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2015年2月22日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? 「罪なきキリストが『十字架につけられ』たのは、神との和解を実現するためであった(上)キリストの忍耐」マタイによる福音書27章18、26~44節

15年2月22日 日曜礼拝説教 

 基本信条としての使徒信条?
 
「罪なきキリストが『十字架につけられ』たのは、
 神と和解を実現するためであった(上)
 ーキリストの忍耐」
 
マタイ福音書27章18、26~44節(新約聖書口語訳48p)
 
 
はじめに
 
以前もお話しましたが、当市にも「男女共同参画社会」というものを推進する活動があって、何年か前に、標語の募集に応募した妻の作品が入賞したのですが、その際、私が「『男は男らしく、女は女らしく』はどうだ』と妻に言ったところ、「それはダメでしょう」と、直ちに却下されてしまいました(笑い)。
 
かと言いましても、別に私は「男尊女卑」主義者というわけでもないのです。
 
私どもが所属する団体の教職者制度は、正教師と補教師の二本立てなのですが、礼典、つまり洗礼式や聖餐式を執行する権限、また結婚式や葬儀といった儀式を執行する権限は、按手礼を受けた正教師のみが持つとされています。
その正教師試験を受験するには最低四年の補教師経験が必要なのですが、過去には、女性教職が正教師試験を受験しない、つまり補教師のまま、という時代が長く続きました。
 
別に規則で受験が禁止されている訳ではないのですが、たとい受けたとしても合格はない、という雰囲気が団体上層部にあって、それで誰もが受験に二の足を踏んでいたのでした。
 
そこで、それは理不尽な差別ではないか、という思いから、教職者向けの「講壇」という論集に「教職制度」についての小論を寄稿した際、現状打開のために先ず、女性教職者が勇気を持って正教師試験にチャレンジすることが必要である、という、受験を促す文章を書いたのですが、何年か後、女性正教師第一号になった方から、「その文章に勇気づけられて受験をした」と打ち明けられたことがあります。
 
因みに、優秀賞に選ばれた妻の作品は、「支え合う 男女の視点 共に活き」でしたが、それはまったく同感です。
 
ところでよくスポーツ中継などでアナウンサーが、「雌雄を決する時が来ました」などという言い方をすることがあります。
 
「雌雄を決する」という慣用句は、司馬遷が著した「史記」の「項羽本紀(こううほんぎ)」に出て来る言葉ですが、要するに「優劣を決する」という意味です。
この場合、「雌雄」は「雌(メス)」と「雄(オス)」ですから、「雌=弱、劣、敗 雄=強、優、勝」を明らかにするということになってしまいます。
 
いつも不思議に思うのは、用語に神経を使うメディアが、そしていわゆる差別語に敏感なフェミニストの団体が、スポーツの試合中継などでアナウンサーがこの慣用句を頻繁に使うことを、なぜ問題にしないのか、「勝敗を決する」でいけ、となぜ要求しないのか、ということです。
 
ついでに言いますと、「雌伏三年」などの用語に使用されているものは「雌」ですし、「海外に雄飛する」などの場合には「雄」です。耐え忍んでいることを表す言葉はいつも何で「雌」であって、たくましく飛び出す時にはなぜ「雄」なのでしょう。
 
また、女性が「男らしい」「男気がある」「男前」「雄々しい」などと評される場合、それは「毅然としている」「たくましい」など、多分に誉め言葉として、肯定的な評価の意味で使われますが、逆に「女らしい」と言われて嬉しがる男性はまずいません。況してや「女々しい」などと言われた日にはがっくりくることでしょう。
 
もっとも、日本語も変化をしています。「女々しい」はともかくとして、「女らしい」と言われた男性が肯定的に評価されたと言って、喜ぶような時代がいつか来るかも知れません。
 
しかし、少なくとも今の時点では、「女々しい」が否定的な意味を持つのに対し、その対義語である「雄々しい」は性差を超えて、強さそのものを表す意味で使われていることは事実です。
何しろ、わたしたちの教会でも今月の歌として選ばれて、二月の日曜礼拝ごとに歌われているのが「強くあれ雄々しくあれ」という讃美で、作詞作曲も吉井裕美香という女性すから。
 
