2015年4月12日 召天者記念合同墓前礼拝説教
よみがえりの希望、再会という希望
テサロニケ人への第一の手紙4章14,16,17節(新約口語訳322p)
はじめに
死とは、通常、死にゆく者にとっては、恐怖以外の何ものでもありません。一方、死にゆく者を送る者にとってそれは、筆舌に尽くし難い深い悲しみとなります。すべての望みを打ち砕き、人生を灰色に染める残酷な敵、それが死です。
しかし、キリストはその死に勝利して死者の世界から生還し、今、神の御座の右に座しておられます。そこに私たちの希望、しかも圧倒的な希望があります。
1.事実、キリストはよみがった
西暦三十年四月九日の日曜日の明け方のことでした。前々日の金曜日、日没と共に始まる安息日を目前にし、時間に追われて仮埋葬するしかなかったイエスの遺体に香油を塗って、本格的な埋葬をしようと墓を訪れた女性の弟子たちが見たものは、イエスの遺体のない空の墓であり、墓の中の中の輝く衣を着たふたりの者でした。
「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが(蓋の)石が墓(の入り口)からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当たらなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現われた」(ルカによる福音書24章1~4節)。
「輝いた衣を着たふたりの者」(2節)とは、神の御使いたちでした。その御使いたちは怖じ惑う女弟子たちに向かって、「イエスは墓にはいない」と告げたのでした。
「そのかたは、ここにはおられない」(ルカによる福音書24章6節a)。
原文では、「彼はいない、ここには」です。イエスはいなかったのです。
どこにいなかったかといいますと、「ここ」、つまり「墓には」ということです。
なぜ墓にいないのかといいますと、それはイエスが「よみがえられた」からだと御使いは言いました。
「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」(24章6節a、b)。
よみがえりとは生前の肉体がそのまま生き返ったという意味ではありません。イエスが墓の中にいなかったのは、イエスの体が天的な体、栄光の体へと変えられたため、地上の物体は妨げにはならなくなったからでした。
墓の入り口を塞いでいた蓋の「石がころがしてあ」(2節)ったのは何のためかといいますと、女性の弟子たちが中へと入るためでした。
人はみな、肉体を持つものであるため、地上では制約というものがあります。しかし、イエスのからだは栄光の体に化せられたため、密閉した墓であっても何の妨げもなく、外に出ることができたのでした。
よみがえりの体とはまた、不死のからだでもありました。「よみがえられた」(6節)イエス・キリストは物質だけでなく、時間の制約からも解き放たれて、不死のからだをもって永遠を生きる者となられたのです。
それが第一の希望です。
2.だから私たちもまた、よみがえる
イエスにおけるこの出来事は、私たちもまた将来、イエスと同じ、よみがえりの体をもって永遠を生きることができることを示唆します。
来週から再開する使徒信条の連続説教で詳しく解説を致しますが、昇天したイエスは再度、この地上に来られます。それを「再臨」といいます。英語では「セカンドカミング」です。
地上にキリストが再び来られる際、二つのことが起こります。
第一に、その時点で地上の旅路を終えて眠りについていた者が先ず最初に、イエスと同じよみがえりの体を着せられます。
使徒パウロが書いた書簡の中でも、最も早く書かれたとされるテサロニケ教会への手紙を読みましょう。
「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。…すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ者たちが、まず最初によみがえり、」(テサロニケ人への第一の手紙4章14、16節)
ここに「眠っている人々」(14節)とあります。パウロは死を婉曲に眠りと表現しました。しかし、死は永遠に目を覚まさない永眠ではなく、一時の眠りとして説明されます。
そして「イエスが死んで復活された」(同)と「同様に神はイエスにあって眠っている人々」(同)をその眠りから覚まして、新しい体を着せられるのです。それはキリストの再臨の際に実現します。
「その時、キリストにあって死んだ者たちが、まず最初によみがえ」(16節)るのです。それはあたかも朝、熟睡状態から目覚めるようなものなのです。
死は永眠ではありません。一時の眠りです。決して終わりではありません。
よみがえりのからだ、栄光のからだ、そして不死のからだは新築の家に喩えることができるでしょう。地上の体は築後何十年という古い家のようなものです。長年使用していれば時間の経過と共に、傷みも激しくなってきます。
しかし、いざとなったならば復活のからだという新しい家が用意されている、ならばもう少し手を入れ、修繕するなどして、古い家での生活を楽しんでみよう、地上の生をがんばってみよう、となるのです。
イエスのおかげで私たちもまた、いつの日にかよみがえることができるのです。そして、時が来るまではゆるされる限り、この世での使命を果たすこととなります。
これが第二の希望です。
3.そして再び会うことができる
キリストの地上への来臨の際には、もう一つのことが起こります。
先に亡くなっていた死者の復活に続いて、その時点で生きている者は、眠りから目覚めた人々と同様、その地上のからだは一瞬の内に栄光のからだ、不死のからだへと変えられます。
「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(4章17節)。
「彼ら」(17節)とは、先に眠りについた人々で、「最初によみがえ」(16節)ることになる人々のことです。
キリストの来臨の際、もしも「生き残ってい」(同)たならば、先に亡くなり、そして「最初によみがえ」(った)者と同様、よみがえりのからだを着せられるだけでなく、懐かしい「主に会い」(同)、そして別れた者たちとも、再会をすることができるのです。
仏教でいう「四苦」の一つが「会者定離(えしゃじょうり)」という苦しみです。「会うは別れのはじめ」ということです。
別れには生き別れもあれば、死に別れもありますが、特に耐え難い苦しみ、悲しみをもたらす別れが、死に別れです。
しかし、神にある者にとって、死は永遠の別れではありません。勿論、それは切なく、悲しく、つらいものではあります。けれども聖書は再会を約束します。
そしてそれが三つ目の希望です。
それは単なる希望などではなく、確かな希望です。なぜならば、イエス・キリストが死の世界からよみがえられたからであり、ご自身を信じる者に、ご自身を同じよみがえりを約束してくれているからです。
よみがえり、それは悲しみを紛らす一時しのぎの慰めや気休めの教えなどではなく、また荒唐無稽な空望みでもありません。
キリストの復活という確かな根拠に基づく、確固たる希望なのです。