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2014年9月14日日曜礼拝説教「慰めに満ちたる神? キリストの父なる神は憐れみ深き父にして慰めに満ちたる神である」コリント人への第二の手紙1章2~10節

14年9月14日 日曜礼拝説教

「慰めに満ちたる神? キリストの父なる神は、憐れみ深き父にして慰めに満ちたる神」
 
コリント人への第二の手紙1章2~7節(新約聖書口語訳278p)
 
 
はじめに
 
例年に比べ、今年二〇一四年の夏は雨が多く、各地に大雨による被害をもたらした夏として記憶されることと思います。そんな夏もいつの間にか終わって、九月に入りましたが、この秋はパウロによる「コリント人への第二の手紙」を通して、パウロの信仰と情熱に触発されたいと思います。
 
回心後のパウロは計三回の長期伝道旅行を行っておりますが、その第二次伝道旅行の折り、西暦五十年の夏から一年半にわたって、当時のアカヤ州、つまりギリシャのコリントにおいて精力的な伝道活動を行い、コリント集会を形成致しました。
 
「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。…パウロは一年六カ月の間ここに腰をすえて、神の言葉を彼らの間に教えつづけた」(使徒行伝18章1、11節 新約聖書口語訳212p)。
 
 しかし、パウロを敵視するコリント在住のユダヤ人が騒乱を起こしたこともあって、パウロは三年半に及んだ第二次伝道旅行をそこで終了し、出発地のシリヤのアンテオケに戻ります(同18章18節)。
それは五十二年の春のことでした。
 
しかしその翌年つまり五十三年の春、パウロは第三次伝道旅行を決行します。伝道の虫が騒いだのでしょう。
 
「そこにしばらくいてから、彼はまた出かけ、ガラテヤおよびフルギアの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた」(同18章23節)。
 
 「しばらくい」(23節)た「そこ」(同)とは、シリヤのアンテオケのことです。また「ガラテヤおよびフルギアの地方」(同)とは現在のトルコ中部です。しかし、パウロの活動はそこで終わりません。彼は奥地を通って西に向かい、アジア州のエペソに行きます。
 
「アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた」(19章1節)。
 
 そのエペソでは二年という長期にわたって、パウロは聖書、つまり旧約聖書を解き明すことによって、十字架に架けられたナザレ人イエスこそ、神が送られた救世主であることを説き続けます。
五十三年の夏から五十五年の夏にかけてでしょうか。
 
「それが二年間も続いたので、アジアに住んでいる者は、ユダヤ人も皆、主の言葉を聞いた」(19章10節)。
 
そして、このエペソ滞在中に、コリントの教会に起きている様々のトラブルのニュースが、彼の許に届きます。そこでパウロは、それらのトラブルに対処すべく、計四通の書間をコリント集会に宛てて書き送ることになるのです。
最初の手紙が「前の手紙」として知られています。
 
「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、…」(コリント人への第一の手紙5章9節 261p)。
 
 私たちが「第一の手紙」として知っている手紙よりも「前」(9節)に書かれた「手紙」(同)があったということになります。ということは、少しややこしいのですが、新約聖書の「コリント人への第一の手紙」は「第二の手紙」であったということになります。
 
 当時のコリント集会には実に多くの問題がありました。まず、教理的な問題があり、それに加えて倫理的な問題が生じていました。そしてその上に、というよりもそれらから派生した問題としての分裂、分派、権力闘争まで起こっておりました。
 
「はっきり言うと、あなたがたはそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである」(1章12節)。
 
 これらの中で一番性質(たち)が悪いのはどれかと言いますと、「わたしはキリストに」(12節)というグループです。「キリストに(つく)」と言っているのだから、いいことじゃないか、と思ってしまいがちですが、彼らはキリストの死が罪の身代わりであるという贖罪論を否定すると共に、人は特別な霊知を持ったキリストと直接的に関係することによって救済をされると考えたグループでした。
 
これらのグループの最大の敵は、正統的な信仰を広めようとするパウロでした。ですから彼らは、コリントの集会を支配すべく、集会におけるパウロの影響力を排除しようとして、パウロの使徒職の正統性に対する疑義を吹聴し、公然とパウロに敵対してきたのです。
 
 そこで、パウロは第三の手紙を書き送って、首謀者たちの悔悛を迫りました。それが「涙の手紙」として知られるものであったのです。
 
「わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書き送った」(コリント人への第二の手紙2章4節前半 279p)。
 
その、厳しい叱責の言葉を含んだ手紙をコリントに持参したのが、弟子のテトスでした。
ところが、テトスからの連絡はパウロの許には一向に届きませんでした。今なら差し詰め、携帯電話かスカイプで連絡を取り合うことができるのですが、テトスからの連絡が待てど暮らせど、ありません。
待ちきれなくなったパウロはついに、海を渡ってマケドニアに出かけます。
 
