2014年(平成26年)12月28日最終日曜礼拝説教
「私たちが滅び失せなかったのは、神の恵みと憐れみが尽きることがなかったから」
哀歌3章22、23節(旧約聖書口語訳1145p)
はじめに
十二月二十五日が過ぎるとクリスマス商戦が終り、街はもう歳末商戦です。
ジングルベルに変わってベートーベンの第九のメロディが商店街に流れていますし、クリスマスイベントが終わればすぐに忘年会です。
日本人は宗教的節操がどうのこうのと目くじらを立てる生真面目な人もいますが、いい悪いは別にして、この変幻自在さこそが日本人の特徴でしょう。
ところでその忘年会や、「年忘れ何とか」と銘打った番組が目立つ年末ですが、そもそも「忘年会」とは何かと言いますと、どうもそれぞれが「年」つまり年齢という垣根を取っ払って親しく交流をしようという、いわゆる無礼講を意味したようです。
そしてまた「年忘れ」には、嫌なことが多くあったその年の記憶をきれいさっぱりと忘れて新しい年を迎える、という意味もあるようです。
確かに「忘れる」ということはとても大切なことです。嫌なことを覚えていると、それは心の中で発酵してしまい、ついには体調不良や健康障害にまで発展しかねませんし、また心が折れたりすると、折角訪れてきたチャンスを逃したりして、大事な将来を台無しにしかねません。
心の浄化、再生のためには「忘れる」ことが重要な場合もあります。
しかし、決して忘れてはならないものがあります。その一つはそもそも自分という人間は何者であったのかという正しい自己認識であり、そしてもう一つが、その自分に対して天の神が何をしてくれたのかという深い恩寵認識です。
そして、この二つの認識が維持されるとき、日々の暮らしの中で感情の浄化というものが体験され、その浄化された感情が良き習慣を生み出すこととなります。
そこで二〇一四年の最終日曜礼拝では、五年ぶりに旧約聖書の「哀歌」を取り上げることによって過ぎし一年を総括し、新しく迎える年に備えたいと思います。
1.自らの実態を知る
総選挙の結果を経て、第三次安倍政権が発足しましたが、「戦後レジームからの脱却」を掲げたのが第一次安倍政権でした。
「レジーム」とは「体制」のことですが、「戦後レジーム」とはまさに、「悪いのはすべて日本、戦争を仕掛けたのも日本、残虐なことをしたのも日本軍、そしてそんな悪い日本人と日本国をつくったのは日本の伝統と歴史が悪かったからだ」という自虐的認識のもとに形成された戦後の体制のことであって、これから脱却することにより、日本人が正しい歴史認識を持った上で、本来の誇りを取り戻そうとしたのが「戦後レジームからの脱却」という目標でした。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言います。これは明治維新の際に生まれた言葉です。
戦争は勝った者が正義であり、そのために戦争の評価は勝者側によって、勝者側に都合のよいように書き換えられるという傾向があります。
戦争の呼称もそうです。アジアに対する欧米列強の植民地支配打倒を一つの名目として名づけられた「大東亜戦争」という呼称は戦後、占領軍によって「太平洋戦争」に変更させられてしまいました。
その大東亜戦争のあともそうで、主権回復までの七年にわたる占領期間中、占領軍は徹底した言論統制と思想教育を日本社会に行い、これによって戦前の日本はすべて悪であって、良い所は少しもないという考えを日本人に植え付けました。
その際、占領軍におべっかを使ってその走狗になったのが朝日新聞であったという理解は、識者の間では常識となっています。このような新聞を子供のころから通算すると五十年にもわたって熟読してきたことを思うとまことに慙愧に堪えません。
さてイスラエルの歴史ですが、紀元前五八七年、南ユダ王国の首都、エルサレムはバビロン軍の猛攻撃を受けて堅固な城壁は破壊され、町は陥落し、そして壮麗を極めたソロモンの神殿も崩壊、炎上させられてしまった上、当時の支配者階層は遠いメソポタミアのバビロンへと強制連行されていきました。
このときの滅亡後のエルサレムの状態、そして住民の苦しむさま、悲しみの心情を詩のかたちで歌ったものが「哀歌」でした。
「哀歌」の一章、二章、四章、五章は二十二節から、そして三章のみ、その三倍の六十六節から成っています。
ところで二十二はヘブライ語のアルファベットの数ですので、そこにも文学的技巧がこらされていることがわかります。
大事なのは第三章の内容で、そこに記されている、「こうなったのは誰のせいでもなく、自分たちが招いたからだ」という自己認識は、そう思い込まされたのではなく、彼ら自身が分析をした末の結論でした。
「わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である」(哀歌3章1節 旧約聖書口語訳1144p)。
