2014年6月22日 日曜礼拝説教
「ローマ人への手紙八章? 恐れることはない、なぜなら神が我らの味方であるのだから」
ローマ人への手紙8章31~34節 新約聖書口語訳244p
はじめに
善意からしたことがたとい婉曲な表現であっても、それが拒まれたりしますと、気持ちが怯(ひる)んでしまうものです。況してや、良かれと思ってしたことが、いかにも尤もらしい理由によって批判されたりしますと、人はどうしても気持ちが萎縮をしてしまい、せっかくの行為を続けることに躊躇ってしまいがちになるものです。
日本のメディアは今、サッカーの二〇一四年ワールドカップブラジル大会の特集一色です。日本は初戦のコートジボワール戦に惜敗してしまいましたが、試合後の観客席でゴミを拾う日本人サポーターたちの姿が報道され、それが世界中で称賛されました。
特にブラジルの地元紙は、「日本はコートジボワールに負けたが、サポーターは勝利してスタジアムを後にした」と報じ、あの中国や韓国からも「日本人は礼儀正しい」「日本を尊敬する」など、その行為を称える声があがりました。
ところが何と、英国在住の元国連職員で、英国人と結婚している日本人女性が通信業界のニュースサイトで、海外における自分自身の経験を基に、
「彼らが場内のゴミを拾ってしまったら、ゴミ清掃に従事する人たちの仕事がなくなってしまう、それはマナー違反行為である」という趣旨の批判を展開したのです(Wireless Wire News ロンドン電波事情 谷本真由美 2014/6/16)。
その伝でいけば、東京駅に着いた新幹線の場合、「新幹線のお掃除の天使たち」として知られる女性清掃人たちが、列車の到着から発車までの間の僅かの七分間で、車内の清掃をテキパキと行うことで有名ですが、この女性の言い分を当てはめれば、東京駅で降車する乗客が、まわりのゴミなどをゴミ箱に捨てたりすると彼女たちの「仕事を奪う」ことになるわけで、ゴミなどは放置したまま降りることがマナーであるという、奇妙奇天烈なことになってしまいます。
それに加えて、日本人サポーターがゴミ拾いをした範囲は、自分たちが応援をしていた、数万人が入る観客席の僅かなスペースであって、スタジアム全体のゴミ拾いを彼らが行ったというわけでもありません。
それを「仕事を奪う」と批判するのは、よっぽど歪んだ性格の持ち主か、はたまた背後に何らかの意図を秘めたイチャモンの類いであるかのように思えてしまいます。
この人は自分の見方が世界標準であり、海外の常識であるかのような書き方をしているのですが、今のところ、世界からの反響には称賛はあっても、この人がするような批判は全く見当たりません。
しかもその後、韓国やドイツのサポーターが試合後、同じように観客席のゴミ拾いを実践したことについては、口を噤んだままです。
一見、ゴミの清掃を業務としている人々の味方をしているように見えるコメントには最初、単なる目立ちたがり屋の天邪鬼の発言かと思ったのですが、どうもそれだけではないようです。
と言いますのは、この女性が最近になって発刊した著作物のタイトルを見たからです。たとえば、以下のようなものです。
「日本が世界一『貧しい国』である件について」(祥伝社2013年)
「日本に殺されずに幸せに生きる方法」(あさひ出版 2013年)
どう見ても、日本という国に対して、悪感情や敵意、否定的な思いを持っているとしか思えない書名です。
つまり、この女性の心理の根底にある、日本という国、日本人という民族が称賛を受けることが気に入らないというねじくれた気持ちが、今回の非論理的な批判となって表れたのではないかと思えるようになりました。
日本代表の試合は今週の水曜日早朝(日本時間)のコロンビア戦が最後になるかも知れませんが、心の底に敵意を秘めて、一応表向きは尤もらしい理屈を振り回すこのような人の批判など一切気にすることなく、日本人サポーターたちが日本でいつもしていることを現地でも続け、最後まで日本人らしさを発揮して、人間として「勝利」をしてもらいたいものだと思います。
さて、ローマ人への手紙八章の三回目のメッセージは「悪意や敵意を恐れなくてもよいのだ」ということです。
1.告訴を恐れる必要はない、なぜなら聖徒は神によって義と認定されているのだから
パウロはローマ人への手紙八章三十一節で唐突に、「神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや」(文語)と言い放ちます。
「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、誰がわたしたちに敵し得ようか」(ローマ人への手紙8章31節 新約聖書口語訳244p)。
「これらの事」とは何の事なのかと言いますと、神の子供とされた聖徒たちに与えられている数々の特権を指すのだろうと思われます。
そしてパウロは感極まって、「神が我らの味方である」(31節)という事実を高らかに宣言するのですが、その背後にあるものは、「恐れるな」「恐れる必要などは何もない」という励ましです。
しかも、あらゆる敵意、巧妙な悪意に対して「たじろぐな、慌てふためくな、確信に立て」と読者を鼓舞します。
そこで、三十一節の「神もし我らの味方ならば」は後回しにして、最初に三十三節を取り上げることにします。
パウロが言いたい事、それは「告訴など、恐れる必要は全くない、なぜならば聖徒は義なる神によって正しい者、義なる者と認定されているのだから」ということでした。
