2014年6月15日 (父の日)日曜礼拝説教
「ローマ人への手紙八章? 身に起こることは
すべて、益となる」
ローマ人への手紙8章28節 新約聖書口語訳243p
はじめに
今日、六月の第三日曜日は「父の日」です。
ただ、「母の日」が米国の正規の祝日になって今年で百年なのに対し、父の日が米国の記念日に制定されたのは、「母の日」に遅れること五十四年後の、一九七二年のことでした。
「父の日」制定のそもそもの謂れは、「母の日」同様、南北戦争が絡んでいます。ウイリアム・ジャクソン・スマートという名前のお父さんが、妻に六人の子供を託して南北戦争に従軍します。
その後、このお父さんは兵役を終えて復員をするのですが、夫が戦場に行っている間、家庭を守って懸命に六人の子供を育ててきた妻は、彼の復員後間もなく、過労で亡くなってしまいます。
妻亡きあと、このお父さんは頑張って男手一つで六人の子どもたちを育て上げるのですが、子供たち全員がみな成人をしたことを見届けたあと、この世を去ってしまいます。
そんな父親の労苦を見て育った子供たちの一人であったミセス・ソノラ・スマート・ドットは、アンナ・ジャービスが亡き母アン・ジャービスを偲んで、記念会の参会者たちにカーネーションを配ってから三年後の一九一〇年、知人たちを招いて亡き父親に感謝を表すパーティを開きました。そして会が終わった後、父親の墓前に一輪の白い薔薇を捧げます。
そしてこのことがきっかけとなって、「母の日」同様、父親に感謝を示す「父の日」の行事が全米に広まっていったのだそうです。
「父の日」は「母の日」ほどにはポピュラーではありませんが、また、母親と違って父親は、ともすれば影が薄く、また照れ臭がり屋でもあることから、子供の方も気持ちを表すのにぎこちなくなってしまいがちですが、「母の日」と同じように、子としての感謝の気持ちをこの「父の日」に表すことは、とても良いことであると思います。
でも、人によっては、父親に関してはよい思い出など何もないという場合もあるかも知れません。
ある人がニューヨークのハーレムで、子供たちを集めて日曜学校を開きました。そこで、神さまについて話をする際、「天の神さまはね、ちょうど、君たちのお父さんのような方なんだよ」と言ったところ、子供たちの多くが「チェ!そんな父親なんていらねえや」と失望を示したといいます。
そこにいた子どもたちにとって父親とは昼間から酔っぱらって、理由もなく子どもたちを殴るというイメージしかなかったからです。
何とも悲しい話ですが、これもまた現実の話です。でも、天にいます神、キリストの神は違います。キリストの神は私たち神の子どもたちを慈しんで、良き物を備えてくださる神さまなのです。
ところで先週の聖霊降臨日礼拝説教において、機会があればローマ人への手紙の八章全体を解き明かしたいと申しましたが、「善は急げ」と言います。
この六月の残りの三週の礼拝で、八章の続きの箇所をお分かちすることにより、強靭な神の力と、繊細な迄に優しい神の愛について確認することにいたしました。
そこで今週は「身に起こることはすべて、益となる」というタイトルで、八章でも特に有名な二十八節を読むことに致します。
1.神の計画に従って呼び集められた者にとり、身に起こるすべてのことは相働いて益となる
有名な故事ことわざに「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじ、さいおうがうま)」があります。「人間」は「にんげん」ではなく、「じんかん」と読みます。「人間(じんかん)」とは人が住む世界、世間という意味です。
その詳細は紀元前二世紀の中国の古書である「淮南子(えなんじ)」の中の「人間訓(じんかんくん)」にあります。
辺境の塞(とりで)の近くに住む人に、占いの術にたくみな人がいた。
その人の馬が、原因もないのに逃げ出して胡(えびす)の地へ行ってしまった。人はみな慰めに見舞った。父親がいうのに、「なに、この災難がきっと幸福になろうよ」と。
そのまま数カ月たって、その逃げた馬が、胡地に産する駿馬(しゅんめ)を引きつれて帰ってきた。だれもみんな祝った。その父親は、「いや、これがきっと災難のたねになろうよ」といった。
家はかくて良馬にめぐまれた。
子どもは馬を乗り回すのが好きだったが、ある時落馬して股(もも)の骨を折ってしまった。人はみなこれを見舞った。ところが父親は、「なに、この災難が幸福になろうとも」と言った。
こうして一年がたつうちに、胡(えびす)の軍が大ぜい辺塞(へんさい)に攻め込んできた。若者たちは弦(弓づる)を控(は)って防戦したが、塞(とりで)のほとりの人は、十人ちゅう九人まで戦死した。
