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2015年3月8日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? 十字架の死に続く埋葬と陰府への降下に、想像を超えたイエスの深い愛を見る マタイによる福音書27章51~61節

15年3月8日 日曜礼拝説教 

 基本信条としての使徒信条? 

十字架の死に続く埋葬と陰府への降下に、
想像を超えた主イエスの深い愛を見る
 
マタイによる福音書27章51~61節(新約聖書口語訳49p)
 
 
はじめに
 
先週三月七日の木曜日、韓国ソウルで衝撃的な事件が起こりました。
ソウルに置かれている米国大使館の、道路を挟んだ真向かいの文化会館で行われた講演会会場において、講演に臨もうとしていた駐韓米国大使が、刃渡り25?のナイフを持った暴漢に襲われて、右ほほに長さ11?、深さ3?もの創傷を負ったという事件で、大使が負った傷は八十針も縫う程の大怪我であったとのことです。
 
容疑者の男はその場で逮捕された際に、「きょうテロをした」「戦争訓練に反対する。30年間戦争に反対してきた。南北(朝鮮)は統一しなければならない」と叫んでいたそうです(朝鮮日報)。
「戦争訓練」というのは、北朝鮮対策として実施中の韓米軍事演習を指すものでしょう。
容疑者が「戦争に反対」するのは結構ですが、一歩誤れば殺人となったかもしれない暴力行為に走りながら、「戦争に反対」もないものです。
 
この御仁は五年前にも講演中の日本大使に向かい、ステージに上がって至近距離からコンクリートのかけらを投げつけるなどの暴力行為を働いて、かけらをぶつけられた通訳の女性職員が怪我をしたとのことです。
結果、容疑者は有罪判決を受けはしましたが執行猶予が付いたため、その後も反日、反米の活動を滞りなく元気で続けていたようです。
 
この事件なども、先週三月一日の礼拝説教の「はじめに」で触れた、人間の内に巣食う原罪の典型的な現われだと思われます。
 
「ヘイトスピーチ(人種差別発言)はやめろ」と叫びながら、「アベは死ね」と連呼するデモ隊もそうですが、「自己神化」という原罪、罪の根が結ぶ実は、「自分は正しい、反対者は悪だ」という一念に凝り固まっていますので、罪悪感を持つどころか使命感を持って、反対意見を持つものを敵として攻撃します。
 
おまけにこの容疑者の弟が事件の直後に、「(兄は)社会で認められないから過激な行動をする」と語ったそうですが(中央日報)、不当な怒りや自己顕示欲もまた、原罪が生み出す罪の実です。
 
なお、この事件が起こる少し前のこと、お隣りの国の政府にとっては耳を疑うようなニュースが、月末から月初めにかけて、同盟国でもある米国と日本から飛び込んできました。
 
米国では先月の末、米国務次官(女性)が講演で語ったという、「ナショナリスト(国家主義者)の感情は付け込まれ易いものなので、政治指導者が過去の敵を非難して安っぽい拍手を生けるのは簡単だ。しかし、こうした挑発は発展をもたらさず、停滞という状態を招く」との発言が報道されましたが、お隣はこれを、米国が日本の肩を持っているかのように受け取ったようです。
 
また、今月四日の水曜日に、日本の外務省のホームページにおけるお隣に関する記述が変更されたこともショックのようでした。
お隣についてのこれまでの、「我が国と、自由と民主主義、市場経済等の基本的価値観を共有する重要な隣国」という記述が、「我が国にとって最も重要な隣国」という素っ気ない紹介文になってしまったからです。
 
お隣はこれを、日本が同国とは、「自由と民主主義…等の基本的価値観を共有」していないという認識を持っていることを表明したと受け取ったようです。
 
外務省の真意はわかりませんが、日本がまだ占領状態にあった時に、まるで火事場泥棒のように「竹島」を強奪したり、独り善がりの歴史認識を認めるように執拗に迫ったり、おまけに昨年には、報道の自由を侵害しているとして内外の批判を受けながらも、政権や世論に阿(おもね)て日本の新聞社のソウル支局長を名誉棄損の罪で在宅起訴をし、しかもその出国を禁止する措置を一向に解除しないなど、到底、法治国家とは言えない状態が続いています。
そういう観点からは、外務省による今回の変更は当然といえば当然のことだろうと思えます。
 
