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2015年4月5日 イースター・復活祭礼拝説教「生きとし生けるものに宛てられた、正真正銘の福音」テモテへの第二の手紙2章8節

15年4月5日 イースター・復活祭礼拝説教 

生きとし生ける者に宛てられた、正真正銘の福音
 
テモテへの第二の手紙2章8節(新約聖書口語訳334p)
 
 
はじめに
 
ネットの普及に伴い、徐々に衰退しているのが活字の新聞の購読とテレビの視聴率でしょう。
特に若者のテレビ離れが進行しているようです。朝の番組にしましても新聞の記事を並べただけであったり、夜は夜で同じ顔ぶれのお笑い芸人が、無理して笑いを取ろうとしたりと、テレビを見なくなるのも無理はないように思えます。
 
でもそういうテレビですが、視聴の仕方によっては教養を高めるのに適した番組も、有ることはあります。
中でも、必ず教養度が上がること請け合いというお薦め番組が、テレビ東京系列(大阪では「テレビ大阪」)で火曜日の夜に放映されている「開運!なんでも鑑定団」だと思います。
 
バラエティ番組の形式をとっていますが、なかなかどうして内容は充実しており、日本の卓越した美術、技能の歴史を学ばせてくれます。但し、笑いつつも、真面目にそして丁寧に毎回の視聴を続けていればの話ですが。
 
この番組で面白いのは、これぞ本物と意気込んで出品した自慢の珍品や、家宝として受け継がれてきた「お宝」が期待に反し、偽物と鑑定されて無情にも「千円」などという値段を付けられた時に見せる出場者のリアクションです。
 
しかし中には予想を遥かに超える本物の名品、極上のお宝が出てくる場合があります。実を言いますと勧める本人がこの番組をたまにしか見ませんので、残念なことに教養の程度は一向に深まらないのですが、昨年の春、この番組をたまたま視た際には、本当に驚かされました。
 
記憶によれば、その時の鑑定依頼人は埼玉県在住の小笠原礼法の先生で、依頼品は一休が書いたという「一休宗純の書」でした。この依頼人はアニメの「一休さん」のフアンで、若い頃に骨董屋で見つけた一休が書いたとされる書を、父親から借りた百八十万円で購入したのだそうです。
 
そして鑑定の結果が驚きの、購入価格の十数倍にもなる二千五百万円という高値で、依頼者自体、吃驚仰天しておりました。
鑑定したのは大学の学長を務める、鑑定暦四十一年という専門家で、「本物で間違いありません。私もこれまで、一休の書はガラス越しに見た事はあっても、このように間近で見た事はありません」と興奮気味に断定していました。
 
まさに「正真正銘」の「お宝」で、好事家には垂涎の的となるような一休直筆の書であったというわけです。
因みに「正真」とは本物という意味で、「正銘」はそれが本物であることを裏付ける印鑑のようなものです。
 
さて、本日は四月五日、キリストの復活を祝い感謝をするイースター・復活祭の日曜日です。
 
イエス・キリストが死の世界からよみがえったという信仰は、キリスト教会による根も葉もない作り話なのか、それとも否定しようのない真実の報道に基づくものなのかということは、忽(ゆるが)せに出来ない問題であって、誰もがいつの日か死を迎える私たちにとりましても、避けて通ることのできない大問題です。
 
そこで今年のイースター礼拝では、キリストの復活こそが正真正銘の福音の中心核であるということの意味を、ご一緒に確かめたいと思います。
 
 
1.死人のうちからのよみがえりによってキリストであることが証明されたイエスの出来ごとこそ、正真正銘の福音
 
「永遠のベストセラー」と称される聖書は、日本聖書協会によりますと世界各国で毎年三千万部は頒布されているということです。ということは十年で三億部ということになるわけです。
 