それはともかく、先週から「使徒信条」の第二条、「イエス・キリストの業績」についての告白に入りましたが、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」の後の「十字架につけられ」の条項は急遽、二回に分けて取り上げることにしたいと思います。内容と意味の重さから、とても一回では済まなくなってしまったからです。
 
そこで、今週は、「十字架につけられ」たイエスこそ、人の目に映る見た目とは真逆の、真の意味において「男らしく」「雄々しく」振る舞い続けた「我らの主」であったということを、福音書の記述を通して読み取りたいと思うのです。
 
 
1.   十字架の道行きにおいても、主は辱めを忍び抜いた
 
 マタイによる福音書によりますと、取り調べの結果では、容疑者であるイエスからは、ローマ法に違反する容疑を認めることが総督ピラトにはできなかったようです。
 
むしろピラトは、四年間にわたるユダヤ統治の実務経験から、ユダヤ当局の魂胆を見抜いていたものと思われます。
 
「彼ら(ユダヤ当局)がイエスを(ピラトに)引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである」(マタイによる福音書27章18節 新約聖書口語訳47p)。
 
 しかし、ユダヤ当局はピラトの弱みを衝いて脅迫をしたもようです。
 
官僚にとっての最重要の事柄は、委ねられた職務をうまく執行していることを任命者に証明することでした。
そして、ユダヤ統治を任されたポンテオ・ピラトの場合も、ローマ皇帝の名誉のために、またローマ帝国の栄光を保つために、行政官として任地のユダヤを問題なく統治していることでした。
 
しかし、ピラトは総督就任以来、任地のユダヤやサマリヤで、住民との間にしばしば軋轢を起こし、それがローマへの反感や反発を招いていたと、史料にあります(フラウィウス・ヨセフス著「ユダヤ古代誌」及び「ユダヤ戦記」)。
 
もしもそのようなマイナスの情報がユダヤ当局からローマに告げ口されたとするなら、ピラトは統治能力が欠如した失格者とみなされ、そして次にその身に待っているのは更迭、失脚という運命です。
 
そのためピラトは、自己保身を優先させて大祭司と妥協をし、大祭司たちユダヤ当局の訴えが、宗教的な「ねたみのためであることが」(18節)わかりつつも、イエスを十字架にかけるよう、総督としての命令を下したのでした。
 
「そこで、ピラトは(テロの容疑者として収監されている)バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(27章26節)。
 
 もっとも、ピラトはこの六年後、任を解かれ、本国に召喚されてしまいます。西暦三十六年のことです。ピラトの解任についてローマ史家の塩野七生は、「ローマ人への物語」の中で、「イエス・キリストをめぐって起こったユダヤ社会の混乱」が「ピラトの悪政の結果の一つ」に数えられたという可能性があることを示唆しています。
 
(ピラトの解任と本国召喚は)ユダヤ地方の長官としての職務の遂行が、ローマの行政長官としての告訴に値する判断されたからである。イエス・キリストをめぐって起ったユダヤ人社会の混乱も、ピラトの悪政の結果の一つとされたのかも知れない。(ローマ皇帝)ティベリウスは、他の民族が何を信じようがそれは認めた。ただし、社会不安の源になるのだけは許さなかったのである(塩野七生著「ローマ人の物語? 悪名高き皇帝たち 180p 新潮社)。
 
 さて、ピラトの裁判から、いわゆる「十字架の道行き」が始まります。
 
中世になってから、ローマ教会には「ピラトの法廷」から「イエスの埋葬」までを十四のステーションに分け、これを「十字架の道行き」としてキリストの受難を想い、各場面、場面でキリストを瞑想するという信仰が発達しました。
 
最初のステーションでは、イエスは十字架刑を宣告され、ローマ兵により、鞭を打たれます(26節)。
 
この鞭打ちで使用された鞭は、金属の輪がはめられた数本の革紐を、棒の先端に結び付けたものであって、これで打たれると囚人の皮膚はもとより肉までも裂けるという無残な刑罰道具であったそうで、時には鞭で打たれていた囚人が、鞭打ちの途中で死亡してしまう、という事態もあったくらい、苛酷なものであったそうです。
 