この「わたし」(1節)は個人ではなく、エルサレム自身を意味します。「彼」(同)は神です。そしてエルサレムは神の「怒りのむち」(同)によって「悩みにあった」(同)、すなわち滅亡したのでした。
悩みにも二つの種類があります。
一つは、自分自身には何の落ち度もないのに苦しみに遭ったという場合です。
このようなケースの場合、その理不尽さに心がわなないたとしても、良心の咎めはありませんから、平安はあります。
しかし、もう一つのケース、つまり、自分自身が原因で苦しみに遭ったという場合です。このような場合、痛みの中にあっても状況を恨むんのではなく、よって来る原因を探ることができる者は幸いです。
滅亡したエルサレムは近隣の異教徒の物笑いの種となりました。
「わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった」(3章14節)。
まさに「身から出た錆び」です。しかし、このような絶望的状況の中で、どこかの国のようにひたすら隣国を恨むようなことはせず、自らを悔いつつ、再起、再興の望みを抱いたのがエルサレムでした。
「しかし、わたしはこの事を心に思い起こす。それゆえ、わたしは望みを抱く」(3章21節)。
この哀歌をよく読みますと、民たちの意識が言論統制や思想教育によってつくり上げられたような人為的洗脳的自虐意識ではなく、心底からの罪意識、認罪意識であることがわかります。
エルサレムは神からの懲らしめの鞭を受けたという認識のもとに、正しい自己認識に至ったのでした。
2.尽きることのない神の恵みを知る
再起への二つ目の段階としての認識、それは神が依然として恵みと憐れみに満ちた神であることを知ることでした。
傷と痛みの中で、自分たちを攻める敵側についたのでは、と思っていた神が、約束の地に向かう民を、荒野において母親のように抱いた神と変わらない神であったという事実をエルサレムは知ることとなります。
それが三章二〇節です。
「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」(3章20節)。
口語訳はここを「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と訳しましたが、旧約学者の故左近 淑元東京神学大学学長は別の訳を提示します。
あなたは、必ず顧み、わたしの上に身を沈める(3章20節)
左近 淑著「低きにくだる神」98p ヨルダン社)。
神は、おのれの罪過の罰を受けてぼろぼろになっている神の民の上に、あたかも子をかばう母親のように「身を沈め」、覆いかぶさって共に嘆いて下さっているというイメージです。
それはまさに、福音書に描かれている救い主イエス・キリストの姿そのものです。
この、敵側に回ったと思われていた神がなおもすぐ近くにおられるという思い、そして罪のゆえに鞭打たれはしたけれど、まだ滅び切ってはいない、生かされているという実感が続く二十二節の告白です。
「主のいつくしは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(3章22節)。
この箇所は個人的には新改訳の方がよいように思えます。
「わたしたちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(3章22節 新改訳)。
味わい深いのが文語訳です。
「われらの尚(なお)ほろびざるはエホバの仁愛(いつくしみ)によりその憐憫(あわれみ)の尽きざるに因(よ)る」(3章22節 文語訳)。
ヘブライ語聖書の原文には母音記号がついていないために、神の名の正しい発音は時間の経過と共に消失をしてしまい、誤って「エホバ」と読むようになっておりました。
でも、その後の研究の結果、「エホバ」という読み方は間違いであって、正しくは「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」「ヤハウェ」と発音するのが正しいことがわかり、その結果、日本聖書協会が一九五五年に改訳発行した口語訳聖書では、「エホバ」とされていた神名は、「主」と訳されるようになりました。
しかし、文語訳に慣れ親しんでいた諸先輩方は、説教や祈りの中でこの聖句が文語訳で引用されて、「われらの尚ほろびざるは…」とくると、もうそれだけで感激して「エホバのいつくしみによりそのあわれみのつきざるによる」と小声で続けるのが常であったことを思い出します。
地獄に落とされても文句は言えない、そんな自分たちが不思議にも生きている、それは主の恵みがあるからだ、その尽きることのない憐れみのゆえである、それが二つ目の認識の段階です。
そしてこの認識が深まると同時に、一つ目の認識もまた深まるのです。その例がテモテへの手紙の著者の認識でした。
少し長いのですがご一緒に声を揃えてお読みしたいと思います。