ところが、この股を骨折した若者だけは、跛だという理由で〔戦いにも加えられず〕父子ともども生命を全うできたのだ。
さても幸福が災禍となり、災難が幸運となるような、その変化のさまや道理の深遠なことは、予測もつかずきわめがたいものである(劉安編 戸川芳郎訳「淮南子(えなんじ) 人間訓(じんかんくん)」中国古典文学大系6 267、8p 平凡社)。
塞翁(さいおう)」とは「塞」つまり砦付近に住んでいた「翁」、つまり老人という意味です。
ある時、この老人の持ち馬が逃げ出していなくなってしまいました。でも、彼は気を落としません。同情する近所の人には、「そのうち、いいことがありますよ」と言っていたところ、いなくなった馬が駿馬を連れて戻ってきました。そこで近所の人がお祝いを言うと、この翁は、「これが禍にならないとも限らない」と言い、それから間もなく、彼の息子がその馬から落ちて足を骨折してしまいます。見舞客が心配して訪れると、泰然として「これが幸運を招くかもしれない」と嘆く様子を見せません。
やがて外敵が襲来したため、地域の青年たちは徴兵されて苛酷な戦場へと向かうことになります。結果、敵は退散しますが、激烈な戦闘の結果、大半の若者が戦死をしてしまうことになりました。
しかし、この股を骨折した若者だけは、足に障害がある、ということで兵役を免れ、死なずに済んだ、すなわち、「人間(じんかん)万事塞翁が馬」のようなものだというわけです。
パウロはローマの集会に対して、神の御霊が聖徒に代って心の呻きを神に執り成してくださることを強調したあと、神の大いなる御手の中にある聖徒にとって、身に起きることのすべては、相働いて益となると励まします。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章28節 新約聖書口語訳243p)。
有名な言葉です。この聖句で多くの人が助けられたという経験をしていますが、「聖徒」はここでは「神を愛する者、すなわち、ご計画に従って召された者たち」として、より具体的に説明されているのですが、この箇所の問題は主語が誰なのか、あるいは何なのかということです。
口語訳と新改訳そして文語訳などは、神は、…(聖徒たちと)共に働いて万事を益としてくださる」と、神さまを主語として訳します。
しかし、新共同訳などはどちらかと言いますと、起こった事柄である「万事」そのものが「益となるように共に働く」という理解で訳されています。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(8章28節 新共同訳)。
聖書解釈上、どちらが正しい解釈なのかということですが、どちらも正しい、つまり、ギリシャ語の達人であったパウロは、両方の意味をこの箇所に込めて書いたのだと解すればよいと思います。
そこで最初に、私たちの「身に起きたことはすべてが相働いて益となる」ことについて考えたいと思います。
ただし、「人間万事塞翁が馬」の場合、背後には「成るようにしかならない」という、よく言えば達観したような物の見方、考え方があるように見えます。
また、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」(史記 南越列伝)のように、不幸の後には幸運が、幸運の次には不幸が来る、というように、一種の運命論があるようにも見えます。なお、「糾(あざな)う」とは、数本の糸や紐などを撚(よ)り合わせることです。
しかし、キリスト教信仰は運命論ではありません。しかしまた、キリス教の信仰を持ったらすべてがうまく回転する、というわけではありません。
世俗的な成功やご利益を強調して人を集め、献金をあたかも投資のように思わせるキリスト教、特にカルト教会には用心をしなければなりませんが、人によっては真面目に暮らしているにも関わらず、ヨブのように次から次へとつらい目に遭うという場合も長い人生、あるかも知れません。
でも、どんな場合も、「身に起こることはすべて、益となる」と肯定的に捉えることを、パウロは教えたかったと思います。
今回の説教のタイトルにした自らの「身に起こることはすべて、益となる」は、リビングバイブルがヒントです。
「そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となるのです」(8章28節 リビングバイブル)。
前半の訳は少々読み込み過ぎですが、後半の「自分の身に起こることは、すべて益となる」はパウロの意図を汲んだ名訳であると思います。
人生、思わぬ出来ごとに遭遇する場合があります。できれば避けたいような出来事が身に降りかかってくる場合もあります。