こういう米国や日本の変化の兆しを受けて、そこで自らの姿勢を少しでも省みるならばまだ救いはあるのですが、憤激して、かえって被害者意識を強めるのなら、それこそが原罪に囚われていることの証左です。早くそのことに気がついて欲しいものです。
 
ところで、キリスト教といいましても、キリスト教には宗教としてのキリスト教と、福音としてのキリスト教の二種類があるといえます。
お隣のキリスト教人口は、全人口の三割になるそうです。しかし、余計なことかも知れないのですが、宗教としてのキリスト教ではなく、福音としてのキリスト教が同国に浸透することを、私たちは切に祈りたいと思うのです。
なぜならば、原罪意識のない状態での信仰は、本来のキリスト教信仰ではないからです。
 
キリストの救いは万人のためのものですが、救いは人が通常に持つ罪意識を超えて、自分自身の本性に巣食う原罪という罪の根を意識する者にもたらされます。
そういう意味では戦後の占領軍による、偏った教育プログラムの結果とはいえ、自虐的になるほどに罪悪感を持ってきた、あるいは持たされてきた日本人の場合、意外にキリストの救いに近いといえるのかも知れません。
 
そこで「使徒信条」の九回目は、この原罪という枷(かせ)から人類を解放するための道程において、墓への埋葬と、そして陰府(よみ)への降下に示された主イエスの尊い決断、そして動機としての想像を絶するような深い愛について教えられたいと思います。
 
 
1.イエスの死と同時に、天の神殿の幕が裂けた
 
陸上競技に三段跳びという種目がありますが、イエス・キリストの出来事を「ホップ・ステップ・ジャンプ」の三段跳びに当て嵌めることが出来るかと思います。
 
三段跳びでは助走の成功、とりわけ踏切における成功が不可欠です。助走の段階で違反があれば、その時点で失格となってしまいます。
そして、この助走にあたるものが、イエスの生涯、とりわけ罪なき生涯です。
 
踏み切ったあとの、一段目のホップにあたるものが総督ピラトによる受難とりわけ、十字架の死です。
ホップに続く二段目がステップです。このステップにあたるものがイエスの墓への埋葬、そして死者の住まいとされた陰府(よみ)への降下であって、三段目のジャンプが陰府すなわち、死者の世界からの復活、ということになります。
 
西暦三十年四月七日金曜日の午後三時ごろ、死が十字架上のイエスに訪れました。そしてその直後、エルサレムにはいくつかの異常現象が見られたと、マタイによる福音書は記します。
 
そのうちの最大の異象は、エルサレム神殿の奥深くにある分厚い幕が、上から下まで真っ二つに裂けた、というものでした。
 
「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイによる福音書27章51節前半 新約聖書口語訳49p。)
 
 この「幕」(51節)はエルサレム神殿の東側の入り口から入った「聖所」と呼ばれる拝殿と、その奥の「至聖所(しせいじょ)」と呼ばれる本殿の間にかかっていました。
 
もともと、ソロモンが建てた第一神殿には、奥の本殿に契約の箱が置かれていて、中には十戒が刻まれた二枚の石の板と、モーセが羊飼いの時から使用していた杖が入れられておりました。
 
そして年にいっぺん、大祭司がこの「幕」の向こうの本殿に入り、贖罪所、つまり契約の箱を蓋う蓋の上に、携えてきた犠牲の血を注いで民と自身の罪のための贖いの儀式を行ったのでした。
 
「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない」(ヘブル人への手紙9章7節前半 351p)。
 
 福音書には、拝殿と本殿とを隔てている「幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(51節)とあります。
 