「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニアに出かけて行った」(3章13節)。
 
 そしてそこでコリントから朗報を持って帰ってきたテトスと会い、その無事を確認すると共に、コリント集会が悔い改めに導かれ、かつ集会が再生をしたという報告をテトスから受けることとなります。
 
「しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めてくださった。ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けた慰めをもって、慰めてくださった」(7章6、7節前半)。
 
 こうして、テトスからの喜びの報告を受けて書き送った「第四の手紙」が、現在の「コリント人への第二の手紙」である、ということになるわけです。
 
 では「多くの涙をもって…書き送った手紙」(2章4節)、つまり第三の手紙はどこに行ってしまったのか、ということですが、一般的には失われてしまったとされている「第三の手紙」は、実は「第二の手紙」の後半部分の十章から十三章として残されているのではないかとする学説があります。
 
それは「第四の手紙」である「第二の手紙」の九章までが穏やかな内容と筆致であるのに対し、十章からの四章は、厳しい叱責と訓解の言葉に満ちているからです。たとえば、以下のような文章です。
 
「わたしは、前に罪を犯した者たちやその他のすべての人々に、二度目に滞在していたとき警告しておいたが、離れている今またあらかじめ言っておく。今度行った時には、決して容赦しない」(13章2節)。
 
 つまり、私たちが手にしている「コリント人への第二の手紙」は、一章から九章までが問題が解決したことを喜んで書かれた「第四の手紙」であって、十章から十三章までは悔い改める以前のコリント集会に宛てて、パウロが涙を流しつつ書いた「第三の手紙」である可能性が高い、ということなのです。
 
その上で本論に入りたいと思います。
 
 
1.キリストの父なる神は、慰めに満ちたる神である
 
パウロは「コリント人への第二の手紙」、実質的には「第四の手紙」の冒頭、通常の挨拶に続いて己が信じるところの神を讃えるのですが、その際、三つの表現で神に言及します。
 
一つは、神が「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」であること、二つ目は、その神は信者にとっても「あわれみ深き父」であること、そして三つ目が、その「父なる神」は「慰めに満ちたる神」であることでした。
 
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」(コリント人への第二の手紙1章3節 新約聖書口語訳278p)。
 
 ここでコリントの集会に対し、パウロがとりわけ強調したかったことは、パウロが信じる神が、「慰めに満ちたる神」であるという一事であったと思われます。
 
と言いますのは、一章の三節から七節までに、「慰め」という名詞、あるいは「慰める」という動詞が計九回も使われているからです。この「慰め」という言葉については、新約学者のウイリアム・バークレーの註解をご紹介したいと思います。
 
新約聖書においては、慰めということばは、相手の苦痛 をやわらげるような同情というふつうの意味よりもはるかに深い意味をもっている。そこではこのことばの原意はつねに生かされている。
つまり、この語の語源はラテン語のフォルティスであって、フォルティスは勇気のあるという意味なのである。キリスト教的慰めは勇気をもたらす慰め、人をして人生のあらゆる苦難に立ちむかうことを可能ならしめる慰めである(ウィリアム・バークレー著 柳生直行訳「聖書註解シリーズ9コリント」216p ヨルダン社)。
 
打ちひしがれた者に「勇気をもたらす慰め」(バークレー)の源が、「イエス・キリストの父なる神」(3節)であって、その「父なる神」は「あわれみ深き父」(同)であると共に、「慰めに満ちたる神」(同)なのです。
 
パウロは「ほむべきかな」(同)と、この神を称えましたが、彼にとってそれは常套語ではなく、実感の伴った、心から溢れ出る讃美であったのでしょう。
 
 
2.慰めに満ちたる神により、患難の中で慰められる
 
では、パウロはどのような状況下で神の慰めを経験したのでしょうか。それは激しい患難の中にいる時であったと思われます。
 
「神はいかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、」(1章4節前半)
 
 この「患難」という語は、「上から強く圧(お)す」という言葉が語源であって、肉体的、物理的、心理的、精神的に、上からあるいは外から強く圧迫された状態を意味しました。
 
それが具体的に何であるかということについては、パウロは「アジヤで会った患難」とだけしか言っていません。
「アジヤ」とはアジヤ州のことで、現在のトルコの西部です。そこで彼は筆舌に尽くし難い、つらい「患難」を経験したようです。
 
「兄弟たちよ、わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。私たちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(1章9節)。
 
 「患難」(8節)がどちらかと言えば外部からの「圧迫」(同)であるのに対し、内部に生じる心配事が「憂い」です。
 
そしてパウロは外からの激しい「患難」と、コリント集会についての「憂い」の中で「第三の手紙」である「涙の手紙」を書いたのでした。
 
「わたしは大きな患難と心の憂(うれ)いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書き送った」(2章4節前半)。
 
