2015年3月29日 棕櫚の日・受難週礼拝説教
キリストが払った完全無欠の犠牲によって、人類のすべての負債は完済された
ヘブル人への手紙10章18節(新約聖書口語訳p)
はじめに
先週の火曜日(三月二十四日)、スペインのバルセロナからドイツのデュッセルドルフに向けて飛び立った、ドイツの航空会社、ルフトハンザドイツ航空の子会社で、LCC(格安航空会社)のジャーマンウイングス機が運航するエアバスが、フランス南東部のアルプス山中に墜落したという衝撃的な事故が起きました。
事故後の報道によりますと、事故の原因は副操縦士が機長をコックピットから締め出した上で、一四九名の乗客、乗員を道連れに、意図的に急降下し、墜落をしたということなのだそうです。
もしも報道の通りであるとするならば、これは事故というよりも「事件」ということになるのですが、航空機事故といえば思い出すのが三十年前の夏に起きた日航機123便の墜落事故です。
伊丹空港に向けて羽田を飛び立った日航機123便が、群馬県の御巣鷹山山中に墜落をした結果、死者五二〇名、生存者僅か四名という大惨事となりました。
私の場合、当時、月に一回くらいの割合で東京に出かけていたのですが、その際の乗り物は専ら、日航機か全日空機でした。
でもこの日航機の事故以来、少々時間がかかったとしても安全が第一と考え、空はやめて地上の新幹線を利用するようになりました。
新幹線は今でこそまことに快適となりましたが、当時は揺れがひどくて、車内で書き物をするのに難儀しました。しかし、命あっての物だねです。
諸般の事情でどうしても空を利用しなければならないという場合は、日航機を避けて全日空機を使ったものでした。
今回のドイツ機事故、というよりも事件の場合、最初、専門家も墜落原因が皆目見当がつかないということで、急降下したのは上空で機体に穴が空いたとしか考えられない、という推測がなされたりもしました。
昔に比べると航空機の機体自体も整備の面も、とにかく、格段の進歩を遂げており、操縦者の訓練、管理も万全で、特に二〇〇一年の米国における9・11テ同時多発テロ以後、セキュリティーに関しては航空会社も国も神経を使うようになり、その結果、コックピットは中から解錠しない限り、外からは絶対に入ることができないように改善されていたそうです。
しかし、どうやら今回の事件ではこのセキュリティ対策が、結果として裏目に出てしまったということのようでした。
完璧と思われるような対策を立てても、人間の営みには完全無欠なものはないのだということを、改めて思い知らされる事故(事件)でした。
亡くなった方々とその遺族とを、神が顧みてくださいますように。
完全無欠といえば、救世主、イエス・キリストによる贖いのわざこそ、完全無欠の人類救済措置でした。
今日は教会暦では「棕櫚の日曜日」です。この日イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城致しました。
エルサレム城内にいた群衆、特に過越の祭に参加するために外地から上って来た巡礼たちは、棕櫚の枝を打ち振り、歓呼の声を張り上げてイエスを救世主キリストとして迎えるのですが、その五日後、彼らの「ホサナ(主よ、救い給え)」は罵声へと変わったのでした。
移ろいやすいもの、それが人の心でした。
しかしイエスは、人のさもしい思惑や打算、すべての穢れや一切の悪を飲みこんで、自ら有罪となって十字架について下さったのでした。
イエスこそ、私個人の、そして私たち日本人を含む全人類の罪の贖いのための完全無欠の生け贄、犠牲であったのです。
イエスが払った完全無欠の犠牲によって、私たちのすべての負債は完全に払われたのでした。本日はそのことを再確認した上で、キリストの犠牲を想う聖餐式に与りたいと思います。
1.完全無欠のキリストの犠牲こそが、贖罪のわざの本体である
以前、「ローマ人への手紙」の中心が第八章であり、その八章の中でも、著者のパウロが最も強調したかったことは、第一節の言葉であるということを申し上げました。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ人への手紙8章1節 新約聖書口語訳242p)。
この箇所はギリシャ語原文では「ない」という動詞で始まります。何が「ない」のかといいますと、「罪に定められることがない」(1節)つまり、「有罪判決を受けることがない」ということです。
それはどのような者に当てはまるのかといいますと、「キリスト・イエスにある者」(同)つまり、キリストを自らの救い主として個人的に信じ受け入れた者ならば誰でも、ということでした。
一方、ユダヤ教からキリスト教へと改宗したユダヤ人(ユダヤ教徒)を主な対象に書かれた「ヘブル人への手紙」の場合、著者が最も言いたかったこと、それが十章十八節の記述でした。
「これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙10章18節 353p)。
著者は断言します、「罪を贖うために捧げる『ささげ物』(18節)つまり、供え物や犠牲は必要が無くなったのだ。なぜならば、有り余るほどの『ゆるし』(同)が出現したからである」と。
この「ゆるし」は誰によって、そしてどのようにしてもたらされたかといいますと、それはイエス・キリストによって、キリストの身代わりの死によってもたらされたのだと著者は言います。
「しかるに、キリストは多くの罪のために永遠のいけにえをささげた後、神の右に坐し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる」(10章12、13節)。
「多くの罪のため」(12節)とは現在もなお、神に敵対している者も含めての全人類を意味します。
また「永遠のいけにえ」(同)という記述は、神に奉献された「いけにえ」の効力が質において完全無欠であると共に、時間が来れば効力が無くなるような一時的なものではなく、無限に続くものであることを示します。
「彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全(まっと)うされたのである」(10章14節)。
完全無欠のキリストの犠牲の奉献こそが、罪の贖い、罪の償いという神の救いのわざの完成体なのです。
この尊いいけにえが捧げられ、そしてそれを神が嘉納した以上、「罪のためのささげ物は、もはやあり得」(18節 口語訳)ませんし、「もはや必要ではありません」(同 新共同訳)、「もはや無用」(同 新改訳)というわけなのです。
言葉を換えれば、一生かけても払い切れないような負債を、縁もゆかりもない人が、しかも、頼んでもいないのに全額を払ってくれていたようなものなのです。
有り難いことに人類の原罪という借財は、キリストの犠牲によって全額、完済されているのです。
大切なことはその事実を認めることです。すべてはそこから始まります。
2.神殿儀式が果たしてきた役割は、本体のコピーとしてのものであった
では、出エジプト以来、重要視されてきた「幕屋」、そして「神殿」とは何か、そこにおける儀式は何であったのかということですが、それは天にある本物の神殿、そして神殿儀式のコピー、影、模型であったというのが、ヘブル人への手紙の著者の主張でした。
「彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、『山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい』と言われたのである」(8章5節)。
「彼ら」(5節)とは前節に出てくる「供え物をささげる祭司たち」(4節)のことです。「モーセが建てようとした幕屋」(同)は、彼がシナイの「山で示された型」(5節)のとおりに造られました。この「山で示された型」が幕屋や神殿の原型でした。地上の幕屋や神殿は、原型である「天にある聖所のひな型」(5節)あるいは「影」(同)として設けられたのでした。
「ひな型」を新改訳は「写し」と訳しましたが、要するに「コピー」です。
モーセの「幕屋」の機能をそっくり引き継いだものが、紀元前十世紀半ばに、ソロモン王によって建立された神殿でした。
いうなればエルサレム神殿は天にある本物の神殿のコピー、影、模型であり、その神殿における儀式は、後の時代に天にある本体の神殿で捧げられる本物の贖罪の予行演習のようなものであったのです。
「このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらよりも更にすぐれたいけにえできよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである」(9章23、24節)。
どんなに壮麗な神殿であろうと、またどんなに荘厳な儀式であろうとも、それ自体は不完全なものですので、地上における神殿儀式はたびたび行わなければなりませんでしたし、また、繰り返し行ったからといって、礼拝者の罪が清められるわけでもなく、良心の咎めがなくなるわけでもありませんでした。
そこにコピー、影、模型としての神殿の限界がありました。
だからこそ「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所(であるエルサレム神殿)にはいらないで、上なる天(の神殿)にはい」(24節)って、自らの血による永遠のあがないをなし遂げてくださったのでした。
しかも、キリストによる「いけにえ」(10章12節)は「一つのささげ物」(14節)であって、繰り返し捧げられるものではありません。それはただ「一つ」(同)であり、一度限りのものでした。