これが実際の出来事を記述したものかどうかということですが、これがもしも実際に起こったことであるならば、神殿祭儀を根幹とするユダヤ教そのものにとっては屋台骨を揺るがすような大打撃となった筈です。
また一方、キリスト教会の側としても、異端者として有罪とされ、ローマ帝国により国家反逆の廉で刑死をしたイエスが、正真正銘のメシヤ・キリストであったことの証明になることですから、その五十日後のペンテコステの日の、聖霊降臨時の騒動の際には当然、ペテロが弁明の中で触れる筈の出来ごととなります。
しかし使徒行伝にはこのことについて使徒たちが言及をしたという記録はありません。
 
またユダヤ人歴史家のヨセフスが書いた「ユダヤ古代史」にも「ユダヤ戦記」にも、それを臭わすかのような記述もありません。
ヨセフスは紀元三十七年にエルサレムの祭司の家に生まれた人でした。祭司は当番制で神殿で祭儀を担当します。もしも「幕」が裂けたという出来事が実際に起こっていたならば、祭司の息子であったヨセフスが知らない筈がなく、その著作の中で触れないわけがありません。
 
 ということは何を意味するかといいますと、「神殿の幕が…裂けた」(同)という福音書の記述は実際の出来事を書いたというよりも、イエスの十字架の死の結果、贖罪つまり罪の贖いが実現して、人と神との間を隔ててきた霊的、宗教的意味での見えない「幕」が、上から下へと、つまり父なる神ご自身の手によって引き裂かれたということを、あたかも実際に分厚い「幕」が裂かれたかのように表現したのだと思われます。
 
 かつて、一党支配が長く続いた日本政界において、野党が躍進した選挙結果を、「山が動いた」と表現した女性政治家がおりました。
別に物体としての、自然の山そのものが動いたわけではありません。それは政治的な地殻変動を劇的に形容した、文学的、修辞的表現でした。
 
イエスの死後も宗教施設としてのエルサレム神殿の「幕」に変化はなかった、しかし、イエスの死の直後、父なる神はイエスの死を人類のための尊い、そして効果的な犠牲として嘉納した、その結果、天の見えない「神殿の幕は」(同)父なる神自身によって「上から下まで真っ二つに裂」(同)かれたのだということを、劇的に表現したものが福音書の記述となったのだと思われます。
 
 ユダヤ教においてはイエスの死後も神殿祭儀は続きました。
イエスを死に追いやった大祭司はその後も年に一度、犠牲の動物の血を携えて、分厚い「幕」の奥へと入っていって、罪の贖いの儀式を続けたのですが、十字架刑から四十年が経った紀元七十年、オリブ山におけるイエスの預言のように、エルサレム神殿はエルサレムに侵攻してきたローマ軍によって破壊され、本殿と拝殿を隔てていた「幕」もその際に焼け落ちてしまいました。
 
いうなればこのとき、地上の神殿はその使命を果たし終えたのだといえます。
しかし、父なる神と御子とが計画した「永遠のあがない」は、キリストなるイエスの死によって「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19章30節 新共同訳)のでした。
ヘブル人への手紙の著者が指摘した通りです。
 
「しかし、キリストがすでに現われた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全(まっと)うされたのである」(ヘブル人への手紙9章11~12節)。
 
 イエスの尊い死により、天の神殿の「幕」は父なる神を通して、完全に裂かれたのでした。
 
 
2.イエスの埋葬は、イエスが罪びとと同じ人間であったことを証しするものであった
 
ホップの次はステップです。イエスの墓への埋葬と、埋葬に続く陰府への降下が、ホップの次のステップです。
 
使徒信条第二条はまず、主は「死んで葬られ」と告白します。
 
イエスが亡くなったのは金曜日の午後三時ごろです。古代では一日は日没で始まり、次の日の日没で終わりました。
土曜日は安息日ですので、埋葬はできません。安息日の労働は律法によって禁じられていたからです。でも遺体を刑場に放置していれば、鳥に食い荒らされることになりかねません。そして日没までには僅かな時間しか残されていませんでした。
 