では、聖書とは何なのかという理解―これを「聖書観」というのですが―は、大きく三つに分けられます。
 
一つ目は、「聖書は神の霊感によって書かれた、誤りのない神の言である」という見方です。保守的立場です。
二つ目は、「聖書は、旧約聖書は古代ヘブライ民族の、新約聖書は原始キリスト教会の宗教的文献、古典である」という立場で、三つ目が、「聖書は人間が書いた文献であるが、聖霊の働きによって神の言になる」という考え方です。
 
ざっくり言えば、一の保守派は「聖書は神の言である」とし、二のリベラル派は「聖書は人の言である」、三は「聖書は神の言になる」ということでしょう。
 
ついでに言えば三は、二の勢力の台頭を危惧して、一の立場に回帰しようとしつつ、回帰し切れなかったもの、という見方もあります。いうなればUターンを志してJターンで落ち着いたというわけです。
 
これらは、キリストの復活に関して言えば、一の立場は復活をそのままの事実として肯定し、二の立場はあり得ない事柄と否定する一方、体験を重視する三は、人によってそれぞれ異なる、ということになります。
 
しかし、正直なところ、客観的に見ても、キリストの復活を否定してはキリスト教自体、成立し得ないともいえると思います。それは既に二千年前、使徒のパウロが指摘した通りです。
 
「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
…もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(コリント人への第二の手紙15章14、17~19節 新約聖書口語訳274p)。
 
 どういうことかと申しますと、キリストのよみがえりは、ナザレ出身のイエスという人物が、救世主のキリストであることを認証することにほかならないからなのです。
 パウロが書いたとされているテモテへの手紙を見てみましょう。
 
「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(テモテへの第二の手紙2章8節 334p)。
 
 口語訳では「これがわたしの福音である」(8節)とありますが、原文を直訳しますと「私の福音によれば」となります。
それは、「私が信じている福音によれば」あるいは、「私が宣べ伝えている福音によれば」ということです。
 
ここで「福音」と訳された原語は「エウアンゲリオン」で、英語では「エヴァンジェル」です。
でも「福音」は一般的には「ゴスペル」として知られていて、その「ゴスペル」は「グッド・スペル(良い知らせ 良い話し)」から来ているのだそうです。
 
「福音」の中心の主人公は「イエス・キリスト」(8節)です。「イエス・キリスト」とは「キリストであるイエス」「イエスは救世主キリスト」という告白に他なりません。
 
イエスがキリストであるということは、イエスが「ダビデの子孫として生まれ」(同)たお方だからです。
ユダヤ人の伝承によれば、彼らを救うためにこの世に到来する救世主、すなわちキリストは、血統的には「ダビデの子孫として生まれ」なければなりませんでした。
 
 でも、自身を「ダビデの子孫」として、キリストであることを主張する者は、古代社会には雨後の筍のように次々と現われておりました。
そのため、偽物と本物との区別をどう鑑定するかが問われることとなります。
 
 そこで本物のキリストであるか否かを見分ける最終の鑑定規準が必要となりました。本物のキリストであるならば、人類が負う原罪が処分されたしるしとして、その死後、神によって死の世界からよみがえる筈です。
 
そして家系図においても「ダビデの子孫から生まれ」(8節)たとされるイエスは、確かに「死人のうちからよみがえった」(同)という事実によって、本物のキリストであることが、神によって証明されたのでした。
このキリストの身に起きた、あるいはキリストが行った一連の出来事こそが、正真正銘の福音なのです。
 
 今の世の中、種々さまざまの情報が飛び交っています。有益なものもある反面、毒にも薬にもならないもの、有害なものもあります。
 そういう中で、真の意味において人に永遠の命をもたらす本物の福音、正真正銘の福音かどうかを見分ける規準、それが、信仰の対象が「死人のうちからよみがえった」(8節)かどうかということです。
 
 ナザレのイエスは事実、「死人のうちからよみがえった」ことにより、その身に起こった出来事すべてが、私たちに対する神からの「福音」、しかも正真正銘の「福音」であることが明らかとなったのでした。
 
 この「福音」は生きとし生ける者すべてに宛てられた良きおとずれです。
出来る限り早く、出来るだけ多くの人がこの「福音」に耳を傾けることができますよう、願い、そして祈りたいと思います。
 