「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、…」(9章28節)。
この「一度」(28節)かぎりのキリストの完全無欠の犠牲によって、人類の罪、正確に言えば、もろもろの罪の根である原罪は完全に「きよめられ」ているのです。
「この御旨に基づきただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」(10章10節)。
但し、聖書によれば、それはあくまでもキリストを信じる者にのみ、適用されます。それは偏狭ではないかという不平もあるかも知れません。
でも、万人に与えられている罪の「ゆるし」(18節)、「きよめ」(10節)も、それを信じなければ適用されることはありません。
私はそそっかしいところがあって、過去、少なくとも三度、新幹線の切符を車内で紛失してしまい、車掌による検札の段階でそれに気がつき、あわてたことがありました。
そういう場合、切符が出て来ない限りは通常、再購入をしなければならないそうですが、終点の駅で駅員さんにわけを話したところ、三度とも料金を払わずに済みました。なぜか分かりません。多分、嘘を吐いてはいないと思われたからでしょう。
地上のシステムではこのように、係り員の裁量によって大目に見られるというケースがあります。しかし、神の国ではそういうわけにはいきません。
たしかにキリストの贖いは万人のためのものです。でも、悔い改めてこの贖いを個人的に信じ受け入れない限り、贖いの適用外となります。そこに例外はありません。大目にみてもらえることもないのです。
本物のコピーである「ひな型」(8章5節)、「影」(同)としての地上の神殿、そして神殿儀式はその使命を果たし、その役割を終えました。
キリストの到来により、その一連の尊い犠牲によって「永遠のあがない」が完成したからです。
3.無限の恩恵に与かった者は、謝恩と悔い改めの日々を生きる
払い切れないほどの莫大な借財を、キリストによる完全無欠の犠牲によって清算してもらったとするならば、その人の次に出る行動、態度はどのようなものかといいますと、恩人に対する感謝の気持ちをもって謝恩の日々を送ることであり、恩人の気持ちの現われである戒めを、喜びをもって守ることに尽きると思われます。
「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか」(13章14、15節)。
キリストは私のように神を冒涜して生きてきた恩知らずの者の「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」(10章12節)てくださいました。
ですから罪赦された「わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ」(15節)を神にささげるのです。
「さんびのいけにえ」(同)と言いましても歌を歌い、音楽を奏でていればよい、という意味ではありません。音楽としての讃美は、それが神への感謝を動機として歌われ奏でられるならば、それもまた一つの「さんびのいけにえ」です。
しかし、著者が言う「さんびのいけにえ」とは、「彼の御名をたたえるくちびるの実」(同)つまり、イエスこそ私の主である、という信仰の告白、礼拝そのものを意味するのです。
それは教会では勿論のこと、家庭においても告白をし、導かれればノンクリスチャンの間においても主イエスが自分にしてくれたことを証しする、それが礼拝としての「さんびのいけにえ」であり、告白としてのイエスの「御名をたたえるくちびるの実」なのです。
宇田川さんがソロで歌ってくれるゴスペルに「崇める心(The heart of worship)」という讃美がありますが、「音楽や目に見えるものを超え 本当の礼拝をささげます 神は私のささげる歌声より その中にある私の心を見られる 神を崇める心 この手に誇るもの 何もなく 人生のすべては神のもの」という日本語歌詞は、「さんびのいけにえ」(15節)とは何かということを端的に表現しています。
そして求められているもう一つの「いけにえ」が、神の戒めを守ることです。
「そして、善を行うことと施しをすることを忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる」(13章16節)。
口語訳で「施しをすること」(16節)と訳された言葉は、自分が持っている「持ち物を人に分けること」(新改訳)という意味です。
世の中には「オレのものはオレのもの、人のものもオレのもの」という生き方を常として、世界中から顰蹙を買っている無神論国家がありますが、私たちの「持ち物」は本来、命や体、才能や時間も含めて、すべては生ける神から授かったもの、あるいは預かっているものです。