この時、ペテロたち、男の弟子たちは後難を恐れて姿をくらましておりました。そして現場にいたのは社会的には無力な、しかもエルサレムには何の伝手もない、ガリラヤ出身の女性の弟子たちだけでした。
 
「また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた」(27章55、56節)。
 
 その、途方に暮れている女弟子たちの前に現われたのが、最高法院サンヒドリンの有力議員であったヨセフでした。
 
ヨセフは総督ピラトのもとに赴いて、処刑されたイエスの遺体の引き取り方を願い出て、ピラトの許可を得たばかりか、彼が自身のために準備していた墓に、イエスの遺体を納めてくれたのでした。
 
「夕方になってから、アリマタヤの金持ちで、ヨセフという名の人がいた。彼もまたイエスの弟子であった。この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引き取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った」(27章57~60節)。
 
 この「アリマタヤ」(57節)出身の「金持ち」の「ヨセフ」(同)につきましては、2013年1月13日の、マルコによる福音書連続講解説教「旗幟(きし)を鮮明にするということ―アリマタヤのヨセフに倣(なら)う」で詳しくお語りしております。このヨセフこそ、真の勇者です。ぜひ、読み返してみてください。
余談ですが聖書にはヨセフという名の、真の意味での勇者が三人出てきます。ヤコブの息子のヨセフ、マリヤの夫のヨセフ、そしてアリマタヤのヨセフです。
 
人が死んだら埋葬されるのは当然のことなのに、何でわざわざ、「死んで葬られ」と告白しているのかと言いますと、それは「仮現論」という異端説から教会を守るためであったといわれております。
 
「キリスト仮現論」につきましては二月八日の第五回目でお話しましたが、これはキリストの神性を強調する一方で、キリストの人性自体を否定する異端説でした。
 
仮現論者は、「キリストが人の姿に見えたのは幻影や仮象であって、人の目にはそのように見えたのに過ぎない、なぜならば、不死である神が、悪でしかない物質としての肉体、死ぬべき体をとるわけがない」と考えていたからでした。
このギリシャ思想に影響された霊肉二元論の異端説は、パウロの時代に始まり、特に二世紀から三世紀にかけて、古代のキリスト教会に一定の影響力を及ぼしておりました。
 
正統教会としましては正しい信仰を守るためにも、何としてもこの異説を退けなければなりません。
そこで、キリストの遺体は一度は確かに、墓に埋葬されたという事実を確認することによって、仮現論に対する論駁としたのです。イエスの体が仮象であるならば、墓への埋葬は有り得ないからです。
 
 イエスは罪を別にして、私たちと同じ生身の肉体を持つ存在として生き、そして肉体の死という苦しみを経験したお方でした。
「使徒信条」におけるイエスの埋葬に関する告白は、イエスが私たちと同じ人間であったことを確認させるためでもありました。
 
 主が死に続いて墓に「葬られ」たということは、教会の大事な伝承として伝え続けられました。
 
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、…キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、…」(コリント人への第一の手紙15章3、4節前半 274p)。
 
 尊い神の独り子は、私たちと同じ人間として「死んで葬られ」たのです。
 
 
3.葬られたイエスは、救いを完成するために死者の世界である陰府にまで降下した
 
 ホップの次のステップは、墓への埋葬と陰府への降下によって成り立ちます。
 
「使徒信条」はイエスは死んで、そして一度は確かに死者の世界に降(くだ)ったという事実を、「(主は)死にて葬られ、よみにくだり」と告白します。
 
当時、墓は死者の世界である陰府(よみ 黄泉とも書きます)への入り口であると考えられておりました。
そういうわけで、墓への埋葬と死者の世界への降下はワンセットです。そこで信条は、主は「死にて葬られ、陰府にくだり」と告白しているのです。
 
 では「陰府」とは何なのか、ということですが、古代を生きた人々の世界観は「三層世界観」と呼ばれるものでした。
すなわち、神とその御使い住むとされた「天上」、生きている人間が日常を暮らす「地上」、そして死んだ死者の誰もが行く「地下」の三層で、この「地下」は「陰府」と呼ばれておりました。
 