 そしてこのあと、鞭を打たれてあたかも瀕死の状態然となったイエスへの侮辱行為が、ローマ兵らによって執拗に続きます。
 
「それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、『ユダヤ人の王、ばんざい』と言った。また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した」(27章27~31節)。
 
 ローマ兵たちはこの時、彼らが侮辱の対象としていた囚人が、「王の王、主の主」であるということを知りませんでした。
彼らが持っていた知識は、この囚人が偉大なるローマ帝国に背いて「ユダヤ人の王」を自称し、実質、国家への反逆の廉で有罪宣告を受け、たった今、総督様から十字架刑の判決を下されたばかりの罪人、囚人であるということでした。
 
そこで、ならば王様らしくしてやろうと、王服にみたてた、紫色にも見える「赤い外套を着せ」(28節)、王がかぶる冠の代わりに「いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ」(29節)、王が手にする杓の代わりに「葦の棒を持たせ」(同)、そしてその前に跪く真似をするなどして、散々、イエスをからかったのでした。
 
 前述の塩野七生によりますと、ローマ市民権を持つ男性市民には、「国家防衛は市民の義務」という理念のもと、兵役の義務があったそうですから、この「兵士たち」(27節)はみな、市民としての義務を果たすために兵士となった者たちで、それなりの教育を受け、一定の資産を持ったローマ市民なのだそうですが(塩野七生著「ローマから日本が見える」64、179p 集英社文庫)。
 
なお、ユダヤ人の王、ばんざい」(29節)と訳された「ばんざい」はこの場合、もちろん、皮肉、侮蔑の意味なのですが、ギリシャ語の同じ言葉である「カイレ」はこの三十六年前に、御使いガブリエルからキリストの母マリヤに祝いの挨拶として届けられたものでした。「おめでとう」と。
 
「御使いがマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』」(ルカによる福音書1章28節 83p)。
 
 「おめでとう、マリヤ」のラテン語訳が「アヴェ・マリア」であって、「アヴェ」にあたるギリシャ語が「カイレ」でした。恐らくは兵士たちもイエスに対して「アヴェ」と叫んだのでしょう。もちろん、バカにしてですが。
 
 第五ステージでは、ローマ兵たちはクレネ人シモンに無理矢理、イエスに代って十字架を背負わせます。この時点で既に、イエスの体力は限界に来ていたと思われます。
 
「彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた」(27章32節)。
 
 「十字架」(同)といいましても、死刑囚が担いだ「十字架」は横棒の方です。縦棒はすでに刑場に運ばれておりました。
 もちろん、横棒だけでも十分な重さですから、疲労困憊している所に、残虐な鞭打ち刑を受けたばかりのイエスが担ぐには、余りにも重すぎるものでした。
 
「イエスの十字架を無理に負わせ」(同)られた人物については、福音書には「クレネ人」(同)とあり、クレネが現在はリビア国がある北アフリカに位置するところから、過去のキリスト映画などでは黒人として描かれていました。
しかし彼はクレネに住みついたディアスポラ(離散)のユダヤ人の子孫であって、律法に従って過越の祭に参加するために遠路、エルサレムを訪れた巡礼であったと考えられています。
 
わが国でも江戸時代、大罪人の場合は馬に乗せられて市中を引き回され、その後、現在の品川にあった鈴ヶ森刑場か、南千住の小塚原(こずかっぱら)刑場で処刑されるということがありました。市中引き回しは見せしめのためです。
なお、八百屋お七は鈴ヶ森で火あぶりの刑に、鼠小僧次郎吉は小塚原刑場で打ち首獄門になったそうです。
 
