2014年11月30日 待降節第一主日礼拝説教
「運命的な出会い? 『世の罪を取り除く神の小羊』としてこの世に到来したナザレのイエスを、神のキリストとして証ししたバプテスマのヨハネー『彼は栄え、私は衰える』」
ヨハネによる福音書1章6~9、19~34節、3章27~30節(新約聖書口語訳135p)
はじめに
「クリスマスって何の日?」と聞いたなら、幼い子供でも「キリストの誕生日だよ」と答える筈ですし、「では、クリスマスっていつ?」と聞いたら「十二月二十五日」と答えることと思います。
それくらい、イエス・キリストが現在の暦でいう十二月の二十五日に誕生したということは常識とされているのですが、それが果たして正確な日であるのかといいますと、はっきりとはしないのです。聖書に明確な記録があるわけではありません。
紀元(西暦)三一三年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世は「ミラノ勅令」という勅令を発布して、帝国においてそれまで非公認であったキリスト教を、国家として公認の宗教としたということは、誰もが世界史で習っている有名な出来ごとです。
これによって教会は多大の恩恵を受けることができたのですが、その一つが、それまでに受けてきた国家的規模での迫害を免れることとなったことでした。
このこともあって、キリスト教はローマ帝国内にあって世界的宗教として発展していくのですが、キリストの誕生日に関して、教会には統一した見解はありませんでした。しかし、肝心要のキリストの誕生日がまちまちであると、混乱を引き起こしかねません。
そこでローマ教会は長い議論を経て、西暦三五〇年頃までには、キリストの誕生日は十二月二十五日とすることになったようです。
その際、最も影響を与えたものが、ローマ帝国内において盛んであったミトラ教という太陽崇拝の密儀宗教でした。
当時、太陽神であるミトラまたはミトラスの誕生を祝う祭、つまり冬至祭がローマ社会に広く浸透しておりました。冬至祭は昼が長くなり始める十二月二十五日に行われました。季節は冬至を境として昼が優勢となります。
そこで教会は、この祭を義の太陽であるキリストの生誕祭とすることによってミトラ教の影響を一掃すると共に、ミトラ教に代わるキリスト教の教化拡大を図ろうとしたわけです。つまり一石二鳥を狙ったわけです。
この狙いは見事に成功し、それが三八〇年のテオドシウス一世によるキリスト教の国教化、そして三九二年の異教信仰の禁止政策に繋がったのでした。
「なあんだ」と思う方もおありかと思います。でも、イエス・キリストが紀元前七年から五年の間にユダヤの地、現在のパレスチナに誕生したということは否定しようのない歴史的な事実です。
大事なことは何かと言いますと、それはイエス・キリストの生誕の意義であり、イエスは誰なのか、何のために生誕をしたのか、それは我々人類とどのように関係するのか、ということの方です。それこそが何よりも大切なことなのです。
教会の暦では十二月二十五日の前の四週間を、待降節としておりますが、今年、私どもの教会における待降節主日礼拝では、ヨハネによる福音書の一章、二章を通して、ナザレのイエスはキリストとして生まれたのだとこと、また、イエスがキリストとして生まれたのは「神の小羊」という生贄となるためであったこと、そして「神の小羊」の使命は「世の罪を取り除く」ことにあったのだ、ということを、ご一緒に確認することにしたいと思います。
そこで今週はまず、バプテスマのヨハネとイエスとの出会いを通して、ヨハネが天から授けられた使命、そしてキリストが神から受けた使命を通して、自らが光として世の称賛を浴びるのではなく、ただただ、真の光を証しするという一点に存在意義を見出すことの大切さについて、ヨハネの生き方を通して教えられたいと思います。
1.ヨハネの使命は「世の罪を取り除く神の小羊」として到来したナザレのイエスを、世界の光として紹介することにあった
昨年、二〇一三年の待降節第一主日と第二主日礼拝では、「ルカによる福音書」を通してヨハネの誕生についてお語りしました。
先祖代々祭司の職にあったザカリヤには一つの悩みごとがありました。それは妻エリサベツに子供ができない、ということでした。祭司職の継承に男の子の存在は不可欠でしたが、年月は無情にも過ぎ去り、ついに二人は子供が出来ない筈の年齢に達しました。
その彼ら夫婦に、永年の祈りの応答として、神からヨハネという名の子供を授けられたのです。イエスが誕生する六カ月前のことでした。