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである」(8章33節)。
「神の選ばれた者を訴える」(33節)その「だれ」(同)かとは、パウロに敵対してきたユダヤ教の活動家であり、教会内に巣食うユダヤ主義的、律法主義的異端者を指したのかも知れません。
前者はパウロを裏切り者として彼の暗殺を企てたことがありましたし(使徒行伝9章23節 22章20,21節)、律法違反者としてステパノのようにユダヤ最高法院サンヒドリンに訴え出たりもしました。
そして、それはまた、ローマにいる信者、とりわけユダヤ教出身者にとっては他人事ではありませんでした。ローマにもユダヤ人会堂(シナゴーグ)があって、ユダヤ教出身者への監視の目を光らせていたからでした。
また、ユダヤ教的律法主義から脱し切れないユダヤ人キリスト者の中には、モーセの律法の遵守が救済の条件であると唱える者たちがおり、律法によらず、信仰によってのみ義とされると主張するパウロを目の敵にして、常に教会内に論争を巻き起こしておりました。
そういう人々はパウロの教えに立つ信者を対象に、旧約聖書を根拠にして執拗な攻撃を仕掛けていたようです。
「訴え」(33節)はまた、聖徒たちが住む異教社会からも齎されていたかも知れません。ローマ帝国で宗教寛容令が発布されたのは西暦三一三年、そしてキリスト教が帝国内における唯一の国教となったのは三九一年ですが、それまでの長い期間、キリスト教に対する異教徒からの迫害、とりわけ、ローマ帝国からの弾圧は、地中海世界の至る所で頻発していました。
また、「訴える」(同)ものが外側に居るとは限りません。人によっては、自らの過去の言動や行動が記憶にのぼり、その結果、罪責感に苦しんで自分で自分を責め、自分自身を「訴える」(同)という場合があったかも知れません。そしてそれは、良心が敏感な人、真面目な人にほど、その傾向が強かったと考えられます。
そこでパウロは言います、あなたがたは「神の選ばれた者たち」(33節)ではないか。神はその「神に選ばれた者たち」(同)を「義とされるのである」、神が「義とされ」(同)た者を「だれが」(同)「訴える」(同)というのか、そのような権利、資格を持つ者は神以外にはいない、それはあなたがた自身であっても同様である。あなたがたにも、あなたがた自身を「訴える」(同)資格はないのだ、と。
「神の選ばれた者たち」(33節)であるあなたがたを、神はかつてキリストの十字架の死によって「義とされ」(同)たのであり、将来の最後の審判においても「義とされる」(同)、すなわち、完全無罪を宣告されるのだ、とパウロは言い切ります。
敵意から来る告訴などをあなたは恐れる必要はない、なぜなら神によって聖徒とされた者は神によって過去、現在、将来にわたって「義とされ」(同)ているのだからと、ここでパウロは励ますのでした。
批判を受けた場合、自らを省みることは大切なことです。しかし、検証した結果、受けた批判が的外れのものであるならば、気に止めることなく、自らの信じる道を行けばいいのです。
2.有罪宣告を恐れる必要はない、なぜなら聖徒のために救い主が神の右で執り成しているのだから
パウロは更に続けて、誰が有罪を宣告するのであろうか、と問い掛けます。
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか」(8章34節前半)。
「だれが…罪に定めるのか」(34節)とありますが、「罪に定める」という言葉は法律用語で有罪を宣告するという意味になります。
一般的には、「訴える」(33節)人は相手を非ありとし、自らを正義とする立場に立つ訴訟人やその代理人、それを受けての検察組織です。
これに対し有罪か否かを判断する者が裁判官あるいは裁判人です。つまり、誰があなたに有罪宣告を下すのか、とパウロは問うのです。
もちろん、その真意は、「そんな人はいない」です。そしてその理由が三十四節の後半です。
「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に坐し、またわたしたちのためにとりなして下さるのである」(8章34節後半)。
第一に、神の救い主である「キリスト・イエス」が私たち聖徒のために、かつて確かに「死んで、否、よみがえって」くださったという事実があるからであす。そのことをパウロは思い起こさせます。
私たちのためになされたキリストの代理としての「死」(34節)、それに続く、その死を有効なものとする死者の世界からのキリストの「よみがえ」(同)りは、繰り返される必要のない、一度限りなされた贖いのわざであって、永遠の効力を持つものでした。
この死とよみがえりという二つの出来ごとによって、「イエス」を「キリスト」として告白する者は「罪に定め」(34節)られることは決してなく、無罪を宣告されているのです。
そのことを強調したのが、八章の冒頭の宣言でした。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定めららることはない」(8章1節)。
先々週の礼拝説教において、聖書の中で最も重要な文書はどれかと問われれたならば、それはローマ人への手紙であると躊躇することなく答える、ではその中で最も重要な章はどれかと問われれば八章を挙げる、と申しましたが、では八章の中で最も重要な句はどれかと聞かれたならば、間(かん)髪(はつ)を入れず、それは一節、と答えます。
ローマ人への手紙八章一節にはキリストによる有り難い福音が凝縮しています。それは原文を順序通りにそのまま読めば、よくわかります。
