2014年9月21日 日曜礼拝説教
「慰めに満ちたる神? キリストを知る知識の香りを至るところに放つ」
コリント人への第二の手紙2章14~17節(新約聖書口語訳280p)
はじめに
一昨日の金曜日、英国を構成する地域の一つであるスコットランドの、英国からの独立の是非を問う住民投票が行われました。
我が国では英国またはイギリスとして知られる同国の正式国名は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であって、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの四つの地域で構成されています。
その四つのうちの一つであるスコットランドが、「連合王国」からの離脱の是非を問うたのですから、世界中から注目されました。
そして行われた投票は、独立賛成が44、7%、反対が55、3%という結果となり、スコットランドのいわゆる「英国」からの独立は否決されました。
独立の回避という結果は立場によって悲喜交々となったと思いますが、投票結果の発表を固唾を飲んで待ち、そして誰よりも安堵したのは、スコットランドまで出かけて行って、「わたしのことは嫌いでも」などと、AKBの前田敦子みたいな演説をしてまで独立を思いとどまらせようとしたキャメロン英国首相でしょう。結果がはっきりするまでは「気が気でなかった」筈だからです。
気が気でなかったといえば、「涙の手紙」を持ってコリントに赴いた弟子、テトスからの報告を待つパウロも「気が気でな」かったようです。もっとも、同じような「気が気でない」という気持ちでも、自らの状況把握の甘さから思わぬ国家分裂の危機を招いたキャメロンさんとは違って、パウロがとった判断と行動は常に的確なものでしたが。
「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った」(コリント人への第二の手紙2章12、13節 新約聖書口語訳280p)。
その「マケドニヤ」(13節)州の、おそらくはピリピにおいて、テトスの帰還を今や遅しと待つパウロに、テトスが持ち帰ってきた報告が、神の慰めに満ちた朗報でした。
七章に跳びます。
「さて、マケドニヤに着いたとき、わたしの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めてくださった」(7章5、6節)。
コリント人への第二の手紙は二章の十三節から七章の五節に一気に跳んで読むと、つながりが理解できます。
二章の後半から六章にかけては、「テトスの到来によって」(6節)悲哀と不安から一転して、欣喜雀躍状態となったパウロによる神への讃歌、告白、そしてコリント集会への訓話、勧告が迸り出た文章として読んでください。。
そこで「慰めに満ちたる神」の二回目のテーマは「キリストのかぐわしい香り」についてです。
1.キリストの凱旋行列に加えられているという特権
テトスからの報告を聞いたパウロの心に溢れ、そして口をついで出たものが、「神様に感謝をします」という素朴な言葉でした。
「しかるに、神は感謝すべきかな」(2章14節前半)。
感極まったそのパウロが最初に挙げた事柄が何かといいますと、「神はどんな時、どんな場合でも私たち神に付く者を、キリストの凱旋行列という勝利の列に加わらせてくださっている」という事実でした。
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、」(2章14節)。
皆さまは「ベン・ハー」という映画を観たことがあるでしょうか。チャールトン・ヘストン主演のスペクタル映画で、特に有名なものが戦車競走の場面です。
「ベン・ハー」の原作者であるルー・ウォーレスについてはいつかお話をしたいと思いますが、原作の副題が「キリストの物語」とありますように、紀元二十年代から三十年代にかけての歴史的出来事がその背景となっております。
物語の主人公はユダ・ベン・ハーというユダヤ人の青年ですが、もうひとりの主人公はイエス・キリストです。
物語では、ローマ総督暗殺未遂の廉で逮捕されて、ガリー船の漕ぎ手に身を落とした主人公ユダ・ベン・ハーが、海戦の際にローマの司令長官アリウスの生命を救ったことから、ユダを気に入ったアリウスにより、奴隷の身分から解放されるだけでなく、彼の法的養子という身分を与えられます。
そしてここからは原作と映画とでは少し違う展開となるのですが、映画ではローマに帰還したアリウスの勲功を称賛するため、(わたしの記憶では)マケドニヤとの海戦に勝利をしたという功績により、きらびやかな凱旋行列が行われ、そこにユダ・ベン・ハーが加えられることとなります。
映画における凱旋行列の映像は、当時の様子を知るのに参考になるのではないかと思われますが、このローマにおける凱旋行列についてウィリアム・バークレーは、その註解書の中で、まるで見て来たかのように説明をしてくれています。
バークレーによりますと、凱旋のコースはローマの街道をジュピター(ユピテル)神殿までで、行列の先頭にはローマの高級官僚と上院議員が進み、次にラッパを吹き鳴らすラッパ手が、そしてその後ろに征服地からの分捕り物が運ばれ、更に生贄の牡牛が続いたあとに、鎖で繋がれた捕虜たちが連行されていき、そして最後に馬に引かせた戦車に乗った凱旋将軍が威風堂々と進み、沿道に立つ群衆が彼に向かって歓呼の声を浴びせかける、という具合なのだそうです。
映画では確か、将軍の養子となったベン・ハーが、戦車に乗った将軍の傍らに立って行進をしていたように記憶しています。
使徒パウロは民族的、宗教的には生粋のユダヤ人でしたが、ローマ市民権を持つローマ市民でもありましたので、このような凱旋行列を何度か、ローマで見る機会があったのではないかと思われます。
