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2014年10月19日日曜礼拝説教「慰めに満ちたる神? 究極の栄光それは、主イエスのみ姿に似た者へと変えられること 」コリント人への第二の手紙3章10~18節

14年10月19日 日曜礼拝説教 

「慰めに満ちたる神? 究極の栄光それは、主イエスのみ姿に似た者へと変えられること」
 
コリント人への第二の手紙3章10~18(新約聖書口語訳281p)
 
 
はじめに
 
人間と他の動物との違いは無数にありますが、その一つが向上心の有無でしょう。もちろん、動物の多くは苛烈な環境の中で自らと群れの生存のため、親に倣って獲物を捕える技術を向上させようとしますが、それは動物的本能がなせることです。
 
ディズニーのアニメ映画で知られ、日本では劇団四季のミュージカルでも有名になった「ライオンキング」の主人公のシンバのように、立派な雄ライオンを目指して向上しようとするライオンもいますが、それは、あくまでもアニメのような虚構の世界でのことです。
 
因みに一九九〇年代につくられた「ライオンキング」が、実は六〇年代に日本のテレビでアニメとして放映されていた手塚治虫の「ジャングル大帝」のパクリであるということは、知る人ぞ知る、ですが。
 
そのオリジナルの方の「ジャングル大帝」では、白いライオンのレオが幾多の試練を乗り越えて成長していくという物語が当時、視聴者の共感を呼んだものでした。
 
向上心の有無、それが人間と動物の違いの一つですが、人間が人間である所以(ゆえん)を示す言葉が「君子は豹変(ひょうへん)す」という言葉だと思います。
 
これは中国古代の占いの書である「易経(えききょう)」の中にある言葉からとられたものです。
 
君子は豹変(ひょうへん)す。小人(しょうじん)は面を革(あらた)む。…君子豹変すとは、その文蔚(うつ)たるなり。小人は面を革(あらた)むとは、順にしてもって君に従うなり(易経 革)
 
どういう意味かと申しますと、以下のような意味です。
 
君子豹変すというのは、その毛の文様(もよう)が蔚然(うつぜん)として美しくなるということである。小人面を革(あらた)むというのは、従順に新しい君に従うことである(高田真治・後藤基巳訳「易経(下)」123p 岩波文庫)。
 
因みに「革」は革新とか革命などのように事態の一新を意味します。また「蔚(うつ)」や「蔚然(うつぜん)」は色鮮やかな様子を表します。
 
この言葉が意味するものは、「小人」つまり小人物が表面を革(あらた)めるだけで本質を変えようと志さないのに対し、「君子」すなわち有徳の人は、自分が誤っていることが分かれば敢然として過ちを認め、心を入れ替える。
それは「豹」が秋になって毛が抜け変わり、鮮明で美しい文様を見せるように、その変化は誰もがみてもわかるほどだ、ということなのだそうです。
 
もっとも、これは最近では、保身や損得計算で態度や言動をコロッと変えてしまうという、悪い意味で使われることが多いようですが、本来の意味は潔さを強調した言葉でした。
 
でも、多くの場合、「豹変」はしたい、でも昨日の自分と今日の自分は変わっていない、おそらく明日の自分も今日の自分と同じだろうと、ついつい私たちは消極的になってしまいがちなのですが、パウロは自らの愚かさを痛感し、落ち込んでいるかもしれないコリント集会の一般会衆を慮って、変化と成長への希望を強調しました。それが本日の聖書テキストです。
 
そこで本日の説教タイトルは「究極の栄光それは、主イエスのみ姿に似た者に変えられること」です。
 
 
1.古い契約にかけられていた覆いは、キリストによってのみ除かれる
 
「コリント人への第二の手紙」の著者であるパウロは、迷える人を神の命につなげる任務につくことを栄光としましたが、その際、「新しい栄光が現われれば、それまでの栄光は栄光ではなくなるし、それまでの栄光がたとい暫定的ではあっても、一度は栄光あるものとして現われたのであれば、永遠に存続すべき栄光はさらにまさった栄光であることになる」ことを強調しました。
 
「そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現われたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである」(コリント人への第二の手紙3章10、11節 新約聖書口語訳281p)。
 
 この「消え去るべき」(11節)栄光が従来の「契約」つまり「古い契約」であるのに対して、「永存すべき」(同)栄光は「新しい契約」(6節)であるという理解を抱くことを、パウロはここで「望みをいだ」くことであると言います。
 