成人したヨハネは自らの使命を自覚し、ユダヤの荒野で説教活動を展開するようになりました。そして、その、昔日の預言者にも似たヨハネの雰囲気が、あたかもユダヤ民族が神の約束として待ちわびていた救世主、つまりキリストを思わせるものであったためか、民衆の中には彼をキリストの出現と見る思いや期待が高まっておりました。
そして、これを放置するわけにはいかないと考えたのがユダヤにおける宗教・行政の最高機関である最高法院サンヒドリンで、その結果、エルサレムから調査団が派遣されてリサーチとなりました。
彼らはヨハネに質問をします、「あなたは誰か、あなたはキリストなのか」と。しかし、ヨハネはそれを言下に否定します。
「さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、『あなたはどなたですか』と問わせたが、その時ヨハネがあかしはこうであった。すなわち、彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した」(ヨハネによる福音書1章19、20節 355p)。
彼は自分の役割を熟知していました。それがイザヤ書四〇章三節を引用しての答えでした。
「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声である』。」(1章23節)
彼は自らを「声」(23節)に過ぎない者と認識しておりました。その「声」が語るメッセージとは「主の道をまっすぐにせよ」(同)ということであって、「主の道をまっすぐに」する、とは、罪びとが聖なる神に繋がる道を整えるということでした。
つまり、人の心に澱(おり)のように溜まっている障害物を除去することによって、人が神と出会い易くするということであり、だからこそ彼は、悔い改めの「バプテスマ」を施していたわけです。「自分はキリストではなく、あくまでも「声」でしかない」というのがヨハネの自己理解でした。
ヨハネは雰囲気に呑み込まれて有頂天になる、ということはありませんでした。彼はおのれを知り、自分の役割を熟知していたのでした。
ヨハネによる福音書の記者はこのヨハネについて本書の冒頭で、彼は「光」そのものではなく、「光」を人々に紹介する紹介者であるとしています。
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをなし、彼によってすべての人が信じるためである。かれは光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」(1章6~8節)。
ヨハネが「光」(7節)ではなく、「光」の紹介者でしかないということをくどいまでに指摘しているのは、このヨハネがそれ程に影響力のある存在であったことを示すからでしょう。
そのヨハネにとり、真の「光」(7、8節)とは誰かと言いますと、それがガリラヤはナザレの出身のイエスであったのでした。
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』。」(1章29節)。
この証言は祭司の家に生まれ育ったヨハネの言葉であるがゆえに、極めて的を射たものとなりました。
ヨハネの使命はこの世の「光」として到来した救世主を具体的に、「世の罪を取り除く神の小羊」(29節)として理解をした上で、彼を世に向かって「あかし」(6節)し、紹介をすることにあったのでした。
その働きはヨハネ独自の、特別なことであると共に、後代の私たちへの範でもありました。
私たちの教団は月刊の機関誌を発行しているのですが、教職者たちが交代で執筆する一面の記事に、「伝道しよう、伝道しよう」と呼びかけるアピールが多いことがいつも気になっておりました。
対象が牧師さんたちであるならばよいのですが、この機関誌は専ら、一般の信徒さんを対象にしたものです。それなのに「伝道しよう、伝道しよう」では真面目な信徒さんほど、プレッシャーを感じることになるのでは、と危惧していたのですが、先日届いた、教団の伝道部が発行する機関紙に掲載されていたアピールは、少し違っていました。
(ステパノの殉教後、迫害を逃れて地方に離散した)逃亡者達の取った宣教方法は、説教のような発語による方法では無く、生活を通し、生き方を通して(福音を)明示する方法だったのです。
(中略)各種の伝道集会などで御言葉を直接的に示さねばならないことは当然のことです。しかし、それ以上に、自分が遣わされている地域で、自分の生き方そのものを通して福音を明示しなければならないと考えます(竹中通夫「直接宣教か間接宣教のいずれかに献身しよう」伝道ジャーナル1p 日本アッセンブリー教団伝道部)。