しかし、「神のご計画に従って召された者たち」の「身に起こることは、すべて益となるのです」(リビングバイブル後半)。それはすべてが神のゆるしの中にあるからです。
2.神を愛する者にとり、身に起こることのすべては神の働きによって益となる
「神が」と神を主語にした理解についても見てみたいと思います。
「神は神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(8章28節 新改訳)。
学者によりますと、「神がすべてのことを」の「神が」という言葉は、ギリシャ語原文にはなくて、後から補足として入れたようだということです。
でも、それは著者の意図を汲み取っての判断かも知れません。
以前にも触れましたが、ギリシャの神さまも創造神です。しかし、この神さまは世界創造の後、完全リタイアをして、人類の営みには一切関与していないという神さまなのですが、キリスト教の神さまはお節介と思われる程に、創造後の人類の歩みに関与し、しかも人間ひとりひとりの人生にも、更にはその、一人では弱い立場である個々の住民の生活の基盤として存在する、国家や民族の命運にも大きな関心を持ってくださっている神なのです。
それは先々週の「日本の神々とキリスト教の神」の説教でも触れたとおりです。
「また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めてくださったのである」(使徒行伝17章26節 211p)。
来年は日韓基本条約締結の五十周年の年ですが、四年前は韓国併合百周年の年でした。そして、前政権は百年前の併合を植民地支配という理解のもと、土下座せんばかりの謝罪を日本国と日本人を代表して繰り返したのですが、しかし、韓国併合は第一に、大韓帝国という国家からの申し入れによってなされたものです。日本が侵略をしたのではありません。併合は「日韓併合条約」という条約の締結によってなされたものでした。
第二には、日本による韓国の併合は当時、国際法上、合法であると共に、国際社会の承認を得たものでした。
そして第三に、それは欧米がアフリカ、中東、アジアに行ったような、搾取を目的としたいわゆる植民地支配とは様相を全く異にした性格のものあったことに注目しなければなりません。
日本は半島を人が人として暮らすことが出来るような地域に変われるよう、厖大な国費と優れた人材を送り込んで、悲惨な状況下にある半島を立ち直らせたのです。
第四に、当時の半島の占領、支配を狙っていたのが帝政ロシアであったという地政学的な事実があることです。
帝政ロシアに占領されたならば、それこそ苛酷な植民地支配になった筈です。しかも、そのロシアでは間もなく革命が起きて全土が共産化します。日韓併合七年後の一九一七年のことでした。
つまり、半島が日本に併合されずにロシアに支配されていたならば、半島そのものが間違いなく北朝鮮のような「強制収容所」になっていた筈でした。
そして、それは当時も今も、歴史を学んだ知識人ならば誰もが知っていたことでした。
九年前、日本の保守的月刊誌である「正論」に、韓国有数の知識人であった韓昇助(ハン・スンジョ)という政治学者が論文を寄稿したのですが、それが韓国内で大問題となりました。
論文のタイトルは「共産主義・左派思想に根差す親日派断罪の愚 韓日合併を再評価せよ」であって、その趣旨は「韓日併合は韓国人にとって不幸だというが、不幸であったか否かは、当時の情勢を見ると、韓国がロシアに占拠・併呑されなかったのは、むしろ幸いだった。1930年代、農民虐殺に走ったロシアに合併されていたら、スターリンの民族分散政策で韓民族はばらばらに散らばったはずだ…」(「正論」2005年4月号)という分析をはじめとして、日韓併合を肯定的に記述したものでしたが、結局、この人は韓国内で袋叩き状態になって公職から追われ、隠棲せざるを得ない立場に追い込まれてしまいました。
ところがつい最近のことです。旅客船事故の責任をとるかたちで現職の首相が退任することとなりましたが、後任人事で首相候補に指名された文昌克(ムン・チャングク)元中央日報主筆が、自分が所属している教会で三年前に語ったという講演内容が物議を醸すこととなりました。
朝鮮日報と中央日報が六月十二日に記事にしました。
文氏は2011年、長老を務めている教会で「神様がなぜ、(韓国が)日本に侵略され、植民地になったことを許したのか。心の中で抗議をしたいだろう。しかしそこに神様の意向があったのだ。私たちに『お前たちは朝鮮王朝500年の無為な歳月を送った民族だ。お前たちには試練が必要だ』というメッセージを伝えたのだ」と述べた。
