダヤの裕福な家に育った「ベン・ハー」つまりユダは、ユダヤ総督殺害を企図したという罪状で捕縛され、裁判を受けることもないまま、ローマ軍の軍艦であるガリー船の漕ぎ手として酷使される身分に落とされます。
 
ところがその三年後、ローマ軍とギリシャ人によって構成された海賊との戦いの際、海に投げ出されたアリウスという名のローマ司令官の命を、同じく海に投げ出されたベン・ハーが救出をしたという功績により、司令官の養子とされて、凱旋の行列に加えられることになります。
こうしてユダ・ベン・ハーは、囚人、奴隷という最低の立場から、ローマ帝国の有力者の息子という輝かしい身分へと、昇ることになったわけです。
 
ベン・ハーは自らの意図に反して理不尽な目に遭いますが、神の独り子なるイエス・キリストの場合、自らの意思で人となり、そして罪びとの仲間となってくださいました。
とりわけ、公生涯と言われる人生の最後の約三年間は、無理解と中傷の連続で、波乱万丈とでもいうべき出来ごとが続きました。
 
そしてその最後は囚人、しかも死刑囚として十字架に架けられ、死者の世界である「陰府(よみ)」にまで下られるのですが、それもまた、自らの意思による覚悟の選択であったのでした。
 
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守(こしゅ)すべき事とは思わず、かえっておのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ人への手紙2章6~8節 新約聖書口語訳309p)。
 
イエスがその道を選んだ動機は二つです。一つは父なる神の御心への絶対的な従順であり、そしてもう一つは、滅びに向かう私たちへの想像を超えた愛でした。
 
しかし、刑死したイエスの身に、大どんでん返しが起こります。死後三日目、神はイエスを死者の世界からよみがえらせ、更に天にまで昇らせて、栄光の座に就かせることとなったのでした。
 
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、」(エペソ人への手紙1章20節 302p)。
 
 「彼を…天上においてご自分の右に座せしめ」(20節)とあります。神の「右に」とありますが、古代においては「右」は、最高の栄誉、尊敬を意味しました。
ですから昇天したイエスが神の「右に坐せしめ」られたということは、イエスが神により、最高の栄誉を受ける立場、身分に挙げられたことを意味します。
これを専門用語では「高挙(こうきょ)」と言います。難しい言葉を使えば、イエスは人が及びもつかない「高御座(たかみくら)に挙げられた」ということになります。
 
それはまさに、誰もが驚くような大どんでん返しでした。我らの主、イエス・キリストは「死人の中からよみがえら(20節)」されて「天にのぼ」ったのみか、今、「天上において」(同)「全能の父なる神の右に座し」ておられるのです。
 
 
2.「神の右に座」すキリストには、世界の主権者としての立場が与えられた
 
 そこで問題です。「全能の父なる神の右に座」しているということは、具体的にはどういうことを意味するのかということですが、パウロは記します、キリストは神により、あらゆる権力の上に立つ、世界最高の主権者としての立場を与えられたのだと。
 
「彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである」(1章21節)。
 
 キリストは「すべての支配、権威、権力、権勢の上に」(21節前半)君臨する者とされたのでした。
 
 ここにある「支配、権威、権力、権勢」とは、当時一般に信じられていた天上界における天使たちの階級を意味したものだったそうです。
つまりこの言い回しは、キリストが父なる神を除いては、天上世界においてあらゆる霊的諸力の上に立つ、最高の立場に就いたということを意味することとなります。
 
 そしてもう一つ、キリストの御名は、「この世ばかりではなく、きたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれた」(21節後半)のでした。
 
キリストはまず、見える世界である「この世」(同)においても、最高の主権者です。
 そして「きたるべき世においても」(同)同様です。この「きたるべき世」とは、この世界の終わりの後に到来する新しい世界、神が支配する国を意味します。
 
 つまりキリストは今や、見える世界、見えない世界、そしてこの世だけでなく来たるべき世においても、最高の主権者という立場に就かれているのです。
 
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ人への手紙2章9~11節 309p)。
 
 キリストが昇天したとき、天においては戴冠式とでもいうべきセレモニーが行われたのでしょう。しかし、キリストに向かって「あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白」(11節)するという事態には、現実がまだ至っていないことは事実です。
 
 しかし、かつては私たちもまた、「キリストの十字架に敵対して歩いて」いました。その私たちがある日ある時、神の憐れみによって罪の赦しの福音を聞く機会、信じる機会を与えられて、神の前に額ずいて、「『イエス・キリストは主である』と告白」(同)する者とされたのです。
 そこに望みがあります。
 
 自らの家族がまず、「イエス・キリストは主である」(同)という告白に導かれるように願い、祈りましょう。
もしもかつて、「イエス・キリストは主である」という告白に導かれたことがあるのならば、その告白の中を生きることができるよう、祈りたいと思います。
 
 また、どこの教会にも言えることですが、教会を訪れてキリストを主として信じ受け入れながら、その後、さまざまの事情によって信仰が生育しないままキリストから離れてしまったという人は多数いるのです。
私たちはこのような方々が初めの愛に戻り、一層の信仰の火を燃やす者としてもう一度、主に仕えることができますよう、切に祈りたいと思うのです。
 