我が意を得たり、と思いました。この社会において、よい仕事をし、真摯に生きることが、そのままキリストを証しすることとなるのです。それが今の時代において、ヨハネの後に続くことでもあるのです。
2.ナザレのイエスは「世の罪を取り除く神の小羊」として、お暗き世界に到来した神のキリストであった
ヨハネがユダヤの荒野で獅子吼をし、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていた時代、一般のユダヤ民衆が期待していた「キリスト」とは、ローマ帝国の支配からユダヤ民族を解放して、世界に冠たるユダヤ人国家をパレスチナに樹立する軍事的、政治的解放者でした。
軍事的、外交的、経済的政策の成功は、政党や政治家の務めです。私たちは三年三カ月に及んだ前の政権において、そのへたれぶりを嫌と言うほど、見せつけられました。
外交的敗北、軍事的劣化、経済的後退は国益、国力を減退、疲弊させ、国民の士気を低下させました。
そこに夢を抱かせる経済政策を引っ提げて登場したのが現政権でしたがいかんせん、四月の消費税増税が景気の浮揚を妨げてしまいました。
これは明らかな判断ミスであると思われます。経済政策の恩恵が末端にまで及んでからであるならば、二年後の十パーセントへの一気の増税も可能であったかも知れませんが。
明後日の二日に解散、そして十四日の討ち入りの日が投票日となりますが、どうぞ、投票所に足を運んで、それぞれの判断によって国民の権利であり義務でもある選挙権を行使してください。
国力や国益を左右する経済も外交も、重要な課題です。しかし、最も大切なことは何かと言いますと、昔も今も、神との関係の正常化にあります。
そして西暦一世紀のパレスチナに住むユダヤ人も、民族の政治的解放以前に、罪からの解放、神との関係の正常化が必要であったのでした。
だからこそ、人の真の必要を知る神が送られたのが、「世の罪を取り除く神の小羊」(29節)だったのです。
「世の罪を取り除く」「小羊」と言えば、誰もが思い至るのが「過越の祭」における犠牲の羊でした。
起源は紀元前一二九〇年に起きた、イスラエルの民のエジプト脱出の際に屠(ほふ)られた「小羊」にあります。
エジプトからの脱出の前夜、イスラエルの家々では、小羊が屠(ほふ)られて、血が家の入口の柱と鴨居に塗られ、肉は食されました。
そしてその夜、神から送られた死の使いがエジプト全地を往き廻り、血が塗られていない家に入って行って、すべての初子(ういご)を撃ったのです。
しかし、血が塗られている家を死の使いは「過ぎ越」しました。
「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。そしてこの月の十四日までこれを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮れにこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入り口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。…その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの家を過ぎ越すであろう」(出エジプト記12章5~7、13節前半 旧約聖書口語訳89p)。
エジプト人の家はまさに阿鼻叫喚状態に陥ったことでしょう。恐れをなしたエジプト王は、渋々、イスラエル人が国外に出ることを許さざるを得なくなりました。
そして四十年後、モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル民族はパレスチナに入植するのですが、移住した後も、これを「過越の祭」という形で毎年、踏襲してきたのでした。
それは単に「出エジプト」という民族的救済の出来事を記念するためだけのものではありませんでした。それはやがて始まる人類を対象とした救済事業の予告でもあったのです。
聖書は言います、人類を審判から救うために神が選び、生贄(いけにえ)となるため、この世に送られたまことの「神の小羊」こそ、ナザレのイエスその人であると。
生贄となる小羊は「傷のない」(出エジプト12章5節)ものでなければなりませんでした。ですから、イエスは罪の誘惑を悉く退けて、「傷のない」、罪なき人生を生き、そして罪なき身を十字架に架けて、すべての人のための身代わりとなられたのです。
クリスマス、それは私たち罪びとが、聖なる神と対面できる立場になることができるようにと、神の御子がわたしたちの原罪という「罪を取り除く神の小羊」としてこの世界に誕生した日なのです。
ですから、それが十二月二十五日かどうかということは些細な事柄です。