 
2.キリストであるイエスを生涯にわたって忘れず思い続けることこそ、正真正銘の福音を生きること
 
正真正銘の「福音」は、ただ単にそれを聞くだけでなく、理解し、そして信じ受け入れることが大切ですが、最も重要なことは、「福音」を生きることです。
 
「福音」を生きるとはどのようなことかといいますと、イエスを想い続けること、キリストであるイエスを生涯にわたって忘れることなく思い続け、順境の時であろうと逆境に泣くときであろうと、常に記憶にとどめ続けることであると言えます。
 
「イエス・キリストをいつも思っていなさい」(2章8節)。
 
 この言葉は原文では冒頭に来ています。英語にしますと「リメンバー ジーザス クライスト(忘れるな、イエス・キリストを)」です。
「リメンバー」といえば、年配者が思い出すのが「リメンバー・パールハーバー(真珠湾(攻撃)を忘れるな)」という言葉でしょう。
確かにこれは日本という敵国に対する敵愾心を煽り、愛国心を鼓舞するために米国政府が考え出したプロパガンダ(宣伝文句)でした。
 
しかし、日本統治時代を経て、米国の日本観は大きく変わりました。その証拠がハワイにある「真珠湾記念館(アリゾナ記念館)」だそうです。
 
青山繁晴独立総合研究所社長によりますと、「この記念館には予想に反し、日本を非難する表現は一切なくて、米国がやられたのは当時の日本の海軍力が最先端にあって、米国よりも上だったからであり、軍艦ではなく航空機こそが重要であることを日本の攻撃から教えられた。米国はその反省に基づいて体制を立て直して今日がある、という、極めて公正な展示になっている」のだそうです(2014年6月 関西テレビ水曜アンカーより)。
 
 「リメンバー(忘れるな)」はどこかの国のように、自国に都合のよいように歴史を改竄しておいて、独り善がりの復讐の牙を研ぐのではなく、雄々しく、前に向かって、かつての敵と共に生きるための「リメンバー」であるというのが米国の姿勢です。
 
 況してや、私たちの場合、忘れてはならないもの、いつも記憶し、思い続けるもの、それは私たちのために死んで、否、生き返って、神の右に坐すキリスト、救世主となってくださった主イエスです。
 
 渡辺善太(ぜんだ)という、日本が生んだすごい聖書学者がおりました。
この人は名説教家としても知られていて、月に一度のペースで担当していた日曜礼拝説教が、そのまま説教集になって出版される程の人でしたが、この人の説教集に、江戸時代の花魁(おいらん)が客に書いたという手紙の一節が引用されていたことを思い出します。
 
それは「忘れねばこそ 思い出さずそうろう」というものでした。
「私はあなたのことを思い出したことはありません。なぜならば、私はあなたのことを片時も忘れたことがないからです」という意味です。「忘れたことがないのだから、当然、思い出すこともない」というわけです。
 
私たちのキリストとなるために恥をも厭わず十字架を忍び、罪びととして神も希望も無い死の世界、陰府にまで一度はくだられ、そしてその死者の世界から神によってよみがえらされた主イエスを想い続けること、しかも生涯にわたって思い続けることが、福音を生きるということなのです。
 
 
3.キリストであるイエスの出来ごとが福音であるからこそ、それは生きとし生ける者に正しく伝えられねばならない
 
ところで、「福音(エウアンゲリオン)」には「福音」という訳の他に「福音宣教」という訳も可能だそうです。
 
 パウロがマケドニアの教会に宛てて書いた手紙には、マケドニアの諸教会がパウロに協力して、福音の宣教に参加してくれたことを評価する言葉があります。
 
「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」(ピリピ人への手紙1章5節 新改訳)。
 
 新改訳が「福音を広めることににあずかって来た」(5節 口語訳)と訳した箇所の「エウアンゲリオン」を、口語訳は「福音」とした結果、この文節を「福音にあずかっていること」と訳しました。
 