また別の講演では「神様が南北分断に導いた。それも今となっては、神様の意向だったと私は思う。あの当時のわれわれの体質から考えて、韓国を完全な独立国家にしていたら、共産化は避けられなかった」と主張した(2014/06/12朝鮮日報)。
韓昇助元教授の文章に比べますと、稚拙で独り善がりの内容ですが、それでも「神様の意向」という言葉を使って、我が「身に起こったこと」の背後に「神の意向」があったということを強調しているのが注目されます。
そこには、何が何でも日本が悪くて、韓国は被害者だという思い込みから脱して、それなりに歴史的事実を客観的に評価しようとする姿勢が見られます。
尤も、彼の国の状況から予想されることは、首相就任どころか早晩、社会的に指弾され、場合によっては社会的に抹殺されることになるのではと、危惧するのですが。
私たちは何でも彼でも「神が、神が」と言うべきではありません。実は単純で素朴な信仰者ほど、責任を神やサタンに転嫁する傾向があります。
随分、昔のことですが、米国の信仰誌に掲載されたジョークは秀逸でした。
ある時、サタンがしょんぼりしているのを見た神様が、「元気ないじゃないか、どうした?」と声をかけたところ、サタンが答えます、「ペンテコステの連中は、自分が失敗したにも関わらず、すぐに『サタンにやられた』と私のせいにします。やってられませんよ」と愚痴ったというのです。
自分がしでかした失敗をサタンのせいにするのは問題ですが、しかし、自分たちの身に起きたこと、それは良いことも悪いことも、その背後には人を幸いへと導こうとする神の善意に基ずく「神の意向」があるのではないか、という視点を持つことは大事なことです。
隣国の場合、人口の四割がキリスト教なのだそうですから、国家の歴史を神の意向という、神の視点で客観的に見ることができるようになれば、もう少し落ち着いた国家運営、健全な外交ができるようになると思われますし、中国という蟻地獄に陥る国家的リスクからも逃れることができる筈です。
それはまた、私たち個々人の場合も同様です。「神を愛する」聖徒たちひとりひとりのために「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」(28節 新改訳)体験として知るならば、目先の出来ごとに一喜一憂することなく、長い目で物事を見ることができるようになるかも知れません。
3.身に起こることのすべてが益となるという知識は、信仰の先輩たちも共有していた
ところで、身に起きることのすべてが益となる、という考えはパウロ独自のものではなく、すでに紀元前三世紀の古代ユダヤ人のものでもあったようです。それは知恵文学の一つである伝道の書(新改訳は「伝道者の書」、新共同訳は「コヘレトの言葉」)の一節に見られます。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節前半 旧約聖書口語訳923p)。
勿論、この記述を、物事を自分に都合のよいように解釈するという意味に使用してはなりません。
しかし、誠実に生きていても、人の力や努力ではどうにもならない事態に陥ることがままあるのが世の中です。そんな時には神の善を信じて、先人たちの辿った道を行きたいと思うのです。
私見ですが、パウロの信仰理解にもこの伝道の書の一節が何らかの影響を与えているのではないかと想像します。
二十八節ですが、口語訳では最後に来る「わたしたちは知っている」(28節)は、原文では最初に来ています。そして、「神のご計画に従って召された者たち」は文章の末尾に置かれています。
ところで、ギリシャ語の構文では、著者が最も強調したい事は、文章の最初に来て、二番目に言いたい事が文章の最後にくるのだそうですから、そのことを考慮しますと、「私たちは知っている」が、著者のパウロが一番強調したいことであって、その「私たち」とはとりもなおさず「神のご計画に従って召された者たち」であるということになります。
それらのことを理解した上で、最後に今週のテキストを意訳で読んでみることにしましょう。
「わたしたちは体験的に知っています、神を愛する者たち、すなわち、神の特別な計画に従ってキリストの尊い救いへと呼び出された者たちには、神が、そして神のゆるしの中にある万事が共に働いて、その人の身に起こることのすべてを益とし、善として下さるのだということを」(8章28節)。
かつて身に起きたこと、今、身に起こりつつあること、そして将来、身に起こるかも知れないことなど、考えれば考えるほど、私たちの心は騒ぎます。しかし、「万事が」大いなる神の手の中にあることを知っていることは、大きな安心です。