 パウロが心に抱いた「憂い」(4節)とは、具体的にはコリント集会において、パウロを敵視する一部の指導者たちの存在と活動であり、彼らに影響されて、パウロの教えから逸れつつある一般会衆のたましいのことだと思われます。
 
この指導者たちがどのような者であったのかということについては、諸説があるのですが、彼らがユダヤ人でかつ、ギリシャ的異端思想であるグノーシス主義にかぶれた者たちではないかと思われます。
 
彼らがコリントの集会からパウロの影響を除去するために取った手段は、パウロのキリストの使徒としての正統性と正当性を疑わせることにありました。
 
「涙の手紙」が「コリント人への第二の手紙」の十章から十三章であるならば、それがよく符合します。なぜなら、十章から十三章まではまさに、パウロによる使徒職の正当性の弁明であるからです。
 
 たとえば、福音を伝える教師の生活を支えるサポートについてです。
当時のギリシャ世界では、教師は教えることによって収入を得ることは当然とされていました。そしてパウロが皮肉で「大使徒」(11章5節)と呼んだ彼の敵対者たちも相当額の教師給をコリント集会から受けていたようです。
 
ところがパウロはある時期まで、一つの地域に止まっている間は、他の地域、他教会からのサポートでその生活費と伝道費用を賄うことを常としていて、当の地域の人たちに負担をかけないことを信条としていたようです。
それを敵対者は、パウロが使徒でないからだと非難したのです。
 
「それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、神の福音を価(あたい)なしにあなたがたに宣べ伝えたことが、罪になるのだろうか。わたしは他の教会をかすめたと言われながら得た金で、あなたがたに奉仕をし、あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた」(11章7~9節前半)。
 
 この方式は現在でも海外宣教師が取っている方式であって、例えば、私たちの教会が属する教団の海外宣教師の場合、その生活費と伝道活動費は日本国内の募金で賄い、宣教地では報酬を受けません。
 しかし、その宣教師が海外宣教の働きを終えて国内で教会担任の教師として任命されれば、当該の教会から生活費を受けることとなります。
 
しかし、敵対者たちはパウロの行動を悪意によってねじ曲げて解釈をし、その上でパウロを偽使徒としてコリント集会から排撃しようとしたのでした。
 
最近、ある意図をもって、事実をねじ曲げて解釈し、報道をしたという事例が明らかとなり、ついに当該の報道機関の社長が謝罪と弁明の記者会見を行う仕儀となりました。先週の木曜日、九月十一日のことです。
 
その報道機関である朝日新聞社が謝罪をした事例の一つは福島第一原子力発電所の所長であった吉田昌郎(まさお)元所長の調書、いわゆる「吉田調書」をめぐるものであって、これを独自に入手した同社は、今年の五月二〇日の朝刊で大々的に報じました。報じたこと自体はよいのですが、問題はどのように報道したか、ということです。
その報道記事の見出しは、「所長命令に違反 原発撤退 福島第一所員の9割」というものでした。
 
そして先週木曜の社長による謝罪会見において、「『東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる、およそ650人が吉田昌郎所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した』と報じた同日の記事を間違いであったとし、取り消して謝罪をする」として、頭を下げたわけでした。
 
このスクープ記事がもしも事実であるならば取り消す必要は全くない筈なのですが、一方、同日午後に政府が公開した「調書」からは、「東電の多くの社員が所長の命令に違反して、撤退をした」とは、どのように読んでも読めるようなものではありません。
 
なお、「調書」はネットで「内閣官房ホームページ」で閲覧することができます。四〇四ページという厖大な分量ですが。
 
その「吉田調書」には吉田元所長の発言としてこうあります。
 
私は福島第1の近辺で線量の低いところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2F(福島第2原発)にいってしまったというんで、しようがないと。(中略)よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しい(調書)。
 
 これを朝日はこう報道しました。
 
3月15日朝、第1原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田(昌郎元所長)氏の待機命令に違反し(中略)福島第2原発に撤退していた(2015年5月20日朝日新聞)。
 
 謝罪会見で朝日新聞側は「記者の思い込みやチェック不足があった」が「意図的なねじ曲げはない」と釈明しました。しかし、その「記者の思い込み」こそが、この誤報というよりも虚報の本質であった、つまり、「記者の思い込み」に合わせて、吉田元所長の証言に対して「意図的なねじ曲げ」を施したというのが真相であると思われるのです。
 