しかしパウロが感謝したことは、マケドニアの信徒たちが福音を聞いた「最初の日から今日まで」(同)、単に福音の恩恵に与かっているということだけでなく、何よりも「福音を広めることにあずかって来たこと」(同 新改訳)、つまり福音の宣教に、祈りと献金によって参加、協力してきてくれたことだったのです。
口語訳も間違いではありませんが、パウロの意を汲んだという意味において、新改訳の方がよりよい訳になっていると思います。
 
 でも、「福音を広める」(同 新改訳)ために、誰もが出家をして伝道師、牧師になることが求められているわけではありません。
 もう一度、聖書のテキストをお読みします。
 
「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(2章8節)。
 
 「キリストを、いつも思」(8節)うということが福音宣教の原動力なのです。それは亡くなった人を追憶するというようなレベルのことではありません。
亡くなった方々を追慕、追悼するということはとても大切なことです。ですから私たちの教会でも毎年、教会の納骨堂の前で召天者合同記念礼拝を行っています。
 
しかし、イエス・キリストを思うということは、イエスを追憶することではありません。イエスを「死人のうちからよみがえった」お方として、今も生きている救い主として思い続けるということなのです。
 
この「死人のうちからよみがえった」(同)とは、過去のある時期に「よみがえっ」て、その後、現在に至るまでずっとその「よみがえっ」た状態を維持していることを示します。
その「イエス・キリストをいつも思って」(同)いることが福音宣教の動機、モチベーションとなるのです。
 
遠藤周作というローマン・カソリックの、実に魅力的な作家がおりました。「沈黙」や「死海のほとり」「イエスの生涯」など、キリスト教信仰や聖書などを題材にして、生きること、信じることの意味を問う文学作品を多く世に送り出しました。
長生きしていれば、ノーベル文学賞候補として毎年名前があがる、何とかという通俗小説の作家よりも、よっぽど早く受賞できたことでしょう。
 
ただ残念なことに、この人が学んだ聖書論が、聖書批評学を基盤としたリベラルな、「聖書は人の言である」だったのです。そのため、キリストの復活そのものを信じることができず、弟子たちの復活体験を心情的な観点から、合理的に?解釈して説明したりしました。
 
驚くべきことには、イエスは(自分を見捨てた)弟子たちに、怒りの言葉一つさえ口にしませんでした。彼らの上に神の怒りの下ることを求めもしなかった。罰を求めるどころか、弟子たちの救いを神に願いました。
…少なくとも、弟子たちは自分の今日までの人生の中で、そのような人を見たことはありませんでした。
…そして彼らは、イエスが(死んだ後も)まだ、自分たちのそばにいるがごとき感じがした。子どもにとって、失った母が、その死後も、いつも横にいる気持ちと同じような心理になったわけです。それが、イエスの復活のはじまりだったのです(遠藤周作著「私のイエス 日本人のための聖書入門」155、158p 祥伝社 1976年)。
 
 しかし、私たちが「いつも思って」(8節)いるようにと奨めを受けた「イエス・キリスト」は過去の偉人などではありません。また、追憶の対象でもありません。私たちと共に今を確かに生きている復活のキリストなのです。
 
 遠藤周作は今から十九年前に亡くなりましたが(享年七十四)、生前、雑誌か新聞のインタヴューでキリストの復活に触れ、「今は事実として信じることができないが、いつの日にかキリストの復活を事実として信じる日が来るかもしれない」と語っていたような記憶があります。それを確かめる術(すべ)がないのは、まことに残念ですが。
 
イエス・キリストを、とりわけ、イエス・キリストが死の世界からよみがえって今も生きており、しかも共にいて下さることを常に思い続けることが、「福音を広める」働きの力の源泉です。
それが源泉だからこそ、著者は勧めるのです、どんな状況下であっても、この命の福音を宣べ伝えなさい、と。
 
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(4章2節前半 新共同訳)。
 
 この福音こそが、生きとし生ける者に宛てられた、正真正銘の神からの福音だからです。