大事なことは、私たちを愛するがあまりに、尊い神の独り子が人間となられたことであり、生贄として十字架に架かるべく、人としてこの世に誕生したことなのです。
しかもこのお方は最後の最後まで、初めの決心を翻すことなく、確かに十字架の苦しみを耐え忍ばれたのでした。
感激しつつ、パウロは言い切ります。西暦三十年四月、神による救済は実現したのでした。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」(コリント人への第一の手紙5章7節 261p)。
「すでにほふられた」(7節)という一言に、パウロの万感が込められています。
3.「世の罪を取り除く神の小羊」を世に紹介することを使命としたヨハネの喜びは、光が光として輝くことにあった
もう一度、バプテスマのヨハネのことに戻ります。
ナザレのイエスを真の「光」、「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介したヨハネはその後、どのように生きたかということですが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29節)というヨハネの紹介以来、民衆の関心は徐々にヨハネからイエスへと移って行き、そのためにヨハネの弟子たちは焦燥感にかられます。
「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そしてあなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」(3章26節)。
しかしヨハネは慌てず騒がず、弟子の指摘を良しとすると共に、それこそが私の喜びであるという告白を致します。
「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている」(3章27~29節)。
ヨハネは弟子たちに対して、イエスを「花婿」(29節)に、そして自身を「花婿の友人」(同)に喩えて教え諭しました。
ユダヤの習慣では、婚宴が終わり、花婿が花嫁の部屋に入った段階で、花婿の友人つまり花婿の介添え人はお役御免、となるわけです。
ヨハネは最後まで自らの役割、自分の分というものを心得ていたのでした。
そのヨハネの最後の言葉が実に感動的です。
「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(3章30節後半)。
一時はキリストに擬せられた人の言葉です。その意味するところは、「彼、すなわちイエスはキリストとして必ず栄えなければならない、一方、私はキリストの紹介者として必ず衰えなければならない」とい意味です。
時々、脇役であることに満足できなくなった者が、主役と同じように脚光を浴びようとして、表舞台にしゃしゃり出ようとする場合があります。
ですから、人前に立つ機会のある者は要注意です。とりわけ、教会においては、神の言葉を解き明かす説教者などは努々(ゆめゆめ)、自分が何者かであるかのような錯覚に陥ることがあってはなりません。
説教者はあくまでも花嫁の元に花婿を先導する立場でしかないのです。
人前で指導的な立場に立つ者も要注意です。称賛の言葉には気を付けなければなりません。
喩えれば、奉仕者は夜空に輝く月のようなものであって、太陽ではありません。月は太陽の光を受けてこそ、夜を照らす役割を果たします。太陽あっての月です。大事なのは太陽です。
「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」(1章8節)。
「光」(8節)であるキリストを「あかし」(同)したヨハネは、突如、この世を去っていきました。オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」にあるように、彼は宴会の余興によって非業の最期を遂げました。
悲報を聞いたイエスは大きな衝撃を受け、弟子たちを離れて一人山に籠り、神の前にひれ伏しました。イエスにとってヨハネは唯一の友であったと思われるからです。
しかし、ヨハネはこの不条理な死を泰然自若として受け入れ、従容として死に臨んだことと思います。それは、彼がイエスとの運命的な出会いを通して、神から授けられた役割をしっかりと果たし終えたという確信を持っていたからでした。
クリスマス、それは義の太陽であるキリストのみが崇められ、人々の間で称賛される祭、イベント、フェスティバルです。
二〇一四年、平成二十六年のクリスマスも、ただただ神の御子が崇められるクリスマスとして、御子との新たな出会いの機会となりますように。