この朝日新聞による歪められた報道は米国、英国の報道機関において、「命令違反」「職場放棄」「恥ずべき物語」として報道され、韓国では「日本版セウォル号」として報じられたりもし、災害当時、世界中で「福島の勇敢な五十人」と高く評価された技術者、作業者たち原発関係者の名誉が穢されたのみか、日本の評価も地に落ちたのですが、問題は誤報道の背後の動機です。
 
「吉田証言」の取り扱いを任せられた記者たちは、当然、朝日新聞社が選りすぐった記者たちでしょう。資料の解析、文章の読み取りに関してはプロ中のプロの筈です。
そのような専門家が、中学生が読んでも読み誤まる筈のない文章を読み誤る筈がありませんから、当然、ある種の方針、物語あるいは願望に基づいて、敢えて「意図的」に「ねじ曲げ」を行ったとしか考えられません。
 
では、その意図あるいは目的とは何かと言いますと、これはあくまでも私見なのですが、国内外において日本の評価を貶しめること、これに尽きるのではないかと改めて思わせられました。
 
そしてその「反日」活動の意図を探っていくと、日本という国に対する直接否定に行き着くわけであって、その動機は二つ、一つは日本という国を悪として全否定することによって、そう否定する自らは善であり、義であるとすることを証明すること、そしてもう一つは自らが信ずるところの思想を日本中に行きわたらせるところにあったと思われます。
そのためには白を黒と言い変えることも厭わなかったのでしょう。
 
このことにつきましては八月十日の礼拝説教、「『信教の自由を守る日』に寄せて 何を何から、あるいは誰から守るのか―共同体への正しい関わり方」で触れたとおりです。
 
話をコリントの手紙に戻します。パウロの敵対者たちがパウロを非難する目的もまた、パウロの評判を地に落とすことによって、会衆の心をパウロから離反させ、同時にそれによって集会を彼らの自由にしようとしたと解釈するのが妥当な見方ではないかと思われます。
 
しかし、テトスが持参した「涙の手紙」はコリント集会を覚醒させました。彼らは悔い改めたのです。
パウロに対する誤解は氷解し、コリント集会は再生したのでした。それがパウロに対する神の「慰め」でした。
 
「そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔(く)いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めに至ったからである。…こういうわけで、わたしたちは慰められたのである。これらの慰めの上にテトスの喜びが加わって、わたしたちはなおいっそう喜んだ。彼があなたがた一同によって安心させられたからである」(7章8、9節前半 13節)。
 
 テトスの報告を受けて書かれた手紙がこの「第四の手紙」、つまり「コリント人への第二の手紙(1章から9章)」であると考えられます。なおこの手紙はパウロがテトスと会ったマケドニア州の恐らくはピリピで書かれたことと思います。
 
 
3.神に慰められた者が、患難の中にある者を慰める
 
 最後に、大きな患難の中で、あるいは心の憂いの中で神の慰めを受けた者は、神から受けた慰めを以て、今、苦難の中にある者を慰める者となることができる、とパウロが書いていることに思いを向けたいと思います。
 
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にいる人々を慰めることができるようにして下さるのである」(1章4節)。
 
 パウロは決して超人ではありませんでした。激しい痛みをもたらす持病に罹っており、傷つき易い心を持っていました。
このような弱点を持った人が神に用いられた秘訣は何かと言いますと、パウロ自身が、キリストによる苦しみが加われば加わるほど、キリストによる慰めもいや増しに満ち溢れることを知っていたからでした。
 
「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである」(1章5節)。
 
 パウロの信仰の先輩である詩篇の作者は、苦しみの効用について告白しています。
 
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(詩篇119篇71節 旧約聖書口語訳857p)。
 
 普通、「苦しみにあったこと」が「わたしに良い事で」あるなどとは言えません。しかし、詩篇の作者はそのように告白をしたのでした。
では、それはなぜか。それは彼が神の「おきて」(71節)を「学ぶこと」つまり体得することができたからでした。
「おきて」とは何か。この「おきて」は単なる戒律のことではありません。神のお心、神の意思、神の心情がかたちとなり、文字となったもの、それが「おきて」なのです。
ですから「おきてを学ぶことができ」(同)たということは、神の思いや心情を正しく知ることができたという意味です。苦難を経て、神の思いや心情を知った者は、苦悩、苦痛の中にある人を、神からいただく豊かな慰めをもって慰める神の器となることができるのです。
 
人が生きていく上で降りかかってくる「患難」や、湧き上がってくる心の「憂い」は、その時は決して喜ばしいものではありません。
しかし、苦しみを通して神のお心を感じ、人生と信仰の主であり師であるイエスの思いというものを、人は知るに至り、その結果、痛みの中にある人を、最も適切な時に、最も適切な方法で「慰めることができるように」(4節)なるわけです。
 
まさに「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれむ深き父、慰めに満ちたる神」(3節)は、「ほむべき」(同)お方です。