ユダ・ベン・ハーはひょんなことから将軍の養子となりましたが、私たちキリストを信じる者たちは何の取り柄もなかったにも関わらず、ただ「あわれみ」(1章3節)によって、「主イエス・キリストの父なる神」(同)の養子という身分、立場を与えられているのです。
そればかりか、私たちの日々はまさにこの凱旋行列でもあると、パウロは言うのです。
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、」(2章14節)。
「いつも」(14節)です。人生は喜ばしい勝利の時だけではありません。心が悲哀に支配されて気持ちが沈んでいるような時でも、凱旋将軍であるキリストの行列は進んでいるのです。それはパウロの実感であった筈です。
そのことを覚える時、「感謝を神に」(14節 直訳)という神への讃美が思わず、パウロの口を衝いて出たのでしょう。
2.キリストの香りとして、キリストの芳香を至る所に放つ
バークレーによりますと、凱旋行列に欠かせないものが、凱旋将軍の前を行く祭司が振る香炉、そして香炉から放たれる芳しい香りであったようです。
つぎに、かんばしいかおりを放つ香炉を振りながら歩いている祭司たち。そして、いよいよ将軍自身の登場である。彼は馬に引かせた戦車の中に立っている。彼は黄金のしゅろの葉を刺しゅうしたむらさきの上着を着ている(バークレー著 柳生直行訳「聖書註解シリーズ9 コリント」233p ヨルダン社)。
ここでは祭司が振る香炉から放たれる香りから、「キリストを信じる者たちは、キリストを知る知識の香りを至る所に放たれるキリストの香りである」と、パウロは言います。
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放ってくださるのである」(2章14節)。
私ごとですが、いつだったか、おそらくは十年前くらいであったか、妻から、「最近、体臭がする時があるよ」と言われました。「自分は(関西では相手のことを自分と言います)男の人としては若い時から体臭がまったくといっていいほど無い、と思っていたけれど。最近、お風呂で体、ちゃんと洗ってる?」「洗っているよ」と言いつつ、それからは手抜きをしないで体を洗うように努めているのですが、日本人はもともと、体臭は強い方ではありません。
しかし、近年、匂いに敏感な時代になってきたようです。
そして重宝がられているのが洗濯をした後でも香りが衣服に残る洗剤だそうです。でもこれがまた、匂いに敏感な人にとっては苦痛となるという問題が起こったりして、ほんとうに難しい時代になりました。
ところで凱旋の行進において、祭司が振る香炉から香る香りは、凱旋する者たちにとっては命と栄光をもたらす香りであるが、捕虜にとっては滅びの印しであるとパウロは言い切りました。
「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである」(2章15、16節前半)。
ここで「わたしたち」(15節)がパウロたち一行を、そして「救われる者」(15節)はコリントの従順な者たちを、また「滅びる者」(同)が頑迷な敵対者らを指すのであるかは何とも言えません。
ただ言えることは、キリストに正しく繋がっている者は誰もが「キリストのかおり」(同)であって、それはある者にとっては「滅び」(同)という「死から死に至らせるかおり」(15節)となり、また、ある者にとっては「救」(同)いという「いのちからいのちに至らせるかおり」(同)となるという働きをしているということです。
3.キリストの香りの存続のため、キリストを知ることに努める
しかし、香りは時間の経過と共に、徐々に薄らいでしまうものです。もしも香りが消えてしまったら、「かおりを至る所に放」(14節)つことができなくなります。
どうしたらよいのか。答えはただ一つ、香りの元と交わり、接触をし続けることです。ですからパウロは香りについて「キリストを知る知識のかおり」(14節)と言ったのでしょう。
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至るところに放ってくださるのである」(2章14節)。
香りの元、それはイエス・キリストご自身です。このキリストと個人的に交わることによって、キリストの香りを受け継ぐのです。
その際に大切なことは、キリストを、そしてキリストの言葉を正しく理解することです。コリントの集会の致命的な問題は、パウロが伝えたいのちの福音を変質させてしまったことでした。
ですからパウロは言います、私は神の言葉を混ぜ物として売るようなことはしないと、
「しかし、わたしたちは、多くの人のように、神の言葉を売り物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである」(2章17節)。
口語訳の「多くの人のように、神の言葉を売り物にせず」(17節)を新改訳は、「多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず」と訳していますが、適訳です。
当時、不正な小売商はしばしば、利益を捻出するために、売り物に混ぜ物をして売っていたようなのです。
私たちがキリストの香りを保つ方法は、混ぜ物のない真正な御言葉を聞いて、「キリストを知る」(14節)ことにあります。そうすれば、「キリストを知る知識のかおりを、至る所に放」(同)ち続けることが可能となるのです。
そしてそのためには、御言葉を解き明かす者に、神の御霊の助けと導きが常にあるようにと、日々に祈っていただきたいと思います。
願わくは私たちの教会では、そして日本の各教会においてはバッタモノではない福音が正しく説かれ、信じられることによって、「わたしたちを通しててキリストを知る知識のかおり」(同)を「神」(同)が「至る所に放って下さ」(同)いますようにと祈るものです。