この地上では栄枯盛衰、高い地位を占め、強大な権勢を謳歌していた者も、時代の変遷に伴なって没落していくことがあります。
七百年前に書かれた、平家の栄枯盛衰の様を叙述した軍記である「平家物語」が伝える通りです。
 
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)を表す。驕れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。たけき者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ(「平家物語」巻 第一)。
 
 しかし、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座し」給う神の御子のキリストの栄光の地位と立場は永久に不変です。
 
しかも、この世において信仰を貫いた者にはまことに有り難いことに、きたるべき世においては、キリストと共に、栄光の座につくことができるとさえ、いうのです。
 
「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」(ヨハネの黙示録3章21節 390p)。
 
 「勝利を得る者」(21節)とあります。皆さまの中には、自分は自分の信仰を細々と持つのが精一杯で、しかもその歩みはよろめきがち、とても勝利者とは呼びがたいと思う方が、あるいはいるかも知れません。
しかし、「勝利を得る者」がどのような者を指すのかと言いますと、前の節の、戸の外に立つイエスを主として信じ、心の戸を開いて、自らの心と人生に受け入れた者のことなのです。
 
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまた、わたしと食を共にするであろう」(3章20節)。
 
心を低くして、イエス・キリストを自らの人生の主権者として受け入れた者こそ、真の勝利者、「勝利を得る者」(21節)と呼ばれます。
 
 
3.「神の右に座」しているキリストは日夜、罪びとたちのために祈り執り成している
 
では、身をもって人類救済という大事業を成功させたキリストは、褒賞として長期の休暇を与えられて、温泉にでも浸かって天でのんびりとしているのか、というと、そうではありません。キリストには休んでいる暇などはないのです。
 
では、キリストは「全能の父なる神の右に座し」て何をしているのでしょうか。
キリストは実は、この地上にあって艱難辛苦の中を懸命に信仰に励む者たちのために日夜を問わず、常に祈り執り成しをしてくれているのです。
 
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否(いな)、よみがえって、神の右に坐し、わたしたちのためにとりなしてくださるのである」(ローマ人への手紙8章34節 244p)。
 
 罪の根ともいうべき原罪は、十字架の贖いによって確かに処分されました。そういう意味ではキリストを信じる者は厳密に言えば「元罪びと」です。
 
しかし、原罪という罪の根は処分されたとはいえ、原罪が生み出した罪の性質までもが消えたわけではなく、また罪への誘惑が無くなったわけでもありません。
キリスト信者と雖も、肉のからだをもって地上を生きる限り、言葉、行動、振る舞い、さらには心中において罪を犯す可能性は常にあります。
 
おまけに、信仰を持ち、またイエス・キリストという完全無欠のお方を知ったがゆえに、信仰を持つ以前に比べると、罪意識というものが敏感になっており、その結果、自分を責める度合いが強くなってくるというケースもあります。
 
 「衣食足りて礼節を知る」という有名な故事は、先週の野外礼拝説教でも触れた「諸子百家(しょしひゃっか)」の一つ、「管子」の中の言葉です。
 
廩(そうりん)実(み)ちて即ち礼節を知り、衣食足りて即ち栄辱を知る(「管子」牧民)。
 
「倉廩(そうりん)」の「廩(りん)」は穀物などを蓄える倉庫のことです。つまり、暮らしが安定すれば余裕が生まれて礼節、つまりマナーやエチケット、礼儀というものを弁えるようになる、という意味です。
 
しかし、「管子」から二千数百年後のご子孫の中には、金回りがよくなって世界中を旅行できる経済力を持ちながら、衣食が足りても礼節を知らず、マナーに違反しても何ら恥じることのない振る舞いによって、行く先々で顰蹙を買っている人々がいます。
歴史の中で培われてきた民族性に加えて、受けた教育の結果、神を恐れるという感覚が育てられていないからでしょう。ある意味では本当に気の毒であるともいえます。
 
一方、かつては「神はその腹」「栄光はその恥じ」「思いは地上のこと」(ピリピ人への手紙3章19節)であった者が、神の存在を知り、そして神を恐れる生き方をするようになりますと、良心が敏感となり、その結果、罪意識、認罪感が増してくるようになるのですが、それは実は聖なる者へと化せられる段階にあるしるしなのです。
 
パウロは問います、「だれが、わたしたちを罪に定めるのか」(34節)。誰でもありません、私自身です。誰よりも自らのことを知っている自分自身が、自分を「罪に定める」、有罪宣告を下してしまうという傾向があるようです。
 
だからこそ、おのれを責め易い、良心の敏感な者たちのために、「死んで、否、よみがえって、神の右に座」(同)す「キリスト・イエス」が、「私は彼の罪をも既に償っております」と、父なる神に対して「わたしたちのためにとりなして下さ」(同)っているのです。
 
天にあってもキリストは、眠ることもなく、まどろむこともなく、その目を愛する者たちの心と暮らしに向けてくださっています。
心が折れそうになる時があります。しかし、そのような時にこそ、「全能の父なる神の右に坐し」て、日夜「わたしたちのためにとりなして下さる」(同)主イエスを、信仰をもって仰ぎ望みたいと思います。
 
先ほど、讃美担当者のリードによって久しぶりに歌った、「開いてください心の目を」という讃美に、感動を致しました。
「栄光の主を更によく知るため、心の目を開いて下さい」と、ご一緒に心を合わせて祈ることと致しましょう。