「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ…」(ピリピ人への手紙2章10節 310p)。
 
そして古代のヘブル人は、「陰府」は義人も悪人も一様に行くところと理解していたようです。創世記には、ヨセフが死んだと思い込まされたヤコブの嘆きの言葉が記録されています。
 
「子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められることを拒んで言った、『いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう』。こうして父は彼のために泣いた」(創世記37章35節 旧約聖書口語訳53p)。
 
但し、この「三層世界観」はイエスの時代にはペルシャの宗教の影響もあってか変化が生じていて、死者の世界である「陰府(黄泉)」つまり「ハデス」は二つに分けられるようになり、義人の魂は「アブラハムのふところ」と言われるところに行き、罪びとの魂が「陰府」に行くとされていたようです。
 
その例がイエスが語った「貧しいラザロと金持ち」の譬えです。
 
「この貧乏人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた」(ルカによる福音書16章22、23節 117p)。
 
 これはイエス時代のユダヤ人が持っていた死者の世界に関する考えでした。この場合、「陰府(ハデス)」は実質的には「地獄(ゲヘナ)」と同じ意味となっていたようです。
 
ただ、注意しなければならないのは、これはあくまでも当時のユダヤ人の考え方でしかなかったということです。
当時、民間に広く流布していて、誰もが知っていた、「貧しい律法学者と金持ちの取税人」の話しをイエスが少し加工をして話した譬え話が「ラザロと金持ち」の話しでした。ですから、この譬え話しから教理を引き出すことは、聖書解釈学上、禁物です。
 
イエスはこの譬え話しを貪欲への戒めとして語ったついでに、生前の生き方が死後の運命を決める、そして運命の変更は死後では間に合わないということを教えようとされたのでしょう。
 
 イエスが当時の世界観である「三層世界」の下の世界、死者が行く「陰府」にまで降ったことは確かな事実です。
ペテロは聖霊降臨時における説教において、詩篇十六篇十節をキリストの復活の論拠として引用しています。
 
「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう」(使徒行伝2章27節 182p)。
 
 なお、口語訳聖書では「よみ」を、旧約では「陰府」、新約では「黄泉」で表記します。意味は一緒です。ただ、なぜ異なる表記となったのかはよくわかりません。
 
 ユダヤ社会における民間伝承がどうであれ、正統的ユダヤ教神学において死者の世界である「陰府」は、生ける神から切り離された望みのない世界でした。
そしてイエスはそのような世界へと、意識を持ったまま降下されたのだということに注目したいと思います。
そこは神なき世界、希望なき世界であったのです。
 
 以前、ある人が、「十字架の死は苦しいかも知れない。しかし、三日後に復活することがわかっているならば、耐えられるのではないか」と口走ったのを聞いたことがあります。
 
確かにイエスは死後三日目によみがえられました。また死に際しては、三日目によみがえるということを信じていた筈ですし、弟子たちにも予告しておりました。
 
「この時から、イエス・キリストは、自分は必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることを、弟子たちに示しはじめられた」(16章21節)。
 
しかし、誰もが行ったことのない未知の世界、経験したことのない世界、しかも神のいない、希望もない世界です。
もしも十字架の死が身代わりとしての要件を満たしていないことになったらどうなるかと言いますと、イエスは罪びととして永遠に、死者の世界にとどまったままとなるのです。
 
こうなりますと推測でしかありませんが、イエスがゲッセマネの園で身もだえするかのようにして、苦悶の祈りを捧げた訳がわかるような気がします。
 
「こうしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(26章37~39節)。
 
一連の贖いのわざが万が一成功しなかった場合、イエスはどうなるかといいますと、陰府において、意識を持ったまま死者の世界で、神から切り離された状態に永遠に置かれることになるのです。
それを考えればこの時、すさまじいばかりの恐怖、想像を絶するような恐れが、人でもあるイエスの内にあったのではないかと思うのです。
 
だからこそ、イエスの覚悟と、イエスが払ってくださった犠牲には、重みがあるのです。
イエスは人類が負っている原罪という