そのような認識のもとに、必要があればそれらを「人に分ける」という「いけにえ」(16節)を捧げることが、信じる者には勧められているのです。
もちろん、それは強制ではありません。そうしないではいられない気持ちになればしたらよいのです。
口語訳は十三章十六節を「善を行うことと施しをすること」と訳しましたが、これは「善を行うこと、すなわち施しをすること(持ち物を分けること)」として、後者の言葉が前者を説明するものとして訳すこともできます。
もしもそうであるならば、神への奉仕、神への奉げ物をも含めて、自分自身を、そして自分自身のものを喜んで与えること、捧げることもまた、神に「喜ばれる」(同)一つの「いけにえ」であるということになります。
ただ、その際に留意しなければならなのは、律法主義的善行主義の罠に陥らないようにする、ということです。
以前ご紹介しましたが、宗教改革者のマルティン・ルターは、宗教改革のきっかけとなったローマ教会への質問状、いわゆる「九十五カ条の提題」の冒頭で、キリスト者の生涯は悔い改めの連続である、と言い切りました。
一、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」(マタイ四・一七)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである(マルティン・ルター著 緒方純雄訳「贖宥の効力を明らかにするための討論 一五一七年」ルター著作集第一集 73p 聖文舎)。
回心後のルターが一貫して主張してきたことは、人が神に義とされる、つまり無罪と認められるのは、行いによるのではなく信仰による、というものでした。そしてその際に重要なことは、「悔い改め」るということでした。
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」(使徒行伝3章19節)。
「悔い改め」とは単なる反省ではなく、人生の方向を転換するということです。たとえば、ある人が東京に行こうとして、新大阪駅から「上り」ののぞみ号に乗った(と思った)、ところがそれは「下り」の博多行きだったということに気がついた、どうするか。その人は気が付き次第、次の駅で直ちに降りて、「上り」に乗り換える筈です。
そのように、「悔い改め」とは人生の方向転換のことなのです。
そしてキリスト者とは人生のある時期において、この一大方向転換を経験した者をいいます。このような意味での人生の方向転換は通常、一回限りのことです。
では、ルターが言う、「信ずる者の全生涯が悔い改めである」とはどういうことなのでしょうか。
繰り返しますが、人生の方向転換は過去に起こった特別な経験です。その結果、現在はよみがえられた主イエスと苦楽を共にする人生を生きているのです。
ルターによれば、イエスご自分が「信ずる者」に対して欲していることとは、「全生涯が悔い改めであること」だということですが、それはどんなに善事善行を行っていたとしても、決してそのことを誇ることなくまたカウントすることなく、むしろ、その行為を忘れて、ただただ、自らが罪赦された元罪びとであるという自覚、認識を持ち、悔いし砕けた心をもって十字架の主を仰ぐということではないかと思うのです。
「ヘブル人への手紙」はユダヤ教出身のユダヤ人キリスト者に宛てられた書簡ですが、彼らの一部に、長年にわたって親しんできた神殿儀式への回帰という思いが起こってきたことも、本書執筆の一つの理由であったようです。
「また、約束して下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互いに努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることをしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(10章23~25節)。
「集会をやめることをしないで互いに励まし」(25節)とは、「最近、忙しさに紛れてついつい集会を休みがちだけれど、お互いがんばって集会出席に励みましょう」などというようなことではありません。
この場合の「集会」(同)とはキリストの教会のことです。ですから「集会をやめる」(同)ということはキリスト教会を脱会して、つまりイエス・キリストへの信仰を否定して、出て来たユダヤ教の会堂に戻ることを意味しました。
だからこそ著者は強調したのです。「原罪という罪、そして個々の罪の赦しは、キリストの犠牲だけで十分なのだ、キリストといういけにえこそ、完全無欠のいけにえなのだ、これ以上のいけにえはもはや必要がないのだ」と。
謝恩と悔い改めの日々の連続こそが、価無くして罪赦され、原罪という莫大な負債をキリストに清算してもらった者たちに相応しい生き方であるといえます。