イエスもまた、エルサレム市内をあたかも見世物のようにされながら、見せしめのために引き回されて、死が待つ死刑場へと歩み続けたのでした。
 
聖歌五八一番の三節は、まさに私たちの思いです。
 
打たれ、罵しられ、辱め受くる 人前にも往かん 愛する主の後を 
何処(いずく)までも往かん 何処までも往かん 
何処までも往かん 愛する主の後を
 
 
2.刑場において、イエスは耐え難い痛みを耐え忍んだ
 
刑場のゴルゴタに着いた時、兵士たちはイエスに、苦みをまぜたぶどう酒を飲ませようとしました。
 
「そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった」(27章33、34節)。
 
 「されこうべ」(33節)を意味する「ゴルゴタ」(同)はヘブライ語ですが、これがラテン語では「カルバリ」なのだそうです。そこで米国にも日本にも、教会名に「カルバリ」をつけた教会があります。「カルバリ」というと何となくオシャレな感じがしますが、なぜか「ゴルゴタ教会」は聞いたことがありません。
 
 十字架刑では当時の慣例で、釘づけの痛みを麻痺させる麻酔効果と、死への恐怖を和らげる効果のためとして、慈悲の観点から「にがみをまぜたぶどう酒」(34節)、つまり没薬(もつやく)を交ぜたぶどう酒を死刑囚に与えることになっていたそうです。
 
そして死刑囚は例外なく、これをがぶ飲みしたそうなのですが、イエスはこれを拒否しました。「飲もうとされなかった」(同)のです。なぜでしょうか。
それは私たちに代って、十字架の痛みをとことんその身に味わうためであり、そして人類の代表として、襲い来る死の恐怖と正面切って向き合うためであったと思われます。何とも有り難いことです。
 
十番目、十一番目のステーションでは、「兵士たち」はイエスの衣服を剥いでから、イエスを十字架に釘づけし、そしてその衣服をくじ引きで分けるなどしました。
 
「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこに座ってイエスの番をしていた」(27章36節)。
 
れっきとしたローマ市民であり、それなりの教養を積んだローマ兵士ではあっても、犯罪人として自分たちが侮辱を加え、そして「十字架につけ」(36節)たこの死刑囚が、彼ら兵士たちの誰もが「主(キュリオス)」として崇拝しているローマ皇帝でさえ、その前にひれ伏すことになる「王の王、主の主」であることを、彼らは知らなかったのでした。
 
この十字架の出来事から三五〇年後、彼らローマ兵たちの祖国、ローマ帝国の支配者、皇帝テオドシウスは、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」たこの囚人が「主の主」と崇められるキリスト教を、帝国の国教とするという勅令を発することとなります。西暦三八〇年のことです。
 
 福音書は「彼ら(ローマの兵士たち)はイエスを十字架につけ」(36節)たと記述します。
 
まず、死刑囚が担いできた十字架の横棒が、刑場に事前に用意されていた縦棒に固定されました。
そしてその上に衣服を剥がれた死刑囚が横たえられ、両の掌に太い釘が打ち込まれたのでした。
 
十字架の縦棒の下方には足を乗せるための台が設けられており、両足は私たちがよく絵などで見るような釘付けなどではなく、足台に足を乗せることができるよう、縄で縛られました。
また十字架の中ほどには尻を乗せるための小さな台が設けられて、そこである程度まで体重が支えられるようになっていたとのことです。
 
そして十字架が立てられました。通常、死刑囚はそのまま、息が絶えるまで十字架上に放置されました。
それは西暦三十年四月七日金曜日の、マルコによる福音書によれば、午前九時ごろのことでした。
 
「イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった」(マルコによる福音書15章25節 80p)。
 
 イエスは粗削りの十字架に、確かに釘づけられ、磔(はりつけ)の刑に処せられたのでした。
 
福音書の記述をここまで読んできて、聖歌四〇二番の一節がとりわけ、胸に迫ります。
 
丘に立てる粗削りの十字架にかかりて
救い主は人のために棄てませり命を
十字架にイェス君(きみ) 我を贖(あがな)い給う
十字架の悩みは 我が罪のためなり
 
 
3.十字架上で、イエスは耐え難い屈辱を忍び通した
 
 十字架の上部にはイエスの罪状を公告する「罪状書き」が掲げられました。
 
「そしてその頭の上の方に、『これはユダヤ人の王』と書いた罪状書きをかかげた」(27章37節)。
 
 この十字架刑はあくまでもローマ法に基ずいてのものであって、ローマ帝国が行っている処刑であることがこれにより、満天下に明らかにされました。
 
ローマ兵が十字架の下で「イエスの番をしていた」(36節)のは、イエスにシンパシーを持つ者や、弟子たちなどがイエスを奪いに来ることを防ぐガードとしてですが、師匠を捨てて逃げ去った弟子たちにはそのような覇気も度胸もありませんから、その心配はまったく無用でした。
 