「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思い切って大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」(3章12、13節)。
 
ここでパウロはエジプトを脱出したイスラエルの民がシナイの山において、モーセを通して神から石の板に刻まれた十戒を授与された際の出来ごと(出エジプト記34章29~35節)に言及しているのですが、モーセが「顔におおいをかけた」(13節)のは、「モーセが、消え去っていくもの」(同)、つまり律法授与という栄光の光の「最後をイスラエルの子らに見られまいとし」(同)たからである、というのがパウロ自身の解釈でした。
 
ここでパウロは、しかし、「『わたしたち』(12節)『新しい契約に仕える者』(6節)たちは違う、わたしたちはモーセのように『顔におおいをかけたようなことはしない』(13節)、なぜならば、自分たちの務めである『義を宣言する務めは』(9節)『栄光に満ちたものである』(同)からだ」と、その理由を説明するのです。
 
そしてモーセの顔を覆う「顔おおい」の話から発展して、消えゆく栄光をイスラエルの民の目から隠した「おおい」は今日、ユダヤ人たちが「文字(もんじ)」(7節)に書かれた律法を根拠にしている「古い契約」がシナゴグ(ユダヤ会堂)で朗読されるたびに、「彼らの思い」を覆っている、だからその本来のメッセージを彼らは聞きとることができなくなってしまっているのだ、とパウロは指摘をします。
 
「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている」(3章14節前半)。
 
「古い契約」(14節)の文書である旧約の「聖書」は、キリストの到来を証言する文献でした。ですから、それを読む者が心にかかる「おおい」を取り去って読めば、そこから神が遣わすメシヤ・キリストを見出すことができたのです。イエスがそのことをユダヤ人たちに諭した言葉が次の聖句です。
 
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 144p)。
 
でもユダヤ人は彼らの心をおおっている「おおい」(14節)を「取り除」く代わりに、栄光のキリストを十字架にかけて、この地上か「取り除」いてしまったのでした。
 
聖書の真理の光を隠す「おおい」は、キリストによってのみ、取り除かれるのであって、それを体験したのがかつて「文字(もんじ)」の教師であったパウロでした。彼は自らの過去を振り返りながら万感を込めて言い切ります。
 
「それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」(14節後半)。
 
 
2.究極の栄光、それは主イエスと同じみ姿へと変えられていくこと
 
「新しい契約に仕える者とされ」(6節)、その結果、「義を宣言する務め」(9節)に任じられたということは、「罪を宣告する務め」(同)に比べれば「はるかに栄光に満ちたものである」(同)ことは事実です。
 
でも、それはあくまでも立場や働きとしての栄光であって、目標ではありません。
 
では、目標としての栄光のかたち、究極の栄光とは何かというならば、それは信じる者たちが主と同じ姿に変えられていくことだ、とパウロは断言します。
 
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(3章18節前半)。
 
 「主と同じ姿に変えられていく」(18節)とは、主と同じような生き方をする、あるいは主とよく似た性格に変えられるということです。
 
では主のご性格はどんな性格かと言いますと、友のために自分自身が大事にしているものを捨てる覚悟がある、ということです。
 
事実、主イエスはわたしたちを滅びから救い出すために、十字架の苦しみをとことん味わってくださったのでした。まさにご自分が語られたことを身をもって実践されたのでした。
 
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節 167p)。
 
 最後の晩餐の席上、主はこのように語られ、そしてその晩、「その友」と認めた弟子たち「のため」、また私たち「のために自分のいのちを捨てる」べく、ユダヤ当局から派遣された神殿警察により、唯々諾々として捕縛されたのでした。
 
そしてつい最近、「その友のために」自らの大事な命を捨てる覚悟をし、そして実行した一人の少女がノーベル平和賞を受賞することとなりました。
先週の説教でもふれたパキスタン人のイスラム教徒、マララ・ユスフザイ、十七歳です。
 
彼女は日本時間の十一日、現在の自宅がある英国中部のバーミンガムの図書館で、受賞決定に伴うスピーチをしたのですが、そのスピーチにおいて、自身がイスラム過激派組織のタリバンから銃撃されるに至った活動、つまり自分を含めた子供たち、とりわけ女子児童が教育を受ける権利を獲得するための活動を始めた動機を語った部分は、衝撃でした。
 