「無い」「こういうわけで」「有罪宣告が」「キリスト・イエスにある者には」(8章1節 直訳)。
ギリシャ語の構文では著者が一番強調したいことを文頭に持ってくるそうですが、一節の最初の言葉が「無い」です。
パウロは冒頭、「無い」と宣言します。何が「無い」のかと言いますと、「有罪宣告が」です。「キリスト・イエスにある者」つまり、イエスをキリスト、救い主と信じ告白をした者には、有罪宣告が下されることは決して「無い」のです。これが、パウロが強調したかった最大の教えでした。
そしてこの「有罪宣告が無い」という状態には期限がありません。
それが最後の審判においても有効であるということは既に確認した通りですが、地上を生きる聖徒たちにとって、その恵みはどのように適用されるのかと言いますと、罪を赦された聖徒のためにはキリスト・イエスによる不断の執り成しが為されているのだと、パウロは言うのです。
「キリストは死んで、否、よみがえって、神の右に坐し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(8章34節後半)。
キリストは一度「死んで、否、よみがえって」今は「神の右に坐し」ていますが、そこで何をなさっているのかと言いますと、地上を歩む聖徒たち、地上で信仰を持って苦闘している聖徒たち一人一人のために日夜、神に向かって「とりなし」をしておられるというのです。
キリストの仕事には「神の右に」挙げられても、休暇はありません。その目は地上の私たちに絶えず注がれており、その耳は聖徒たちの叫びを聞くために常に傾けられているのです。
古代の人々の世界観は三層世界観と言いまして、神が住む天が大空の彼方にあり、その天の下に人が住む地があり、そして地の下、つまり下界が死者が住む世界、黄泉であるとされていました。
しかし、天は青空の彼方にあるのではなく、私たちの傍らにあるのです。
「主はすぐ近くにおられます」(フィリピの信徒への手紙4章5節後半 新共同訳)。
これは、口語訳は「主は近い」と訳し、その結果、世の終わり、キリストの二度目の来臨が近いというように、時間的に理解する場合もありました。
しかし、それはどうも読み込み過ぎのようで、天に挙げられた主は、実は私たちのすぐ近くにおられるという意味のようです。
まことに有り難いことです。
3.敵対する者を恐れることは全くない、なぜなら神こそが聖徒の味方であるのだから
そこで、八章三十一節の宣言に戻ります。
「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(8章31節)。
これを読むと、詩篇の一節を思い起こします。
「主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか」(詩篇118篇6節 旧約聖書口語訳852p)。
神は「わたしたちの味方」(31節)なのです。それは勝手にそう思い込んでいるのではありません。
そのしるし、証拠が三十三節、三十四節の、キリスト・イエスがなし遂げてくれた贖いという出来ごとであり、将来において確実になしてくださるという約束であり、そして今現在、行ってくださっている執り成しなのです。
これらの事実こそ、「神がわたしたちの味方である」(同)しるしであり、その結果、どんなものであっても誰であっても「わたしたちに敵し得」(同)ないという証拠なのです。
パウロは「神がわたしたちの味方である」ということをローマの集会に確信させるため、神が吝嗇(けち)なお方ではなく、太っ腹で気前の良いお方であることを強調し、それによって、一人一人が持つ不安を取り除こうとします。
「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(8章32節)。
人がした約束や決心は、思いはあっても果たせないということがままあります。
ブラジル大会に出場した日本代表は、初戦のコートジボワール戦では一対二で敗れ、第二戦のギリシャ戦では、ギリシャが一人を欠く絶対的有利な状況下であるにも関わらず、零対零での引き分けに終わり、約束の一次リーグ突破が困難な状況になりました。
しかし、勝負は時の運です。サッカーのことはよくわかりませんが、試合を見ながら、サッカーとは実力があるだけでは勝てない、勝ち抜くためには運が必要だということを痛感させられています。
確率は非常に低いもののひょっとすると奇跡が起こって、日本が一次リーグを突破することが可能となるかも知れません。それもこれも水曜日のコロンビア戦の結果次第であり、しかも同じ時間に行われるコートジボワール、ギリシャ戦の結果如何にかかっています。
けれども、神は違います。私たちの神は有言実行のお方です。過去には約束の通りに「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された」(32節)お方でした。
そのお方が地上で今を苦闘する聖徒たちの必要に応えて、「どうして、御子のみならず万物をも賜らないことあろうか」(同)とパウロは問うのです。
この世の中、善意や好意ばかりではありません。尤もらしい言葉の陰に悪意があり、敵意が潜んでいるという場合もあります。
しかし、「もし、神が味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(31節)です。
「神が味方」(同)なのです。ですから、恐れることなく、怯(ひる)むことなく、備えられた道を勇気をもって進んで行きたいと思います。