そして、十字架に架けられたイエスに向かい、三つのグループが口々に罵りの言葉を浴びせました。
 
「そこを通りかかった者たちは、…言った、『神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい』」(27章39、40節)。
 
 「そこを通りかかった者たち」(39節)とは、イエスのエルサレム入城の際にはイエスに向かって棕櫚の枝をうち振り、また、「我らを救い給え」を意味する「ホサナ」と声の限りに叫びながら、幾日も経たないうちに祭司長たちに扇動されて、イエスを「十字架につけよ」と声を嗄らした巡礼たちだと思われます。
 
 そして、イエスを総督ピラトに訴え出た大祭司をはじめとするサンヒドリン当局者も、共にイエスを嘲弄したのでした。
 
「祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。…』」(27章41、42節)。
 
 そしてもう一組、冤罪のイエスとは違って、弁護の余地の全くない犯罪者までもがイエスに向かって罵り喚いたのです。
 
「一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった」(27章44節)。
 
 マタイの福音書では「強盗ども」(44節)と訳されておりますが、彼らはいうなればユダヤ教原理主義者、ユダヤ教過激派であって、ローマ帝国に対してテロを企てて逮捕されたテロリストたちでした。
 
 彼らの論点は一つでした。それはイエスが偽キリストであるという点でした。
「イエスよ、お前がメシヤ・キリストであるならば、自分自身を救える筈である、もしもメシヤであるならば十字架から降りてきて、それを証明してみよ。降りられないではないか。降りることができないのはなぜか、それはお前が本物のメシヤではないからだ、お前は偽キリストなのだ」
 
 先々週、「(主は)聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」たという告白でも確認しましたように、イエスが人となった時点でも、イエスは人であると同時に神でもありました。
 
 しかし、完全な意味での人であり続けるために、もう一つの性質である神性を、そして神性の属性である全知全能の力を行使することを、イエスは封印していたのです。
 
 ですから、イエスがその全能の力を行使し、あるいは人の目には見えないけれど、恐らくはゴルゴタの丘を取り巻いていたであろう千軍万馬の御使いに合図を送れば、直ちに十字架から降りることもでき、そしてイエスを嘲弄する者たちを罰することもできた筈でした。
 
 しかし、イエスは十字架から降りようとは致しませんでした。もしも十字架から降りてしまったならば、綿密に計画され、実施されつつある人類の救済という神の一大プロジェクトが、一瞬の内に水泡に帰してしまうことになるからでした。
 
 原罪とは何かということにつきましては、これまでに何度も確認してきました。
 神学的には自分を神の地位に置くという「自己神化」であるといえますが、具体的にはそれは、権力を行使して他者を従えたい、あるいは他者から尊敬されたい、崇められたい、称賛されたい、という欲望として表れもします。
 
とりわけ男性にはプライド、自尊心、誇り、面子(めんつ)というものがあり、それを満足させるものが権力です。掌握した権力を行使することによって人を従わせ、それによって自尊心の満足を得るというものです。
 
しかし、男性性を持つ人間であるにも関わらず、「自分を救え、そして十字架からおりてこい」(40節)という巧妙な誘惑を、そして悪質な挑発を受けても、イエスはそれを耐え忍ばれました。
イエスは私たちのために「雄々しく」、十字架の上に留まり続けてくださったのでした。そこにキリストの神へのまったき献身があり、わたしたちのための尊い自己犠牲があるのです。
 
そのキリストの十字架上の姿を描写したものが、ペテロが書いたとされる書簡の一節です。
 
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(ペテロの第一の手紙2章22、23節 368p
 
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