彼女は言いました、
 
(当時の)わたしには二つのオプション(選択肢)しかなかった。一つは語らないまま、殺されるのを待つこと、そしてもう一つは語って、そして殺されること、そして私は二つ目の方を選んだ(2014年10月11日)。
 
彼女にとっては、偏狭な考え方を持つタリバンの支配下にあって、小学校にすら通うことがゆるされない無数の子供たちは彼女の大事な「友」であり、だからこそ、自分のためにも、そしてその多くの「友のために」も「命を捨てる」覚悟を決めて声を出したというのです。
 
二〇〇一年九月十一日の米国同時多発テロ以来、キリスト教徒はとかくイスラム教というものを奇異な目で見がちです。しかし、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の共通点は一神教であるということ、そして拝んでいる対象は、ユダヤ教はヤハウエと呼び、キリスト教は父なる神として崇め、イスラム教はアッラーと呼んではいますが、実は同じ神さまなのです。
また、アブラハムを信仰の祖先として尊んでいることも共通です。
 
確かにイスラム原理主義を標榜するグループの中には「タリバン」や「イスラム国」のようにクルアーン(コーラン)の極端な解釈に基づいた過激グループもおりますが、大多数のイスラム教徒は平和を志向する人々です。
 
アララ・ユスフザイという十七歳の少女は普通のイスラム教徒ですが、本来「神のかたちに創造された」(創世記1章27節)者でもあるのです。だからこそ、その活動の動機に「主と同じ姿」(18節)、とまでは言わないとしても、主によく似た姿を垣間見る思いがしても不思議ではありません。
 
そして、況してや「わたしたちは」(同)、です。キリストに贖われ、キリストの「霊に仕える者である」(6節)「わたしたちはみな、…栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(18節)筈なのです。
 
 
3.主イエスに向く時に覆いは取り除かれて、主と同じ姿に変えられる
 
では、どうしたならば「主と同じ姿に変えられていく」(18節)のかと言いますと、「それは面と向かって主を仰ぐことによってである、なぜならば、主に向く時、真理を覆っていた覆いが取り除かれて、主を正しく見ることができるようになるからだ」とパウロは言います。
 
「しかし、主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」(3章16節)。
 
 具体的にはキリストの霊である御霊が、主を信じる者、あるいは信じようとする者の心から、真理を見えなくする妨げの覆いを取り除いて、さまざまの囚われや偏見から解き放ってくれるからです。なぜならば主の御霊は自由と解放の霊だから、なのです。
 
「主は霊である。そして主の霊のあるところには、自由がある」(3章17節)。
 
「主は霊である」(17節)、つまり「主は御霊である」という言い方ですが、厳密に言いますと、昇天したイエス・キリストご自身は「使徒信条」にありますように、今現在、父なる神の御座の右に着座しております。
ですから、地上にあって活動しているのは、西暦三十年の五月のペンテコステの日に、天にいます父なる神と子なる神から地上に、そして教会に送られた聖霊なる神です。
 
しかし、父と子と聖霊とは専門的な神学的表現を使えば「相互内在(そうごないざい)」の関係にあります。「相互内在」とは相互に内在しているという関係性を持っているということです。
つまり、地上で活動している聖霊の中に、あるいは聖霊と共に、また聖霊において神の御子は自由に活動をしてくれているのです。
 
だからこそ聖霊は「主の霊(主の御霊)」(17節)であり、主は「霊なる主(御霊なる主)」(18節)でもあるのです。
 
十九世紀の半ば、米国にナタナエル・ホートンという作家がいました。ナタニエル・ホーソーンともいいます。
 
昔、英語の授業でこの人の作品、「グレート・ストーン・フェイス」という短編を読んで不思議な感動を覚えたことを、今、思い返しています。そのタイトルは直訳をすれば「大きな石の顔」あるいは「偉大なる石の顔」です。
 
高い山々に囲まれたある渓谷に住む、アーネストという名の少年が主人公です。記憶を辿ってご紹介したいと思います。
 
幼かったアーネストが住む渓谷から見える、切り立った断崖にある岩は、大きな人間の顔にそっくりでした。そして彼が住む村に伝わる伝説では、あの顔によく似た気高い顔をした人物がこの村から生まれるというものでした。
子供であったアーネストは日がな一日、大きな石の顔を見つめながら、やがて現われるという偉大な人物を待ち続けました。
 