「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかった時、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上。わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(テモテへの第一の手紙1章13~15節 新約口語327p)。
「…主の恵みが、…増し加わって」(14節)くると、認罪意識も高まってきてその結果、自分が単に罪人のひとりなどではなく「わたしは、…罪人のかしら」(15節)であるという認識に至るのです。
このように聖書の知識や神への信仰が深まるにつれて、自らの弱さや罪深さに関する自覚が増してくるという場合がありますが、それは実は健全なことなのです。
例えば、池の水をコップに掬い入れておきます。しばらくすると水はきれいになります。汚れが底に沈殿するからです。
そのコップに棒を入れて掻きまわします。水は一気に濁ります。なぜか。沈殿していた汚れが浮き上がるからです。
信仰の深まりと共に、それと同じ現象が人の中に起こるのです。でも心配は要りません。認罪感の高まりと共に、神の恵みの大きさを実感するようになるからです。そして、内に住む聖霊なる神は、少しずつ、内側を浄化し、キリストの似姿へと変えてくれるのです。
神の大いなる憐れみによって赦され生かされていることを知った者は、そして神を崇める暮らしに帰ります。エルサレムもそうでした。
「われわれは自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。我々は天にいます神に向かって、手と共に心をもあげよう」(3章42節)。
問題は帰る道ですが、帰り道は西暦三十年四月、神の独り子なるイエス・キリストにより、かつて灰燼に帰した同じエルサレムにおいて、確かに敷設されたのでした。
誰であっても心を低くする者はこの道を往き来して、神の赦しと恵み、いつくしみと憐れみを味わうことができるようになったのです。
3.朝ごとに新しく知る
では、この二つの認識はいつどこで味わうのかと言いますと、哀歌は続けます、「朝ごとに」と。
「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」(3章23節 口語訳)。
「それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」(同 新改訳)。
「それは朝ごとに新たになる」(同 新共同訳)。
「これは朝ごとに新(あらた)なり、なんじの誠実(まこと)は大いなるかな」(同 文語訳)。
「真実」(23節)な神の赦しと憐れみの認識、体験は「朝ごとに」(同)「新しく」されると「哀歌」の著者は言います。
もちろん、週ごとの礼拝も大切です。今年私どもの教会では五十二回の日曜礼拝が開かれました。礼拝は参列者と奉仕者とで成り立ちます。
奉仕者がいなければ礼拝は成り立ちませんし、参列者がいなければ準備された奉仕も生かされません。
と同時に、日曜礼拝は祈る人によっても支えられています。礼拝には参加できないけれど、日曜ごとの礼拝を想い、祈りで礼拝に参加している人たちもいて、それで礼拝が成り立ってきたのです。
一年を振り返り、心を燃やして日曜礼拝に参加した方々、奉仕者として誠実に奉仕された方々、そして祈りで参加もし、協力もしてくださった方々に、神の祝福と労いとがありますように。
しかしまた、日曜礼拝に加えて、日々の礼拝、個人礼拝が大切です。できれば新しい年は個人礼拝により、「朝ごとに新しく」(23節)神の赦しと恵み、慈しみと憐れみとを味わうことに努めてみてください。
朝、目が覚めたら「主の祈り」を祈る、ということから始めてもよいでしょう。
勿論、就寝前でもかまいません。しかし、一日を始めるにあたって、主なる神に挨拶をする、主を讃美する、聖書からその日のみ言葉を読む、家族、知人、主にあるファミリーのために執り成しの祈りを捧げる、一日のスケジュールを考えながら、主の助けと導きを求める、などの個人礼拝を通して、主の恵み、力、知恵を「朝ごとに新しく」(23節)味わう年であれば、より幸いです。
そしてそういう年は「忘年」どころか忘れ得ぬ年として記憶されることと思うのです。
そこで最後に哀歌三章二十二、二十三節を、新改訳で通しで読んで、ご一緒に祈ることにしたいと思います。
「わたしたちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」(3章22、23節 新改訳)。
来る新しい年もまた、主への「感謝の心」で迎えたいと思います。
一年間、拙い説教を聞いて下さり、また読んで下さった皆様方に、神の祝福が豊かにありますように。
ありがとうございました!