ある日、この渓谷出身で実業家として大成功を収めた「ギャザーゴールド(お金大好き?)」という名の大富豪が帰って来ることになりました。彼が馬車に乗って帰ってきたとき、人々はその大金持ちが「あの偉大なる石の顔にそっくりだ」と口々に言いました。
しかしアーネストにはそうは見えませんでした。何しろ、道端の物乞いの親子が憐れみを乞うと、二、三枚の銅貨を投げただけだったのです。
その後もアーネストは朝に夕に、大いなる石の顔を見続けました。やがて人々は「ギャザーゴールド」のことは忘れてしまいました。
 
アーネストが青年になった頃、この渓谷の出身で、戦場で輝かしい武勲を立てたことで有名になった、「ブラッドアンドサンダー(流血男?)」という渾名の将軍が退役をして帰ってきました。人々はこの将軍のために歓迎会を開いて、「彼こそ、あの石の顔に生き写しだ」と言うのですが、アーネストから見れば似ても似つかぬ顔でした。そこで彼は、また何年も待たねばならないのかと、がっかりしながら石の顔を見上げることとなりました。
 
アーネストが中年になったとき、この村の出身で雄弁をもって鳴る政治家(大きな石の顔に似ているというところから「オールド・ストニー・フィズ(年を経た石の顔?)」と呼ばれた政治家)が大統領候補になって、故郷を訪問することになりました。そして彼を成功者として迎えた村の人々は、彼のことを「あの偉大な石の顔そのものだ」とほめそやすのですが、アーネストにはそうは見えませんでした。がっかりしているアーネストが見上げた石の顔は、彼に向かって「心配するな、きっと現われる」と言っているように思えたのでした。
 
歳月が流れ、アーネストは老人となりましたが、農夫として働き続けておりました。しかし、彼の人格から滲み出る話が人々を惹きつけ、いつしか彼は説教者として世間に名を知られるようになりました。
そして、彼の話を聞き、彼と言葉を交わした人々はその帰る道すがら、断崖に見える大きな石の顔を仰いでは、「はて、どこかで見たような顔だけど、どこで見たのか思い出せない」などと思いつつ、家路につくようになりました。
 
そしてある日、この渓谷出身の有名な詩人がアーネストの話を聞きに、村に来ることになりました。アーネストはこの詩人の珠玉のような作品を読んで、「ひょっとするとこの人が」とも思うのですが、実際に会ってみる限りでは、やはり違う、と思うのでした。
 
そして日が暮れた頃、いつものようにアーネストは家の外に集まってきた人々に向かって、自らの思うところを話し始めました。彼の話は聴衆の心に沁み通っていきました。
そのアーネストの顔を見ながら彼の話しに耳を傾けていた彼の詩人が突然、叫びました、「見よ、アーネストこそ、あの偉大なる石の顔、そのものではないか」と。人々は改めて石の顔とアーネストの顔を見比べ、そして詩人の言っていることは本当だ、と口々に言い始めました。
 
しかし、アーネストはというと、話を終えるとこれまでと同じように、いつの日にかあの偉大なる石の顔によく似た賢明で気高い人が村に現われるに違いない、と思いながらいつものように自分の家へと帰って行きました。
 
つまり、気高い顔をした大きな石の顔を長年にわたって見続けているうちに、アーネスト自身、自分も気付かぬまま、その石の顔によく似た顔になっていた、という物語です。
 
因みに、アーネストという英語は「正直な」という意味ですので、そこに作者の意図が隠されているのかも知れません。
 
真理を覆い隠す「顔おおい」(18節)はキリストによって既に取り去られました。ですから今は、誰もが正しく、まっすぐに主のみ顔を仰ぎ見ることが可能となっているのです。もう一度、読んでみましょう。
 
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(3章18節前半)。
 
それは「霊なる主」すなわち主が御霊において私たちの内に外に精力的に活動してくださっているからです。
 
「これは霊なる主の働きによるのである」(3章18節後半)。
 
 「易経」は、「君子は豹変し、小人は革面す」と諭しますが、たとい「君子」ならざる「小人」であっても、主に思いと心とを向け続けていれば、御霊なる主の働きにより、徐々にではあっても「主と同じ姿に変えられていく」(18節)のです。
 
 そのためには御霊なる主の働きを信じつつ、主がよみがえられた日曜ごとに主を思い、日々の歩みの中で主を仰いで、主を見続けていくことが大切です。
 
究極の栄光、それは「主と同じ姿」、そして主イエスと同じ心に変えられるという栄光です。
 
ご一緒に生涯かけてこれを追い求めてまいりましょう。